ためし読み - 日本文学

祝!第55回星雲賞の参考候補作選出! 酉島伝法さんの長編SF『奏で手のヌフレツン』、 クライマックス感全開のプロローグを無料公開!

日本SF大賞二冠作家の酉島伝法さんが昨年末に発表した、書き下ろし長編小説『奏で手のヌフレツン』。
はやくも2024年度日本SFの最高傑作という声も高い本作は、このたび第55回星雲賞の日本長編部門の参考候補作に選ばれました。
これを記念して、本作の巻頭をかざる「序」の全文を(「なにがなんだかさっぱり分からん!」と敬遠される危険も辞さずに)無料公開いたします。
いったいこの「序」では何が起きているのか?
「第一部」に入ると、がらりと雰囲気が変わり、「序」で奮闘していたリナニツェの子、ジラァンゼの物語が始まります。
読み進めていくうちに、次第にページをめくる手も早くなり、唯一無二の感動の読書体験が待っているのです。
ちなみにタイトルの「ヌフレツン」は、ジラァンゼの子。
これは、親子3代にわたる壮大な物語が奏でる、生命の賛歌。
ぜひ耳を傾けてみてください。

 

===ためし読みこちらから===

奏で手のヌフレツン
酉島伝法

 

 

 ──リナニツェ、はくが遅れているぞ!

 ──さ、もうだめだよ。指がかじかんで運指が……

 むせび泣きが漏れる。眼が裂けんばかりの痛み。まだ柔らかいはずの涙粒なみだつぶが寒さで石の硬さに凍って落ちる。遠く離れた黄道こうどうを進む太陽が、接近期を過ぎつつあるのだ。宙に舞っていた氷刺ひしの光も消えかけている。

 ──指を失っても構わない。そう覚悟して弾き続けるんだ。

 わかってるよ。そうでなければ、全てを失うことになるんでしょう! でももうとうに全てを失ったようなものじゃない。央響塔おうきょうとうは倒れてしまって、帰る家だってもうないんだから! そう叫びたかったが、口を大きく開いてこれ以上体温を失いたくはなかった。

 凍えるほどの大風が、譜台の上に留められた譜の束を激しくはためかせる。せめていまが無風期であったなら。誰もがそう思っているはずだった。

 大風を縫うように奏でられている鳴り物の数々──骨に響くほどの厚い音で圧する千詠轤ちえいろに粗削りな優雅さを持つ靡音喇びおんら彼方かなたから聞こえるような柔らかい咆流ほおるに軽やかに跳ねまわる往咆詠おうほうえい、表情豊かな人の声を思わせる焙音璃ばいおんり──万洞輪まんどうりん浮流筒ふるとう喇炳筒らへいとう波轟筒はごうとう摩鈴盤まりんばん渾騰盤こんとうばん嘆舞鈴たんぶりん──それらが臨環蝕りんかんしょくの前に立つ響主きょうしゅの指揮により、ひとまとまりの大波となって響かせているのは、阜易楽ふいがくの由来でありながら、これまでそう聚落じゅらくでは一度も奏でられたことのなかった〈阜易ふい〉の譜典だった。

 眼前に鎮座する、半年ほど前までは太陽と呼んでいた、いまやなんの熱も感じられない極大の半球體はんきゅうたいに向けて、かなたちは交替で奏で続けていた。月に追いつかれた太陽がしょくとなり、その輝きと熱と日の歩みを失ってからずっと──

 喇炳筒らへいとうの十二重奏が高まりだした。嘆舞鈴たんぶりんが幻惑的に鳴り響く。

 背後でかなの誰かが倒れる音がした。鳴り物の不協な雑音が跳ねる。すぐに台手うてなてが駆け寄る足音が聞こえる。

 これほど長くなるとは誰も思っていなかった。音戯噺おとぎばなしにある〈寝坊助ねぼすけの太陽〉のように、新しい太陽が遅れてやってきてくれるのだと誰もが信じていた。その望みが薄れだしてからも、〈阜易ふい〉の譜があればわけもなく土に返すことができるだろうと誰もが疑わなかった。

