ためし読み - 海外文学

674階建巨大タワー国家を舞台にした韓国SFの金字塔が斎藤真理子訳で刊行!

地上からの脅威が迫り、下層階を軍隊、上層階を富裕層が占める巨大タワー国家〈ビーンスターク〉をめぐる、韓国SFの金字塔となる作品『タワー』(ペ・ミョンフン著/斎藤真理子訳)を発売いたしました。

本書の「訳者あとがき」で、斎藤真理子さんは以下のように本作を評しています。本作の魅力を伝える文章だと思うので、一部抜粋いたします。

「『タワー』の中でビーンスタークは常に戦争をしており、ミサイルや爆弾など物騒な武器が乱舞する。殺人、爆弾テロ、飛行機の墜落、デモの鎮圧と殺伐たる事件が相次ぎ、犠牲者も出つづける。にもかかわらず登場人物はどこかゆるゆるで、お人好しで、完ぺきではないが隣人との協働を重んじ、自分のバカさ加減もお互いのバカさ加減も知ったうえで共存していこうとする。」

韓国では2009年の初版刊行と同時に「韓国SFの新しい可能性を拓く」との評価がされ、2020年に改訂版が刊行された、読者から非常に愛されている作品です。
刊行にあたり「訳者あとがき」全文を公開いたします。ぜひお読みください。

 

 

『タワー』
訳者あとがき

 

 本書は、ペ・ミョンフンの連作小説集『タワー』(文学と知性社、二〇二〇年)の全訳である。

 近年、韓国ではSFが飛躍的に発展し、特に二〇一九年にキム・チョヨプの『わたしたちが光の速さで進めないなら』(カン・バンファ、ユン・ジヨン訳、早川書房、二〇二〇年)が大ヒットを収めて以降、目覚ましい勢いを見せている。現在活躍している一九九〇年代生まれの若手作家たちに大きな影響を与えたのが、『タワー』の著者ペ・ミョンフンやキム・ボヨン、チョン・ソヨン、そして「SF不毛の地」といわれた韓国で九〇年代から粘り強く活動してきたデュナなどのベテランたちだった。

『タワー』はペ・ミョンフンの代表作であると同時に、韓国SFの大きな特徴を代弁するような作品でもある。本書の初版が二〇〇九年にウンジン・シンクビッグから刊行された際には「韓国SFの新しい可能性を開く」作品として高い評価を受けた。同時に読者にも愛され、出版後間もなく一万部を売り上げたが、その後長く絶版状態が続き、復刊を望む声が続いていた。近年のSFの活況を受けて二〇二〇年に文学と知性社から改訂版が刊行されると、インターネット上には読者の歓迎の声が溢れ、改訂版の帯には「こんにちは、元気だった? ペ・ミョンフンの連作小説集『タワー』十一年ぶりに帰還」と記されていた。本書の翻訳にはこの改訂版初版を用いている。

 ペ・ミョンフンは「韓国SFの代名詞」と呼ばれることさえある作家であり、また、SFと純文学を往還する作家として、文学のジャンル分けを無意味化する作家でもある。一九七八年に釜山プサンに生まれ、ソウル大学の外交学科を卒業後、同大学院に進み、修士の学位を得ている。大学院在学中の二〇〇四年に大学新聞の文芸創作部門に短編小説が入選、また〇五年に「スマートD」という作品が科学技術創作文芸コンクールに入選して作家デビューした。以後多くの作品を発表し、二〇一〇年に『こんにちは、人工存在!』で「若い作家賞」を受賞、一二年には「サイエンスタイムズ」で「韓国S​F作家ベスト10」に選ばれた。また、二〇一七年に結成されたSF作家の団体「韓国SF作家連帯」第一期で副代表を務めた。

 日本では、セウォル号沈没事故関連のエッセイを集めた『目の眩んだ者たちの国家』(矢島暁子訳、新泉社、二〇一八年)所収の「誰が答えるのか?」が初めての翻訳紹介だった。続いて『最後のライオニ 韓国パンデミックSF小説集』(斎藤真理子・清水博之・古川綾子訳、河出書房新社、二〇二一年)に収録された短編「チャカタパの熱望で」が小説作品としては初の紹介となった。この短編は、新型コロナウイルス出現後、唾液が飛ぶ発音を避けるために韓国語そのものが変化してしまった世界を描いたもので、その斬新な発想が読者から好評を得た。

