ためし読み - 日本文学

三部作完結&『Change the World』舞台化記念 第二部『Change the World』冒頭試し読み

男は囁いた。死にゆく彼女の耳元で。「おめでとう。君が世界を変えるんだ」 ―― 最悪の渋谷テロ事件から2年。あの日の悪夢が、甦る……世界的人気漫画『ツリー・ブランチ』をキーワードに、本所南署の新コンビ・世田志乃夫と天羽史が繰り広げるシリーズ第二弾。

Change the World
秦 建日子

 

主要登場人物

■世田志乃夫(せた・しのぶ)………警察官・本所南署刑事課強行犯係勤務
■天羽史(あもう・ふみ)……………警察官・本所南署刑事課強行犯係勤務・世田の相棒
■泉大輝(いずみ・だいき)…………警察官・池袋署勤務・世田の元相棒
■高梨真奈美(たかなし・まなみ)…泉の彼女
■遠谷未来(とうや・みらい)………世田の親戚の子供・小学生
■秋山玲子(あきやま・れいこ)……南高輪小学校教員・錦糸町の公園で遺体で発見
■相沢愛音(あいざわ・あのん)……有名芸能人を親に持つ子供・小学生
■ヤマグチアイコ………………………?????

 

舞台『Change the World』情報

 

[公式HP]http://askcoltd.com/ctw-stage/
[出演]松岡 充
    辰巳雄大(ふぉ~ゆ~) ・剛力彩芽
[公演期間]2024年6月8日(土)~16日(日) 全11公演
[会場]サンシャイン劇場
[原作・脚本]秦建日子
[制作]Ask
[主催・製作]2024舞台Change the World製作委員会

 

 

 

 

===↓ためし読みはこちら↓===

 

 

 

男は囁いた。
死にゆく彼女の耳元で。

 

「おめでとう。君が、世界を変えるんだ」

 

 

 

 

 

 

