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ためし読み - 海外文学
アダニーヤ・シブリー『とるに足りない細部』 訳者あとがき全文公開
山本 薫
2024.08.26
著者アダニーヤ・シブリーは、1974年にパレスチナに生まれた。イースト・ロンドン大学で博士号を取得し、現在はベルリンを拠点に執筆活動を行っている。2002年に『触れる』、2004年に『私たちはみな等しく愛から遠い』を発表して注目を集め、2009年には39歳以下の有望なアラブ人作家39名を集めた「ベイルート39」に選出された。2017年にレバノンの名門文芸出版社ダール・アルアーダーブから刊行された本作『とるに足りない細部』(英訳タイトルMinor Detail)は各国語に翻訳され、全米図書賞翻訳部門最終候補(2020年)、国際ブッカー賞候補(2021年)になるなど高く評価された。
2023年にはアジア、アフリカ、ラテンアメリカ、アラブ世界の女性作家による作品を対象とするドイツのリベラトゥール賞を受賞し、同年10月のフランクフルト・ブックフェアで授賞式が行われるはずだった。しかしその直前の10月7日に、ハマースをはじめとするガザ地区のパレスチナ人武装勢力がイスラエル領内を奇襲し、イスラエルからガザへの報復攻撃が開始されると、賞の主催団体が授賞式の無期限延期を発表した。直後にフランクフルト・ブックフェアの主催団体がイスラエル側への完全な連帯を表明したことと併せて、世界各地の作家や出版関係者などから抗議の声が上がり、シブリーは一躍、国際メディアの注目を集める存在となった。
関係者からの要請を受けて応じたインタビューをもとにシブリーが執筆したエッセイ「かつて怪物はとても親切だった」(田浪亜央江 訳、『文藝』2024年夏季号掲載)には、この騒動の渦中に放り込まれた彼女のとまどいと静かな憤りが綴られている。「現実を離れて想像の世界をさまようことを生命線としている」シブリーにとって、ガザの事態にこじつけられ、イスラエルへの悪意を込めた作品であるかのように評されることは耐え難かったにちがいない。一方、本作の題材となったイスラエル部隊によるベドウィン少女のレイプ殺人は1949年に実際に起きた事件であり、裁判記録をもとにイスラエルのハアレツ紙が2003年に掲載したルポルタージュが作品中で言及されている。だが、それをもって本作を擁護しようとしたジャーナリストたちに対しても、彼女は違和感を表明している。シブリーは自分の作品が安易に政治や現実と結びつけられることなく、あくまでもフィクションとして読まれることを望んでいる。
それでも優れたフィクションは往々にして、時代を超えて現実と呼応し合う。たとえば、パレスチナ難民の作家ガッサーン・カナファーニー(1936-72年)が1963年に発表した小説『太陽の男たち』(黒田寿郎・奴田原睦明 訳『ハイファに戻って/太陽の男たち』河出書房新社、1978年に収録)は、当時のパレスチナ難民の状況を描きながらも、今も世界中で絶えることのない難民たちの決死の旅路と重なるアクチュアリティを備えている。本作『とるに足りない細部』も、第一部は1949年、第二部は2004年頃という時代設定ではあるが、この解説を書いている今まさに、ガザで進行している事態と確かに響き合っている。
それでも優れたフィクションは往々にして、時代を超えて現実と呼応し合う。たとえば、パレスチナ難民の作家ガッサーン・カナファーニー(1936-72年)が1963年に発表した小説『太陽の男たち』(黒田寿郎・奴田原睦明 訳『ハイファに戻って/太陽の男たち』河出書房新社、1978年に収録)は、当時のパレスチナ難民の状況を描きながらも、今も世界中で絶えることのない難民たちの決死の旅路と重なるアクチュアリティを備えている。本作『とるに足りない細部』も、第一部は1949年、第二部は2004年頃という時代設定ではあるが、この解説を書いている今まさに、ガザで進行している事態と確かに響き合っている。
本作の第一部では、1949年8月にネゲブ地方で起きたイスラエル軍部隊によるベドウィン少女のレイプ殺人が、加害者である将校の側の視点から描かれる。第二部では、その歴史上の事件を報じたイスラエル人記者の記事をパレスチナ人女性がたまたま目にし、取りつかれたように事件の詳細を追い求める過程が、その女性の一人称で語られている。
