ためし読み - 日本文学
西條八十の遺した幻の少女小説『あらしの白ばと』復刊記念! 芦辺拓氏の巻末解説の一部を公開!
芦辺拓
2023.07.24
「東京行進曲」「蘇州夜曲」「青い山脈」などで知られる名作詞家が遺した、伝説の元祖美少女アクション『あらしの白ばと』が、奇跡の復活!
ペルーから来た老人、謎の純金人形、少女を狙うギャングたち、恐ろしい毒へび、地下室での監禁、とんでもない秘密兵器……
絶体絶命の危機に、正義の少女たちが立ち向かう!
想像力のリミッターが外れた、なんでもありの大冒険活劇!
『あらしの白ばと』復刊を記念して、編者の芦辺拓さんによる解説の一部を公開します。
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白ばと(ホワイトピジョン)は少女探偵のしるし
芦辺 拓
これは、おそらくは日本初の、いや、ことによったら世界的に魁かもしれない少女探偵団の物語であり、その主役をつとめる〝白ばと組〟こそは、わが国が世界に誇る美少女戦士やら少女戦隊、さてはまた最近大人気となった某アニメに登場するスパイ少女たちの元祖的存在といっても過言ではありません。
『あらしの白ばと』! それは戦前からの流れをくみつつ、戦後の一時期にとてつもないブレイクとカオスをくり広げた少年少女(ジュブナイル)冒険探偵小説と、西條八十というこれまたとてつもない異能異才との魔合体というべき大傑作なのです。本書は、商業出版としては実に六十九年ぶりの復刻となりますが、むしろ当時より今こそその真価が理解され、読む人を夢中にするに違いなく、とりわけ右に記したようなアニメを愛するみなさんには、きっと楽しんでいただける一冊となることを保証いたします。
魔合体とは大層な、と首をかしげられる方もあるでしょう。何しろ『あらしの白ばと』の連載が開始されたのは、敗戦からたった七年後。連載期間は丸八年に及びながら、単行本化されたのは初期のほんの一部だけで、それすらもきわめて入手難なのですから、その内容について知るはずもありません。
そもそも著者西條八十とは、いかなる人なのか──それについては、本書の土台となった我刊我書房発兌・書肆盛林堂発行による私家版復刻本の解説で、私は次のように記しました。
日本を代表する象徴派の詩人であり、ソルボンヌ大学時代にはポール・ヴァレリーと親交を結び、ランボー研究の第一人者であり、「東京行進曲」「蘇州夜曲」「青い山脈」「芸者ワルツ」など、モダンだったり哀切だったり、通俗の極みだったりする無数の流行歌の作詞者であり、彼の書いた童謡を「歌を忘れたカナリヤは……」「かあさんお肩をたたきましょ……」などと歌ったことのない子供はなく、と同時にあのロセッティの名訳「誰が風を見たでしょう」の主であり、幻想詩「トミノの地獄」は都市伝説を生み、近年では夭折の童謡詩人・金子みすゞを見出した人として、また名を上げましたが、その西條八十がかたわら数多くの少女小説を書いてきたことは、もちろんみなさんもよくご承知のことでしょう。
『天使の翼』『悲しき草笛』『荒野の少女』──おセンチで、夢見がちで、しかし常にシビアな現実を突きつけられていた女学生たちにとって、そうしたタイトルはいっそう甘く、美しく響いたに違いありません。ですが、それらの中に、とほうもない奇想と狂乱怒涛に満ちた冒険活劇が、おしとやかなクラスメートのような顔をして立ちまじっていようとは、まして時代も性別も違うわれわれには知るよしもなかったのです。
はたして、それはどんな物語だったのでしょうか。昭和二十七年(一九五二)、小学館の雑誌「女学生の友」の予告ページに「四大新連載!!」の筆頭として、以下のような告知が掲載されました。
少女小説 赤いカーネーション(仮題)西条八十先生
桜草のように美しいいじらしいみなしごの少女。その小さな命を、何ゆえかねらうヘビのような人たち! 東京の昼と夜。あぶない! 風に吹き消されるろうそくの火のようなみなしごの運命。そのとき、とつぜん現れる三人のすがた! その胸には正義と愛をかたどって輝く白ゆりの花のブローチ! 純情とスリルの物語です。
