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【福尾匠『非美学――ジル・ドゥルーズの言葉と物』「紀伊國屋じんぶん大賞2025」大賞受賞記念】 特別全文公開・『ひとごと』書きおろし「まえがき」

福尾匠『非美学――ジル・ドゥルーズの言葉と物』の「紀伊國屋じんぶん大賞2025」大賞受賞を記念して、著者の福尾さんの最新刊『ひとごと(2024年11月、小社刊)のために書きおろした「まえがき」を特別公開いたします。ジル・ドゥルーズという20世紀を代表する哲学者の思索のひとつひとつをあらためて検証しつつ、哲学と諸芸術(表現)とが触発される関係について論じて「じんぶん大賞」を受賞した『非美学』の執筆と重なる時期に、福尾さんがさまざまな媒体で発表してきた批評・エッセイをまとめた『ひとごと』には、『非美学』の読解につながるエッセンスがちりばめられています。この機会にぜひご一読ください。(編集部)

 

ひとごと
福尾匠 著

 

 

まえがき

 

他人と杖
 いつも仕事をする喫茶店でふと目を上げると、杖が自立している。
 四つ又になった脚で自立する杖が、老人のそばで次の出番を待っている。
 それは立っているのだが、眠っているようにも見える。
 自立する杖。とても哲学的なオブジェだ。自立する杖が教えてくれるのは、まず、先端が分かれていない普通の杖は自立しないということだ。ひとを支えるためのものが自立しないというのは考えてみれば不思議な感じがするし、杖にとって自立する/しないがどちらでもいいというのはもっと不思議だ。そして杖の自立があってもなくてもいいのなら人間の自立はなおさらじゃないかという気がしてくる。しかしいろんな事情のもとにある個々人の生き様はともかく、われわれが作るものは自立する杖でなければいけないと思う。手に取れば私を支え、歩けばついてきてくれるし、手を放せば自分で立っている。
 ひとを支えるためのものが自立しないのならば、支えることと寄りかかることはいかにして区別されるのか。自立する杖が問いであるとしたら、それはさしあたりこのような問いであるだろう。でもまだこれではどこか精確ではないような気もする。ブランクーシやジャコメッティという名前を頭から追い払う。この杖が問いであるとしたら、その問いは……
 ところでいま、「ひとごと」ほど難しい立場に追いやられている言葉もなかなかないだろう。何でも「自分ごと」として、他人の身になって考えること、そうした道徳は、いっさいの抵抗を受けることなく、われわれの日々の行動や発言を律している。
 そこにはたんに「政治的正しさ」や「同調圧力」と言っただけでは捉えられないものがある。というのも、他人の身になって自分ごととして考えるべしというのは、せいぜいある種のもののたとえであり、原理的にそのようなことは不可能なのだという真理を不道徳なものとみなすための迂回路のようなものだからだ。真理を不道徳なものとして遠ざけること、道徳とはそれ自体、そうした暴力の集積ではないだろうか。それが暴力であるのは、「自分ごととして考えるべし」という命法を文字通りに受け取った者が馬鹿を見るシステムだからだ。
 ここに、善人と悪人と馬鹿者がいると考えよう。そして私は馬鹿者に賭け金を置こうとしている。
 善人は何でも自分ごととして考えるべきだと語り、その実それが内発的な言葉というより誰かに言われたことを繰り返しているだけだと心のどこかで知っており、その道徳を完遂できないことに罪悪感を覚えている。
