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【祝!第2回永井荷風文学賞受賞】イ・ラン『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』より「母と娘たちの狂女の歴史」を無料公開!
2026.09.15

イ・ラン 著
斎藤 真理子/浜辺 ふう 訳
第2回永井荷風文学賞受賞を記念して、イ・ラン『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』(斎藤真理子、浜辺ふう訳)から、「母と娘たちの狂女の歴史」を無料公開します。
本エッセイは、「文藝2022年春季号」掲載時に大きな反響を呼び、本書執筆のきっかけとなった、イ・ランさんの家族史をめぐる文章です。また、後日、本書韓国語版にのみ収録された、著者の母による約2万字におよぶエッセイ「イ・ランの母キム・ギョンヒョンの物語」の日本初公開を予定しています。
合わせてぜひお読みください。
***
母と娘たちの狂女の歴史
イ・ラン
斎藤真理子訳
お母さんは私を、自分の感情を捨てるゴミ箱のように扱う。
多くの場合は、お父さんのことで腹が立ったり悔しかったりしたときに私に電話してきて、際限なく愚痴をこぼすという方法でだ。家族旅行(私を除く)に行ったり、何かプレゼントをもらったりと、楽しいことや嬉しいことがあったときには絶対に連絡してこない。いつだったか、私の返事も聞かずにずーっと愚痴をこぼすお母さんに「自分の友達にするように私に接してほしい」と言ったことがある。こんなふうに一方的に、自分の感情を捨てるゴミ箱扱いする関係はとても良くないし、相手に対してすごく礼儀に欠けることだと。お母さんは、こんなふうに私が「ちゃんと聞いてくれ」ず、つらそうにしたりいらいらしたりすると、急に方向転換して「自己嫌悪+父嫌悪」にテーマを切り替える。まるで、そうやったら私の聞きたい話になるみたいに。
「だよね、だよね、あんたが辛くて死にたくなるのも無理ないよ。お母さんは狂ってて、お父さんはサイテーで、おばあちゃんは二人とも精神病患者だし、親戚はみんな詐欺師なんだから」
私とお姉ちゃん、そして弟。私たち三人は前から、「李氏一家は自分たちの代で断ち切ろう」と決意していた。子供を作らないという意味だ。私たちは、両親と祖父母と親戚たちが殴り合い、つかみ合うという地獄みたいな暴力的状況にずーっとさらされて育った家庭内暴力の被害者であり、サバイバーだ。お姉ちゃんは、私が家族だから愛しているのではなく、サバイバーの同志として愛しているんだそうだ。そんな私たちにもさらなる被害サバイバーを生み出す可能性が完全にないわけではないので、絶対に再生産(出産)をせず、地獄のような李氏一家の根を絶ってしまうつもりだ。だけど、こんな地獄みたいな家庭でお母さんはいったいなぜ三人も子供を産んだんだろう。私はそんな疑問を何度も反芻してきたが、この文章を書くにあたってお母さんに話を聞いてみることにした。
私は最近(二〇二一年)子宮頸がんの診断を受け、最初の手術を終えたところだ。約二週間後、術後の経過を見て再手術を受ける可能性もある。手術を受けると将来的に出産が難しくなる、と説明する産婦人科医に対して、「再生産の計画はありません。永遠に——」と私はきっぱり言い切った。手術直前にも看護師や医師たちから何度も妊娠/出産計画について聞かれたが、私はそのたびに同じことを言い、「永遠に」を強調した。手術を控えて私はお母さんに電話し、子宮頸がんの診断というニュースと手術の計画、そして手術後は出産が困難になることを伝え、延ばし延ばしにしてきたあの質問を投げかけた。
「お母さんはどうして子供を産んだの。しかも何で三人も産んだの」
「二十代で子供を産む母親に何の考えがあるっていうの。何も考えてないから産んだんでしょ」
お母さんは三度にもわたる自分自身の再生産の経験を、「何も考えてない二十代の母親たち」の問題としてあっさり片づけてしまった。ほんとにひどい回答だった。
