書評 - 文藝
全人類の不死と祖先の復活、そして宇宙進出を思想とする「ロシア宇宙主義」とは? 思想家ボリス・グロイスの論文集を紹介
評者:木澤佐登志(文筆家)
2024.05.20
『ロシア宇宙主義』
ボリス・グロイス編
乗松亨平監訳
上田洋子/平松潤奈/小俣智史訳
評:木澤佐登志(文筆家)
ロシア宇宙主義と呼ばれる特異な思想潮流がかつてロシアに存在した。その端緒は一九世紀末に活動したニコライ・フョードロフにまで遡る。フョードロフの哲学を一言で要約するのであれば、それは科学とテクノロジーによる人間の限界の超越ということになるだろう。フョードロフによれば、人間に死をもたらす自然の力は、理性の力と発展していく科学技術の力によって統御されなければならない。この自然の統御は、外界たる世界だけでなく、やがて自分の器官そのものにも向けられる必要があるという。つまり、自分の器官を統御し、発達させ、根底から変容させるべきなのだ。
その最終的な帰結としてフョードロフが唱えるのが、人間の不死の達成と祖先の復活、そして宇宙への進出である。バイオテクノロジーと全人民の労働を結集させることで、分解し宇宙へ飛散していった死者たちの粒子を集め、彼らの肉体を復元する、これこそがフョードロフの主導する「共同事業」に他ならない。彼に端を発する思想潮流はロシア宇宙主義と呼ばれ、二〇世紀以降のロシアに留まらず、加速主義やトランスヒューマニズムなど、現代における様々な潮流に流れ込む地下水脈を形成し、今もなお人々を魅惑する妖しげな存在感を放っている。
本書はそんなロシア宇宙主義の重要テクストを集めたアンソロジーである。選ばれたテクストは、ロシア宇宙主義の始祖フョードロフにはじまり、「生宇宙主義(ビオコスミズム)」なる人間の不死と宇宙への進出を目指すアヴァンギャルドの詩と思想の運動を展開したスヴャトゴル、もともとボリシェヴィキ革命批判者だったが、ソビエト政権に永遠を人工的に生産する「時間の支配」の約束があるのを見出して革命の信奉者に転じたムラヴィヨフ、反動推進ロケットの原理を考案し、「ロシア・ロケット工学の父」と呼ばれるに至ったツィオルコフスキー、老化のプロセスに抵抗するための輸血の実験が原因で斃(たお)れたボグダーノフ、等々、実に多彩な論者が選ばれている。
アンソロジーとして見たとき興味深いのが、フョードロフのテクストの中でもどちらかといえばマイナーと思われる博物館にまつわる論文を収めている点であろう。フョードロフは、人間個人を美術作品に、あるいは博物館の展示品全般に喩えていた。このあたり、フョードロフにおける「アーカイビング(保存活動)」のモチーフを重要視する編者ボリス・グロイスの、美術批評家としての面目躍如をそこに見る思いがした。ある意味では、この書物自体がロシア宇宙主義のテクストを保存する博物館となることが目指されているわけだ。そう、本書自体がフョードロフたちを現在に復活させるプロジェクト=共同事業に他ならないのである。私たちはこの本の読者となることを通じて、共同事業の参画者のひとりとなる。そうして、フョードロフらは、ロシア宇宙主義は、遂に不死を獲得することになるだろう。