ためし読み - 文庫

ガザ虐殺を問うための緊急出版 イスラエル/パレスチナでは何が起きているのか?(3) 『見ることの塩(上・下)』(河出文庫)一部ためし読み

2023年10月7日、ハマスの越境作戦を契機に、イスラエル軍による大規模な復讐戦が展開しました。戦闘開始から半年が経過した今でも、日々痛ましいニュースが届けられ、第二次世界大戦以降の統治体制、宗教や民族の対立など、さまざまな要因が語られています。

この世界史的な悲劇にたいして、小社では四方田犬彦『見ることの塩』を河出文庫から緊急出版しました。本書の前半部は、2004年にイスラエルのテルアヴィヴへ、そして「壁」を越えヨルダン川西岸パレスチナへ、街を歩き、この土地に暮らす人々と対話を重ねた半年間の旅の記録です。

いま、パレスチナ/イスラエルではなにが起きているのでしょうか ―― 本書の冒頭を4回に渡って特別公開します。

 

===試し読みはこちら===

見ることの塩(上・下)
四方田犬彦

 

 

ユダヤ人の定義不可能性(1)

 

 イスラエルに行く前からわたしに気がかりなことがひとつあった。はたして自分の眼でアラブ人とユダヤ人をきちんと識別することができるだろうか、という問題である。
 かつて韓国に渡航する前には、わたしも多くの日本人と同様に、韓国人と日本人の容貌の違いについて、ある種のステレオタイプの認識を抱いていた。しかしソウルの街角で無数の韓国人の顔を眺めているうちに、それが思い込みにすぎず、逆に韓国人が日本人の容貌をめぐって抱いてきたステレオタイプを知らされて、その荒唐無稽に仰天したことがあった。帰国して長い時間が経過したが、わたしはいまだに容貌だけから日本に居住している韓国人を日本人から識別することができない。わたしの周囲には、確信をもって識別できると豪語する人もいるが、その確信は単に、数多くの韓国人に接した体験がないという事実に起因しているように、わたしには思われる。
 ではユダヤ人とアラブ人の場合は、どうだろうか。わたしはわたしなりに、両者の容貌をめぐって漠然とした映像を抱いていたが、現実にイスラエル社会で自分が出会うことになる人々は、その映像からどれほどかけ離れているのだろうかという関心が、わたしのうちにあった。
 テルアヴィヴに生活し、キャンパスで学生たちと話したり、街角を歩く人々を観察したりしているうちに気がついたのは、同じユダヤ人といっても実に多種多様な人間がいるという事実だった。西欧の諷刺画に描かれていたような、巨大な鉤鼻のユダヤ人など、実に稀にしか見かけることがなかった。ある者は金髪に緑の眼をしていたし、別のある者は漆黒の髪に太い眉をしていた。白い肌に雀斑だらけの背中をした女性もいたし、どう見てもアフリカの黒人ではないかという男性もいた。ユダヤ人を(かつてナチスドイツが強引に定義したように)人類学的な意味での特定の人種として定義することが無意味であるのは、一目瞭然だった。ポーランドやドイツから渡来してきたユダヤ人の裔は、やはり東欧の顔をしていたし、モロッコから移住してきたユダヤ人は、わたしがよく知っているモロッコ人のような顔立ちをしていた。氏よりも育ちということだろうか。それとも長い歳月が経過するうちに、現地の人間との交配が重なり、いつしかそちらの血の比率が重くなって、容貌に影響するようになったのだろうか。
 わたしが個人的に親しくなった学生の1人は、くしゃくしゃとした黒髪と太い眉、人懐っこい眼差しから、いかにもモロッコのアラブ人のように見えた。それは彼が、モロッコから移住してきた祖父から譲り受けた容貌だった。学生の話を聞いてみると、仲間のユダヤ人と連れ立って歩いていても彼だけが警官から誰何されたり、車を運転中に呼び止められて居丈高にIDカードの提示を求められることがままあるらしい。まあ怒っても仕方がないことだからねと、彼は笑っていた。実際にユダヤ人とアラブ人のいずれの側でも、眼前の相手がどちら側の民族に属しているのかを咄嗟に判断できないという事態は、しばしば起こっているようである。アラビア語に堪能なアラブ系ユダヤ人がパレスチナの村に乞食として住みつき、人々の喜捨を受けながら密かに情報活動を行なったり、密告者を組織していたという事実があかるみになったことがあった。わたしが到着した直後にも、エルサレムのヘブライ大学の近くを深夜にジョギングしていたアラブ人の学生が、ハマスの放った刺客からユダヤ人と勘違いされて殺害されるという事件が起きている。学生の父親はパレスチナ側に立って人権活動に邁進してきた弁護士であっただけに、その胸中が察せられた。
 いずれにせよ旧約聖書の昔から、ユダヤ人とアラブ人は兄弟に等しい存在であり、言語学的にもヘブライ語とアラビア語はきわめて相同的な構造をもっている(「創世記」の古代ヘブライ語をそのまま語順を変えずに、アラビア語に翻訳するという試みさえなされている)。だがこの近接性、類似性こそが逆にふたつの民族を、あまりに長期にわたる骨肉の闘いへと向かわせていることも事実なのである。