 悪人はそんな理想が不可能であることを知っており、理想に背を向ける正当な理由としての真理をおのれの護符にしている。そしてその真理は往々にしてきわめて幼稚な目的で持ち出される。他人の身になることなどできないのだから自分のことだけ考えていれば「よい」のだと。悪人はたんに道徳的な「よさ」を免除されたいだけであり、真理はその口実でしかないのだ。その意味で悪人も善人と同じく罪悪感に隷属している。
 馬鹿者だけが、他人の身になるべしということを真に受けている。馬鹿者は善人にも悪人にも煙たがられる。両者にとって道徳/真理はたんなるもののたとえあるいは口実であり、そうした言葉と「現実」との距離から利益を得ているからだ。
 世の中に、あるいは個々人の心のなかに善人と悪人しかいなければ、ひとごとの余地はなく、道徳と真理の綱引きのなかで自分ごとだけが空転する。それは支えることと寄りかかることが区別できなくなるほどに人びとが互いにしなだれかかり合いつつ罵倒し合っているような共依存的な世界だ。しかしわれわれの心のなかには善人と悪人だけでなく馬鹿者がいる。
 馬鹿者とはここで、第一に、何でも真に受ける者のことだ。したがって彼には「自分」というものがなく、その主体的な一貫性のなさが善人/悪人を苛立たせる。第二に、われわれが馬鹿者になるのは、何かに「目を奪われる」瞬間である。私が自立する杖に目を奪われたように。そのような瞬間はわれわれの生活に不意に吹き込んでくる。
 善人と悪人をまとめて「自分」と呼ぶことにしよう。もう少し硬い言葉で「主体」と言っても同じことだ。われわれはずっと自分=主体であるわけでもないし、ずっと馬鹿者であるわけでもない。人間のあらゆる感情はそのふたつの状態の行き来によって生まれるとさえ言えるかもしれない。何かに目を奪われて自分が自分でなくなってしまうのは放心あるいは陶酔であり、それを抑えつけようとする気持ちが羞恥心であり、抑えが利かないときに罪悪感が生まれ、我に返った(ふたたび自分になった)ときに寂しさを感じ、自分が自分であるときに誰かが我を忘れて(自分じゃなくなって)いるのを見ると嫌悪感や義憤が湧き上がり、我を忘れさせてくれたものを喪失すると悲しみが……というように(これに似たことが、スピノザ『エチカ』で種々の感情の発生を幾何学的に説明する議論でなされている)。
 「ひとごと」とは、あたうかぎり慎重な曖昧さで定義しておくと、ある他者が私を主体でなくしてしまい、ふたたび我に返ったときに私がその他者に感じる、醒めた感じ、である。そこで立っている杖、から、眼を逸らすことができるのは、杖が放っておいても立っているからであり、同時に、私もまたどこかしらそうであるからだろう。
 道徳も真理も腐りきっているとしたら、いったいひとは何を拠り所にして生きていけばよいのか。そんなものはない。しかしそれはたんに人生の厳しさであるだけでなく、楽しさや喜び、あるいは優しさの条件であるだろう。雑多な文章が収められたこの本に通底するのは、「ひとごと」との距離のうちにある、そのようなポジティブな条件の探究である。
 私が自分であったり自分でなくなったりすることを可能にしてくれる他者。主体としての私は誰かに対してそのような他者であることはないかもしれないが、私が知らないあいだに私から剝がれる何かは、誰かにとっての自立する杖かもしれない。

