ためし読み - ノンフィクション

“困った癖を持つ人“のそばにいることで、孤立感にさいなまれたら、本書を開いてほしい。 セルフネグレクトの母親と対峙した日々を綴る『母がゼロになるまで』発売記念、試し読み公開!

半年以上も風呂に入らない。家はゴミ屋敷。誰かれかまわずお金を借りまくる。
でもそれはすべて、母なりの理由があった ――

本書は、セルフネグレクトの母親と子が対峙した、怒涛の2年間を収めた生活の記録です。
「困った人というのは、何もずっと困った人ではない。ある日突然、ほんの些細なことから何かが崩れ、自分ではどうすることもできない、途方もない現実にすり替わってしまうことがほとんどなのだ」と著者のリーさんは言います。

怒り、悲しみ、呆れ、後悔……言葉にできない感情に翻弄されても、その相手が身内だからこそ、軽々しく他人には話せない。
そんな日々を綴った本書の冒頭を、発売を記念して公開します。

 

 

母がゼロになるまで
著:リー・アンダーツ

 

===試し読みはこちら===

 

 

●まずはじめに
 わたしにはひとり、母がいました。
 彼女とわたしはふたり、わたしの成人手前まで生活を共にしてきました。
 わたしが育ったのは、立ち上がると天井から下がる照明器具の傘が目線の下にあり、足元には沢山ゴミのあるおうち。何かおかしいなとおぼろげに感じながらもそれを受け入れ、わたしは大人になりました。
 大人になって、更に大人になって、色々なことを知り、色々なものを見て、いよいよあれがおかしなことだったことを知りました。
 今日、4月5日は母の四十九日です。色々なことを忘れないうちに、ここに記そうと思います。何か少しでも、同じことで困っている人や、今後こうなりそうな気配を感じている人の力や支え、助けになれることを願って。

 

 

第1章 母が突然やってきた 

 

●母の上京

 わたしは大阪に生まれ、6年ほど前から東京に住んでいる。
 2年前のある日、もうしばらく東京を離れることはないと判断したわたしは、ひとりで大阪にいる母をこちらに呼ぶことにした。年のいった母にそのことを電話すると、「呼んでくれたことはとても嬉しい……でも長く住んだ大阪を離れるのは今すぐには考えられないわ」とのこと。そりゃそうだ。予想通りの返事を貰い、特に何とも思わず電話を切った。
 それから数ヶ月後、母からの電話。
「リー! わたし来月東京に引っ越すことにしたから!」
「?!!」
 何があったのか訊ねても、とにかくわたしに東京へ呼ばれたことが嬉しかったから、とのこと。それならばまずはわたしの住む家に越してきて、そこからゆっくりアパートでも借りましょう、という話にまとまった。
「身軽で行くから」と早速段ボールが我が家に送られてきた。
 もう、かなりの年月母と離れて暮らしていたわたしは、色々なことが抜け落ちていて、ただただ家族で暮らせることに有頂天になっていた。この時は。
 ひと月後、本当に母は身一つで我が家へやってきた。一緒に暮らすパートナーに、母を紹介するのはこの日が初めて。
「初めまして」「よろしく」と挨拶し合うのをウキウキとした目で眺めながら、わたしは部屋へと入った。幼少期、母とテーブルを囲むのはレストランや居酒屋など外食時のみ。所謂、家庭での団欒に異常なまでに憧れていたわたしは、母とパートナーという、心を許した人たちとの団欒がとにかく楽しみで仕方がなかった。
 玄関にいる母をリビングへと呼び込む……が、母はなぜか来ない。
「何してるの??」と問いかけても、長い時間何かモゴモゴと口籠るもんだから、玄関まで迎えに行くと母が何やら耳打ちしてくる。
「間に合わなかったの」
「??」
「間に合わなかったの。いいから」
「???」
「間に合わなかったから、下着とズボンを貸してほしい」
「?!!!(なんで???あなたの立つすぐ隣はトイレだよ)」
 わけがわからなかったものの、まだこの時はそんなに深く考えていなかったんだ。とりあえず着替えを渡し、皆で食事をいただいた。初めての一家団欒はとても心地良いと感じられる時間だった。
 翌日パートナーが、黙って母の下着とズボンを洗濯してくれたんだ。