 ザ・デイ。午後一時三十分。
 ハンドルネーム「アム」こと田村歩夢たむらあゆむは、JR水道橋駅の西口にいた。三十分後には、東京ドームで『ツリー・ブランチ』の大型イベントが始まる。歩夢はずっとこの日を楽しみにしていたのだ。『ツリー・ブランチ』とは、週刊スレイというコミック雑誌で連載されている世界的に人気の漫画で、歩夢もその熱烈なファンの一人だった。ちなみに、今日の歩夢の外見は、髪だけが真っ赤で他は青一色。Tシャツ、リュック、膝丈の短パン、スポーツシューズ、すべてを同じ質感の青に揃えてある。そして、顔には、無色透明の大きなゴーグル。これがすなわち、『ツリー・ブランチ』の主人公・監原かんばベルトだからである。歩夢は『ツリー・ブランチ』のイベントには、必ず主人公のコスプレをして参加することに決めていた。ちなみに、顔面積の三分の一ほどを覆うゴーグルには、実は悲運の末に死んだ監原ベルトの親友の魂が宿っており、普段は無色透明だが、怒りの感情の時は赤く、悲しみの時は紫に、そしてベルトを落ち着かせようとする時は、淡い青に変化する。その設定が歩夢は大好きで、いつかその設定まで再現できるゴーグルを手に入れるのが夢でもあった。
「アム!」
 遠くから、聞き覚えのある声が飛んできた。ハンドルネーム「監原ベルトの手先」。この場所で歩夢と待ち合わせをしている人物だ。
(来たか、手先!)
 呼び名が長いので、歩夢は彼を単に「手先」と呼んでいた。自分の手先だ。現実の職場に歩夢の手先=部下はいないが、『ツリー・ブランチ』の世界では別だ。
 辺りを見回す。
 が、手先の姿が見えない。
「手先? どこだよ?」
「目の前!」
「えっ?」
 目の前に立つ人物を見て、歩夢は唖然あぜんとした。
「ゆ、夕張ゆうばりマカ?」
「おう!」
 普段はダメージ・ジーンズに単なる白いTシャツ姿の手先が、今日は『ツリー・ブランチ』のヒロイン・夕張マカの格好をしていた。麦わら帽子とメロン形のイヤリングにメロン柄のワンピース、足首までの長く明るい茶色の髪。真っ赤な口紅。ベルトのゴーグルと同じくらい大きなメロン形フレームの伊達だてメガネ。ネイルとペディキュアももちろんマスクメロンの色と柄だ。
「アムは、間違いなくベルトで来るだろうと思っていたからさ。オレもいつまでも手先じゃつまんないなって。で、どう?」
 そう言って手先、いや、夕張マカはクルリと歩夢の前で回ってみせた。ひらりとワンピースの裾が舞い、メロン柄のパンティーまで見えた。よく出来ている。うん、悪くない。
「いやん。パンティー見ないでよぉう」
「いやん、じゃねえよ! つーか、完璧じゃん。すげえよ。いくらかけた?」
「まあ、それなりに頑張ったかな」
 全身を監原ベルトにするために、アムは十万を費やした。色の質感を揃えるのに、既製品の青の衣装ではどうしても上手うまくいかず、オーダーメードで染める必要があったからだ。夕張マカだともっと高いだろう。小物の点数も監原ベルトよりずっと多い。
「ていうかさ。今日という日に金を使いまくるためにこの一年は頑張ってきたからさ」
 そう言って、元・手先である夕張マカが胸を張る。歩夢と彼だけじゃない。今こうして会話している間も、二人の近くを『ツリー・ブランチ』の登場人物たちが次々と通過していく。
「みんな、気合い入ってるな」
「ドームに入ったらもっと金使うぞ! チャリンチャリン祭りだ!」
 だろうな、と歩夢は思う。歩夢もマカも、キャラの単推しではない。『ツリー・ブランチ』の箱推しだ。『ツリー・ブランチ』に出てくる全キャラが好きなのだ。なので『ツリー・ブランチ』に関するものならすべて欲しい。キャラごとにグッズが販売されれば、全キャラでゲットしたい。つまり、金はいくらあっても足りない。
「手先。俺がヤバくなったら、止めろよ?」
「今日は手先じゃなくてマカだから。いやいや、無理よ~。マカもアムも今日はチャリンチャリン祭りなんだから~」
「やっぱりかー。だな!」
「よし。ドーム、行くわよ♪」
 水道橋駅西口を出て、横断歩道を渡る。直進して歩道橋を上がると、東京ドームシティのゲートが見える。それをくぐって道なりに進めば、ドーンと巨大な東京ドームが見えてくる。
「エモい!」
 歩夢は叫ぶ。東京ドームを見るのは初めてではないが、やはり見るたび、入るたびに感動する。神奈川の田舎生まれ田舎育ちのせいかもしれない。
「マジ、エモいわー♡」
 マカも同じことを言う。マカは確か埼玉の西のはずれの方の人間だ。お互いの田舎度合いがちょうど良くて仲良くなったのだ。
「なあ。東京ドームって、なんで屋根が落っこちねえんだろうな?」
「マカ、難しいことはわかんなーい♪」
 更に進む。
 イベント会場入り口。
 と、ここで今日最初のサプライズ。入場者全員に予告されていないプレゼントが手渡されていたのだ。
「おひとりさま、おひとつです。どちらを選ばれますか?」
 モデルですと言っても通用しそうな美女が、紙箱を二つ手にしていた。
 最高だ。テンションが上がりすぎて鼻血が出そうだ。

 