電話で私の手術のことを聞いたお母さんは、がんは病院じゃなく代替医療で治せると言って YouTube の動画のリンクを毎日送ってきて、何日か後、さまざまな代替医療器具の大荷物をぶらさげて私の家に押しかけてきた。その日お母さんが持ってきたもののうち最大のヒット商品は、日本の「三井温熱器」をコピーした韓国産の温熱器だった。お母さんが口がすり切れるぐらい何度も言っていた情報によれば、「三井温熱器」は約三十年前、日本の「三井兎女子」という人が発明したもので、これまでに日本で何万人ものがん患者を治療したそうだ。取っ手つきの小さなアイロンみたいな「三井温熱器」をインターネットで検索してみたら、二百万ウォン以上もする高価なものだった。お母さんが持ってきた韓国産コピー製品はその五分の一ほどの安値で販売されている。それさえも、知り合いからもうちょっと安く買えるから必要なら代わりに買ってあげるとお母さんは言い、私を裸にしてリビングの床に寝かせ、その上に薄い布をかぶせて、六十度まで熱くなる取っ手つきアイロンで私の体に熱心にアイロンをかけはじめた(熱すぎるので、途中で五十五度にすることで合意した)。
お母さんが持ってきた代替医療器具をすべて試してみる何時間かの間に、前にも短く答えてもらった「何で子供を産んだのか」問題をさらに掘り下げて聞いてみることにした。私はレコーダーをオンにして、お母さんへの質問を開始した。
ラン お母さんは何で(最初の)子供を産んだの?
母 できたから産んだのよ。そのころ、私のお兄さんたちのとこでも子供が生まれたし、お父さんのお兄さんのところでも生まれたから私も産んだんだ。
一九六〇年生まれの金卿衡は一九八三年一月、一九五六年生まれの李石と結婚し、一九八三年十一月に初めての出産で娘の李瑟を産んだ。その後一度妊娠中絶の手術を受けたが、韓国では男児選好思想がはびこっているので、理由はわからないが男の子だという確信があった三回めの妊娠は継続することにした。そして一九八六年一月に妊娠九か月で娘の李瀧を早産した。息子だと思っていたのに娘だった私を産んだときから一九八八年七月に最後の出産をするまでの間に、お母さんは宗教に出会うことになった。四回めに妊娠したときは、中絶手術を勧めるお父さんに背き、中絶を禁じる聖書の言葉に従って、身体/視覚障害を持つ末っ子の息子、李浣を出産した。
ラン 子供を産んだとき、どうだった? 「私の人生はどうなるの」とか、そんなことは考えなかった?
母 産んだときは嬉しかったし、責任感みたいなのもあったよね。「私の人生はどうなるの」なんて思ったことはないな。あんたみたいに、女性の人権だとか何だとか言うような人たちがそんなこと考えるのよ。私は後悔なんかしなかった。
ラン そのときお母さん、大学に通ってたでしょ。何年生だった?
母 徳成女子大に三年生まで通ったよ。卒業はしなかった。結婚して休学して、休学してから妊娠して、「もっと勉強したい」とは思わなかったね。子供ができたんだから子供を育てないと。子供を育ててる人がどうやって大学に行くのよ。お父さんは……そうだね、ずっと大学、行ってたね。
お母さんは子供を育てたくて産んだのだろうか。それとも本当に、「ただ」産んだのだろうか。単にできたから産んだだけ、産んだから育てなきゃいけなかっただけなのか。私はいつも、「子供を育てたい」という人たちにはすごく共感を覚える。保護や援助を必要とする存在を責任を持って世話する行為は、人間が他の人間/非人間にしてあげられる最も利他的な行動の一つだと思う。でも私が本当に理解できないのは、「自分の遺伝子で子供を作りたい/産みたい」という欲望だ。いったい何で自分の遺伝子をこの世に残したいのかなあ。自分と他人の遺伝子を混ぜて新しい人間を作ろうとするその欲望がいったい何なのかわからない。キムチ鍋を作るわけでもあるまいし。
ラン じゃあ、三人の子供の名前をつけるとき、お母さんの意見はどれくらい入ってた?