 アラブ世界から到来したユダヤ人と本来のアラブ人との、容貌における類似については、もう少し後で、歴史的経緯に即してより詳しく語ることにしよう。ただたとえ容貌において強い親近性が認められようとも、両者は制度的に峻別されている。混乱はユダヤ人を明確な身体的特徴をもち、歴史の最初から独自に存在していた純粋民族と規定してしまったときにこそ生じるものであって、ユダヤ教を信奉する者を等しくユダヤ人と見なすという立場に立つならば、そのような表面的な差異は受け入れ可能のものとなる。モロッコの現地人が近隣のユダヤ人の感化を受け、ユダヤ教に改宗したとして、その者の裔はユダヤ人として認められるべきである。エチオピアから来たユダヤ人などは、その適例であるといえる。
 だが、ここで新たなる問題が生じることになる。もしユダヤ人を信仰において定義するとすれば、19世紀のマルクスや20世紀のフロイト、プルーストのように、とうに先祖の信仰を捨て、世俗化の道を歩んでいたユダヤ人は、ユダヤ人ではありえないことになってしまう。まして今日のイスラエルでは、ユダヤ教の新年のような儀式を別にすればシナゴーグに一度も足を踏み入れることのない世俗派が人口全体の7割を超えているといわれている。彼らを熱心なユダヤ教徒と同じ範疇に収めることが、はたして妥当なことといえるだろうか。
 イスラエルに到着して間もないわたしが捕われたユダヤ人の定義不可能性の問題は、実は建国以来、イスラエル国家にとっても未だに解決のできていない問題であるように思われた。よく知られているように、この国家が形成されるにあたって中心としたのは、ユダヤ人だけの国家を地上のどこかに築きあげなければならないというシオニズムの理念である。そのためイスラエルは、ユダヤ人国家にして民主主義国家であるという、二重の枠組みを前提として樹立された。この二重の頸木はあるいは齟齬矛盾を来たしているのではないかという異議申し立てが、機会あるたびになされた。しかし、そのたびごとに体制側は問題の解決を回避し、ユダヤ人の定義不可能性に国民の目が向くことを嫌がってきた。信仰においても、人種においてもユダヤ人が定義できないとすれば、国民を形成する一方の枠組みが解体の危機に曝されてしまうからである。
 イスラエルの人口は、2004年の時点で678万人である。イスラエル当局筋によれば、そのうちユダヤ人が81%、アラブ人が19%であるとされている。これは5人に1人がアラブ人であるという計算である。日本における最大のエスニック集団である在日韓国人の占める割合が、人口の1%に満たないことを考えると、これがいかに大きな数字であるかがわかる。イスラエル政府が現在もっとも危惧しているのは、多産なアラブ人が近い将来に、少子化著しいユダヤ人よりも、人口において優位を占めてしまうかもしれないという事態である。民主主義国家を建前としているイスラエルにとって、それはユダヤ人優位の終焉にほかならず、いかなる手段を用いても回避しなければいけない状況だ。したがって国家としては、あらゆる手段を講じても国外からユダヤ人を招き寄せると同時に、アラブ人をこの国から他国に追放すべきという理屈になる。
 ソ連が解体して、アメリカに移住しそびれた100万近いロシア系ユダヤ人を、イスラエルがドイツ同様に躊躇することなく受け入れたのには、それなりの理由があった。後になって彼らの4割ほどが、祖父にも祖母にもユダヤ人をもたず、ユダヤ教とも縁のない便乗移民であることが判明した後でも、そのイスラエル居住が取り消されることはなかった。イスラエルの国道を車で走っていると、「ヨルダンはパレスチナ人の国。移動こそが平和と安全の一歩」という掲示がよく目に付いた。「移動」といえば聞こえがいいが、アラブ人を追放するために用いられる用語である。
 だが皮肉なことに、実際にイスラエルを離れていくのはユダヤ人である。2003年3月の移民省の調査では、第2次インティファーダの後、3年の間に20万人のユダヤ人がアメリカを中心とする国外に移住し、現在76万人が国外に居住している。これはユダヤ人口のおよそ14%に相当している。わたしが滞在していた時期に読んだ新聞でも、インドのダラムサラ近郊の村には、5万人近いイスラエル人の集落ができ、村中がヘブライ語の看板で埋められ、現地住民との軋轢が絶えないという記事が掲載されていた。イスラエルという国家が全世界にディアスポラ(離散)を行なったユダヤ人に帰還を呼びかけて成立したことを思い出してみると、現下に生じている現象は新たに、イスラエルからのディアスポラとでも呼ぶべきものかもしれない。この国がユダヤ人国家としての求心力を急速に喪失していることを、統計は如実に示している。

