書評 - 文藝

ハンガリーで左手を移植した日本人男性の葛藤を描き、欧州の価値観浮き彫りに 皆川博子が激推しする小説

 

 

あなたの燃える左手で

朝比奈秋著

 

評:皆川博子(作家)

 

 

 緊迫した場面から始まります。人物の行動が何を意味するのか、この段階では読者にはわからない。しかし引き込まれる。まず、文章に惹かれました。余計な説明は交えず、必要な事実を的確に、しかも魅力的に(ここに作者の天性の才を感じます)伝える。〈蕁麻疹〉がなんと効果的なことか。他国の人が感じる日本人観までが蕁麻疹から滲みでる。

 ウクライナのクリミア半島をロシアが一方的に併合宣言をした二〇一四年から六年後の二〇二〇年、ハンガリーの首都に次ぐ大都市デブレツェンの病院に勤務し、そこで手術を受けることになる日本人の青年アサト。作者が医師であることは読後知りました。医師は施術する側ですが、本作では、手術を受ける側の肉体と精神の状態が、アサトの視点で緻密に記されます。医学上の知識が、説明ではなくなめらかにつたわります。

 医師の誤診により、左手を切断され、後日、別の医師によって他人の手を接合される。知的職業に就いている日本人の腕の先に、白人労働者のごつい手。肉体の無意味な分断と不自然な結合、そうして肉体に生じる拒絶反応。これをヨーロッパの国境の推移と緊張に重ねるという新鮮な着眼に、瞠目しました。

 手の移植を施術したハンガリー人の医師は言います。「日本が手の移植を行わないのは、日本に国境がないからなんじゃあないかな」

 ヨーロッパの国境は有史この方、奪ったり奪われたりせわしなく移動し、そのたびに、〈人〉が悲惨な目にあっています。キエフ大公国を発祥の地とする、後にウクライナと呼ばれる一帯は、タタールに制圧され貢税を強いられ、タタールのキプチャク汗国が退潮した後は、同君連合のリトアニア・ポーランドに支配され、やがて衰弱したポーランドがプロイセン、オーストリア、ロシアの三国に分割され消滅したとき、一部はオーストリアに、大部分はロシアに支配されることになります。かつてはハプスブルク帝国と同君連合の大国であったハンガリーは、今は弱小国です。ウクライナは独立までに悲惨な変遷を経ていますが、ハンガリーはそのウクライナに国土の一部を奪われている。ヨーロッパの国々は常に力で押し返していなければ押し潰される。海の只中にある日本は他国と地続きの国境を持たない。明瞭に強力に自己主張をする必要がない。そうハンガリー人の医師は観察します。

 愛しあい結婚した女性は、クリミアのウクライナ人で、ジャーナリストかつ看護師として紛争地の取材と医療支援に奔走していた。アサトは自分の肉体の拒絶反応を苦悶しながら超えようとする。外ではロシアがウクライナ侵略を開始する。

 冒頭から最後まで一点の緩みもなく、激烈なことが記されているのに、やわらかいあたたかさを感じます。構成力と表現力の見事な統合です。読後感を一言にまとめます。凄い!

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