文庫 - 日本文学

身が震えるほど感動的な新生のドラマ。

『カノン』

中原清一郎

 

記憶を失う難病の32歳・女性。末期ガンの58歳・男性。男と女は「脳間海馬移植」で、互いの肉体に“入れ替わる”。

「神について一言も言及せずに、人間の心を支配するのが神であることを伝える傑出した小説」──佐藤優氏。

 

【評者】中条省平

 

外岡秀俊「北帰行」のあの衝撃をどう伝えればいいだろう。東大法学部4年生、23歳の青年がこの作品で文藝賞を受賞した。
1976年、私は22歳だった。人生でいちばん美しい年齢などとっくに過ぎ、ゴダールの革命にもローリング・ストーンズの反逆にも飽きていた。大学に籍はあったが授業にはまったく出ず、その時代にそっくりのシラケた若僧だった。一方、「北帰行」の主人公は過剰なまでに真摯に、文学と政治のあいだで自分の生きるべき道を模索していた。私はそんな主人公を軽侮し、そんな自分を深く嫌悪した。「北帰行」には時代に真正面から戦いを挑む青年の熱がこめられていたのだ。
あれから37年。外岡秀俊が中原清一郎となって発表した『カノン』には文学と政治の影はない。過剰に理づめで熱っぽいモノローグも消えて、冷静に統御された端正な散文がある。長い歳月を経て、生真面目な文学青年は、成熟した小説家に生まれ変わった。そして、政治と文学をめぐる終わりなき内省よりも、はるかに深く普遍的な問いに切りこんでいる。まずはそのことに感嘆する。
舞台は近未来の日本、設定はSF的である。人間の記憶を司る脳の海馬が移植可能となり、末期ガンに冒された58歳の男性・北斗と、死に至る記憶障害を病む32歳の女性・歌音のあいだで、海馬の交換移植が行われる。北斗の意識が若い歌音の体に入り、ガンと記憶障害で死に向かう歌音の消えゆく意識が残される。なぜ歌音はそんな運命を甘受したのか? それは、自分の体を用いて北斗に4歳の息子・達也を育ててもらうためだった。
このSF的思考実験は十分にスリリングに描かれる。その科学的根拠、法制度の諸問題、被験者の家族たちの気持ちの乱れ、そして、女の肉体に入りこんだ男の意識が立ち向かう数々の困難。この作品は緻密に組みたてられた冒険小説としてもじつに面白い。
しかし、この冒険は肉体と精神の閾をめぐるものであり、意識と記憶という人間の根本条件を相手にすることで、人間とは何か?という哲学的な問いかけにもなっていく。記憶を失うことは個人にとって死にも等しい苛酷な経験だろう。だが、個人はほかの人々の記憶に残ることによって死を超えるともいえるのではないか? 人の死は単に生物学的個体の消滅ではないのだ。
かくして、意識と記憶の交換をめぐるSF的実験小説は、人間の条件に関する哲学的な問いを通過しつつ、人間と人間の触れあいから生まれる感情の物語へと変容していく。人間と人間の触れあいのなかで最も濃密な感情が生まれるのは、親子の関係においてである。一つの小さな命を育むには、それと命をひき換えにするように全身の力を注ぐ大人が必要なのだ。幼い達也を育むために、北斗の意識と歌音の肉体はそんな奇跡のような関係を生き、カノンという新たな人間をつくりだす。身が震えるほど感動的な新生のドラマである。

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著者

中原清一郎

1953年生まれ。76年東大在学中に外岡秀俊名義で書いた『北帰行』で、文藝賞受賞。現在、「外岡秀俊」名でジャーナリストとしても活躍。著書に小説『ドラゴン・オプション』のほか『3・11 複合被災』等多数。

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