 

 ここでそもそもパレスチナの地にどうしてイスラエルという国家が成立し、どのように移民を迎え入れてきたか、その歴史的経過を簡単に説明しておきたい。おそらく読者のなかには、何をいまさらという感想をもたれる方もおられるだろうが、これを前提としておかないと話が進まない以上、我慢していただきたい。
 パレスチナは19世紀には、オットマン帝国(オスマン・トルコ)の巨大な領土の一部に過ぎなかった。支配者であるトルコ人の提督は、イスラム教徒からも、キリスト教徒やユダヤ教徒からも人頭税を徴収するだけで、彼らは宗教の違いとは無関係に、平和裡に生活を営んでいた。1831年にエジプトを支配するムハンマド・アリが、オットマンのスルタンを凌ぐ権勢のもとにパレスチナとシリアを領有したときに、パレスチナの近代化は開始された。アリの息子イブラヒム・パシャは農業改革と税制の集権化、道路と行政機構の整備を行い、ここでキリスト教徒とユダヤ教徒がはじめて政治的な代表者をもつことが許された。彼らの試みはやがてオットマン帝国の改革者に継承された。トルコ人は野心的な地方権力と台頭しつつあった西欧の帝国主義を牽制しながらも、近代化の要請に自分なりに応じようとした。クリミア戦争における敗北が帝国の凋落を決定的なものにすると、その間隙を縫って西欧列強がパレスチナに次々と領事館を構え、軍事的にも経済的にもこの地域を西欧的秩序のうちに取り込もうと企てた。スルタンはキリスト教徒の地位をより高めることを強いられるようになった。西欧との接触は、パレスチナにおけるナショナリズムの台頭をも意味していた。アメリカの宣教師による教育と欧米の領事館、銀行の到来は、近代そのものの導入であり、これらに喚起されたクリスチャンとムスリムのエリートの子弟から、未来のナショナリズムを担う者たちが輩出することになった。
 1882年に最初のシオニストがパレスチナに到着したことは、この西欧からの近代化の一連の動向のひとつとして考えられる。旧約聖書に登場するシオンの丘に基づいて名付けられたこの運動は、オーストリアのジャーナリストであったテオドール・ヘルツルが理論的に中心となって活発化した運動であり、西欧文明を代表するエリートのユダヤ人のみからなる国家を地上のどこかに建設することを意図していた。ヘルツルが著したSF小説『古くて新しい国』を読むと、彼が抱いていた理念がユダヤ主義の伝統というよりも、むしろプラトン以来綿々と続いている西欧のユートピア思想の延長上にあることが、ただちに理解できる。事実、運動の初期にあってシオニストが予定していたのは、英領ウガンダかアルゼンチン、もしくはブラジルのどこかに理想国家を樹立することであった。彼らはユダヤ教徒の退嬰的な映像を払拭し、従来のユダヤ人をめぐるステレオタイプから解放されるために懸命であったのである。紆余曲折の結果、シオニストはパレスチナに積極的な入植を行なうこととあいなった。もっともこの時点でヘルツルが考えていたのは、国民の一人ひとりが出自に応じて自由にヨーロッパの言語を話せるコスモポリタン的な環境であって、2,000年以上にわたって日常言語として用いられていなかったヘブライ語が、ユダヤ人の文化的伝統として人工的に再創造され、唯一の国語として機能するようになるのは、後のことである。