母 お父さんが「この候補の中から選びなさい」っていろいろ出してきて、私が選ぶ程度? どんな候補があったか思い出せない。イスルは当時流行ってたハングルの名前〔「イスル」は韓国語で「露」という意味〕に、音に合う漢字をつけたんだし、ランのときは私が胎夢〔母親の胎内に胎児がいるときに周囲の誰かが見た夢によって子供の将来を占う〕に龍の夢を見たんだけど、予定日の一か月前に早産したでしょ。それで、龍に水が足りなかったんだと思って「瀧」にしたんだよ。ワンは生まれたら障害があったし、病気だったでしょ。だから、病気をすっかり洗い流すという意味で「浣」という名前をつけたのね。ワンが生まれるまで、障害があることは知らなかった。当時は医者がそういうことを前もって教えてくれなかったからね。話したら、産むかどうかで悩むでしょ……だから私は心の準備もないままで病気の子の親になったんだよ。でもそのときは宗教があったから、「もうおしまいだ」なんていう打算的な考え方にはならなかった。
お母さんキム・ギョンヒョンとお父さんイ・ソクは、何の計画もなく、避妊せずに性関係を結び、お姉ちゃんと私と弟を産んだ。そして私たち三人は両親の感情のゴミ箱として育った。事件や事故だらけで暴力的な家庭に早くからうんざりしていた私は、高校を自主退学した後、大学入学資格検定試験を受けて家を出たが、お姉ちゃんと弟は独立せず、ずっと両親と一緒に暮らしていた。お姉ちゃんは二十歳のころからいろいろな精神科の薬を持ち歩いていた。何度かの自殺未遂を含め、パニック障害や躁うつ病、うつ病、不眠症を二十年近く経験しながらも、奨学金をもらって教育大学を卒業した。障害のある子供を教える特別支援教師として十年働いているが、早退や病欠が多いため、勤務校の教頭に嫌われ、嫌がらせを受けている。でも、教育庁の功労賞や感謝牌を毎年もらい、特別支援教育の教師として認められている。 弟は身体障害と視覚障害を持って生まれ、一歳になるまでギプスをつけて暮らしていた。一歳を過ぎて内反足の手術を受け、その一年後初めて自分の足で歩くことができ、家で大きなお祝いの行事をやったことをぼんやり覚えている。
子供を持とうとしている、あるいはすでに持った大勢の人々が、この世に生まれた子供らが幸せに生きられるようにやっていることって、何だろう。
ラン どうして宗教を持つことになったの?
母 私はいつも、ものごとの意味や象徴がとても大事だと思っていたの。だから本をたくさん読んだし、本がすごく好きだったんだよね。私は子供のころからずっと母方のおじいさんの家に住んでいたでしょ。うちのおじいさんはお金持ちだし勢力もあって、近所で一番の家だったんだよ。子供の私が見てもおじいさんはすごくかっこよかったね。でもおじいさんには男の子が第一っていう思想があって、女の人を人間扱いしなかったから……だから私はおじいさんにどうしても認められたかったし、自分のお父さんのことはかわいそうに思ってた。お父さんは物静かで芸術家タイプの人だったけど、おじいさんが強すぎて、お父さんの内向的で壊れやすい部分をすっかり壊しちゃったんだね。そんなお父さんがかわいそうで、お父さんの言うことに逆らえなかった部分もある。
そして私のお母さんは情がなかったんだ。母性的じゃなくて、冷たかったのね。せめてお母さんだけでも私をしっかり抱きしめていてくれたら安心できたのに、お母さんも私を突き放す人だったの。だから私は寂しかったし、それと、うちの二人の男(おじいさんとお父さん)を見ていたから、心の中に「本当にいい父親像を探したい」という渇望があったんだね。包容力があって能力も高いお父さんへの欲求ね。キリスト教に入る前は孔子が好きだった。孔子を自分の師匠だと思って、一生けんめい論語の勉強をしてた。そうやって孔子の門下生みたいに暮らしてたんだけど、ある人に会って、その人が私に聖書を教えてくれると言ったの。
ラン どんな人?