 

なぜ空間は語られないのか
 言い換えよう。
 二〇二〇年の春から本格化した新型コロナウイルスの流行を受けて掲げられた「三密の回避」というスローガンの「三密」が、密閉・密集・密接を意味していたことをどれくらいのひとが憶えているだろうか。通常この施策(というか、「お願い」あるいは「要請」)は、それを肯定するか批判するかの立場を問わず、テレワークの推進や飲食店でのサービスの機械化といった事例を背景に、人間的なコミュニケーションの衰退/コミュニケーションコストの削減という文脈で捉えられてきた。つまり、「三密の回避」はコミュニケーションの純化であるということだ。
 ここから逆説的な事態が帰結する。「三密の回避」は表面的には、社会的な交流を平時に比べて抑制する動きに見える。しかしそれは実際には、コミュニケーションとみなされるもの以外を社会から排除することであり、〈密〉の回避というよりむしろ特定の〈密〉の形態の促進である。このように見れば一方で居酒屋やクラブが自粛を迫られ、他方で「GoToトラベル」で旅行が推奨されるということになんら矛盾はないということがわかる。こうした傾向はコロナ禍に始まったわけではなく、それ以前から存在したものであり、ウイルスはあくまでそれを強力に加速させるきっかけであった。
 たとえば、対面でひとと喋るということは、お互いの考えの交換という意味でのコミュニケーションには収まらない無数の要素に晒されるということである(何気ない身ぶり、表情の変化、途切れがちなセンテンス、周囲の物音、話半分に聴きながら打つ相づち、煙草や汗の匂い……)。それに対して、たとえばZOOMを介したミーティングにおいては、コミュニケーションに資するとみなされるものだけがフィルターを通過するようになっている。「三密の回避」とは、何がコミュニケーションであるかということを選別し、その特定の形態をより〈密〉にすることなのだ。そうして失われるのは〈疎〉であり、つまり、空間である。
 〈密〉とは、そこに空間があることの否認であり、それはそのまま「インターフェイス」というものの定義でもある。それはiPhoneとノイズキャンセリングイヤホンによって眼と耳を占領され、指でタイムラインをたぐり寄せ、「スマホ首」をこわばらせているわれわれにとって、なんら意外な定義ではないだろう。インターフェイスはわれわれをコミュニケーションしかできない〈密〉へと幽閉する。SNSにおける言論の過激化はその典型的な帰結である。
 〈疎〉とは、そこに空間が存在することの事実性である。われわれがいかに眼と指の閉鎖回路へと縮こまっていっても、空間はつねにひとつのチャンスとしてわれわれを待っている。ふと目を上げると自立する杖がある、そんなふうに。
 〈疎〉を語ること、あるいは、疎(まば)らに語ること、本書に収められた文章はそれぞれにおいて、そしてそれぞれの関係において、このふたつのことを実演することを試みている。
 現代の〈密〉の形態がインターフェイスによって準備されており、言論がそこに否も応もなく巻き込まれてしまっているとするなら、〈疎〉の恢復は作品との出会い、そしてそれを語ることにおいてなされる。作品ではなく作品が置かれる場(インターフェイス)の政治性が語られ、その制度批判的な態度が極大の政治的主張(反戦、表現の自由、アイデンティティ・ポリティクス、(アンチ)ポリコレ……)と循環的に強化し合い、そのあいだに当の作品はないがしろにされる。このような事態は、現代美術でもアニメでも音楽でも、批判の主体/対象のどちらが右派でどちらが左派であっても、われわれの時代の文化の日常的な風景である。
 とはいえ私は、「作品の価値と作者の人格・行動・政治的立場は分けて考えよう」というようなことを言いたいのではない。作品とはそこに客観的な属性としての価値を貼り付けられるようなものでなく、それはそれで歴史や市場というインターフェイスが生み出す幻影である。本書に収められた批評にはいわゆる「大作家」を扱った文章はひとつもない(かろうじてアラン・ロブ゠グリエがそこに引っかかるかもしれない)が、それは作品の経験が霧消する現代にあって、大文字の〈芸術〉の大文字の〈歴史〉から有無を言わせず作品であるようなものを持ち出したところで、そこに批判的な価値が宿ることはないと考えているからだ。
 批評と言わずエッセイと言わず、本書の文章が書くことを試みているのは、作品未満のものに取り囲まれることの「貧しさ」のただなかにあって、何かが〈作品として現れてくる〉その瞬間を捕まえることである。批評とは、仮にそれがすでに作品として社会で了解されているものであっても、自分が出会ったものを新たなしかたで〈作品にする〉行為である。

 