イスラエル兵側の証言だけで構成された記事を読んだ女性は、沈黙させられた少女の側の物語を求め、自宅があるヨルダン川西岸地区を偽の身分証を使って抜け出し、イスラエル領内深く分け入っていく。その道中で彼女は、国際法違反の分離壁やユダヤ人入植地の建設などによって分断され、歴史的な景観の改変が急速に進むパレスチナの現実を目の当たりにする。さらに、イスラエル建国以前のパレスチナを描いた地図と現在のイスラエルの地図を見比べながら、かつてそこに存在していたパレスチナ人の村落の多くが破壊されて、その記憶すら薄れつつあることに疎外感を募らせていく。
そうしてついに女性は、事件が起きた現場に辿り着く。そこにはかつてニリムという入植村が存在し、1948年5月14日にイスラエルが建国を宣言した翌15日、建国を阻止しようとした近隣アラブ諸国とのあいだで第一次中東戦争が勃発した際、エジプト軍と最初の戦闘が行われた場所だった。エジプト軍の攻撃を少人数で防ぎとめたニリムの戦いを記念して、現場にはその後、大きなモニュメントが実際に建てられ、すぐ近くにはスーファという入植村ができている。ニリム自体は北方に移転され、1949年にその跡地に配備されたイスラエル部隊の宿営地で、ベドウィン少女レイプ殺人事件は起きた。2023年10月7日の攻撃対象となったのは、まさにこのスーファや現在のニリムを含む、ガザ地区外縁部の入植村と軍基地だった。
イスラエルは近代ヨーロッパで広まった反ユダヤ主義を背景に、パレスチナに移住してユダヤ人国家の建設を目指すシオニズムという思想・運動に基づいて建国された。19世紀末以降、ヨーロッパからのユダヤ移民によって入植地がパレスチナ各地に作られ、人口増加と土地取得の拡大を通じた国家建設の準備が進められたが、その過程で元々パレスチナに居住していたアラブ人(=パレスチナ人)の生活基盤が崩されていった。ユダヤ人入植地にはさまざまな形態や規模があるが、本作の翻訳にあたっては、1948年の戦争でイスラエルが獲得した領域内にあるニリムのようなキブツ(村落共同体)については「入植村」の訳語を当てた。それは、1967年の第三次中東戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸地区や東エルサレム、ガザ地区に建設され、パレスチナ人との和平の妨げになっているユダヤ人入植地問題と区別した方が、多くの読者にとって理解しやすいと判断したためである。しかしアラビア語原文では双方共に同じ「入植地(mustawtana)」という単語が用いられており、パレスチナ人にとってみれば、いずれも自分たちの土地をユダヤ人入植者によって侵食されたことに違いはない。
作中でも述べられているように、元のニリムは将来のイスラエル国家の領域を拡大するための前哨基地として、1946年にネゲブ地方に建設された一一の入植村の一つだった。そして48年の第一次中東戦争以降は、難民となってガザ地区に押し込められたパレスチナ人の帰還を阻む軍事基地となった。またこの戦争では、ネゲブ地方に暮らしていた多くのベドウィンも土地を追われた。ベドウィンはアラブ人遊牧民のことであり、1947年にはおよそ9万人がネゲブ地方で半定住の暮らしを送っていたとされる。だが戦争後にイスラエル国内に残った約1万人は、政府が指定した居留地への移住を強いられた。作中に名前が出てくるラハトは、イスラエル政府の認可を受けた、国内最大のベドウィンの町である。
生活様式や慣習の違いから、ベドウィンはイスラエル建国当初より、ほかのパレスチナ人とは異なる扱いを受けてきた。イスラエル国防軍に志願する者も多く、国家に忠実な集団とみなされる一方で、土地を失ったベドウィンの中には政府の指定地域外に集落を作って暮らす者たちも多く、そうした未承認村はインフラが行き届かず、取り壊しの危機に常にさらされている。2023年10月7日にガザ地区から発射されたロケット弾は、こうしたベドウィンの脆弱な集落にも被害を出し、ガザ地区との境界付近の入植村で賃労働に従事していた数名のベドウィンが、人質としてガザ地区に連れ去られた。これは、イスラエルによって分断され、収奪され、周縁化された者同士のあいだで起きた悲劇と言えるのではないだろうか。