これを読む限りは、ほんのりサスペンス風味を加えた、いかにもお涙頂戴の少女小説に見えます。そのこと自体は、女の子向けの漫画や読物のキャッチフレーズが「かわいそうでこわいお話」という、何だかよくわからないものだったことを考えると、それほど珍しいことではありません。しかし、次の九月号から題名を一変して始まった『あらしの白ばと』は、その予告からは想像もつかない内容でした(そもそも、カーネーションも白ゆりもどこへ消えたのか)。何しろ乱射乱撃に次ぐ乱闘乱打、毒蛇を操る悪党紳士あれば狙撃から格闘術まで心得たヒロインあり、機関銃うなり鉄骨は降り、ついには飛行機飛び戦車まで走るという波瀾万丈にして驚天動地──それでいて徹頭徹尾、少女の少女による少女たちのための物語だったのです。
そしてそれは戦後の一時期、敗戦による解放から漫画の抬頭までの短い間ではありますが、百花繚乱とばかりに繁栄した大衆児童文学(根本正義氏『占領下の文壇作家と児童文学』中の用語に拠ります)──その中でも大きな位置を占める冒険探偵小説の代表作ともなったのでした。
昭和十三年(一九三八)、〝良心的・芸術的〟児童文学者らが暗躍したとも言われる内務省警保局図書課が通達した「児童読物改善ニ関スル指示要綱」によって、いったん息の根を止められた大衆児童文学は、戦後の出版ラッシュの中で未曾有の繁栄を見せます。少年少女向け雑誌が次から次へと創刊され、その中で重要な地位を占めるのは探偵時代怪奇冒険探検小説であり、寒川道夫・滑川道夫といった教育系文化人の口汚い非難にもかかわらず、実に多くの作品が書かれました。戦前からの江戸川乱歩、野村胡堂、南洋一郎、久米元一、そして西條八十をはじめ、戦後デビューの高木彬光、島田一男、柴田錬三郎らに見られるように、まず少年少女向け作品を書くことが作家修業と生活安定の手段とさえなったのです。
あいにく、手塚治虫を筆頭とする漫画が誌面を席巻しだしたこと、学校図書館法の制定によって出版社は読者が喜ぶエンタメ作品より先生受けのいい本を出せば採算が取れるようになったこと、娯楽系作品は常に悪書追放の槍玉に挙げられたことから、みるみる市場は衰亡し、わずかに学年誌・学習誌に発表の場が限られるようになってしまいました。そこから発展したのがジュヴナイルSFで、やがてそれは空前のSFブームにつながってゆくのですが、それはかつての少年少女冒険探偵小説とは別個のものであり、その系譜は江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを除けば、ほぼ忘れられたといっていいでしょう。
その魅力ないし特色について、私はかつてこう書きました──「少年少女探偵たちは、『ありえない偶然』によって事件に導かれ、『根拠のない確信』に従って行動し、『半ば頭のおかしい勇気』によって人を救ってしまう」という点に、それはあるのではないか。そしてそれこそは、「少女の悩みは少女が救う」をモットーに結成された〝白ばと組〟の行動原理であり、彼女らが大活躍する『あらしの白ばと』には、やれ整合性だ必然性だリアリティだなどと言ううちに、大人向けと子供向けを問わない日本の小説が失ってしまった魅力が満ちあふれているのではないか、と。以下、また引用をお許し願えれば──
よく、漫画やテレビ、アニメをふくめた少年探偵ものに向けられる揶揄に、「子供のくせに自動車を運転したり、ピストルを持っていたり、警察と対等につきあうのがおかしい」というのがありますが、〝白ばと組〟の三人組ときては、(免許は持っているようですが)高級外車を乗り回すわ、ピストルどころか機関銃まで持ち出すわ、緊縛術は心得ているわ、悪党を拷問にかけることも平気だわと、やりたい放題。しまいには総監がおじさんなのを幸い、警視庁を動かし、保安隊(当時)からは戦車まで出させる自由狼藉ぶりです。
とにかく全編パワーとイマジネーションに満ちていて、ページをくる手が止まらない。半笑いでお決まりのツッコミを入れてくる心貧しき輩など、軽く爆弾で吹っ飛ばしてくれそうな痛快さに満ちていて、これこそ小説の面白さ、《物語》というものの根源的な愉悦ではないのか──そんなことさえ考えずにはいられなくなったのでした。
(続きは書籍版でお楽しみください)