 最近、日本でも韓国SF作品の紹介が活況を呈している中、韓国現地で「満を持して」という趣で刊行された改訂版を読者に紹介できるのは、訳者としてたいへん嬉しい。

 

『タワー』の舞台は674階建て、人口五十万人におよぶ地上最大の巨大摩天楼「ビーンスターク」である。この名称は「ジャックと豆の木」に登場する、夜に種をまくと朝までに天まで届くほど伸びる豆の木にちなんだものだ。韓国では全土にわたって広い地域が再開発されて続々と高層マンション群に変貌してきた経緯があり、ビーンスタークがそのメタファーであることは一目瞭然である。

 ビーンスタークは「対外的に承認された主権を持つ厳然たる独立国家」だが、領土はあくまで巨大タワー一棟だけ。狭い高層の敷地内に文明がぎっしりと詰まった、きわめて特異な仮想空間である。21階までは外国人も自由に出入りできる非武装地帯で、その上の22階から25階までを「警備室」と呼ばれる軍隊が占拠し、そこに国境検問所もある。国境地帯を境に、そこより上の部分では物価も高くなり、上層階に行くほど富裕層の居住者が増えていく。

 ビーンスタークは、対外的には旧ソ連の系統を引くという武装勢力「コスモマフィア」と常に対峙しており、対内的には贈収賄や外国人労働者の使い捨て、イデオロギー対立などのさまざまな問題を抱えている。ビーンスタークの言語や民族の構成は周辺国とほとんど同じであり、区分できない単一の社会を成しているのだが、にもかかわらず国境によって厳然と分離され、周辺国の人々にもビザ免除の恩恵を与えない。

 そのようにして守られた空間には「特に非人間的で、見境なく産業化された部分」が凝縮しており、どこへ行くにも有料エレベーターに乗らなくてはならず、豪華な室内庭園やショッピングモールがあり、窓際地帯はリゾート開発されて富と栄華を見せつけている。周辺国の人々はそれを「ガン細胞」のようなもの、「バベルの塔」と批判しつつも、一方ではビーンスターク市民になりたいという願望を抱きつづける。

 このように、面白すぎる仮想空間の中で、韓国社会の現実にきわめて近い人間模様が展開されている。そこに『タワー』の眼目があるといっていいだろう。

 以下、各短編について述べておく。

 

 

東方の三博士──犬入りバージョン

 アインシュタインの「重力場」を模した「権力場」という概念を用いて、ビーンスタークの権力構造が解き明かされる。高級洋酒の流通経路から権力の核心部分に迫ると、そこにいるのは一匹の犬だった……。ペ・ミョンフンはあるインタビューで、「韓国文学における権力の描き方は人物中心となる傾向があるが、個人ではなく権力の構造に目を向けるべきだ」という意味の発言をしており、それを形にしたのがこの小説なのだろう。「権力場」に置かれた者はそれにふさわしい動きをするしかなく、行き着く先には血なまぐさい事件が待っている。周辺国からビーンスタークに通う三人の若手研究者たちが、複雑怪奇なエレベーターを乗り換えながらこの巨大ビルの構造を紹介し、イントロダクションの役割も果たす作品である。

 なお、三七ページで犬の俳優Pが「こくみん」と鳴くが、これは、何かにつけて「国民のために」という言葉を濫発する韓国の政治家像からの連想であるという。ビーンスタークはあくまで「国」ではなく、住民たちは市民、首長は市長と呼ばれていることを考えると、Pの鳴き声はなかなか意味深長かもしれない。

 ちなみに、最高の貨幣価値を持つ酒として想定されているのはバランタイン30年だそうで、著者から「これは韓国で本当に通貨として使われています」という説明があった。

 

 