 その後四時間。ふたりは存分に東京ドームでのイベントを堪能した。午後五時五十五分、歩夢とマカは、休憩ブースのベンチに並んで座っていた。ペットボトルのコカ・コーラ ゼロを飲みながら、コンソメ味のポテトチップスの大きな袋に手を突っ込んだ。大量のポテトチップスをボリボリと食べる。なんだろうか。この感情は? 『ツリー・ブランチ』のイベントでしか経験出来ない大量のアドレナリン。心臓がアホみたいにバクバクとしている。財布は既にからで、クレカの限度額も超えた。だが、まだ帰るわけにはいかない。六時ちょうどに何かが起きるのだ。何かが。そう『ツリー・ブランチ』の運営サイトが事前に予告をしているのだ。何だろう? 声優のサプライズ登場か? 原作者の伊勢原いせはらひでかず先生のサプライズ登場か? アニメ映画化の第三弾か? 実写映画化か? 舞台化か?
「ねえ、あれ、なあに?」
 マカが天井を指差した。東京ドームの天井に、いつの間にか巨大なティアドロップ型のスクリーンが現れていた。透明で、その中に全方向から数字が立体的に視認出来る不思議なスクリーンだ。それが、10から9、そして8と、ゆっくりと数字を減らしながら降下してくる。
「カウントダウンだ! くるぞい、マカ!」
「ヤバい、ヤバいよ、ベルト!」
 アドレナリンはマックスだった。そのせいで、マカが大事に胸に抱いていたウェディングドレス姿のマカ・フィギュア(マカが今日一番の大金を出して購入した。髪を撫でると声優の美山ミーの声でランダムに八つのフレーズを喋ってくれる!)が無くなっていることにすぐには気づけなかった。おそらくは、興奮のあまり変な動きをしたせいだろう。フィギュアは一メートルほど離れた地面に落ちていた。
「うわっ。マジかよ」
 マカのために拾いに行くが、一瞬早く、見知らぬ客がそれを蹴ってしまい、フィギュアは休憩コーナーのベンチ群の奥へと転がった。
「あーあー、もうっ、何してくれてんだよっ!」
 顔をスクリーンに向けたまま、マカのためにベンチの下に手を突っ込む。が、なぜか、フィギュアが手に触れない。きちんと一度目視をした方が手っ取り早いと思い、歩夢は思い切って地面に寝転んだ。
「3……2……1……」
 その間にもカウントダウンは進んでいく。フィギュアは思った以上に奥にいた。仕方ない。そのままグイッと体をベンチの下に入れた。
 その時だった。
 耳をつんざく爆発音が、東京ドーム中に鳴り響いた。地面が波打ち、後頭部をしたたかにベンチの座面の下側にぶつけた。
「な、なんだ?」
 更に立て続けに数発、爆発音。
 そして、鋭利なナイフのような形状のガラス破片が、上方から無数に降ってきた。
 刺さる。
 それは歩夢の太ももとふくらはぎに刺さり、無邪気に天井のティアドロップ型スクリーンを見つめていた元・手先の首筋に刺さり、その他東京ドームにいた一万人以上の参加者の大半に突き刺さった。歩夢はそのまま地面に突っ伏していた。四方八方から、歩夢に向かって赤い液体が流れてきた。人の血だった。ドサリと彼の隣りに元・手先が倒れる。歩夢は這うようにしてベンチ下から出た。
(何が起きてるんだ?)
 状況が飲み込めない。何もわからない。だが、とにかく逃げなければ! 血の海と化したイベント会場を、歩夢はひとり、走る。走って、走って、走って、途中、痛みにうめく参加者を数人蹴飛ばしてしまったがそれでも走り、なんとか端の壁まで辿り着いた。外へ! 外へ出るのだ!
 だがその直後、歩夢は慄然りつぜんとして立ちすくんだ。
 ゲートが、無い。
 つい数時間前に、自分たちが通過してきた入退場ゲートは、跡形もなく消えていた。

 

 

 

第一章

1

 

