ためし読み - 海外文学

『その子どもはなぜ、おかゆのなかで煮えているのか』冒頭試し読み

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その子どもはなぜ、おかゆのなかで煮えているのか
アグラヤ・ヴェテラニー
松永美穂訳

 

 

1

 

 天国を想像してみる。

 天国はとても大きいから、わたしは自分を安心させようとして、すぐに眠ってしまう。

 目が覚めたときには、神さまは天国より少し小さいということがわかっている。そうでなければ、わたしたちは祈りながら、驚きのあまりずっと寝てしまうだろう。

 神さまは外国語を話すだろうか?

 外国人の言うことも理解できるだろうか?

 それとも天使たちが小さなガラスの小部屋に座って通訳をするのだろうか?

 

 それで、天国にもサーカスはあるの?

 

 母さんは、あるよ、と言う。

 父さんは笑う。神さまについては嫌な経験をしたのだ。

 神さまがほんとの神さまなら、降りてきて助けてくれるだろう、と父さんは言う。

 でも、将来わたしたちが神さまのところに行くんだとしたら、なんで神さまが降りてこなくちゃいけないの?

 男はどっちみち、女や子どもたちほど神さまを信じていない。神さまと競争関係にあるから。父さんは、神さまがわたしのお父さまでもあることを望まない。

 

 

 

 

 

 ここではどの国も外国だ。

 サーカスはいつも外国にいる。でもキャンピングカーのなかは我が家だ。我が家が消えてしまわないように、わたしはできるだけ細く、キャンピングカーのドアを開く。

 母さんの焼き茄子なす料理はどこでも我が家の匂いがする。どの国にいても関係ない。外国にいる方が故郷のものがずっとたくさん手に入るよ、だって故郷の食べものは全部外国に売られちゃってるんだからね、と母さんは言う。

 

 故郷にいたら、全部外国みたいな匂いがするの?

 

 自分の国を、わたしは匂いでしか知らない。それは母さんの作る食事のような匂いだ。

 人は自分の故郷の匂いをいたるところで思い出す、と父さんは言う。ただしそれは、故郷から遠く離れているときだけだそうだ。

 

 

 

 

 

 神さまはどんな匂い?

 

 

 

 

 

 母さんの料理はどこでも同じ匂いがするけど、外国では味が違う。なつかしさのせいだ。

 おまけにわたしたちはここでは、金持ちのように暮らしている。食事のあと、わたしたちはスープに使った骨を平気で捨てている。でも故郷ではその骨を、次のスープのためにとっておかなくちゃいけない。

 いとこのアニカは故郷で、一晩中パン屋の前の行列に並ばなくちゃいけない。みんなぴったりくっついて並んでいるので、順番を待ちながら立ったままで寝ることができるくらいだ。

 

 行列に並ぶのは、故郷では立派な仕事。

 

 ネアグおじさんと息子たちは、交代しながら昼も夜も列に並ぶ。そして店のすぐ手前まで来たら、その場所をほかの人に売るのだ。待たないですむだけのお金を持っている人たちに。おじさんと息子たちはそれからまた、列の後ろまで行って並び始める。

 外国では、待たなくてもいい。

 ここでは買い物に時間はかからない。お金がかかるだけだ。

 市場ではほとんど並ぶ必要がない。それどころか重要人物のように扱ってもらえる。そして、何かを買えば「ありがとう」とさえ言ってもらえる。

 ここの人たちは、いつでも新鮮な肉が買えるので、よい歯をしている。

 故郷ではもう子どものうちから歯が悪くなる。体がビタミンを全部吸い尽くすから。

 新しい町に着くといつも、母さんとわたしはまず市場に行って、たくさんの新鮮な肉と卵を買う。

 魚屋に行くと、わたしは生きている魚を眺める。でも母さんはめったに魚を買わない。わたしが吐き気を催すから。ほんのときたま、母さんは自分のために一匹の魚を買って、それで魚スープを作る。食事のとき、母さんが魚の頭を指でつまんで肉を吸う様子を見るのがいつも怖い。見ると気分が悪くなるのに、見ずにはいられない。

 

 わたしが大好きな食べものは

 塩とバターを入れたトウモロコシのおかゆポレンタ

 チキンスープ。

 綿あめ。

 焼いたガーリックチキン。

 バター。

 ヒマワリのオイルをつけてトマトとタマネギをのせた黒パン。

 肉団子。

 ジャムをつけたクレープ。

 ガーリックで煮込んだ豚肉。

 マッシュポテトと焼きタマネギを添えたチキンのトマト煮。

 ナッツの入っていないホワイトチョコレート。

 レーズンとシナモン入りのミルクライス。

 マヨネーズで和えた茄子のサラダ。

 さいの目に切ったベーコン入りのラード。

 ピーマンの肉詰め、サワークリームとおかゆ。

 ハンガリーのサラミ。

 生地きじで包んで焼いたリンゴ。

 豚肉とザワークラウト。

 血のソーセージ。

 ザラメをまぶした「死者のためのケーキ」に、マーブルチョコで飾りをつけたもの。

 白パンに入っているレーズン。

 塩を振ったキュウリ。

 ガーリックソーセージ。

 冷たい牛乳と温かいおかゆ。

 ブドウの葉で包んだ肉。

 棒状の砂糖菓子。

 生のタマネギとグーラシュ(パプリカを入れたシチュー)。

 ヤギのチーズとおかゆ。

 バターと砂糖の入った白パン。

 焼きアーモンド。

 おまけ付きのチューインガム。

 

