ためし読み - ノンフィクション
「このミス」1位のミステリー作家と、翻訳家・越前敏弥が贈る慟哭と感動のノンフィクション大作!――ジェレミー・ドロンフィールド『アウシュヴィッツの父と息子に』訳者あとがき先行公開!
ジェレミー・ドロンフィールド 越前敏弥訳
2024.10.01
デビュー作『飛蝗の農場』で華々しいデビューを果たした奇才のミステリ作家ジェレミー・ドロンフィールドは、数作発表ののち、表舞台から消えていました。その後、10年以上の沈黙を経て、ノンフィクション作家として甦ったドロンフィールドの初の単著が、世界的なベストセラーとなった本書『アウシュヴィッツの父と息子に』です。第二次大戦時の、ウィーンのユダヤ人一家クラインマン家の引き裂かれる運命を、家族それぞれの視点から、なかでも収容所に送られた父と息子を軸に描きます。ふたりは収容所で互いに助け合い、なんとか生き抜こううとしましたが、ある日、父だけがアウシュヴィッツに移送されることに。それを知った息子は、自らアウシュヴィッツ行きを志願するのです。
本書をぜひ日本の読者に紹介したかったと語る、訳者・越前敏弥さんの訳者あとがきをお読みください。
『アウシュヴィッツの父と息子に』
ジェレミー・ドロンフィールド
越前敏弥訳
訳者あとがき
アウシュヴィッツの収容所を舞台としたノンフィクション作品は、これまで日本でもさまざまな題材のものが翻訳出版されてきた。そういうなかで、この『アウシュヴィッツの父と息子に』をわたしがなんとしても日本で新たに紹介したいと考えたのには、ふたつの大きな理由がある。ひとつは、この作品に登場するユダヤ人一家、とりわけ父と長男の歩んできた人生が、とうてい事実とは信じがたいほど波瀾に富んでいたにもかかわらず、まぎれもなく現実のものであり、しかもここでは当時の光景や人々の心情がこの上なく鮮やかに描かれていること。もうひとつは、それを書き記したのが意外にもあのジェレミー・ドロンフィールドだったということで、これについては後述する。
一九三八年、ナチス・ドイツによって併合されたオーストリアでは、ユダヤ系市民の人生が激変した。椅子張り職人グスタフ・クラインマンと妻のティニ、そして四人の子供たちも、ナチスによる反ユダヤ政策に翻弄され、過酷な運命をたどることになった。本書はそんな一家を、可能なかぎり事実に即しつつ小説風に描いたノンフィクション作品である。
作中では家族ひとりひとりの歩みが描かれるが、特に父グスタフと長男フリッツが話の中心となる。ふたりはナチスがユダヤ人の強制収容に着手して間もない一九三九年十月にブーヘンヴァルト強制収容所へ送られ、複数の収容所を転々としながら、五年半にわたる年月を生き抜いた。親子がともに生還しただけでも驚くべきだが、それ以上に信じがたいのは、長きにわたる苦難の日々をグスタフがていねいに日記に綴っていたことだ。グスタフは収容所内で起こった残虐な事件や自分の心情を、隠し持った手帳に鉛筆で記しつづけた。作中では、偶然が過ぎるのではないかと疑いたくなる出来事もたびたび起こるが、巻末の注釈を見れば、そのすべてが史料によって裏づけられた事実であることがわかる。
優秀な職人であり、強靱な心身を持つグスタフと、機転が利き、逆境に抗う闘志を持ったフリッツは、互いを助け、励まし合いながら、死と隣り合わせの収容所生活を送る。ふたりの絆が最も鮮明に描かれるのは、ブーヘンヴァルト収容所で三年を過ごしたあと、グスタフだけがアウシュヴィッツへ送られると決まったときのことだ。フリッツは父と離れたくない一心で、確実に死が待つと噂されるアウシュヴィッツへの移送をみずから志願する。ナチスの非人道的な残虐さと対照をなす愛情に満ちた親子の姿は、極限状況に置かれても人間性を失うことなく闘いつづけた人々の生き方を力強く伝えている。
一方、強制収容所での生活を経験しなかったユダヤ人の姿も、同じように克明に描写されている。クラインマン一家のうち、長女のエーディトと次男のクルトは、それぞれイギリスとアメリカに移り住んでナチスから逃れたが、ふたりがたどった道もけっして平坦なものではなかった。母のティニと次女のヘルタの運命についても、作者は可能なかぎりの調査をおこなっている。
その作者、ジェレミー・ドロンフィールドの名前を見て仰天したのは、海外ミステリーを長年愛好してきた読者だろう。ドロンフィールドのデビュー作『飛蝗の農場』は、英国推理作家協会(CWA)の最優秀デビュー長編賞の最終候補となったのち、日本ではその独特の構成や異様なまでに濃厚な描写が「快作」というより「怪作」として高く評価され、《このミステリーがすごい!》の海外編と《IN★POCKET》文庫翻訳ミステリー・ベスト の両方で第一位に選ばれた。つづく『サルバドールの復活』もさらなる怪作として支持されたが、邦訳されたのはその二作にとどまった(いずれも創元推理文庫から、わたしの訳書として刊行された)。