 子供たちの夏休みを直前に控えた七月のとある夜。東京都港区にある南高輪小学校の教員・秋山玲子あきやまれいこは、JR新大久保駅の改札前にいた。二十時に、友人の松本まどかとこの場所で待ち合わせ。その日は蒸し暑く、身体を竦めていても行き交う人たちと肌が頻繁ひんぱんに触れる。そのたびに、お互いの汗が触れて気持ち悪い。あと十五分、ここに立っているのかと思うとうんざりした。混雑の原因は、第三次だか四次だかの韓流ハンりゅうブーム到来のせいだ。
 まどかと知り合ったのは五年前の夏。当時、玲子は舞台観劇にハマっていた。芸能人を生で観ることにハマっていたと言った方がいいかもしれない。あの頃の玲子は、Twitterでチケット譲渡のツイートをしょっちゅうチェックしていた。公演日ギリギリになると「仕事の都合で行けなくなった」「同行者が風邪を引いてしまった」などの理由で良席のチケットが出回ることが多い。玲子は、そういうチケットを狙っていた。そんなある日、「同行者が仕事で行けなくなりました。一枚余っています。隣りには、私が座ります」というツイートが目に留まった。最前列のそれも真ん中近く。玲子はもちろんすぐにDMを送った。それが、まどかとの出会いだった。いくどかDMでやり取りをし、当日、劇場前で待ち合わせをした。玲子より五つ年上の「綺麗なお姉さん」。舞台観劇後に一緒に食事をし、ビールを飲みながら感想を言い合い、大いに盛り上がった。あれからほどなく、玲子もまどかも舞台への熱は冷めた。まどかは今は、二十歳以上年下のK‐POPアイドルグループにハマっている。まどかは玲子も仲間にしたいらしく、盛んに彼らのDVDやCDをプレゼントしてきたが、残念ながら玲子はいまだにK‐POPにはハマれていない。その代わりに、まどかに連れられ何度かこうして新大久保で韓国料理を食べに来ている。フローズンマッコリのしゃりしゃりとした喉越しがたまらない。カシス味など、ひとかめまるごと飲めてしまう。
 ホームに電車が停まり、人の波がまた大きく押し寄せてきた。韓国風メイクをした若い女性とひじがぶつかる。前に立つ四十代くらいの女性が、バッグからミニサイズのパウダースプレーを取り出し首に吹きかける。玲子の顔にまでそれがかかり、思わず顔を歪める。と、モーブピンクのショルダーバッグに入っていたスマホがブルッと震えた。まどかからのLINEだった。
「……マジか」
 仕事がまだ終わらないので待ち合わせ場所と時間を変えてくれと言う。
「ごめん。待ち合わせは、渋谷のハチ公前に変更してー」
「時間は、二十時四十五分で」
 即座に返信する。
「渋谷は気乗りしない」
 既読マークが付くのとほぼ同時に、メッセージが入った。
「渋谷のシュラスコ食べ放題のお店に行こうよ。めっちゃ人気あるお店なんだけど、ホームページを見たら二十一時からなら入れそう」
 ご丁寧に、店のURLも添えられている。そしてダメ押しのように、「渋谷にお金を落とすのも日本国民のつとめでしょ?」と追伸のメッセージが来た。
(国民のつとめ、か……)
 玲子は苦笑した。そのシュラスコの店は、以前は玲子自身も行きたいと思っていた店だ。渋谷のスクランブル交差点を渡ってすぐ。飲食店が入ったペンシルビルの地下一階。渋谷に行くのは嫌だけれど、まどかと会ってから、改めて店を探すのも正直面倒くさくはある。それに、いつまでも渋谷を苦手にしているのもどうかという気持ちもある。玲子は小さくため息をひとつ吐き、
「わかった」
 と、短く返信をした。

 

 二十時四十五分。
 玲子は、渋谷のハチ公前に移動していた。正確には、ハチ公のちょうど向かいにある緑色の車両の前に立ち、混雑した渋谷の雑踏を眺めていた。正直、渋谷にいるというだけで心がザワザワする。早くまどかが予約したはずのシュラスコ食べ放題の店に移動したい。だが、なかなかまどかは現れなかった。辺りを見回した。カメラを手にした外国人観光客のカップル。立ち話をしている若い男性グループ。ツーブロックの髪型をカラフルに染めている。いかにもキャッチセールスっぽいスーツ姿の男。化粧の下手な若い女。電子タバコを立て続けに吸っているホスト風の金髪。玲子の脳内で、ボンッと爆発が起きる。観光客のカップルが、カラフルな髪色の若い男性たちが、スーツ姿の男が、化粧の下手な若い女が、電子タバコを吸っている金髪男が、全員吹き飛ぶ。体がバラバラになり、不格好に千切れた肉片となる。
 玲子は、ハチ公像に視線を移す。
 あれは、二〇一六年十二月二十三日十八時半。ハチ公の首輪にしかけられた爆弾が爆発し、ここで何百人もの人が死んだ。いわゆるテロだ。玲子はその現場の様子を、勤務する小学校の職員室のテレビで観た。観てしまった。十八時半ちょうどに爆音とともにかつてのハチ公像が吹き飛び、玲子や職員たちは悲鳴をあげた。映像が揺れ、砂埃と噴煙で一瞬暗くなり、その噴煙が薄れると、向こう側から地獄絵図が現れた。ほんの数秒。テレビは現場中継をカットし、顔面蒼白のまま言葉を出せずにいる司会者たちに映像を切り替えた。でも、その数秒が忘れられない。その数秒だけで玲子はPTSDとなり、その後何年経っても、ふとした時にそれはフラッシュ・バックしてくる。
 やはり、渋谷は嫌いだ。
 世の中的には、もうあの事件は遠い過去のことであるらしい。犯人は人質を道連れに自殺したし、ハチ公像は再建された。大手広告代理店のクリエイターが手掛けたという新しいハチ公像は躍動感があり、表情は豊かで健気けなげさより可愛らしさの方が優っていた。でも、玲子にはあまりしっくりこなかった。目立ちたがり屋の女性都知事の主導で除幕式が盛大に行われたのも、メディアがこぞって新しいハチ公像を「平和の象徴」と報道したのにも、なぜか違和感があった。
 外国人観光客のカップルが、新しいハチ公を入れ込んで、一生懸命自撮りを始めた。男がカメラを持つのとは逆の手でピース。女は両手でピース。ピース。平和。ピース。ピース。ピース。
(もう、待たずに帰っちゃおうかな)
 そんなことを思いつつ腕時計に視線を落とした時、雑踏の向こうからようやくまどかが現れた。