エッセイ/クリティック、あるいは内面なきプライバシー
 もういちど言い換えよう。
 本書には、私が二〇一七年以降に書いてきた批評とエッセイ(と、インタビューがひとつ)収められている。
 副題の「クリティカル・エッセイズ」はそのまま漢語に移し替えれば「批評的随筆集」ということになるだろうが、この副題はロラン・バルトのEssais critiques(英語でCritical Essays)から借用している。この本の邦訳版はふたつあり、古いほうは『エッセ・クリティック』(晶文社)というカタカナ訳、新しいほうは『批評をめぐる試み』(みすず書房)という意訳をタイトルにしている。いずれもどこか収まりが悪い感じがするが、それはessaiもcritiqueも多義的な語であることによるだろう。このタイトルには批評的=批判的=臨界的/エッセイ=試論集という意味の広がりがある。
 そして、より興味深いのは、フランス語においてはcritiqueは形容詞であると同時に「批評・批判」という名詞でもあるので、そこには「エッセイ/批評」とふたつのジャンルを並置する響きもあるだろうということだ。私が副題に取り入れたいと思ったのはどちらかというとこの並置のニュアンスである。まわりくどい説明になったが、端的に言うと、この副題には、エッセイでないものは批評ではなく、批評でないものはエッセイではないという私のひとつの信念を込めている。
 逆に、エッセイはエッセイでしかなく、批評は批評でしかないという分割がどのような前提に寄りかかっているかと考えると、それはエッセイは私的なことを書き批評は公的なことを書くという前提である。
 二〇世紀の日本において、批評の雛形は文芸批評であり、とりわけ「私小説」と呼ばれるジャンルの文学作品の批評であった。それは公的空間と私的空間を分極しつつ、私的な言葉を公的な言葉に翻訳することが、日本が取り憑かれた急ごしらえの近代化において大きな社会的価値を担っていたからだろう。したがってエッセイと批評の相互前提的な含み合いを実践することは、大きく言えば、私小説と文芸批評の分業が担っていたものをひとりの書き物のなかで混ぜ合わせながら変形させることであるだろう。
 この場合、何をどのように「変形」させるのか。かつて柄谷行人が『日本近代文学の起源』で喝破したように、近代文学のシステムにおいて「私」の発見は「内面」の発見としてなされた。それに対して、本書の文章は、私秘性(プライバシー)を内面性から切り離して捉えなおすことを試みている。内面なきプライバシー。それはとりわけコロナ禍以降の、家であれどこであれ、実空間上であれウェブ上であれどこかに「いる」ことがすでに社会的管理の対象であると同時に素材であるような現代における、唯一の抵抗のチャンスである。
 何かを言うことが通販サイトの商品ページに足跡を残すことと大差なくなってしまった世界で、それでも書くことの意味は、そのようにしてしか立ち上げなおすことはできない。内面なきプライバシーとは、〈私〉が〈私〉で「ある」ことに宿るのではなく、むしろ〈私〉が必ずしもつねに主体ではないこと、つまり、〈私〉であってもなくてもよく、いてもいなくてもいいということに宿る。

 

スモーキング・エリア
 本書には、私が二〇一七年以降に書いてきた批評とエッセイ(と、インタビューがひとつ)収められている。三〇篇ほどの文章を並べるにあたって、発表順にするというのがいちばん無難ではあるが、そうすると同じような毛色の文章が続くことになってしまう。批評、エッセイ、書評、インタビューというふうにジャンル分けしてもつまらないし、テーマで分けるにしても、たとえばここまで述べてきたような他人、作品、空間、私(秘)性、言葉といったテーマは、それぞれの文章のなかで複数にまたがっており、かっちりした分類はできない。
 結果として、まず「スモーキング・エリア」という全五回の連載エッセイをチャプターの区切りとして採用し、それぞれの回となんとなく(あくまでなんとなく)の内容の共通性がある文章を章のうちに配分するというかたちを採ることとした。それは、文字通り「喫煙所」としてひと呼吸おく区切りを作るためでもあり、エッセイと批評の切り離せなさが伝わりやすくするためであり、そして、「スモーキング・エリア」の各回の推移に現れている雰囲気の変遷には、私という人間の性向が表れているように思われるからだ。
 したがって本書は基本的には頭から順に読んでいただくことを想定しているが、「スモーキング・エリア」だけ拾い読みしてどこから読むか決めても、あるいはたんに気になったものから読んでもいい。巻末の「初出一覧・解題」では初出時の書誌情報を発表順に並べたうえで各記事の概要と背景を記しているので、そちらを参考に時系列順に読んでいただくこともできる。
 それぞれの文章にはどれも初出時の媒体があり、編集者をはじめとする方々のおかげで書かれたものである。自分が依頼をもらって文章を書くようになるなんて、本書でもっとも古い、二〇一七年に『アーギュメンツ#2』という批評誌に寄稿した「映像を歩かせる」を書くまで思いもしなかった。依頼があり、納品し、今回もいい仕事ができたとひとりで悦に入ることは、それがなければ私は自分がいったい何をしているのかわからなくなってしまうだろうというくらい実体のない「書く」ということに、自分がやっているのは仕事なのだという輪郭を(かろうじてではあるが)与えてくれた。本書への掲載を快諾してくださったこととともに、各記事の関係者の方々に深く感謝いたします。