こうして本作は、半世紀前に起きたベドウィン少女のレイプ殺人というひとつの事件から、イスラエルの建国とパレスチナ人のナクバ(故国喪失の悲劇)という歴史の大きな像を浮かび上がらせていく。その手捌きはまさに、本作の88〜9頁で女性主人公が言及している歴史家カルロ・ギンズブルグの、一見とるに足りない細部から大きな歴史的現象を描く「ミクロストリア」という方法論を彷彿させる(88〜9頁の「美術の専門家」や「古い物語」の部分は、カルロ・ギンズブルグ 著、竹山博英 訳『神話・寓意・徴候』せりか書房、1988年に収録の論文「徴候―推論的範例(パラダイム)の根源」をふまえている)。
しかし小説としての本作の本領は、大きな歴史的現象を描くことよりもむしろ、勝者の歴史の陰に隠されたサバルタンの物語に光を当てようとするところにあるだろう。第一部では加害者である将校の一挙手一投足や、彼の目に映る光景が執拗に描かれるが、それはパレスチナ人の不在、とりわけ被害者であるベドウィン少女の表情や声の不在を際立たせる。第二部では女性主人公が、被害者の少女の側の物語を明らかにすることで歴史の非対称性に挑もうとするが、悲劇的な結末を迎える。
彼女を阻むのは、一つにはイスラエルによる占領と支配であり、それは景観の改変や土地の分断、居住や移動の制限といった物理的な面だけでなく、歴史の書き換えや隠蔽にも及び、「完全な真実」(91頁)に辿り着くことを不可能にしている。そしてもう一つは、どんなに女性主人公がベドウィンの少女に自己を投影したとしても、両者の間には埋められない距離があるということだ。都市在住の、現代的で自立した女性として描かれる主人公と、サバルタンであるベドウィン少女やその面影を宿した女性たちとのあいだには、乗り越えようとしても越えられない境界線があることが、ところどころで示唆されている。
このように本作は、著者アダニーヤ・シブリーの深い教養や洞察、そして何よりも過敏といっていいほど繊細な感性が結実した小説である。第一作の『触れる』と第二作の『私たちはみな等しく愛から遠い』では、不器用で孤独な人々の内面に深く入り込んでいたシブリーは、本作においてパレスチナの歴史的な苦しみと、その政治的・社会的現実の中でもがく人間の悲劇をはるかに広い視野から描き出した。
アラブの、特に女性作家の同時代的な作品がほとんど紹介されていない日本において、このような作品を翻訳する機会を与えてくれた河出書房新社編集部の石川詩悠さんに深く感謝したい。今回、私が本作を翻訳することになった背景としては、パレスチナ人作家エミール・ハビービーの『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』(作品社、2006年)を、私がアラビア語から日本語に翻訳した経験があったことが大きい。1974年に発表され、パレスチナ出身の世界的に著名な批評家エドワード・W・サイードによって、パレスチナ文学の傑作と評された小説である。1921年にパレスチナに生まれたハビービーは、48年のイスラエル建国とパレスチナのナクバを生き延びた当事者として、イスラエル支配下で失われていくパレスチナの記憶を留めるための作品を書き続けた。権力を笑い飛ばすパレスチナ民衆の抵抗精神(スムード)を持ち味とするハビービー作品と本作とでは、時代背景も文体も大きく異なるものの、イスラエルの支配下でパレスチナの景観の改変や歴史的ナラティブの隠蔽が進む中で感じる喪失感や疎外感といったテーマには、時代を超えて共通するものを感じる。また最後に、日本で本作をいち早く取り上げて研究し、この翻訳にあたっても様々にご教示いただいた広島市立大学の田浪亜央江さんに、特に感謝申し上げたい。
『とるに足りない細部』
著者:アダニーヤ・シブリー 訳者:山本薫
仕様:46変形判/仮フランス装/168ページ
発売⽇:2024年8⽉26日
税込定価:2,200 円(本体2,000円)
ISBN:978-4-309-20909-8
装画:坂内拓
装幀:山田和寛+竹尾天輝子(nipponia)
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