文庫 - 日本文学

あの日から5年――いま改めて読みたい名作小説。

『想像ラジオ』いとうせいこう『想像ラジオ』いとうせいこう

 

【解説】樹木が小説となった世界

星野智幸

 

「『想像ラジオ』ってどんな小説」と聞かれたら、私は「樹木が小説になった世界」と答えます。

 どういうことか?

 植物系の表現者(「草食系」とは違いますよ)であるいとうさんは、植物についてもさまざまなエッセイ集や対談集を本にしているのですが、育種家(植物を品種改良して商品化する職業)の竹下大学さんと対談した『植物はヒトを操る』(毎日新聞社刊)という本の電子書籍版では、竹下さんの口から驚くべき事実を引き出しています。

 いわく、「死んでる組織と生きてる組織があるのが木。生きてる組織だけなのが、草花です」(「電子版特別対談 刊行記念トークセッション」より)。木と草の違いは、体の一部が死んでいるか、全部生きているか、なのです。

 詳しい説明は次のとおりです。

竹 木をバウムクーヘンみたいに輪切りにすると、表皮とその内側に形成層があるんですけど、あのへんは生きています。水を吸ったり、養分を下ろしたり、細胞分裂したりしている。で、それより内側はもう死んでいます。材木になるところはいわば死体です。

い じゃあ、若いやつらが死体を抱え込んで立ってると。

竹 人間でいえば、骨は死んでる感じ(笑)。

 さらにこの本では、植物の場合はどこからどこまで死で、どこからが生か、はっきり判別がつけられない、とか、植物はどれをもってして個体というかわからない、といった話も繰り広げられます。

 生体と死体が切り分けられない形で、まさに一体となったのが木なのです。この事実は、『想像ラジオ』の次の言葉とほとんど同じに見えませんか

「……生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたつでひとつなんだ」

「えっと、例えばあなたとわたしもってこと

「そうそう、ふたつでひとつ。だから生きている僕は亡くなった君のことをしじゅう思いながら人生を送っていくし、亡くなっている君は生きている僕からの呼びかけをもとに存在して、僕を通して考える。そして一緒に未来を作る。死者を抱きしめるどころか、死者と生者が抱きしめあっていくんだ」(第四章)

 全編が会話だけで成り立っているこの第四章は、作家Sとその恋人だった、すでに死者となっている女性との対話です。でも、霊と話しているのではありません。作家Sが、女性のことを思い、彼女ならこんなことを言うかな、あんな反応をするだろうな、とどこまでも尽きない想像をめぐらせながら、自分たちの会話を書いているのです。それは架空とも事実ともつかない記述ですが、そのどちらともつかない場所こそ、死者と生者が抱きしめあっている時空といえるでしょう。

 その時空は、想像の中にだけ存在しているのではありません。じつは誰のまわりにも普通にあるのです。何度も言いますが、霊があちこちにいるという意味ではありません。身近で死んだ人の記憶を完全に忘却し去って生きている人は、誰もいないという意味です。死んだ人のことを思い出せば、自然にその時空は現れるのです。この小説では死者のいるその場所を、「想像の世界」と呼んでいます。

 さて、第四章では、生者が死者を思って会話を展開していきますが、では死者が生者からの呼びかけをもとに存在するというのは、どういうことでしょうか。

 第三章と第五章で、DJアークは『想像ラジオが聞こえないのはこんな人だ』コーナーを作り、想像ラジオの電波を受信できない人のことを想像します。DJアークとやりとりのできる人は、DJアークと同じ側にいる人、すなわちもう死んでいる人たちです。でも第二章でわかるとおり、生きている人でも受信できる人はいる。

 DJアークが、想像ラジオをキャッチできない生者にこだわるのは、自らうちあけているとおり、生きている妻と息子が、「魂魄(こんぱく)この世にとどまりて」いる自分の思いをキャッチしてくれない、自分も妻と子の思いを感じることができない、と苦しんでいるからですね。喪失とは、具体的にはこういう感情の謂いでしょう。

 そこでDJアークは何をするか ひたすら、想像ラジオをキャッチしていない生者がどんな思いで生きているかを想像し、小説として思いめぐらすのです。実際に文字を書けはしないので、想像の中で小説を作っていくのです。

 想像ラジオを聞けずに苦しみ、死者との回路を求めようと努める人の物語。これって、第二章や第四章の作家Sのことではないでしょうか DJアークの思いめぐらす小説とは、じつは『想像ラジオ』という、私たちが今手にしている小説そのものでもあるのです。

 さらに、DJアークの物語は、作家Sが想像したものだとしたら DJアークは自分を存在させている生者の物語を想像し、それをよすがとして妻と子を感じる回路を探そうとしていることになります。そしてついに、その瞬間が訪れる。

 複雑で訳がわからなくなってきたと思うでしょうか そのときは木を思い出してください。死んでいる部分と生きている部分が一体化することで、この世に存在している木。複雑に渾然一体化しているから、死んでいる部分だけを選り分けることはできません。生者と死者の関係も同じです。しかも「こんなに何千年も生きているのは、他の生命を数えていっても木ぐらいしかありません」(竹下さん)という。生と死が混在して抱きしめあっているからこそ、歴史は長生きできるし、私たちは生き続けられるのです。

