『コンダクター』 6
日没の吉祥寺で少女誘拐事案が発生。被害者は大会社社長の娘で、 捜査は極秘裏に始まった。担当刑事野村と被害者の父には、ある 事件で因縁があり…。

コンダクター

『コンダクター』 6

第3章

 

 

六月九日午前八時を回った頃、吉祥寺の三笠邸には、野村、東原に加え、誘拐事案を専門に扱う刑事部捜査一課第一特殊班捜査係の捜査員たちが集結していた。

野村は、犯人から具体的な要求が入ったとの報を受け、第一特殊班の投入を瀬田に進言した。瀬田もここに至ってはやむを得ず、三笠を説得し、第一特殊班を捜査に加える決定を下した。

全体の指揮は野村が執ることになった。

野村は京王井の頭線の各駅に、捜査員を配置することにした。現在、三笠邸内では、捜査員たちが準備を行なっている。

サラリーマンやOLの格好をした者、ラフな服装を着た若者ふうの者、近所に出かけている主婦や老人を装った者と様々だ。若者ふうの者は音楽プレーヤーのイヤホンを模した受信機を持たせている。老人を装った者は補聴器様のもの、サラリーマンやOLふうの捜査員は、ラジオやICレコーダーのイヤホンを偽った連絡用受信機を付けさせていた。それぞれが、それぞれの受信機の感度をチェックしている。

広いリビングの奥にはテーブルが設置され、ノートパソコンが複数置かれていた。その脇には、金を入れるための紙袋と三笠がビジネスマンを装うためのバッグがある。

紙袋とバッグには発信機が取り付けられていた。極薄のシール状の発信機だ。紙袋の方は折り返しの内側に取り付けた。ビジネスバッグは、インナーポケットの奥に貼りつけた。

犯人は、金の入った紙袋を電車内の網棚に放置し、三笠には渋谷でその車両を出るよう指示している。本来、紙袋だけに発信機を付けていればいいが、野村は、万が一、三笠自身が拉致されることも想定して、ビジネスバッグの方にも発信機を取り付けさせた。

テーブルの脇には東原がいて、特一の捜査員と共に、電波受信の最終チェックをしていた。

野村はリビングのドア付近に立ち、全体を見渡していた。

と、ドアが開いた。顔を向ける。少し安めのスーツを着込んだ三笠が入ってきた。後ろには澪もいる。

三笠は野村の横で立ち止まり、同じように室内を眺めた。

「三笠さん、眠れましたか?」

「眠れるわけがないだろう」

三笠が言う。確かに、目は少々赤みを帯びていた。

金の亡者も人の親か……。野村は小さく微笑んだ。

「しかし、こんなに人数が必要なのか?」

三笠が訊くともなしに訊いた。

「これでも足りないくらいです。本来なら、事件発生当初から、この倍の人数をかけるべき話ですよ」

チクリと刺す。

三笠は仏頂面で息を吐いた。

「これだけ、大掛かりな態勢を敷くんだ。千尋は無事に救出してくれるんだろうな」

「最善を尽くします」

「確約はできんということか?」

「犯人側の出方がわかりません。あらゆる事態を想定してはいますが、時として予想外のことも起こるものです」

「やはり、頼りにならんな、警察は」

「あなたにどう思われようと、我々はベストを尽くすのみですから」

野村は涼しい顔で受け流した。

澪が野村の傍らに来た。

「野村さん。ビジネスバッグのチェックは終わりましたか?」

「おそらく。セイさん、バッグの発信機の電波チェックは終わったのか?」

野村が声をかける。

「ああ、ばっちりだ!」

東原は右手の親指を立てた。

「ということですが」

野村は澪を見た。

「ビジネスバッグをお借りしてもよろしいですか?」

「何をするんです?」

「犯人は、三笠に普通のサラリーマンを装えと言ってきました。空のバッグでは怪しまれてしまいますし、といって、なんでも詰め込めばいいというものでもありませんし。こちらで用意させていただこうかと」

「そうですか」

野村はじっと澪を見つめた。澪は静かに見返していた。

目の端に三笠の様子が映る。三笠はちらちらと野村と澪の様子を交互に見ていた。

「わかりました。ただし、発信機は絶対に外したり、圧迫したりしないでください」

「承知しています。道具を入れるだけですから」

澪が微笑む。

「セイさん。有島さんに、ビジネスバッグを渡してくれ」

「わかった。どうぞ」

東原が手招く。

澪は電波を監視しているデスクまで行くと、東原からバッグを受け取った。澪が戻ってくる。

野村は東原を見た。東原は小さく頷き、電波を追っているノートパソコンに目を向けた。

澪が部屋を出た。三笠は澪を目で追い、部屋を出たことを確認して、視線を部屋に戻した。

 

 