母 「ジャインのお母さん」って呼ばれてた人で、団地のすぐ前の棟に住んでた女性でね、私が理想的だなと思うような人だったの。すごく頭が良くて、何でこんなに話も上手で賢い女性がいるんだろうって思うほど。かっこいい男の人のことは本でたくさん読んだけど、すごく賢い現実の女の人を見て、親しくなりたいと思ったんだ。その人は私が持っていないものをたくさん持ってたのね。それで、その人に教わって聖書の勉強をすることになったの。ジャインのお母さんの次は、「ジホのおばさん」(甥の名前が「ジホ」だった未婚の女性)に会って聖書の勉強を続けて、そんなふうに賢い女性たちに会っていったのね。でも、自分も賢くなりたい……っていうよりは、私が求めていた父親像を聖書の中に見出せたから聖書の勉強を続けたんだと思う。
宗教生活に入る前も、聖書は持ってた。私は聖書の中で「箴言」が好きだったんだけど、聖書の勉強をしていくうちに、箴言以外のところも読んで神様の存在を理解するようになって、目が開かれたの。それまで私は孔子が最高の師だと思っていたけど、神様は孔子とは比較にならなかった。だって孔子はもう死んでいるけど、神様は今も生きている上に創造主でしょ。能力面でも他のいろんな面でも天と地の差で、比較にならないんだよ。
ラン お母さんってちょっと能力主義があるみたい。だから神様にも惹かれたし、うちのお父さんにも惹かれたんじゃない?
母 お父さんはねえ……能力がありそうだったし、芸術的な面もあって、私が好きなおじいさん像とお父さんの像を兼ね備えてるみたいだったんだけど……私に見る目がなかったんだよ。見かけだけだったんだね。お父さんはもともと、私のお兄さんの友達だったの。私が小さいころからお兄さんはいつも友達と一緒に行動していてね。お兄さんの友達の中に、お父さんと軍隊の同期だった人がいて、それでお父さんもお兄さんの仲間に入ったんだ。玉水洞の家に住んでたころ、お兄さんはいつも良い部屋を使ってたし何でも持ってたのね。それにまあ、私も金持ちの娘でしょ。お父さんの立場からしたら、「やった!」っていうようなもんだったんだろうね。そうだ、身分上昇のチャンスだ! って。お父さんには野心みたいなのがあったんだよ。お父さんは貧乏で大学の授業料も払えないぐらいだったけど、私の家が勉強を続けられるようにサポートしてあげたんだから。
ラン 何で貧乏な人と結婚するのかって家族に言われなかった?
母 当時、私はうつ病だったの。二十代初めにうつ病がひどくなって、そのときはもう生きていたくないって思ってたんだよ。家でいちばん力があって怖いおじいさんは男児選好思想だし、お父さんは気が弱くて、お母さんは冷たくて、お兄さんは男の子だから一人で王子様扱いされてて。私は女の子だから何の恩恵も受けられないし、ほめてももらえないし、一人で空回りしてたんだよねえ。
だって小さいころ、うちには毎日牛乳配達が来てたけど、私は一度も飲んだことないのよ。台所で牛乳を温めているのを毎日見てて、私はそれをおじいさんが飲むのかなと思ってたけど、お兄さんが飲むものだったんだよね。あの家じゃ私は、牛乳も飲めない人だったんだ。
大学に通ったって人生の意味なんか見つけられなかったしねえ。それで精神科に行ったんだよ。住んでたのが金持ちの多い地域だったから、精神科があることはあったのね。ところがそこ行ったら、お母さんを連れていらっしゃいって言われちゃって。当時は精神科もあまり発達していなかったから、私はもう大学生なのにお母さんを連れてこいって言うの。それで結局、お母さんが精神科までついてきたんだけど、どうやって娘を助けたらいいのかもわからなくて、その状況にあわてちゃったみたい。それなのに、帰ってきてから家の人たちにすごく言いふらしたんだよ。「あの子のせいで私が精神科にまで行かされた」って。そうやって私をすっかり狂った女に仕立て上げちゃってさ。私はもう顔に泥塗られて、それ以上治療も受けられなくて……お母さんにはすっかり裏切られたと思った。その後は大学の図書館に住んでたみたいなもんよ、どうにかして一人でやっていこうと思って。
ラン そのことと結婚がどうつながるの?
