ためし読み - 日本文学
祝!第55回星雲賞の参考候補作選出! 酉島伝法さんの長編SF『奏で手のヌフレツン』、 クライマックス感全開のプロローグを無料公開!
酉島伝法
2024.04.26
日本SF大賞二冠作家の酉島伝法さんが昨年末に発表した、書き下ろし長編小説『奏で手のヌフレツン』。
はやくも2024年度日本SFの最高傑作という声も高い本作は、このたび第55回星雲賞の日本長編部門の参考候補作に選ばれました。
これを記念して、本作の巻頭をかざる「序」の全文を(「なにがなんだかさっぱり分からん!」と敬遠される危険も辞さずに)無料公開いたします。
いったいこの「序」では何が起きているのか?
「第一部」に入ると、がらりと雰囲気が変わり、「序」で奮闘していたリナニツェの子、ジラァンゼの物語が始まります。
読み進めていくうちに、次第にページをめくる手も早くなり、唯一無二の感動の読書体験が待っているのです。
ちなみにタイトルの「ヌフレツン」は、ジラァンゼの子。
これは、親子3代にわたる壮大な物語が奏でる、生命の賛歌。
ぜひ耳を傾けてみてください。
===ためし読みこちらから===
『奏で手のヌフレツン』
酉島伝法
──リナニツェ、拍が遅れているぞ!
──先胞さ、もうだめだよ。指が悴んで運指が……
咽び泣きが漏れる。眼が裂けんばかりの痛み。まだ柔らかいはずの涙粒が寒さで石の硬さに凍って落ちる。遠く離れた衢の黄道を進む太陽が、接近期を過ぎつつあるのだ。宙に舞っていた氷刺の光も消えかけている。
──指を失っても構わない。そう覚悟して弾き続けるんだ。
わかってるよ。そうでなければ、全てを失うことになるんでしょう! でももうとうに全てを失ったようなものじゃない。央響塔は倒れてしまって、帰る家だってもうないんだから! そう叫びたかったが、口を大きく開いてこれ以上体温を失いたくはなかった。
凍えるほどの大風が、譜台の上に留められた譜の束を激しくはためかせる。せめていまが無風期であったなら。誰もがそう思っているはずだった。
大風を縫うように奏でられている鳴り物の数々──骨に響くほどの厚い音で圧する千詠轤に粗削りな優雅さを持つ靡音喇、彼方から聞こえるような柔らかい咆流に軽やかに跳ねまわる往咆詠、表情豊かな人の声を思わせる焙音璃──万洞輪、浮流筒、喇炳筒、波轟筒、摩鈴盤、渾騰盤、嘆舞鈴──それらが臨環蝕の前に立つ響主の指揮により、ひとまとまりの大波となって響かせているのは、阜易楽の由来でありながら、これまで霜の聚落では一度も奏でられたことのなかった〈阜易〉の譜典だった。
眼前に鎮座する、半年ほど前までは太陽と呼んでいた、いまやなんの熱も感じられない極大の半球體に向けて、奏で手たちは交替で奏で続けていた。月に追いつかれた太陽が蝕となり、その輝きと熱と日の歩みを失ってからずっと──
喇炳筒の十二重奏が高まりだした。嘆舞鈴が幻惑的に鳴り響く。
背後で奏で手の誰かが倒れる音がした。鳴り物の不協な雑音が跳ねる。すぐに台手が駆け寄る足音が聞こえる。
これほど長くなるとは誰も思っていなかった。音戯噺にある〈寝坊助の太陽〉のように、新しい太陽が遅れてやってきてくれるのだと誰もが信じていた。その望みが薄れだしてからも、〈阜易〉の譜があればわけもなく土に返すことができるだろうと誰もが疑わなかった。
腸弦を押さえる指は疼き、今にも関節がばらけそうだった。左から、右から、奏で手たちの喘ぎ声や呻き声が聞こえる。指を失ったって構わない。リナニツェはそう自分に言い聞かせ、指に力をこめる。呻き声を洩らしながら顔を上げ、鼻で大きく深呼吸する。鼻孔の奥が鋭く貫かれるように痛む。自分の吐いた白い息に顔を包まれ、一瞬なにも見えなくなる。響主の振る牽奏竿の動きを追う。その片眼から、血が流れているのに気づく。臨環蝕との交感が長く続きすぎたせいだろうか。
──裁定主様、どうか。と先胞が祈る。
誰に想像できただろう。蝕がとめどなく膨張し続けて家々を吞み込み、聚落を半ばまで覆い尽くすほどの規模になるなど。そしてその表層に、臨環蝕の特徴である、波紋状の畝が犇めきだすなどと──
摩鈴盤と渾騰盤の応奏がはじまり、その螺旋を貫くようにリナニツェたち焙音璃弾きは音を強める。千切れてしまったのではないかと思うほど指が痛む。
古譜によれば、〈阜易〉の譜が実質的な効果を表すには時間が必要であるという。誰もが半信半疑のまま幾日も幾日も交替で奏で続けてきて、ようやく臨環蝕の波紋の動きが鈍くなり、球體全体の色も濁ってきた。そこで、控えを含めたすべての奏で手を一斉に投入することとなった。けれどそれ以降は新たな変化の兆候が見られない。
牽奏竿を振り続けてきた響主が、関節を失ったかのように頹れ、牽奏竿が地面を打ってたわむ。すぐさま檀師のひとりが牽奏竿を手にし、指揮を引き継いだ。顔に面紗をかけた台手たちが響主を運び去っていき、あちこちから喘ぎや啜り泣きの声が聞こえる。
──満環蝕になってしまえば、もうあの譜しか残されておらぬ。しかしその効果には不穏かつ不慥かな要素が多すぎ、そもそも原譜どおりに奏でるのは不可能である。裁定主様のご加護も失われよう。このまま〈阜易〉のみで、どうあっても土に返さねばならぬ──
最後の大聚奏を前に皆にかけられた響主の言葉が、何百枚と写譜を繰り返した手の痛みや、封音堂の稽古で奏でた旋律と共に蘇ってくる。響主が決して名を口にしようとしない譜を初めて奏でたとき、リナニツェは一瞬でその響きに魅了された。大親さから授かった古い来歴を持つこの焙音璃も、輝晶の響体をいつになく輝かせて玲々と音を響かせた。いっそ満環蝕になって、このまま奏でられないものだろうか──そう考えたところで、腸弦が弾け切れて我に返った。
なんという罪深いことを自分は……裁定主様がお怒りになったのだろう。
──台手、すぐに新しい腸弦を!
先胞がすかさず伝えてくれる。
あの譜を奏でたいだけのために、壊劫を引き起こしかねない満環蝕を一瞬でも願うだなんて。
台手が直ちに腸弦を持ってきてくれた。久しぶりに骨棹から手を離せば、爪から滲み出した血で指板が血まみれになっている。
リナニツェは新たに張った腸弦を弦巻きで調音し、〈阜易〉に戻った。
新しい太陽は現れるだろうか、我々の先行きを照らしてくれるだろうか──
風と寒さがより激しくなった。
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続きは単行本『奏で手のヌフレツン』にて
お楽しみください。
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