自然礼賛

 この作品には、二〇〇八年に盧武鉉ノムヒョン政権から李明博イミョンバク政権へと時代が移った後の重苦しい雰囲気が反映されている。李明博は「初版あとがき」で「無限の霊感の源泉であるLさん」と呼ばれた人であり、その時代は作家Kの言葉を借りるなら「公権力が呼び込んだ冷酷な冬」であったということになる。七二ページに出てくる再開発地区で起きた事故は、二〇〇九年一月に起きた「龍山ヨンサン事件」を思わせる。ソウルの龍山地区で再開発のためビルの立ち退きを要求された小規模自営業者たちがそれを拒否してビルに立て籠もり、警察の特殊部隊が投入され、混乱の中で火事が起きて住民五人と警官一人が死亡したもの。無理な再開発の過程や反対運動への過剰な鎮圧が大問題とされ、抗議の姿勢を示した作家も多かった。

 かつては社会批判的な小説を書いていたKが、冬の時代の中で、現実逃避と逡巡を経てまた義憤の表明に至る。たたけば埃の出る弱点を持ちつつも奮闘したKは多くを失うが、それでも残ったものをしみじみと描いている。

 

 

タクラマカン配達事故

 本書の中で読者の人気ナンバーワンの作品。国家に見捨てられた傭兵パイロットをインターネットの力で国境を超えた大勢の人々が救うというもの。ミンソとウンスは初恋のカップルであり、同時にウンスは今は他の人と婚約中だが、やけぼっくいの行方に注目するよりは恋愛を超えた連帯感を讃える物語と読んでいいのではないか。重要な小道具である青いポストは、インターネットの比喩とも読める。兵役の辛さ、正規雇用と非正規雇用の壁、格差恋愛などひりひりする設定だが、それを凌駕りようがする理想主義がさわやかに描かれる。

 なお、著者は最近のインタビューで、この短編は本当にインターネットによる助け合いを頭に置いて書いたものだったと明かしている(『私たちはSFが好き』民音社、二〇二二年)。久しぶりにこの作品を読んで、当時の自分が純情で楽観的であったことに著者も驚いたようだ。二〇〇九年といえば本格的なS​N​S時代の到来前であり、今はそうはいかない、しかしこれからどうなるかはまだわからないというコメントだった。

 

 

エレベーター機動演習

 韓国は「不動産階級社会」とも呼ばれ、都市再開発と不動産投機によって社会の根幹が動く。その詳細は『搾取都市、ソウル』(イ・ヘミ著、伊東順子訳、筑摩書房、二〇二二年)などを参照してほしい。このシステムをビーンスタークという細長い空間にそのまま持ち込んだのが、この作品や「シャリーアにかなうもの」だ。さらにこの章では、エレベーターによる兵力輸送システムが描かれ、ペ・ミョンフンが大学院で「シュリーフェン・プラン」(第一次世界大戦の初期にドイツ軍が行ったフランス侵攻作戦計画)をテーマに選んだことを彷彿ほうふつさせる。

 エレベーターで荷物を上下に輸送する「垂直運送」と各階で荷物を運ぶ「水平運送」の違いに基づく「直派」と「平派」のイデオロギー対立は、韓国の「右派」「左派」を想起させる。分断が激しくなっていく中で、同じ520階で出会った境遇の違う二人が出会いと別れを味わう。年長者が若者たちに教訓を語る形式をとっているが、最後のせりふは二〇二二年の読者の胸に染みるだろう。

 

 

広場の阿弥陀仏

「広場」は韓国人にとって民主主義の代名詞のような言葉だ。民意、と言い換えてもいいのかもしれない。ビーンスタークの市庁舎前広場を舞台に、デモ鎮圧のために持ち込まれた象と借金を背負ってビーンスタークに潜り込んだ男性の友情が描かれる。「自然礼賛」に登場するロボットなど、人間と人間以外の存在との交流もこの小説の特徴だ。

 

 

シャリーアにかなうもの

 最後の一編ではコスモマフィアとの対決が最終局面を迎える。だが、潜伏テロリストのシェフリバンも協力者も、ビーンスタークの人情になじんでしまい、爆弾は不発のままで物語は締めくくられる。どんなにめちゃくちゃな社会でも友はできるし、その人たちと生きていくのだという楽観的な世界観がストレートに表れた物語だ。長年、爆弾を守ってきた協力者の「自分の手でここを破壊することはできなかったんだ」「この国全体については私もよくわからないけど、この町だけはどうしようもなかったんだよ」という言葉が本書全体に流れる静かな宣言なのだろう。