母 一人で図書館で本を読んだり、障害者福祉会館に通ってボランティアをやったりしてたんだけど、私の知らない間にお兄さんが、「僕の妹は狂ってるから、君がちょっと助けてやってくれないか」って友達の一人に頼んだわけ。それがあんたのお父さんよ。「君なら妹を理解できると思うから、うまくやってみろよ」って、そうやってお兄さんが私を売り飛ばしたんだ。お父さんには身分上昇っていう欲望があったから、金持ちの娘とつきあう機会ができたっていうんで、すぐに引き受けたんでしょ。私はそんなこととは知らなくて、結婚してからお父さんに言われたの。「君が問題児だったから、お兄さんが僕に君のことを頼んだんだよ」って。まるで私のこと救済したみたいに言うんだから、もうサイテー。自分はすごい使命感を持ってこの結婚をしたってことよね。しょうもない使命感だけどね。私は自然な出会いだと思ってたのに、狂った女扱いされて売られたんだ。
最悪の結婚秘話というしかない。
最近私が夢中になっている、女性のうつ病について考察した本『このクソみたいな社会で“イカれる”賢い女たち——理解されない苦しみ、女性のうつ病』(ハ・ミナ著、ワタリドリ訳、明石書店)の第一部第一章、「大げさ」の中の「『狂った女』の歴史」を見ると、かつてヒステリー(hysteria)と呼ばれた疾患のことが詳しく書いてある。医師、知識人、聖職者など男性たちが築き上げた秩序の中で、ヒステリー患者は非常にやっかいな、恐ろしい存在だったらしい。アメリカの科学史学者マーク・ミカーリはヒステリーを、「男性が女性の中に認める神秘的な、統制できないものの総体に対するドラマティックな医学的メタファー」と表現した。この本の中の、「ヒステリー患者は野望に満ちた知識人男性にとって未知の分析対象だった」という部分を読んだとき、すぐにお母さんのことを考えた。自分の家で狂った女に仕立て上げられて、まともな治療を受けるどころか、身分上昇という欲望を持った貧しい男性と兄との間で、「救済結婚」として取引きされたお母さん。
子供時代の記憶にあるお母さんはいつも憂鬱そうで、しょっちゅう泣き、大声を出し、神経を逆立て、横になって寝ていた。そんなお母さんが子供たちにやったしつけは、しつけというには時間が長すぎ、私はその間じゅうひどい精神的/身体的苦痛を感じていた。だからそんなときには頭の中でお話を作ったりピアノを弾いたり、歌を歌ったりして耐えた。でも、幼い私に最大の愛をくれた人も苦痛を与えた人もやっぱりお母さんで、家に寄りつきもしないばかりか公然と浮気をし、たまに家に帰ってくれば怒鳴ったりものを壊したりするお父さんは、単なる怪物にすぎなかった。
ある日お母さんは、大声で叫ぶと「火病」〔「鬱火病」ともいう。抑圧された怒りによって起こるストレス障害のような病気〕が治るという話をどこかで聞いてきて、それから毎日山に行くようになった。家を出てバスに乗って登山口に到着し、ある程度の高さまで登った後、人通りの少ないところを探して一、二時間思いっきり声を出してから帰ってくるのだ。ときどき私もお母さんについて山に行った。お母さんの絶叫スポットに行くためには登山路を避け、道のないところをしばらく歩かなくちゃいけない。足を踏み外したら転げ落ちそうな山奥で、お母さんはずっと「うああああーっ!」と怪物のように叫びつづけ、私は「ヤッホ〜〜」と何度か叫んだがすぐに退屈してしまい、お母さんが叫び終わるまであたりを歩き回って落ち葉を拾ったり、働きアリをいじめたりしていた。