 従来シオニストは入植当初の状況について、自分たちが到来するまでのパレスチナは無人の荒地であり、彼らこそがそこに灌漑を施し、多大な労苦を払って豊かな国土を建設していったのだという神話的物語を準備し、国の内外に訴えてきた。またユダヤ人国家が成立した後に、難民と化したパレスチナ人の間からナショナリズムが生じてきたと説いてきた。この言説からは、19世紀の時点ですでにパレスチナにナショナリズムの萌芽があったという事実が、故意に隠蔽されている。今日の観点からするなら、シオニズムもパレスチナ・ナショナリズムも、ともに西欧の近代化の過程から派生した運動であり、両者を同時期に並行する現象として理解する視点が求められている。
 さて話をシオニズムに限定すると、オットマン帝国が第1次大戦の敗北によって解体したとき、パレスチナはイギリスの信託統治に委ねられた。イギリスのバルフォアはその直前に、近い将来においてユダヤ人国家の樹立を許すという宣言をし、入植者たちを喜ばせていた。だが一方でイギリスはアラブ人側にも独立を臭わせ、二枚舌を巧みに駆使しながら統治地の支配を続けた。1933年にナチスドイツが成立すると、西欧のユダヤ人の入植は一気に加速化した。2つの民族の間の闘争はしだいに熾烈さを帯び、第2次大戦が終了した時点で、イギリスはユダヤ人の移住に制限を加えなければならなかった。秘密組織による一連のテロ行為の後、シオニストは1948年についに念願のイスラエル国家の独立を宣言した。彼らはエルサレム近郊の村ヤシム・ナディームをはじめとする村々でアラブ人を虐殺し、追放した。噂が噂を呼び、パニックに陥ったアラブ人たちはわれ先に逃げ出そうとし、そこに組織的な追放計画が加わった。イスラエル領内に留まった者はわずかに70万人にすぎなかった。こうしてパレスチナ難民が生じることになる。新興国ヨルダンは難民たちに国籍を与えることに比較的寛大であったが、レバノンとシリアは彼らをどこまでも難民扱いし、滞在許可書しか与えなかった。
 シオニストによるこの突然の独立に際して周囲のアラブ諸国はただちに反発し、ここに第1次中東戦争の幕が切って落とされた。この戦争はイスラエル側の言説によれば、非力の小国イスラエルは多勢のアラブ諸国にむかって、あたかも旧約聖書に登場する巨人ゴリアテに向かい合ったダヴィデのように果敢な闘いを挑み、勇気と策略で勝利を収めたことになっている。だが実際には、それ以前に徹底的に軍事訓練を重ねていたイスラエルが、ヨルダンとの密約を交わした上で、アラブ諸国に奇襲攻撃をかけたという事実が、最近の歴史研究で明らかにされている。
 戦争に勝利し、独立を確保したものの、イスラエルには別の思いがけない試練が待ち構えていた……

(つづく)

 

イスラエル/パレスチナでは何が起きているのか?(1)

イスラエル/パレスチナでは何が起きているのか?(2)

イスラエル/パレスチナでは何が起きているのか?(4)

関連本

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著者

四方田 犬彦(よもた・いぬひこ)

1953年生まれ。あらゆるジャンルを横断する批評家。著書『映画史への招待』、『モロッコ流謫』、『日本のマラーノ文学』、『ルイス・ブニュエル』、『詩の約束』、『さらば、ベイルート』など。

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