 

●母の日常

 母との3人暮らしが始まった翌日、東京は物凄い台風に見舞われた。外に出るなんてもっての外。川の近くにある2階建ての我が家のまわりにも避難勧告が出始めていた。
 その日の夕食時。母はサラダに入れていたトマトの皮をお皿によけながら「こわいわね」と言い、ごはんにのせていた梅干しの種をまた皿に置き、「早くおさまらないかしら」と呟いた。そして最後のひとくちを口に運び、飲み込むと「ごちそうさま」と、リビングの隣に用意した母の部屋にそのまま入って行ってしまった。皮や種がそのままのお皿を片付けながら、何かしらのモヤモヤがわたしを包む。
 結局避難勧告は出ず、窓をガタガタと揺らす雨風の音を聞きながら眠りについた。
 翌日、わたしは長時間勤務を終え、自宅に戻った。
「ただいま」と言うと、「おかえり」と母。
 いいなぁ、この感じは。と疲れた体を椅子に預けてくつろごうとすると、「今日のごはんはなぁに? お腹空いたわ」。
 また何か、モヤモヤとしたものが過る。でも、そりゃどこに何があるかわからない環境で仕方ないか……と思い、夜10時をまわっていたけれど、簡単な食事を出した。
「おいしいおいしい」とおかわりもして、キレイに平らげた彼女はまたしても種やら何やらそのままに、「ごちそうさま」と部屋へと消えて行った。
 わたしは片付けながら、「先にお風呂に入ったら?」と部屋の方に声をかけると「今日は疲れたからやめておくわ」とのこと。そういえば昨日も入ってないけど……何に疲れたの? 慣れない環境に? などと考えながら、わたしは風呂に入った。
 母がうちに来て10日ほど経ったある日ようやく、「今日はお風呂に入るけど、ゆっくり入りたいから最後でいいわ」と言うのでわたしたちは先にお風呂を済ませた。
 深夜1時半頃、階下から聞こえるシャワーの音は、2時になっても、3時になっても止まず、いよいよ眠くなり眠りについてしまった。
 翌朝母に、「昨日何時に寝たの?」と訊ねると、「朝方になってしまったわ。疲れているからもう少し寝かせて」と、午後も遅くまで眠ってしまった。生活のパターンなんて人それぞれとは言え、少しだらしない。「いつまでもお客様気分ではなくて、食事の準備、片付け、掃除など一緒にしてもらえないか」とその日の夜持ち掛けてみた。「疲れているから、またね」と部屋に入ろうとする母の足元にある、5~6個のビニール袋がわたしの目に飛び込んできた。ゴミならゴミ箱に捨ててほしい。「それはなに?」と聞くと、「これはいるものなの」と言う。瞬時に子供の頃暮らしていた部屋が脳裏を過り、わたしは部屋に駆け込みそのビニールの小袋を全て奪い取り、ゴミ箱に突っ込んだ。母は何やら怒ってはいたけれど、わたしはそのままゴミ箱の蓋を閉じた。
 階下からシャワーの音が聞こえてきたのは、それから10日後のことだった。
 ある日、母は気分が良かったのか珍しく「今日はわたしが洗い物をするわ」と言った。
 お皿を3枚だけ残し、あとはわたしが洗って2階へ上がる。彼女は3枚のお皿を30分お水を出しっぱなしで洗ってくれた。
 わたしは台風による避難勧告がうちに出なくて本当に良かったと思った。避難所であれだけのお水を使い込んだらもう、この街にいられなくなるじゃない。
 翌月届いた公共料金の請求は、人がひとり増えただけなのに、きれいに普段の2倍の金額になっていた。

 