お母さんはたいてい昼間に山に行き、日が暮れる前には帰宅していたが、ある日、日が暮れてしばらく経ってから、顔を負傷し、髪も服も土まみれという満身創痍の姿で帰ってきた。その日お母さんはいつもより少し遅く山に着き、いつものように人影の少ないところで大声で叫んだ。あたりが暗くなったころ、どこからか一人の男性が現れ、無言でお母さんを殴り倒し、げんこつで胸を何度もぶった。お母さんの話によると、その男性はお母さんを押さえつけてレイプしようとしたらしい。
お母さんは胸を強くぶたれて息も苦しい中で、「父なる神よ! 助けてください!」と思いきり大声で叫んだ。それを聞いて現れた別の男性が殴られているお母さんを助けてくれて、レイプ未遂犯はそのまま逃げたという。満身創痍で命からがら家に帰ってきたお母さんは着替えてすぐ病院に行き、肋骨が何本も折れているのが確認されたため入院した。お母さんはその日、山で経験したことを小学校高学年だったお姉ちゃんにだけ詳しく話し、私はお姉ちゃんに聞いて初めてそれを知った。お母さんは私とお姉ちゃんに、このことはお父さんには絶対に秘密にするよう何度も念を押し、私たちは「お母さんは山で転んだ」と口裏を合わせた。夜遅くお母さんの病室にやってきたお父さんは「何で山で転ぶんだ、バカか」と、家にいるときと変わらない大声で怒鳴り、それ以来お母さんは山に行けなくなった。
山に行けなくなったお母さんはとても耐えられなかったのだろう、ある日から部屋のたんすの中で叫びはじめた。分厚い敷布団と冬用のかけ布団がいっぱい入ったたんすの中に頭を突っ込み、山でやっていたのと同じように一時間も二時間も大声で叫んだ。「うああああーっ!」何重にも重ねた布団と何枚ものドアでも遮れないお母さんの奇声は、私の部屋の中でも聞こえた。お母さんは大声で怒鳴っては痰を吐き、また怒鳴っては痰を吐いた。痰を吐くための赤いプラスチックのコップは見るのも嫌だったけど、コップを空にするためにお母さんに呼ばれたら、抵抗せず寝室に向かった。コップの中で波打つたっぷりの痰を必死で見ないようにしながら台所に行き、コップを水ですすぎ、布団の中に頭を突っ込んでいるお母さんのそばに置き直した。
そのときのお母さんの年齢はたぶん、今の私と同じくらいだっただろう。今、この年の私に三人の子供がいたら、どうやって狂わずに生きていけるかと思う。しかも子育てを全然手伝わない暴力的な夫と一緒と思えばなおさらだ。ひょっとしたら私も、子供を自分の感情のゴミ箱にする可能性は高い。
それでも幼い私はお母さんをすごく愛していた。今でもそうだけど、知っていることは何でもお母さんに話したかった。食事どきにご飯を作ってもらえず、冷蔵庫に入っていたおかず用の白い裂きイカを、おなかがふくれるようによく嚙んで食べながら、寝室で寝ているお母さんの手足を揉んだ。お母さんが化粧するところを横に座って見物し、「きれい」とほめた。毎朝、お母さんと別れるのが嫌で、学校に行きたくないと言って泣き、学校から帰ってくると、食器洗いをしているお母さんの背中を見ながらその日あったことを全部話した。毎日、さっき引っ越してきたばかりみたいに散らかった家で、私の部屋だけはいつもきれいに掃除し、ときどきプレゼント代わりに両親の寝室や弟の部屋、リビングやベランダまできれいに片づけた。誰も聞いてくれない即興の自作曲を何時間も声を出して歌い、シャワーを浴びているお母さんに聞こえるように、トイレのドアの前に座って英語の教科書を大声で読んだ。子供時代のお母さんは家の大人たちに愛されず、認めてももらえなくて渇きを感じたというが、私の子供時代も同じだった。お母さんを含めた大人たちに愛されたくて渾身の努力を傾けた記憶はいっぱいあるが、肝心なときに大人たちから適切な保護と援助を受けて育ったとは思えない。反復される渇きは、人を狂わせる。
ラン お母さんのお母さんはどうしてお母さんを愛してくれなかったの?
