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「「感染症」を描いて、『ペスト』を超えた、唯一無二の傑作」(高橋源一郎 評) NHKで大反響!『白の闇』(ジョゼ・サラマーゴ 雨沢泰訳)冒頭試し読み

 コロナ禍のいま、偶然にも復刊され、爆発的に読まれている作品があります。ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』。ポルトガル語作家としては初めてのノーベル文学賞作家となったジョゼ・サラマーゴの代表作です。
今年のお正月、古今東西の「名著」を100分で読み解くNHK Eテレの人気番組「100分de名著」のスペシャル版として「100分deパンデミック」が放映されました。気鋭の論客がスタジオに集結し、各自が「コロナ禍の今、読むべき名著」を持ち寄り徹底的に考察した、そのなかでも最も熱を入れて論じられた1冊がこの作品。
突然、失明する人々が急増。それはなんと、感染症であることが判明し──。
番組内で高橋源一郎さんが「まず、ものすごく面白い」「「感染症」を描いて、『ペスト』を超えた、唯一無二の傑作」と絶賛された本作、放映されるやいなや、大反響を巻き起こし、いまや7刷まで版を重ねています。

 コロナ禍のいま、ひとりでも多くの方に読んでいただきたい傑作、2月5日の「100分deパンデミック」再放送を前に、作品冒頭を公開します。

 

 

白の闇

 

 

見えるなら、よく見よ。
よく見えるなら、じっと見よ。

         ——「訓戒の書」より

 

 

 黄色がついた。赤信号にならないうちに、前にいる二台の車が加速した。横断歩道にある緑色の男の絵が明るくなった。待っていた人びとは、黒いアスファルト舗装に白ペンキで塗った縞柄しまがらを踏んで、道を渡りはじめた。まるでゼブラに似ていないのに、ここはそう呼ばれている。ドライバーはじれた足をクラッチに乗せたまま、いつでも走りだせるようにしている。車は前にのめったり後ろにさがったり、いまにも鞭打むちうたれるたけった馬のようだ。歩行者は横断を終えたが、信号はさらに数秒のあいだ車の流れをせきとめている。さして意味のないこの遅れを弁護する人もいる。町にある何千という信号機によって、そして三色の連続する変化によって、この遅れが増殖し、深刻な交通渋滞を —— 最近の言葉でいえばボトルネックを —— 引き起こしているというのに。

 ようやく青に変わり、車はきびきびと走りだしたが、全部がそろってすばやくスタートラインを離れたわけではなかった。まんなかの車線の先頭の車がとまっていた。たんなるガス欠でないなら、アクセルを踏んでも利かないか、シフトレバーが動かないか、サスペンションに異常があるか、ブレーキが故障したか、電気回路がショートしたか、なにか機械に問題が生じたに違いない。こうしたことが起きるのはめずらしくなかった。つぎに渡ろうとする歩行者の一団が交差点にたまり、動かない車のフロントガラスのなかで両腕をふっているドライバーを見た。後続の車はクラクションをけたたましく鳴らした。立ち往生した車を交通のじゃまにならないところへ押していこうと、後ろの車から何人かが降りてきて、閉じた窓ガラスを激しくたたいた。なかにいる男は人びとのほうに首をめぐらし、それから反対側に顔を向けた。男ははっきりとなにごとか叫んでいる。その口の動かし方から判断すると、いくつか単語をくりかえしているようだ。一語ではない。ある人がようやく車のドアをあけたとき、なにを言っているのかわかった。目が見えない。

 だれが信じただろう。一見したところ男の眼は健康そのものだ。虹彩こうさいはきらきらと輝き、白目は白い磁器のように詰まっている。その両眼がまんまるに見ひらかれ、しわを寄せた顔の肌と眉毛がいきなりゆがみ、だれの目にも、男が心の苦悶くもんにさいなまれて半狂乱になっているのはあきらかだった。ついさっきまで視野にあったものが、あっというまにせていた。男は頭にある最後の景色を、信号機の赤い丸を、とりもどそうとするように、こぶしを眼にあてがった。男は人の手を借りて車から降りながら、目が見えない、目が見えない、と絶望的にくりかえした。死んだと男が言いはる眼には涙がひたひたともりあがり、いっそうの輝きを増した。こういうことはありますよ、たまに神経的なものが原因で。じきに治ります、とある婦人が言った。信号はふたたび変わっており、好奇心にかられた通行人が、男を取り囲む人びとのまわりに集まっていた。はるか後方では事情を知らないドライバーが、この大混乱をなんのせいにもできずに、ヘッドライトの片方が割れたり、フェンダーがへこんだりといったよくある交通事故だと思って、警察を呼べ、おんぼろ車をどかせ、と抗議の声をあげた。失明した男は懇願した。お願いです、だれか家に連れていってくれませんか。神経が原因ではないかと言った婦人が、救急車を呼んで、このかわいそうな人を病院に運ぶべきだと意見をのべたが、失明した男はそれを聞いて、それにはおよばない、ただ自宅のある建物の入口まで連れていってもらいたいのだと言った。近くだし、それ以上手をわずらわせることはないから。それで車はどうするんだね、とある人がたずねた。別の声が返事をした。キーが入ってる。動かして歩道にあげればいい。いやその必要はない、と三番目の声が割りこんだ。わたしが車を運転して、この人を家まで送りとどけるよ。まわりで、それはいいというつぶやき声がした。失明した男は、腕をとられるのを感じた。さあ、いっしょに行こう、と同じ声が言った。人びとは男を助手席にすわらせ、シートベルトを締めてやった。見えない、見えない、男はまだ泣き声でつぶやいていた。家の場所を教えてくれ、と送る男がたずねた。おもしろがって話題をむさぼろうとする顔が、いくつも車の窓をのぞいた。失明した男は両手を眼にもっていくと、身ぶり手ぶりで言った。なんにもない、まるで霧にまかれたか、ミルク色の海に落ちたようだ。でも失明したらそんなふうじゃないだろう、と送る男が言った。まっ暗だっていうじゃないか。いや、まっ白に見えます。じゃ、あの小柄なおばさんの言うとおり、神経的なものかもしれないね。神経ってのは厄介やつかいなものだから。そんな話はやめてくれないか。これは天災なんです。そう、天災です。ともかく家の場所を教えてください。と同時に車のエンジンがかかった。男は視覚をなくして記憶力が弱まったように、つっかえつっかえ住所を告げ、感謝の言葉もないと言いたした。送る男は答えた。礼にはおよばない。今日はそっちの番だけど、明日はわたしが助けてもらうかもしれないよ。将来なにがどうなるかなんて、わかりゃしないさ。ほんとです、今朝家を出たときは、こんな恐ろしいことがこの身に起きるとは思いもしませんでした。男は車が動かないので当惑し、どうして走らないんです、と問いただした。信号が赤だから、と送る男が答えた。このさき、男は信号が赤になっても知るすべはないのだ。