●母の引っ越し

 我が家の最寄り駅はそれなりに賑やかなところがあった。休みの日に色々と案内したことでこの街を気に入ったのだろう、母は毎日毎日駅のまわりに出かけて行った。
 一緒に暮らし始めて、ひと月が経った。週の半分家で仕事をしていたパートナー曰く、母は午後2時頃起床、4時頃家を出て、9時頃に帰宅するという。規則正しい生活を重んじるパートナーは、血の繋がりのない老婆との生活に疲れを見せるようになっていた。
 そんなある日、わたしは母の手料理をこれまで一度も食べたことがないことに気付き、精一杯甘えた声で「なにか作ってよ」と伝えた。
 幼少期、仕事と子育て、資格の取得と趣味の絵画に奮闘していた母は、「本当は色々料理を作れるし、作りたいけど時間がないから」といつもわたしに言っていた。保育園や小学校から帰ると、決まって近所のお店で外食、小学校の中学年ぐらいからは鍵っ子たちが集まる近所の家や友達の家を毎日転々とし、そこで夕食を摂るようになった。遠足の時は、近所のお弁当屋さんに早朝に無理矢理予約を入れ、そこのお弁当をお弁当箱に移したものを持たされたものだ。スーパーやコンビニのお弁当や総菜を食べ、わたしは大人になった。
「わたしね、何も作れないわよ。作ったこともないし……じゃあ今度何か、焼きそばぐらいならできるかもしれないわ」。わたしは耳を疑った。
 そう、彼女は忙しくて料理をしないのではなく、そもそもできなかったんだ。わたしには大きなショックだった。結局、その焼きそばからも母は逃げ続けた。
 夕方からの街散策でどんどんレストランや居酒屋に詳しくなる母。部屋にはいよいよ、使用済みのティッシュのかたまりや、何が入っているのかわからないビニール袋が目立つようになった。相変わらず食べたら食べっぱなし、お風呂もたまにしか入らない生活に、わたしは早くも限界に達した。
「部屋を探そう」
 そう言って、ある休みの日に不動産屋をまわった。年金暮らしの老人に貸してくれるアパートは多くはない。その中で一軒の不動産屋と出会う。内見に行くと、窓が沢山あって風の通りも良く、明るい雰囲気でとてもいいじゃない。「ここにしましょう」と、程なくして契約を済ませた。
「リーが保証人になってね」「もちろんだよ」。わたしはサインをした。

 母と暮らして2ヶ月弱が経っていた。
 自分たちで引っ越しをすることになり、新しい部屋に荷物を入れていく。少ない荷物を運ぶのにそんなに時間はかからず、あっさりと引っ越しを終え、わたしたちは帰ろうとした。すると母が、「今日はあなたたちの家に泊めて」「いいよ、最後の夜だしね。皆で話そう」と結局また3人で我が家に戻った。
 しかしその翌日も、その翌日も、母はうちに帰ってきた。「せっかくの新しい家、住まないの?」と訊ねると、「お布団はあるけどベッドがないから、今日ベッドの予約を済ませてきたの。届くまでここにおいて」。なるほどね、それなら仕方ない。
 その翌日、仕事の休憩中に母からメールが来た。「リー。びっくりしないでね。3万円貸してください」
 そういえばいつだったかもこんなことがあったけど、わたしは嫌で貸さなかったことを思い出し、「ないから無理」とだけ返信した。昨日も今朝も家で顔を合わせたのに、なぜメールで言ってくるのだろう……と思っていると、また母からのメール。
「ないならキャッシングして貸してください」
 無理だと返すと、「ではあなたのパートナーから借りて、貸してください。パートナーも手持ちがないなら、キャッシングしてもらって貸してください」。わたしの心の中に、生ぬるくて重たい風が吹いた。無理だと返すと、「困っているの。いいからお願いします」
 一気に気力を失ったわたしは、仕事を終えるとパートナーに事情を話して駅まで来てもらった。
 実の親にキャッシングを促されたこと、パートナーにもそれを頼んできたことに心を乱されたことを涙ながらに訴え、過去にもこのようなことがありとても嫌な気分になったことを打ち明けた。いつだったかは、「あなたの母親からお金を無心されたけどどうなっているんだ!!」と知らない相手から突然電話で怒られたことも話した。
 ひと通り話を聞いてもらい、少し落ち着いたので夜の遅い時間に家に帰った。
 それでも、やはり引っ掛かっていたので母のいる部屋に行き、「あのメールは何? 3万円て何のお金?」と訊ねると、「もう寝ているからやめて、疲れているの」と言う。
 この人は何を考えているのか。自分の子供に金を、それもキャッシングまでさせようとしたことをどう考えているのか。わたしが悲しさと混乱で涙ながらに訴えているのになぜ寝ているのか。すると2階からたまりかねたパートナーが下りてきて、寝たフリを決め込んでいた母を起こし、「起きろ! キチンと話をしろ!!」と怒声を浴びせた。それでも母は、その大声に一切の動揺を見せることもなく「もうやめてください。疲れているのでわたしは寝ます」と本当に寝てしまった。やり場のない気持ちを全て抱え込み、わたしは無理矢理目をつむり、次の日を迎えざるを得なかった。