ドロンフィールドは前述の二作を含むフィクション四作を執筆したあと、長く出版の表舞台から姿を消していたが、十年以上を経た二〇一五年に歴史ノンフィクションの共著者として復活した。その後はノンフィクションの執筆に徹していて、共著で計四作を発表したのち、初の単著として本書を刊行している。
作家としてデビューする前、ドロンフィールドは考古学研究に携わっていたという。綿密な調査をもとに過去を解き明かした経験は、本書の執筆にあたっても存分に生かされている。当初はグスタフの日記を英訳出版したいという相談を持ちかけられたが、その記述は断片的で、歴史家ですら解読に苦労する部分もあり、とうていそのまま出版できるものではなかったらしい。そこで、日記に書かれたグスタフの経験を、フリッツが戦後に書いた回顧録の記述などを参考にしつつ、ドロンフィールドが小説形式に書きなおすことになった。下調べなどの準備に二年を費やし、執筆にさらに一年をかけたとのことだが、その甲斐あって、本書は膨大な記録をまとめたノンフィクションでありながら、読み物としてもきわめて完成度の高い作品に仕上がっている。刊行後、本書はイギリス国内外でベストセラーとなり、数年後には小中学生向けにリライトした書籍も出版された。
偶然ながら、デビュー作『飛蝗の農場』は今年のはじめに創元推理文庫から新装版として復刊された。読み比べると、あまりの作風の変化に最初はとまどうかもしれないが、執拗なまでに克明な描写やサプライズを醸成する手法など、共通する特徴もいくつか見られるので、ぜひこの機会にそちらも手にとっていただきたい。
第二次世界大戦の終戦から八十年という節目が迫りつつあるいま、ホロコーストを実際に経験した世代はますます少なくなっている。本作の原書が刊行された時点では存命だったクルト・クラインマンも、二〇二二年三月に九十二歳で他界した。しかし、戦争が過去のものになったわけではないことは、今日の世界の動向に目を向ければ明らかだ。平和とは何か、幸福とは何かを真摯に考えるうえで、本書で語られるクラインマン一家の人たちの生き方が貴重なヒントを与えてくれるにちがいない。
《ジェレミー・ドロンフィールド作品リスト》
フィクション
1 The Locust Farm 1998 『飛蝗の農場』創元推理文庫
2 Resurrecting Salvador 1999 『サルバドールの復活 上・下』創元推理文庫
3 Burning Blue 2000
4 The Alchemist’s Apprentice 2001
ノンフィクション
1 Beyond the Call : The True Story of One World War II Pilot’s Covert Mission to Rescue POWs on the Eastern Front 2015 (Lee Trimble との共著)
2 Queer Saint: The Cultured Life of Peter Watson 2015(Adrian Clark との共著)
3 A Very Dangerous Woman: The Lives, Loves and Lies of Russia’s Most Seductive Spy 2015 (Deborah McDonaldとの共著)
4 Dr James Barry: A Woman Ahead of Her Time 2016 (Michael du Preez との共著)
5 The Boy Who Followed His Father into Auschwitz 2019 本書 (The Stone Crusher 2018 を改題)
6 Hitler’s Last Plot: The 139 VIP Hostages Selected for Death in the Final Days of World War II 2019 (IanSayer との共著)
7 Fritz and Kurt 2023 (David Ziggy Greene によるイラスト入り)
8 The Boy Who Followed His Father into Auschwitz: A True Story Retold for Young Readers 2023
※ 7と8は本書のヤングアダルト向けリライト版