書評 - 日本文学

神話の解体と誕生――文庫版刊行記念! 歌人・瀬戸夏子が読む、川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』

 

ジュリアン・バトラーの真実の生涯

川本直 著

 

評者・瀬戸夏子(歌人)

 

 

 

 もはや文学に贅沢など許されない時代に、これ以上ないほど、溢れ出しそうなほど山盛りに模造のダイヤを詰め込んだ宝箱、きわめて反時代的な書物である。
 もう二十世紀のように文学からスターなど生まれないことなどわかりきっているのに、この死にかけの文化にそれでもとり憑かれているわたしのような、わたしたちのような人間にとって喜ばれてしまう小説である。そう、スターバックスで『白鯨』を買おう。だって、マクドナルドはプルーストを売っている。シーインが量産した極上のマリー・アントワネットたち。いつも通りアンチはAmazonレビューで★1のいちゃもんをつけている。ああ、Netflixで映像化しないでくれ。天国でゴア・ヴィダルとカポーティはため息をついている。どの頁を開いても氾濫した固有名詞が下品にきらめいている。ゴシップこそが神話である。
 まだ作家が神話になることができた時代、その最後のひとり、ジュリアン・バトラーの物語である。ジュリアン・バトラーは二十世紀のオスカー・ワイルド。女装の同性愛者。つねに挑発的でスキャンダラスなクィア、作品と作家が同価値になるようにきちんと算盤を弾ける頭の良さはあるものの危なっかしい。そのジュリアンを支えていたのがジョージ・ジョンである。この本は、ジョージ・ジョンの独白ではじまる。いわく、「私は自分の名前が嫌いだ」。
『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』は、ジュリアン・バトラーの神話を解体する本だ。ジュリアン・バトラーの小説は、ジュリアン・バトラーひとりの手によって書かれたものではない。それは『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』を書いている、他ならぬジョージ・ジョンとの共作だと自分自身で暴露する。そしてジュリアン・バトラーが自らをいかに神話化していったか、その過程を隅々にいたるまで読者に知らしめる。その解体のメスは驚くほどに残酷で、ときどき死体を過度に損壊しているのではないかと不安になるほどだが、同時にそのメスはジョージ・ジョン自身にも向いている。なぜなら、ジョージ・ジョンもまたジュリアン・バトラーその人であったからに他ならない。自傷行為のようにジュリアン・バトラーを解体しながら、ジョージ・ジョンはジュリアン・バトラーを自身から引き剥がしていく。だからこそ、この物語のエンディングは美しい。なぜ、この本が「私は自分の名前が嫌いだ」というジョージ・ジョンの独白から始まったのかが明らかになる。この本は、ジョージ・ジョンがジュリアン・バトラーから独立し、ジョージ・ジョン自身に帰還する物語ではない。ジョージ・ジョンが、ジュリアン・バトラーと同様に、自身を神話のなかに投企するための飛躍なのである。だから物語のエンディングに選ばれるのは、ジュリアン・バトラーをめぐる「書くこと」についてのエピソードではなく「生きること」についてのエピソードが採用されているのだ。ジョージ・ジョンが本物の嘘つき、つまり作家になるために必要だったのは「生きること」、生そのものを模倣する図々しさだった。そのことに気づいた瞬間に、ジョージ・ジョンは消滅し、新しい作家が誕生する。新しい神話に相応しい、新しい名前の誕生をわたしたちは目撃する。
 しかし、この本にはさらに「ジュリアン・バトラーを求めて」という川本直による長いあとがきが付されている。この長いあとがきを読みながら、わたしたちは、さらにもうひとつの神話の誕生に立ち会うことになる。二十一世紀、滅びゆく文化のなかで、マクドナルドのプルーストから、さらにキッチュで下世話で豊穣なプルーストが生まれる。その名前の二つ名を、いずれわたしたちは考案しなければならなくなるだろう。

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著者

川本直(かわもと・なお)

1980年東京都生まれ。デビュー小説『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』で第73回読売文学賞(小説賞)、第9回鮭児文学賞を受賞。他著書に『「男の娘」たち』、共編著に『吉田健一ふたたび』。

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