 

 

 

 

 生のタマネギをげんこつで潰して食べると一番おいしい。そうすると、芯が飛び出す。

 オレンジは嫌い。生まれ故郷では、オレンジが食べられるのはクリスマスだけだったけど。

 

 父さんはトマトを入れたスクランブルエッグが一番好き。

 

 

 

 

 

 外国にいたって、わたしたちが変わることはない。どんな国でも口でものを食べるんだから。

 

 

 

 

 

 夜が明けるころ、母さんは起きて料理を始める。鶏の羽をむしって、肉をガスの火であぶる。母さんは生きている鶏を買うのが一番好き。それが一番新鮮だから。

 母さんはホテルのバスタブで鶏を殺す。

 

 殺されるとき、どの国でも鶏たちは鋭い叫び声をあげる。わたしたちはどこにいても鶏の気持ちがわかる。

 

 ホテルで鶏を殺すことは禁止されている。わたしたちはラジオの音を大きくして、窓を開け、わざと騒がしい音を出す。わたしは殺される前の鶏を見たくない。見たら、生きたまま飼いたくなるから。スープに入れない部分はトイレに流される。わたしはトイレに行くのが怖い。夜は洗面器におしっこする。そこなら死んだ鶏が生き返ることはない。

 

 

 

 

 

 わたしたちはいつも、違う場所に住む。

 ときにはキャンピングカーが小さすぎて、そのなかではお互いにすれ違えないくらいだ。

 そうするとサーカス団がわたしたちに、トイレ付きの大きいキャンピングカーをあてがってくれる。

 ホテルに泊まることもあるけれど、部屋は虫だらけの湿った穴蔵みたいだ。

 でもときには、部屋に冷蔵庫やテレビがある、ぜいたくなホテルに泊まることもある。

 一度、一軒家に泊まったけれど、そこではトカゲが壁を走り回っていた。わたしたちはベッドをリビングルームのまんなかに集めて、トカゲが掛け布団のなかにもぐり込めないようにした。

 母さんが庭の戸口に立っていたら、蛇が足の上を這っていった。

 

 お気に入りを作ってはいけない。

 

 わたしは、どんな場所にいても居心地よくなれるように、やりくりすることに慣れている。

 そのためには、椅子の上に青い布を広げるだけでいい。

 これは海だ。

 わたしのベッドの横には、いつも海がある。

 ベッドから降りさえすれば、もう泳げる。

 わたしの海では、泳ぐために泳ぎをマスターする必要はない。

 夜、わたしは海を、母さんの花柄のガウンで覆う。おしっこに行くとき、サメにつかまらないように。

 

 

 

 

 

 いつか、わたしたちは大きくて豪華な家を持つだろう。リビングルームにプールがあって、ソフィア・ローレンがうちに出入りするのだ。

 わたしはタンスでいっぱいの部屋がほしい。そこに洋服や持ち物を全部しまえるように。

 父さんは、馬が描かれた本物の油絵を集めている。母さんは高価な陶磁器の食器を集めている。わたしたちはその食器を一度も使わない。出したりしまったりするうちに、古くなって壊れてしまうから。

 わたしたちの持ち物は、大きなスーツケースに、たくさんの新聞紙と一緒に入っている。

 

 わたしたちは大きな家のために、行く先々できれいなものを集める。

 

 おばさんは、恋人が歳の市の射的でとってきてくれたぬいぐるみを集めている。

 

 

 

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続きは単行本
その子どもはなぜ、おかゆのなかで煮えているのか』で
お楽しみください
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著者

アグラヤ・ヴェテラニー

1962年、ルーマニア生まれ。5歳で亡命し、学校へ通わずに各地を巡る。後にスイスに定住し、独学で学んだドイツ語で書いた自伝的作品である本書が欧米各国で高い評価を受ける。2002年死去。

松永 美穂(まつなが・みほ)訳

愛知県生まれ。東京大学大学院博士課程満期退学。訳書に、ベルンハルト・シュリンク『朗読者』『逃げてゆく愛』、ジークフリート・レンツ『アルネの遺品』『遺失物管理所』、ラフィク・シャミ『夜の語り部』、ジェニー・エルペンベック『年老いた子どもの話』など。

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