 

 

2

 

 世田志乃夫せたしのぶは、フローリングに敷いた布団の上で目を覚ました。大きくあくびをすると、昨日食べた餃子のニンニクの香りが鼻についた。もし、この場に妻の……いや、元妻の真璃子まりこが居たら、「臭い」と鼻をつまみ、不機嫌な顔をするだろう。白いTシャツの下に手を入れ、重たい胃を撫でる。若い頃はなんともなかったが、ここ最近はニンニクで簡単に胃がやられる。かすかな吐き気を感じつつ体の向きを変え天井を見上げる。黒い虫が這っていた。
(クソ。頭も痛いじゃないか……)
 自嘲気味に呟く。明らかな二日酔いだ。昨夜、署の近くの中華料理屋で開かれた世田の歓迎会の紹興酒がまだ残っているようだ。
 腹に掛かっていたタオルケットを剥ぎ、上半身を起こす。六畳の和室とキッチン、そして申し訳程度のリビングしかない新しい我が家。引っ越しから一週間以上経っているが、荷物の大半はまだ段ボール箱の中のままだ。そう。渋谷署の地域課勤務だった世田は、昨日の七月二十日付で本所南署の刑事課・強行犯係に異動したのだった。
「世田君が、最後の異動だったな」
 世田に内示をした渋谷署の署長は、やけにしみじみとした口調で言った。
 二〇一六年十二月二十三日に起きた渋谷ハチ公前テロ。あの事件の捜査本部に入っていた警察官は、その後十数人も依願退職したと聞いている。PTSDによる精神疾患が原因だ。退職まではいかなくても、多くの警官が捜査本部解散後に異動を申し出た。事件当時、世田の相棒だった泉大輝いずみたいき巡査部長もその一人だった。事態を重くみた警視庁本部は、渋谷ハチ公前テロ事件の捜査に関わった警察官すべての異動願いを聞き入れてきた。そんな中、事件に最も深く関わったとも言える世田だけは、退職も異動も希望せず、淡々と犯人の思想的背景と、そして見つからない犯人の遺体を探し続けた。やつはどこかで生きているのではないか。そういう思いがずっと世田の脳裏から離れない。今回の本所南署への配属は、ごく普通の定期の異動だ。そろそろ事件のことは忘れろ。そう組織から言われたような気が世田はしていた。
 JR錦糸町駅北口から徒歩五分、七階建てのマンションの三階。窓は西。ベランダは北向き。二方向から光が入るので、北向き独特の暗さはさほどない。不動産会社の営業曰く、入学、就職、転職、異動の時期が一旦落ち着き、埋まることのなかった物件の家賃の値下げが始まったのだそうだ。1Kで十万だったこの部屋の家賃は、管理費込みで八万五千円に値下げされていた。エレベーターを降りて、右の南側には二部屋あるが、左の北側には世田の部屋しかない。つまり、左右に部屋がないので音をあまり気にしなくていい。そう営業マンはしきりにアピールしていた。離婚後、半年ほど滞在していたウィークリー・マンションよりも安いし、職場にも近い。世田は他の物件を見ることなく契約を決めた。すぐに引っ越し。そして、昨日、着任。
 寝転んだまま、床に無造作に放り出していたタバコを手に取る。紙箱に一緒に入れていたライターを取り出し、新たな一本を口にくわえたところでスマホが鳴り始めた。スマホもタバコと同様、床に転がっていた。手に取り画面を確認する。
天羽史あもうふみ
 時間はまだ朝の六時だった。
 天羽、誰だったか。痛む頭で思い出す。そうだ。昨日から世田の相棒になった本所南署の女性刑事だ。年齢は、二十五歳。刑事になってまだ半年の新人だ。
「世田だ」
 電話に出る。と、向こうから屈託のまるでない声が聞こえてきた。
「わかっていますよ。世田さんに電話をしたんですから。事件です。錦糸公園で女性の遺体が発見されました」
