ためし読み - 文庫
ノーベル文学賞受賞! ハン・ガン『すべての、白いものたちの』作家の言葉
ハン・ガン
2024.10.21
2024年のノーベル文学賞は、韓国の作家 ハン・ガンさんに授与されることが決まりました。アジアの女性としては、はじめてのノーベル文学賞受賞者となり、世界中で大きなニュースとなりました。
日本でも大変人気のある作家で、多数の著作が刊行されています。
河出文庫から刊行中の『すべての、白いものたちの』は、アジア初のブッカー国際賞を受賞した『菜食主義者』(cuonから2011年に邦訳刊行)に続き、2度目のブッカー国際賞候補となったハン・ガンさんの代表作です。詩的に凝縮された言葉で書かれた本書は、個人の痛みのむこう側に横たわる歴史的・普遍的な痛みという、著者のテーマがストレートに表れている作品です。
このたび、受賞決定を記念し、本作から「作者の言葉」を無料で公開いたします。
なぜこの物語を書いたのかに自ら迫った真摯な文章。ハン・ガンの創作への姿勢が明かされるような「あとがき」です。
ぜひ本編と合わせてお読みください。
『すべての、白いものたちの』
作家の言葉
ハン・ガン
斎藤 真理子訳
この本の最後に「作家の言葉」をつけますかと編集者に訊かれた二〇一六年の四月、私は書かないと答えた。この本全体が「作家の言葉」だから、と笑いながら答えたことを憶えている。あれから二年が過ぎ、改訂版を出す準備をしながら初めて、何かひとこと静かに言い添えたいと──書けそうだと──思った。
*韓国では著者あとがきを「作家の言葉」と称することが多い。
ポーランドの翻訳家、ユスチナ・ナイヴァルさんに初めて会ったのは二〇一三年の夏だった。少年のような短い髪に無彩色の長いスカートをはき、深々とした印象の目もとがどこか悲しげに見える人だった。そのころ彼女が翻訳中だった私の小説の文章についていくつか難しい話をした後、ユスチナはまじめな顔で私に尋ねた。「私が来年ワルシャワに招待したら、いらっしゃいますか?」私は長く考えず、行くと答えた。ちょうど『少年が来る』の原稿を書き終えたころであり、その本が無事に刊行された後、しばらくどこかへ行って休むのはよさそうに思えた。
その短い邂逅を忘れている間にも時は流れ、いつのまにか翌年になった。五月、ついに『少年が来る』が刊行され、私は彼女との約束通り出発するために休暇を申請した。初夏から荷造りを始め、あれこれ準備をしているあいだ、周囲の人たちに訊かれた。「休みたいならなぜ、よりによってそんな寒くて暗いところに行くの?」それはただ、あのとき私を呼んでくれたのがあの都市だったからであり、それが南極や北極だったとしても出かけるだろうということを、うまく説明できなかった。
そしてついに八月末、当時十三歳だった子どもと二人で、それぞれに大きなスーツケースを引き、大きなリュックを背負って飛行機に乗った。それは子どもと二人きりで初めてたどる旅程であり、目に見えない、触ることもできない巨きな人生の結び目の中にすっと入り込んでしまったような心もとなさがあった。
最初のひと月は目が回るほどあわただしかった。二本のポプラの木の輝く梢を見おろす五階建てのマンションに部屋を借り、子どもが一学期間通うインターナショナルスクールに登録し、証明写真を撮り、交通カードを作り、携帯電話を契約し、荷物が増えないようにと持ってこなかった鍋やフライパン、まな板、ふとん、毛布といった品を近くのショッピングモールで買い、キャリーに載せて運んだ。朝は子どもの白い制服のシャツにアイロンをかけ、朝食を作り、おやつとお弁当を包んでやり、かばんと体操服の袋を背負って川べりの道を行く子どもの、うつむいた後ろ姿が消えるまで見ていた。
金曜日にはユスチナと会って基礎ポーランド語を習い、そのお礼に私は漢文を教えた。ワルシャワ大学で韓国の宗教について教えている彼女のために、元暁の『発心修行章』を教材に選んだ。美食を喫し愛惜しようとも我らの肉身は必ず崩れ、絹で包み大切に護ろうとも命には限りがある。わからない漢字をあらかじめ調べて授業の準備をしていると、一日の半分がすぐに過ぎる。
そのようにして最初のひと月が過ぎると、ソウルで暮らしていたときとは比べものにならないほど心の余裕が生まれた。歩き、また歩く──振り返って、ワルシャワで私がやったことは何かといえばほとんどがそれだった。暇さえあればマンションの周囲の川辺を散歩した。バスに乗って旧市街地へ出かけ、通りから通りへと歩きまわった。それより近いワジェンキ公園の森の道を目的もなく歩いた。韓国を出る前から書きたかった『すべての、白いものたちの』という本について、そんなふうに歩きながら考えた。
