文庫 - 外国文学

【試し読み】天才作家エドウィン・マルハウスは、傑作『まんが』を遺して11歳で夭折した。

『エドウィン・マルハウス』
スティーヴン・ミルハウザー
【訳者】岸本佐知子訳

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スティーヴン・ミルハウザーの傑作長篇『エドウィン・マルハウス』を文庫化! 最高にダークで狂熱的なコドモの世界が描かれ、読んでいると自分の子供時代の記憶まで掘り起こされるような感覚におちいる濃密な作品です。訳者の岸本佐知子さんも「私の他の本を読んだ読者の方々が、いつかこの本にたどりついてくれるといいなとひそかに願っていた作品でもあるので、本当にしみじみ嬉しい」(本書「訳者あとがき」より)とのこと。
今回は、全68章のうちの第1章と第2章。ありし日の天才作家への追憶を綴った冒頭部分です。

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【各氏絶賛!】

小説の面白さとおそろしさがたっぷりと詰まっている。
控えめに言って、僕が今まで読んできた小説の中で
最上のもののひとつだ。
──伊坂幸太郎氏

切実で、キュートで、少し悲しくて、絶対に美しい。
少年時代のすべてが描かれている小説です。
──西加奈子氏
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【立ち読み】

 

第1章

 一九五四年八月一日の午前一時〇六分に、その悲劇的な死によってアメリカ合衆国が失った最も才能豊かな小説家エドウィン・エイブラハム・マルハウスは、コネティカット州ののどかな郊外の町ニューフィールドで、一九四三年八月一日午前一時〇六分に生まれた。彼の父親エイブラハム・マルハウス教授は、ニューヨーク市立大学で長年にわたり英語の講師を務めたあと、一九四二年九月、ニューフィールド大学に助教授として赴任した。彼はそれに先立って同年七月に、妻のヘレン(旧姓ロソフ)と共に質素な二階建ての家に移り住んでいた。一九四七年三月に第二子カレンが生まれ──云々。
 エドウィンならここらで本を投げ出しているか、少しばかり機嫌のいい時なら、ページから顔を上げ、眉のあたりに皺を寄せてこう言うだろう。「僕にとって一番興味のないこと、それは事実なんだ。記録しておきたまえ、ジェフリー君」僕の名前は、ジェフリー・カートライトという。
〝子供の頃を振り返ってみると〟と、彼は手紙(日付はないが、僕の記憶では一九五四年四月二十六日となっている)の中で書いている。〝思い出すのはまんが、アニメ映画、クレヨン、綿菓子、ピエロ、そして万華鏡だ〟。サーカスは常に彼を退屈させていたので、ピエロというのは明らかに噓である。万華鏡にしても、パズルやコーンフレークのおまけや風船ガムの自動販売機に比べれば、エドウィンにとっては取るに足りないものだった。そうは言うものの、この手紙に散りばめられた言葉遊びからもわかるように、彼がこのコメントをした気持ちのほうは、かなり信用していいだろう。つまり、エドウィンは常に遊んでいたのだ。彼は何やかやと口実を作っては、大人たちにゲームを買ってもらっていた。マルハウス家では、一年中がクリスマスのようなものだった。しかし、どんなゲームも長続きすることはなかった。エドウィンは一つのゲームに何日間、何週間、あるいは何か月かのあいだ熱狂的に身を投じ、ある日突然興味を失って、二度とかえりみなかった。それでいて、どのゲームも決して捨てられなかったので、彼の愛した子供部屋はしだいに博物館の様相を帯びていった。ある意味で、彼はモノポリーのコマをペンに持ち替えたというだけで、死ぬまで遊び続けたのだ。
 今でもはっきりと思い出す。両開きの窓の横、ストライプのカバーがかかったベッドの上に、エドウィンがあぐらをかいて座りこみ、背中を丸め、唇の端から舌の先をのぞかせながら、お気に入りの漫画本をトレーシングペーパーの上からなぞっている。そこから三メートルほど離れた、窓のない壁添いに予備のベッドがあって、その上で、赤いコーデュロイのズボンと黄色いTシャツの幼いカレン・マルハウスが座って、ビューマスターを目に当てて天井の電灯を覗いている。その二人の中間で、がたがたする緑色の折り畳み式テーブルに向かい、パズルの枠と複雑な形のピースの山に取り組んでいるのが、この僕だ。突然、目のくらむような閃光が走る。カレンが叫び声を上げてビューマスターを取り落とす。僕が驚いて目を上げると、銀色のフラッシュ付きの二眼レフを構えたマルハウス氏が戸口のところに立っていて、笑いながらウィンクしている。エドウィンだけは前と同じ姿勢のまま、一種狂気にも似た静かさで手元の作業に集中している。彼はちゃんと知っている。もう少ししてフラッシュの熱が冷めたら、父親が熱で溶けたブルーの電球をくれることを。そして、柔らかくなったガラスを指で押して遊べることを。
 変わって一九五三年の夏。エドウィンは眼鏡をかけ、ストライプのベッドにあぐらをかき、ブルーのノートに鼻を埋めている。部屋の反対側の予備のベッドには、エドウィンのお下がりの、荒馬が飛び跳ねている柄のカウボーイシャツにジーンズをはいたカレン・マルハウスが腰かけ、がたがたする緑色の折り畳み式テーブルの上に拡げた、穴のたくさん空いたボードの上で白のコマをジグザグに動かしている。僕は古い折り畳み式の椅子に座り、カレンのダイヤモンドゲームに付き合いながら、内心では彼女がチェスのやり方を知っていればいいのに、と考えている。そしてまたフラッシュ。「パパ!」カレンが叫ぶ。僕は声を立てて笑い出す。「しーっ」エドウィンが言う。僕の後ろに灰色の本棚が二つ、片開きの窓をはさむように置いてあり、その一方の上の段には、モノポリーやクルー・ゲーム、キャメロット、ソーリー、ポリアンナ、パーチージが積み重ねてある。