「そうか。わかった。着替えたらすぐ向かう」
「私、今、世田さんのマンション前に車をつけています」
「は? わざわざ迎えに来たのか? 錦糸公園なら歩いていけるぞ」
「車の運転、わりと好きなんで。あ、もしかしてですけど、今、パンイチですか?」
「は?」
「出たー。中年男のひとり暮らしはやっぱりパンイチですよね。やだ。まじウケるんですけど!」
 電話の向こうで、天羽はゲラゲラと笑っている。何が可笑おかしいのか、世田には理解出来なかったが、そのまま電話を切った。
 ザブザブと冷水で顔を洗い、元妻が大量買いしていたユニクロのエアリズムを着る。その上にワイシャツ。警察手帳を入れっぱなしにしているバッグを手に、二分で部屋の外に出て、マンションのエントランスに降りた。マンション前には黒いセダンが横付けされていて、その前に天羽が立っていた。悠々ゆうゆうとタバコを吸っている。白い半袖シャツに黒い細身のパンツ。背中の真ん中ほどまであるウェーブのかかった長い髪の色は、なんとパープル・ピンクだ。上司から何度も「髪を黒く染めろ」と、言われているらしいのだが、「ガッツリ刑事の見た目より、私みたいな方が被害者とか関係者が話しやすい時もあるっしょ? でしょでしょ?」と、のらりくらりかわしてきたのだという。
「待たせたな」
 振り返った天羽の顔を見て、ギョッとする。目の玉がうっすらと青く……カラコンと言うらしい……今にも重力でもげそうなほど巨大なまつ毛……エクステと言うらしい……をしている。唇も真っ赤で、パッと見は出勤前のキャバ嬢だ。
「なんですか? 私の顔になんかついてます?」
「いや」
 助手席に回ろうとしたところで、天羽が声をあげる。
「ストップ!」
「なんだ?」
「乗る前に、手を出してください」
「?」
 意味はわからなかったが、世田は手を出した。天羽は、その掌にポケットから取り出したミントタブレットを載せた。
「それ、食べてください。昨日、餃子山盛り食べていましたよね? 車の中、ニンニク臭くなるのは勘弁なんで」
 言われた通りにミントタブレットを口に押し込む。その間に天羽は、世田のスーツに勝手にファブリーズを吹きかけてくる。
「ヤニ臭いのも勘弁なんで」
 天羽は、世田の身体を回りながら、まんべんなくファブリーズを吹きかけていく。どうやら、世田の新しい相棒は、警察ではあまり見かけないタイプのようだ。ようやく助手席に乗り込む許可が出る。天羽が運転席。世田が助手席。車は錦糸公園に向けて出発した。
「どんな遺体か聞きたいですか?」
「いや。現場に行けば遺体があるだろう」
「そっか。先入観はいらないってタイプの刑事なんですね。あ、私にとっては、最初の殺人事件です。あ、寒いですか? 今日、暑いから冷房ガンガンに入れているんです。汗かくとかヤバいし。メイクが崩れるの困るし、あ、でも、フィックス・スプレーは、あ、わかんないか。メイク崩れ防止のスプレーですね。それ、使ってはいますけどね。一応。クールタイプの。あ」
 現場に着くまでの五分間。天羽は運転しながら一人で喋り続けていた。

 

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著者

秦 建日子(はた・たけひこ)

1968年生まれ。小説家・脚本家・演出家・映画監督。2004年『推理小説』で小説家デビュー。同作はドラマ&映画化。著書に『And so this is Xmas』『女子大小路の名探偵』他多数。

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