 コーランの引用は井筒俊彦訳(岩波文庫)に拠っている。

 

 また、多様な付録は読者サービスの側面が強いもので、「作家Kの『熊神の午後』より」は、「自然礼賛」で一言だけ触れていたKの作品について読者がインターネットに書き込んだ要望に応えたもの。「カフェ・ビーンス・トーキング──『520階研究』序文より」には地域社会が急激に変わっていく様子をとらえた面白さがあり、著者自身、これだけは欠かせないものと考えた付録だそうである。「内面表出演技にたけた俳優Pのいかれたインタビュー」「『タワー』概念用語辞典」も初版刊行当時評判になった。

 

 全体を見たとき、最初の二話はビーンスタークの暗部を暴く物語であり、三作め以降はその中でも見出せる希望に焦点を当てたものといえるかもしれない。二〇〇九年から、この改訂版が出た二〇二〇年までの間に、韓国社会は大きな変化を経験した。李明博とそれに続く朴槿恵パククネの時代には、政府に非協力的な文化人の「ブラックリスト」が作成され、有名な俳優がキャスティングされづらくなったり、活動助成金の支給などの面で不利益を被るなどの事例が見られた。二〇一七年の政権交代後、それらに責任のある高位官僚たちは起訴され処罰を受けた。

『タワー』の中でビーンスタークは常に戦争をしており、ミサイルや爆弾など物騒な武器が乱舞する。殺人、爆弾テロ、飛行機の墜落、デモの鎮圧と殺伐たる事件が相次ぎ、犠牲者も出つづける。にもかかわらず登場人物たちはどこかゆるゆるで、お人好しで、完璧ではないが隣人との協働を重んじ、自分のバカさ加減もお互いのバカさ加減も知った上で共存していこうとする。なお、付録の「『タワー』概念用語辞典」の「バカ」の項目には「現代の都会人の間で合意を見ている最小限の邪悪さを習得していないため、他人が全く予想できない状況で人の道を貫こうとして社会を混乱に陥れる人」とあるが、これは二〇〇九年に自殺した盧武鉉元大統領へのオマージュでもあるという。

 特に「タクラマカン配達事故」のビョンス、「エレベーター機動演習」の主人公、「シャリーアにかなうもの」のチェ・シンハクといった公務員キャラの活躍が興味深い。彼らはマネーロンダリングでお金を作るなど後ろ暗いこともやるし、常に清廉潔白というわけでもないが、ここぞというところでは命令を超えて職業的良心に従う。

 これらのキャラクターには、陸軍の行政将校や研究所の研究員といった仕事も経験してきたペ・ミョンフンならではの視点が加味されているように思う。実務家独特の確かさのようなものである。それらに支えられた『タワー』は、人間讃歌というほど大げさではなく、どう転んでも悲壮にならない、穏やかなヒューマニズムを漂わせている。

 非常に大ざっぱな言い方になるが、韓国SFの特徴は「現実社会との地続き感」の強さとその熱気である。単に現実社会をリアルに写し取るだけでなく、ありうべき社会へのまなざしが感じられる。その中で『タワー』は、一市民として懸命に働く人々が奮闘する「実務家エンターテイメント」であり、いざというときには助け合う「人情劇SF」であり、その絶妙なマッチングが特徴といえるだろう。

 日本でも人気が定着した作家のチョン・セランは、本書改訂版に寄せた推薦文の中で「ペ・ミョンフンは韓国SFのコア部品で、熱と摩耗に強く、連結と拡張を担当している」と書いている。そして、多くの作家が彼の作品を読んで作品を書きはじめたことを指摘し、「不完全な世界にあっても善意が存在できるのと同様に、私たちの間に青いポストが存在できることを願う」と結ぶ。一段と危険さを増したかに見える二〇二二年の世界において、冬の時代を生き延びた『タワー』という物語の可能性を見つめてみたい。

 担当してくださった河出書房新社の竹花進さん、翻訳チェックをしてくださった伊東順子さんと岸川秀実さんに御礼申し上げる。

 

  二〇二二年七月七日   斎藤真理子

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著者

斎藤真理子(翻訳)

翻訳家。訳書にチョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』ハン・ガン『引き出しに夕方をしまっておいた』ほか。

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