母 私のお母さんは、昼間はうちの農作業をしている人たちのご飯を作ったり、家事労働をしていたの。そして仕事が終わったら美容室に行って、他のお母さんたちと花札をして遊んでたよ。仕事はすごくできて、おじいさんにかわいがられてたね。おじいさんにはもともと息子が二人、娘が二人いたんだけど、六・二五〔朝鮮戦争〕のときに息子二人が拉致されて、私のお母さんを含めて娘二人だけが残ったのね。うちのお母さんが長女で。おじいさんは息子が二人とも拉致されてほんとに無念だったと思う。それなのに警察が何度も家に来るんだって。もしかして息子たちが北朝鮮のスパイになって帰ってきてないかって。おじいさんは息子二人を失って気が狂いそうなのに、警察に疑われて、監視されるなんてさ。
その後おじいさんは息子が欲しくて、近所のある女性との間に子供を作ったの。昔は、お妾っていう人もいたでしょ。うちのおじいさんとおばあさんは仲はよかったけど、息子がいなかったからね。儒教思想に従って、絶対に長男をもうけなきゃいけなかったんでしょ(うちがそういう歪んだ環境だったってことだね)。ところが、生まれてみたらまた女の子だったんだよ。それで、その子を産んだ女の人がうちの門の前に子供を捨てていったんだ。もし息子だったらその人も身分が上昇して贅沢な暮らしができるはずだったのに、娘を産んだから「失敗した!」と思って、ドアの前に置いて逃げたのよ。当時はDNA鑑定なんかなかったし、おじいさんの子だっていうから引き取ってうちで育てたの。うちのお母さんとおばあさんは、誰の子かもわからないのにその子を育てることになったんだ。
それで、そのおじいさんの娘が一九六〇年六月生まれで、私が八月生まれなのよ。私の誕生百日めのお祝いのときから、私たちは二人一緒に写真に写ってるの。私たちは同い年なのに、一族の中で見たらその子は私のお母さんと同じ序列なんだ。小さいころは一緒に育ったから「私はこの家の孫娘だけど、いったいこの子は誰なんだろう?」と思ってたよ。おじいさんの娘で、私にとっては腹違いの叔母さんだってことは後で知ったんだけど、そういう、わけのわからない葛藤が全部私のトラウマになったのよ。腹違いの叔母さんと遊んでてちょっともめただけでも、家庭内の序列では私が下だから私だけがられて。そのことでもずいぶん混乱したよね。この腹違いの叔母さんが、私よりバカな子でさ……勉強もできないし、おしっこ漏らしたりして汚くて。もう一人の情けないお兄さんは王子様扱いだから、家で私が賢そうなことを言えば、お兄さんにたてつくのかって怒られるし、お兄さんには殴られるし。私は家のどこにいても認めてもらえなくて、大きくなってから精神科に行ったせいで狂った女という烙印まで捺されたんだから。それくらい私は人間扱いされてなかったんだよ。
同い年の腹違いの叔母さんの話は、前にも何度か聞いたことがある。この人は子供のころのお母さんにとっていちばん憎らしい存在だったらしい(もちろん、王子様だったお兄さんも憎らしかっただろうけど)。お母さんが腹違いの叔母さんについて話すときは、同情なんかひとかけらもないみたいに見えた。いつも、不細工でバカでおしっこを漏らすような存在だったことばかり強調して、一度もその人の名前を言ったことがない。
でも、名前も知らないその腹違いの叔母さんの人生を具体的に想像してみると、それもまた地獄に違いない。正式な結婚と血縁で三代がっちり固まった大家族の家の、正門の前に捨てられるという人生。産みの母はもういなくて、育ての母(私のお母さんのお母さん)は自分と同じ序列なんだから、それでまたどんなに混乱しただろう。二か月違いで生まれてずっと一緒に育った私のお母さんは、その人にとって唯一の頼れる存在だったかもしれない。もしかしたら小さいころには体をくっつけ合って一緒に笑い、眠りにつく日もあっただろうけど、家でいちばん偉いおじいさんがお母さんにとっては祖父であり、腹違いの叔母さんにとっては父親だという事実のために、二人は望んでもいないのに、仇どうしとして育つことになったのだ。
ラン その腹違いの叔母さんって人も、すごく大変だっただろうな。
母 あの子も辛かったんだろうね。みにくいアヒルの子だもんね。それにまた父親っていう人がものすごくおっかないおじいさんだしさ。うちのお母さんもあの子をすごくいびってたんだよ。家では完全に爪はじきだった。むちゃくちゃいじめられて、お漏らしして……そんな子だったから、おじいさんもほんとに悔しかったんじゃない? その子は高校のときに家出しちゃってね。でも、おじいさんがどこかから情報を聞いて捕まえて頭を丸刈りにしたの、二度と外に出られないように。ところがその子が何日かしてまた帽子をかぶって逃げたんだ。結局、その後永遠に見つからなかったのよ。それがまたおじいさんの心残りになったんだよね。二人の息子は拉致されて、娘だという子もいなくなって。
大富豪の孫娘として生まれたお母さんだが、今は大変な貧乏暮らしをしている。大金持ちのおじいさんが亡くなった後、遺産はお母さんの両親が受け継いだ。お母さんのお兄さんである王子様は、弱ってきた両親の代わりに自分が全遺産を管理するという書類を作り、息子だけを愛して娘たちにはとても冷淡だったお母さんのお母さんは夫の死後、百億以上の遺産を持って王子様二人(お母さんのお兄さんと弟)と一緒に姿をくらました。その後一年もしないうちに兄の王子様は末期がんの診断を受けて急死してしまった。弟の王子様は借金問題と思われる理由で姿を消し、二〇二五年現在まで行方不明の状態だ。上の王子様がまるごと相続した巨額の遺産は、ずっと前にアメリカに移民した王子様の奥さんとその息子に渡った。お母さんのお母さんは、江南の居酒屋街の一間だけの家で、過去の贅沢な生活を象徴する螺鈿細工のたんす一さおとともに弱りきった姿で発見された。お母さんは自分を捨てた悪い母親を放っておくことができず、結局家に連れ帰った。こうして、王子様二人も巨額の財産も失った母親と夫と共に、キム・ギョンヒョンは今日も生きている。老いて健康も衰えた三人は全員職業がなく、三人のうち二人の老齢年金でやっと暮らしている。
ラン でもお母さんは能力のある人が好きなのに、自分で能力を発揮したいとは思わなかったの?