 

 失明した男の言葉どおり、家は近くにあった。しかし歩道には車がぎっしり乗りあげていたので駐車スペースを見つけられず、横丁に入って探さなければならなかった。横丁の歩道は狭かった。このぶんでは助手席側のドアと建物のあいだが手のひらひとつ分しか空かないだろうし、ハンドブレーキやハンドルをよけながら運転席側に移るのも大変なので、失明した男は駐車する前に車から降りた。道路のまんなかに一人で残されると、男は足もとの地面が揺れ動くような気がして、迫りくる恐慌きようこうを懸命におさえこんだ。さきほど本人が説明したミルク色の海で泳ぐように、あせって顔の前で両手をふっていたが、いまにも口を大きくあけて救いを求める叫びをあげようとした瞬間、送る男の手がそっと腕をさわった。落ち着くんだ、つかまえたから。二人はころばないように、そろりそろりと進んだ。失明した男はすり足で歩いたが、そうするとでこぼこのある路面につまずくことになった。がまんが肝心、もうすぐだよ、と送る男はつぶやいた。すこし進んでからたずねた。家には面倒を見てくれる人がいるのかい? 失明した男は答えた。さあわかりません、妻はまだ仕事から帰ってないんです。今日はたまたまいつもより早く仕事を退けてきたらこんなことになってしまいました。きっと、そんなに深刻なことじゃない。だいたい人間の目が突然見えなくなるなんて聞いたことがないね。考えてみれば、ぼくは眼鏡をかけたことがないのを自慢の種にしてたんです。それなら、すぐに見えるようになるさ。男たちは建物の入口に着いていた。近所に住む二人の女が、腕をとられて連れていかれる隣人の姿をじろじろと見ていたが、どちらも、眼になにか入ったのかと訊く気はなく、ましてや男が、ええ、ミルク色の海が、と答えるかもしれないとは思いもしなかった。建物に入ると、失明した男が言った。ほんとにありがとうございました。お手間をとらせてすみません。もう、一人でも大丈夫です。いや、恐縮されてもね。上までついていくよ。ここで置き去りにしたら、気がめてしょうがない。二人は苦労して狭いエレベーターに乗った。何階だね? 四階です。いやあ、どれだけ感謝してるかわかりません。礼など無用だ。今日はきみの番なんだ。ええ、そうですね、あなたの言うとおり、明日はそちらの番かもしれません。エレベーターがとまり、二人は小さなホールに出た。ドアをあけるのを手伝おう。ありがとうございます、でも自分でできますよ。男はポケットから小さな鍵束を取りだすと、ひとつずつギザギザをいじって言った。これだろう。それから、左手の指先で鍵穴をさわってドアをあけようとした。これじゃないな。ちょっと見せてくれ、手伝うよ。三度目でドアはあいた。失明した男は、家の奥に呼びかけた。いるのかい? 返事はなかった。さっき言ったように妻はまだ戻っていないんです、と男は言った。両手をのばして手さぐりしながら廊下を進み、それから慎重に戻ってきた。送ってきた男が待っている場所を計算して、そちらに顔を向けていた。なんとお礼を言っていいかわかりません。お安いご用だ。よきサマリア人(慈悲深い親切な人のこと)はそう言った。礼などいらない。奥さんが戻るまでいっしょにいてあげようか、と言いたした。失明した男は、この熱意にふと疑いを抱いた。ふつうなら赤の他人を家に入れたりしないだろう。ひょっとしたら、まさにいま、どうやって目の見えない哀れな無抵抗の人間をおさえこみ、縛りあげ、さるぐつわをかませて、手あたりしだい金目のものに手をかけてやろうと企んでいるかもしれないではないか。いいですよ、もういいです、心配しないでください、と男は言った。大丈夫です。失明した男はゆっくりとドアをしめはじめ、いいですから、いいですから、とくりかえした。

 

 エレベーターが下りていく音を聞くと、男は安堵あんどのため息をもらした。そして目が見えないことをうっかり忘れて機械的にのぞき穴に眼をつけ、ドアの外をのぞいた。

続きは河出文庫『白の闇』でお楽しみください。

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