 

『非美学』と『ひとごと』
 最後に、本書が出る五か月ほど前に同じ河出書房新社から刊行され、本山ゆかりの同じ作品を異なるレイアウトで装画として用いている『非美学―ジル・ドゥルーズの言葉と物』と本書の関係について簡単に書いておく。
 『非美学』はドゥルーズを扱ったかなりハードな哲学書で、本書『ひとごと』は批評・エッセイ集である。そうすると当然、前者が「理論編」で後者が「応用編」なのだろうということになるが、そうではない。では二冊はどのような関係にあるのか。
 まずごく簡単に『非美学』について振り返っておくと、この本で私が試みたのは、哲学にとっての芸術との関係を〈仕事の自律性〉と〈触発の自由〉の相互前提性という側面から考えることだった。他者からの触発に報いるためには自らの自律的な仕事で応えねばならず、そのような仕事がなされなければ、自分が他者から受け取ったものは保存されず、したがって触発は存在しなかったも同じことになる。だとすると、哲学にとっての他者である芸術から触発されること、そしてその触発が哲学に固有の仕事としての「概念の創造」に跳ね返ることの、それぞれの内実はどのようなものであるのか。それが私がドゥルーズのテクストを通して『非美学』で考えたことだ。
 これはもっとスケールを拡大して言えば、倫理と創造の関係を相互前提的なものとして考えるということである。倫理なくして創造はなく、創造なくして倫理はない。これはかなり思い切った主張だろう。なぜなら誰かを大切にするということはたんにそのひとを大切にすることではなく、そのひとから受け取ったものをもとに何か作らないとそのひとを大切にしたことにはならない、と言っているのだから。
 しかし私は、なにも誰もがアーティストになるべきだとか、誰しも哲学書を読み込んで自分なりの概念を作らないとダメだと言っているわけではない。というのも、倫理と創造の相互前提的な関係は、いわゆる「芸術」やいわゆる「哲学」の外で、日々そこらじゅうで実践されていることだとも思うからだ。たとえばあなたが誰かに優しくできるのは、あなたが他の誰かに優しくしてもらったことがあるからであると同時に、それは同じ状況で同じ行為を反復しているわけではないだろう。その意味で触発と自律、あるいは倫理と創造ということで私が言おうとしているのは、まさしくドゥルーズの「差異と反復」の私なりの言い換えである。そして『ひとごと』を通して、一見ひどく高踏的な『非美学』のテーゼの身近さは、より実感しやすくなるのではないかと思う。
 『非美学』は、〈疎〉をめぐる考察で締めくくられた。『ひとごと』はそこから始まる。しかし『非美学』は、『ひとごと』に収録されている様々な機会に書かれた文章を通して考えられたことなしには書かれなかった。その意味で『ひとごと』が終わったところから『非美学』が始まるとも言える。実際二〇一七年以降の七年間は、そのまま『非美学』の執筆時期に相当する(そのうち前半四年間は博士論文の構想・執筆、後半三年間はその書籍版への改稿をおこなった)。言わばこの二冊は互いが互いの素材であり、そのあいだにはたくさんの意想外のつながりがある。それを見つける楽しみは手つかずにしておきたいが、ひとつだけ例を挙げると、五月女哲平の絵画を「非意識」という造語を用いて評したときには、同じ言葉をドゥルーズ論で使うことなど思いもよらなかった。
 したがって二冊はどちらから読み始めてもよい。それぞれ独立した著作なので片方だけ読むのももちろんいいが、どちらも読めば、たとえば『非美学』の硬さが『ひとごと』のエッセイの延長としてほぐされ、反対に、エッセイのちょっとした観察の概念的な広がりが見えてくるだろう。まあ、そのときどきの気分で読んでもらえれば大丈夫だ。『ひとごと』も『非美学』も、目を離しても自立するように作ってあるから。

 

 

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続きは単行本
ひとごと』で
お楽しみください
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著者

福尾 匠(ふくお・たくみ)

1992年生まれ。哲学者、批評家。博士(学術)。著書に『非美学』、『眼がスクリーンになるとき』、『日記〈私家版〉』、共訳書にアンヌ・ソヴァニャルグ『ドゥルーズと芸術』がある。

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