 二〇一一年三月十一日金曜日の午後二時四十六分に東日本大震災が起き、津波が二万人近くの命を奪い、さらには福島第一原発を襲って破壊し、放射性物質が大気中にまき散らされ、周辺は人の住めない土地になっていったあの時間を、私たちは非現実的な異界に放り込まれたかのように過ごしました。戦時中になぞらえる人たちも大勢いました。大量の人が家を失って流浪し、放射性物質が飛び、原発がさらに巨大な惨禍(さんか)を引き起こすのじゃないかと、恐怖に襲われ続けるのが日常になったからです。

 しばらくすると、一般の人々が記録した津波の映像が、次々と公開されました。三階建て四階建てのマンションが灰色の水に飲み込まれ、太い鉄骨が(あめ)のように曲げられ、人の乗った車が木の葉のごとくもてあそばれている。その映像を私は見続けることはできませんでした。自分を形作っていた枠が決壊して、心がバラバラになりそうになるのです。関東にいたので直接津波に遭ったわけでもない私でさえ、軽いPTSDを負ってしまったのでした。

 そのときに私は、二〇〇一年にアメリカで起きた同時多発テロ事件の、ニューヨーク貿易センタービルに飛行機が突っ込むという映像が、どれほど被害者たちの心を傷つけたかを思い知りました。また、一九九五年の阪神大震災で被災した方の、内面に残った傷が今でも痛むであろうことを、実感として理解しました。

 私が『想像ラジオ』を読むのはいったい何回目になるでしょうか。両手では足りません。それでも、読めば必ず涙が出てくる。条件反射化している部分もあるかもしれないにせよ、読むたびに大震災の起きた時点に時間が戻るのです。これで自分は死ぬのだと思った揺れの最中、テレビで津波を観て心が壊れた瞬間、翌日に原発が爆発したのをテレビで知って体が震えた時が、今しがたのことのようによみがえります。この傷がすっかり癒えることはないのです。

 一方で、直接に身近な人を亡くしたわけでもないのに、つまり当事者とは言いがたいのに、悲嘆に暮れている自分に欺瞞(ぎまん)を覚えもしました。このつらさは自分にとって根源的で切実なものだと感じるのに、当事者ではないというやましさに(さいな)まれもする。また、小説を書いている者として、あまりに膨大な被害に、個々人の生死の体験としてどう捉えてよいのかわからない、という底なしの無力感にも襲われました。一人ひとりの体験は絶対的なもので、一つの大きな物語などにまとめることはとうていできません。といって、すべての人の体験を物語として収集して小説化していくなんていうことも、膨大すぎて不可能です。記憶を書き言葉で残すことが死者を生者の中にとどめる最良の手段なのだと思うのに、何もできない。

『想像ラジオ』は、それを読者の想像力を使うことで解決しました。読者が、自分たちの体験した死者との別れを、喪失を、自分たちの脳の中に記録しておけばよいのだ、という形で。この小説がしきりに促すのは、死んだ人のことに(とら)われていていいんだよ、忘れられずに思い返し続けるのでいいんだよ、そのまま一緒に生きればいいのだから、ということです。さらに、当事者じゃないからといって、やましく思うことはない、デリカシーを持ちながら、自分とは遠いはずの死者のことを思い続けてかまわない、とささやきかけてきます。作家SDJアークの声を聞けなかったけれど、大切な死者である彼女がハクセキレイという鳥になってDJアークと関わることで、間接的にDJアークを感じることができる。

 いとうさんは私との対談の中で、いつか、震災を知らない世代が「私たちは無関係だから語る資格がないと思ってはならないため」に、第二章を書いた、と述べていました(「群像」二〇一四年一月号)。その章で議論されたように、第二次大戦中の大空襲や広島・長崎への原爆投下によって亡くなった死者たちのことを、あの時代には生まれていなかった私たちが記憶し、語ってもよいのです。むしろ、無念な喪失を体験したときこそ、無関係と思われた死者たちを思い、実感することができるのですから。なぜなら、「ゆらゆらした透明な物質」と第四章で表現される、悲しみの感情を抱いたとき、生者は見知らぬ死者とさえ、抱きしめあうことができるようになるのだから。悲しみという感覚は、「透明だけど水の底みたいに揺れ」「揺れがかすかに自分にも来る」「共振出来る冷たい物質」なのです。だから、この小説では悲しむことも肯定されます。

『想像ラジオ』は、東日本大震災での喪失を、生き残った者たちが受け入れるために、死者と生者が渾然(こんぜん)一体になれる時空を作り出しつつ、その時空は東日本大震災を超えるものであることを示しました。地球上のあらゆる生と死が、それこそ樹木のように一体化している時空を作り出したのです。端的に言えば、その時空こそが、文学という場にほかなりません。文学はその誕生のときから、死を生の中に流し込むことで歴史を記憶してきました。『想像ラジオ』は文学の最先端に開いた、新たな入り口なのです。

 震災から四年がたち、はっきりと忘却という暴力が猛威を振るい始めている今、樹木が生長して生き続けるような形で私たちも未来と歴史を作っていくために、『想像ラジオ』はいつまでも必要であり続けるでしょう。

注)本解説は2015年2月の文庫刊行時に書かれたものです。

 

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著者

いとうせいこう

1961年生れ。出版社の編集を経て、音楽や舞台、テレビなどでも活躍。88年『ノーライフキング』でデビュー。99年『ボタニカル・ライフ』で講談社エッセイ賞、2013年『想像ラジオ』で野間文芸新人賞を受賞。

【解説】星野智幸

1965年、ロサンゼルス生まれ。早稲田大学を経て、ラテンアメリカへ留学。映画の字幕やラテンアメリカ文学を翻訳。1997年、「最後の吐息」で第34回文藝賞受賞。

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