 腸弦ちょうげんを押さえる指はうずき、今にも関節がばらけそうだった。左から、右から、かなたちのあえぎ声やうめき声が聞こえる。指を失ったって構わない。リナニツェはそう自分に言い聞かせ、指に力をこめる。うめき声をらしながら顔を上げ、鼻で大きく深呼吸する。鼻孔の奥が鋭く貫かれるように痛む。自分の吐いた白い息に顔を包まれ、一瞬なにも見えなくなる。響主きょうしゅの振る牽奏竿けんそうかんの動きを追う。その片眼から、血が流れているのに気づく。臨環蝕りんかんしょくとの交感が長く続きすぎたせいだろうか。

 ──裁定主様、どうか。と先胞さきがらが祈る。

 誰に想像できただろう。しょくがとめどなく膨張し続けて家々を吞み込み、聚落じゅらくを半ばまで覆い尽くすほどの規模になるなど。そしてその表層に、臨環蝕りんかんしょくの特徴である、波紋状のうねひしめきだすなどと──

 摩鈴盤まりんばん渾騰盤こんとうばんの応奏がはじまり、その螺旋らせんを貫くようにリナニツェたち焙音璃ばいおんり弾きは音を強める。千切れてしまったのではないかと思うほど指が痛む。

 古譜によれば、〈阜易ふい〉の譜が実質的な効果を表すには時間が必要であるという。誰もが半信半疑のまま幾日も幾日も交替で奏で続けてきて、ようやく臨環蝕りんかんしょくの波紋の動きが鈍くなり、球體きゅうたい全体の色も濁ってきた。そこで、控えを含めたすべてのかなを一斉に投入することとなった。けれどそれ以降は新たな変化の兆候が見られない。

 牽奏竿けんそうかんを振り続けてきた響主きょうしゅが、関節を失ったかのようにくずおれ、牽奏竿けんそうかんが地面を打ってたわむ。すぐさま檀師だんしのひとりが牽奏竿けんそうかんを手にし、指揮を引き継いだ。顔に面紗めんしゃをかけた台手うてなてたちが響主きょうしゅを運び去っていき、あちこちからあえぎやすすり泣きの声が聞こえる。

 ──満環蝕まんかんしょくになってしまえば、もうあの譜しか残されておらぬ。しかしその効果には不穏かつ不慥ふたしかな要素が多すぎ、そもそも原譜どおりに奏でるのは不可能である。裁定主様のご加護も失われよう。このまま〈阜易ふい〉のみで、どうあっても土に返さねばならぬ──

 最後の大聚奏だいじゅそうを前に皆にかけられた響主きょうしゅの言葉が、何百枚と写譜を繰り返した手の痛みや、封音堂ふうおんどうの稽古で奏でた旋律と共によみがえってくる。響主きょうしゅが決して名を口にしようとしない譜を初めて奏でたとき、リナニツェは一瞬でその響きに魅了された。大親おおやさから授かった古い来歴を持つこの焙音璃ばいおんりも、輝晶きしょう響体きょうたいをいつになく輝かせて玲々れいれいと音を響かせた。いっそ満環蝕まんかんしょくになって、このまま奏でられないものだろうか──そう考えたところで、腸弦ちょうげんが弾け切れて我に返った。

 なんという罪深いことを自分は……裁定主様がお怒りになったのだろう。

 ──台手うてなて、すぐに新しい腸弦ちょうげんを!

 先胞さきがらがすかさず伝えてくれる。

 あの譜を奏でたいだけのために、壊劫えこうを引き起こしかねない満環蝕まんかんしょくを一瞬でも願うだなんて。

 台手うてなてが直ちに腸弦ちょうげんを持ってきてくれた。久しぶりに骨棹さおから手を離せば、爪からにじみ出した血で指板が血まみれになっている。

 リナニツェは新たに張った腸弦ちょうげんを弦巻きで調音し、〈阜易ふい〉に戻った。

 新しい太陽は現れるだろうか、我々の先行きを照らしてくれるだろうか──

 風と寒さがより激しくなった。

 

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続きは単行本『奏で手のヌフレツン』にて
お楽しみください。
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著者

酉島 伝法(とりしま・でんぽう)

1970年、大阪府生まれ。作家、イラストレーター。2011年、「皆勤の徒」で第2回創元SF短編賞を受賞しデビュー。『皆勤の徒』で第34回日本SF大賞を受賞。『宿借りの星』で第40回日本SF大賞を受賞。

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