 

●母と日常

 母は結局その後も「今日だけ」「本当に今日だけ」を繰り返し、我が家に居座った。10日ほど過ぎたある日、いよいよシビレを切らしたパートナーに「もう出て行ってください」とハッキリ告げられ、半ば拗ねるようにして「これまでお世話になりました」と吐き捨て、母はうちから出て行った。そして、やはりまだ諦めきれなかった3万円を本当に借りることができないのかと再びメールで確認してきたので、貸せないことを伝えると、「ではもう日時指定までして配達の予約をしていたベッド、キャンセルしますね」という、一見脅しのように見える不思議なメールを送り付けてきた。
 それから数ヶ月の間、わたしたちは時々街のレストランや喫茶店で会った。他愛ない話を繰り返し、記憶の上塗りを重ねて何とかあの出来事を手の届かないところまで追いやったんだ。

 しばらくパッタリと母からの連絡が途絶え、わたしは少し心配で部屋を訪ねた。しかし彼女は「今忙しいから」と出てこなかったり、また別の日は玄関の扉を15センチほど開けた隙間から会話をするに留まった。その数日後、母が久しぶりに我が家を訪ねてきた。「お腹が空いたから食事を摂らせてほしい」と。
 わざわざ「お腹が空いた」と訪ねてくることに違和感を抱いたものの、簡単な食事を出すと、彼女はそれを瞬時に食べ切り、いつぞやと同じようにおかわりをした。食べ終えて少しすると母は、「しばらく食事を世話してもらえない?」と言うので、理由を聞くと「お金がないの」とだけ答えた。年金支給日の翌日なのに、どうしても必要なことにお金を全額使ってしまったらしい。「食事のお金を貸してもらえるならそれでもいいわ」とも言ってきたものの、金銭的援助は一切考えたくなかったため、現物支給をすることにした。
 人間、生きていくために食事は必要だものね。
 ある日のこと。いつものようにわたしがオフィスで働いていると、突然見覚えのある人が当然のような顔で入ってきた。そして真っ直ぐにわたしのところへ来て、「200円貸してくれない?」とだけ言った。母だった。200円で何がしたいのかわからなかったけれど、断るとそのまま出て行った。そして数時間後、仕事を終えたわたしを母は待っていた。「200円貸してくれない?」とまた声をかけられた。「嫌です」と早歩きでわたしが進み出すと、彼女は追いかけてきた。わたしは走った。彼女も走って、「お願いだから200円貸してちょうだい!」と叫びながら追いかけてくる。わたしは逃げた。そして逃げ切った。走って逃げながら、明日母に届けてあげるお弁当は、少しおかずの種類を増やしてあげようか……などと考えるわたしは、まだまだ甘くて優しかった。
 夜はなかなか冷え込み、冬がもうすぐそこまで来ていた日の出来事だった。

 この頃から母は、背中が徐々に曲がり、歩行時に辛そうにするようになっていた。
 でもこんなことぐらい、後から起こることに比べると、かわいいものだったんだ。

 

===続きは単行本『母がゼロになるまで』でお読みください===

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