母 そういう意識があって、最初から「仕事をしなくちゃ」と思ってたらどうだったかわからないけどねえ。でも、前は実家が豊かだったから、私がお金を稼がないといけない状況じゃなかったでしょ。何かあったら実家が助けてくれるってことがよくあったしね。だから仕事をするつもりもなかったんだけど、障害のあるワンを産んでからは仕事も何も、そんなこと考えてる暇もなかったよ。障害児が生まれた家の忙しさといったらもう、戦場みたい。障害を持つ子供をどうやって育てたらいいのかお手本もないし、私も何をやるべきかわからないから本も調べなきゃいけないし、相談に行ったり、ワンの治療のためにあちこち動き回ったり。戦争なんだから他のことは全面ストップよ。私がワンに執着したからだろうね。この子は小学校に行けるのか、中学校に行けるのかって。頭が悪いらしくて勉強についていけなくて、何かやるたびに困ったことになって。それで、脳の治療法も調べていろんなことしなくちゃいけなかったから、「自分の夢をかなえたい」なんて考えることもできなかった。でもラッキーだったのは、宗教生活の中でワンと一緒に行動していると、そのコミュニティのみんながワンを励ましてくれて、愛してくれて、いっぱい助けてくれたことね。ワンが生まれてからは、なおさら宗教に熱心になった。
すべての母親にとって共同体育児は必須だなと思う。幸い、若かった私のお母さんにとっては宗教がその役割を果たしてくれた。それがラッキーだったといえるかどうかはわからないが。私は個人的に、お母さんの宗教に愛憎両方の感情を持っている。自分で自分の生き方を選べなかった幼いころ、私もお母さんに手を引かれて十年以上、一緒に宗教生活を送ったからだ。そこで同年代の友達やお姉さん、お兄さんたちと遊び、楽しい時間を過ごしたこともあったけど、どうやっても「信仰」を持つのは容易ではなかった。私が見る限り、聖書に出てくる唯一神は家父長的で、男性優位主義に染まっていて、利己的で残酷な神だったからだ。でもお母さんは、同じ神様に「完全な父親像」を見出したらしい。それに、(お母さんにとっては実在するのかもしれないが)ストーリーとしてだけ存在する完全な父親と、彼を共有する共同体の中で育児の責任を分かち合うことは、お母さんには絶対に必要なことだったのだろう。
家父長制と男児選好思想に染まった大家族の家に生まれた母キム・ギョンヒョンの「狂女の人生」は、お母さんのせいではない。お母さんのせいではないが、お母さんを狂女になるように追い込んだ残酷なしがらみの中で、私もまた狂女に育った。それでも私は、自分の物語を世の中に示すことのできる狂女でよかった。だけど私だけではなく、お母さんの狂女の歴史もとても重要だから、広く世に知らせたい。
*** 続きは『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』でお楽しみください。***

イ・ラン 著
斎藤 真理子/浜辺 ふう 訳






