私の母国語で白い色を表す言葉に、「ハヤン」と「ヒン」がある。綿あめのようにひたすら清潔な白「ハヤン」とは違い、「ヒン」は、生と死の寂しさをこもごもたたえた色である。私が書きたかったのは「ヒン」についての本だった。その本は、私の母が産んだ最初の赤ん坊の記憶から書き起こされるのでなくてはならないと、あのようにして歩いていたある日、思った。二十二歳の母は一人で突然赤ん坊を生み、その女の子が息を引き取るまでの二時間、「死なないで、お願い」とささやきつづけていたという。そのことばを口中に含んで川べりの道を歩いていたまた別の日の午後、この文章が私にとって不思議なほどになじみ深いことに突然気づいた。それは私が何か月か前まで『少年が来る』を書き直すにあたり、最後の瞬間までとりくんでいた五章の中で、闘病中のソンヒ姉さんにむかって、拷問から生き延びたソンジュがかけていた言葉とまったく同じだったのだ。死なないで、と。
そうやって十月が終わるころ、ユスチナが勧めてくれたワルシャワ蜂起博物館を一人で訪ねた。展示をすべて見たあと、付設の上映室で一九四五年にアメリカの空軍機が撮影したこの都市の映像を見た。飛行機が都市にむかって徐々に接近していき、白っぽい雪におおわれた風景がだんだん近づいてきた。だが、それは雪ではなかった。一九四四年九月の市民蜂起の後、ヒトラーが見せしめとして絶滅指示を出した都市、爆撃によって九五パーセント以上の建物が破壊された都市、白い石造りの建物が打ち壊されて灰色の残骸となり、果てしなく広がっていた七十年前のその都市を、私は息を殺して見守った。私のいるここが「白い」都市だということにそのとき気づいた。その日、家に帰る途中で私はある人のことを想像していた。その都市の運命に似た、破壊され、しかし根気強く再建された人を。それが私の姉だということを、私の生と体を貸し与えることによってのみ、彼女をよみがえらせることができるのだと悟ったとき、私はこの本を書きはじめた。
*光州事件をテーマとした小説。邦訳は井手俊作訳でクオンより刊行。
**新羅の高僧。
思い出す。マンションの鍵が一つしかなかったので、子どもが学校から帰ってくる五時半までには必ず家に戻っていなくてはならなかった。その時間まで道を歩いては、この本のことを考えた。何か思い浮かぶと、道に立ったままで手帳に何行か書きつけたりもした。一つしかない寝室で子どもがこんこんと眠っている夜には、食卓の前に座り、または居間のソファーベッドに毛布を敷いてうずくまり、一行ずつ書きついだ。
そうやってあの都市で、この本の一章と二章を書き、ソウルに戻ってきて三章を全部書いた。そのあと一年間、最初に戻ってゆっくりと手直しした。孤独と静けさ、そして勇気。この本が私に呼吸のように吹き込んでくれたものはそれらだった。私の生をあえて姉さん──赤ちゃん──彼女に貸してあげたいなら、何よりも生命について考えつづけなくてはならなかった。彼女にあたたかい血が流れる体を贈りたいなら、私たちがあたたかい体を携えて生きているという事実を常に常に手探りし、確かめねばならなかった──そうするしかなかった。私たちの中の、割れることも汚されることもない、どうあっても損なわれることのない部分を信じなくてはならなかった──信じようと努めるしかなかった。
もしかしたら私はまだ、この本とつながっている。揺らいだり、ひびが入ったり、割れたりしそうになるたびに、私はあなたのことを、あなたに贈りたかった白いものたちのことを思う。神を信じたことがない私にとっては、ひとえにこのような瞬間を大切にすることが祈りである。
この本の最初に出てくる、一九六六年秋の若かった母と父に、静かな、そして不可能なあいさつを贈る。私が白いものについて本を書いていることを知り、学校から帰ってくると、自分がその日見た白いものについて話してくれた二〇一四年秋の息子にありがとうと伝えたい。この本を支え、見守ってくださった編集者で詩人のキム・ミンジョンさんに深く感謝する。
二〇一八年春
韓 江
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本編は文庫『すべての、白いものたちの』でお楽しみください!