第2章

 それでも、もちろん彼は常に書いていた。マルハウス夫人はエドウィンの書いたものを彼の最初の字の練習(“A IS FOR APPLF”)から、最後のなぐり書きの手紙にいたるまで、可能な限りすべて、夫の論文の写しを入れるはずだった三冊の黒のバインダーに保存していた。エドウィンにその方面の才能があることがわかるずっと前、彼が赤ん坊の時から、彼女はそのコレクションを続けてきた。マルハウス夫人はまた、息子のクレヨン画や水彩のスケッチ、成績表、赤ん坊の頃の靴、そしてぼろぼろになったシャウムのピアノ教則本のようなものまで保管していた。なかでも、一年生の時の、黄色い紙に青い罫の入った書き取りの答案用紙は興味深い。そこに見られる言葉の羅列(tip, top, tap, pit, pot, pat, spit, spot, spat)に、あの不朽の名作『まんが』の作者の萌芽を見ようとするのは、おそらく行き過ぎというものだろう。しかし、エドウィンの研究家であれば、のちの彼の作品における言葉遊びとそれらとの関連性に驚かずにはいられないはずだ。じっさい、エドウィンは自分の書いたものに非常な愛着を持っていた。黒いバインダーの中のたどたどしい鉛筆書きの『家族新聞』(これには彼の最も初期の作品が収録されている)や、注意深くタイプした詩を大判の本の形に綴じたもの(九歳の時の作品)などを見ることによって、エドウィンは自分が選ばれた才能の持ち主であるという認識を深めていったに違いない。言うまでもなく、まさにマルハウス夫人の狙いもそこにあった。彼女は神童を息子に持ったのであり、エドウィンにその自覚をいっときも失ってほしくなかったのだ。エドウィンは、自分の姿をカメラで写真に収め始めるずっと以前に、自分の幼いころの習作を熟読するようになっていた。三年生にしてすでに彼は、初期作品集を出版した作家の自覚をはっきりとそなえていた。四年生になって間もない頃、マルハウス家の知人の一人が、エドウィンがローズ・ドーンに捧げた詩を出版社に送った。しかし、そのもくろみがうまくいかなかったのは、エドウィンにとっては幸運なことだった。

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*続きは本書でお楽しみください。

関連本

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著者

スティーヴン・ミルハウザー

1943年ニューヨーク生まれ。小説家。72年本書でデビュー。96年『マーティン・ドレスラーの夢』でピューリツァー賞受賞。ほかに『イン・ザ・ペニー・アーケード』『バーナム博物館』『ナイフ投げ師』など。

【訳者】岸本佐知子

1960年生まれ。翻訳家。主な訳書にM・ジュライ『いちばんここに似合う人』、L・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』。編訳書に『居心地の悪い部屋』他。著書に『気になる部分』、『ねにもつタイプ』がある。

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