午前九時を過ぎた頃、聖蹟桜ヶ丘にある家から、松川と上田が出かけようとしていた。玄関口で松川が靴を履く。スニーカーにジーンズというラフな格好だ。

上田は先に準備を済ませ、松川を待っていた。廊下には谷岡と千尋が立っている。

松川が靴紐を締め、立ち上がった。顔を上げる。

「じゃあ、行ってくるよ」

谷岡と千尋を見やる。

「気をつけて」

谷岡が言う。松川は頷いた。

「ここまで来て、しくじらないでよ」

千尋が二人を見た。

「心配するな」

上田が返す。

「千尋ちゃん。金を受け取って、安全な場所に移動したら、すぐ晋ちゃんに連絡を入れる。その時点で、ここから出て行ってくれてかまわないから」

松川が言う。

「待っててもいいの?」

「いいよ……と言ってあげたいところだけど、状況次第では、僕らもこの家に戻らないかもしれない。君は、僕から連絡が入った時点で出ていく方が賢明だ。でないと、共謀と取られかねないからね」

「そっか。わかった。じゃあ、ここでお別れだね」

「ああ。今まで、不自由な思いをさせて悪かった」

松川が頭を下げる。

「あのよ……」

上田が口を開いた。

「何?」

千尋が上田を見やる。

上田は言い出しにくそうに視線を右へ左へと向けた。静かに千尋を見つめる。

「誘拐したとき、殴っちまって悪かった。この通りだ」

そう切り出し、深々と腰を折る。

「今さら、何よ」

「確かに、今さらだな……」

上田はバツの悪そうな顔を見せた。

「反省してるんならさ。二度とこんなことしなくていいように、今日一発でキメてきなよ」

千尋は右の親指を立てた。

「そうだな。成功させるよ」

上田も指を立てる。

「元気でな」

「あんたも」

「おう」

上田は笑顔を見せ、先に玄関を出た。

「じゃあ、千尋ちゃん。僕も行くよ。元気でね」

松川が言う。

千尋は頷いた。瞳が若干潤む。

「晋ちゃん、あとは頼んだよ」

「うん。連絡待ってる」

谷岡が言う。

松川は頷き、外に出た。一足先に玄関を出た上田が車庫から白いワゴンを出し、表門の前で停車していた。

松川は助手席に乗り込んだ。

「準備は?」

上田が隣を見た。

「大丈夫」

松川は後部に目を向けた。ベビーカーや人形、タオルケットが置かれている。

「行こう」

松川が声をかけた。

上田は首肯し、アクセルを踏んだ。

 

 

午前十時を過ぎた。三笠邸のリビングにいた捜査員たちは家を出て、各人、配置に就いた。

野村は、京王井の頭線の各駅のホームに捜査員を置いた。急行の停まる主要駅には五人から六人。その他の各駅しか停まらない駅には、ホームの広さに合わせて三名から四名の者を配置した。

始発終着点となる吉祥寺駅と渋谷駅には八人の捜査員を送り、怪しい者がいないか見張らせ、東原が担当している司令本部に逐次報告を入れさせている。

今のところ、犯人らしき怪しい人物は現われていない。

三笠はいったん、自分の書斎に戻っていた。

野村はリビングを出て、三笠の書斎を訪れた。

ノックをすると、澪の返事が聞こえ、すぐさまドアが開いた。

促され、中へ入る。三笠は、クッションの利いた背もたれの高い椅子に深くもたれていた。

「三笠さん、そろそろですが、大丈夫ですか?」

「まだ、早いだろう?」

「そうですが、そろそろ出かける準備を」

「わかってる」

三笠はぞんざいな口ぶりで言うと、肘掛けに両肘を置き、大きく息を吐いた。

「有島さん、カバンの準備はできましたか?」

「ええ、できましたが」

「一応、中身を拝見させてもらえますか?」

「どうしてです?」

「余計な物が入っていると、電波の受信具合にも影響しますので」

野村は言い、澪と三笠の様子を視界に入れた。

特に変わった様子はない。澪がバッグを持ってきた。ファスナーを開き、口を開ける。中を覗いた。大きめのバインダーが二つと雑誌や新聞が入っている。

「見てもいいですか?」

「どうぞ」

澪が言う。

野村はバインダーを手に取った。開く。社内秘の決算書類が閉じられていた。

「本物ですか?」

「はい。こだわりはないんですけど、やはり、ビジネスバッグには本物を入れておいた方がいいと思いまして。偽の書類だと犯人に悟られては、意味がないでしょう」

「いい心がけです」

野村はバインダーを戻した。

澪がファスナーを閉じる。

「野村さん。さっき言いました通り、これは本物の社内秘書類です。なので、出るまでこちらで預かっていてかまいませんか?」

澪が訊く。

野村は澪と三笠を見た。澪の表情は変わらない。三笠は興味なさそうにそっぽを向いている。

「いいでしょう。ただし、発信機には触れないよう、くれぐれもお願いしますよ」

「承知しています」

澪は言い、カバンを持って三笠の脇へ歩み寄った。机の傍らにバッグを置く。

野村はバッグの所在を認め、三笠に顔を向けた。

「三笠さん。あと三十分ほどでここを出ます。私や部下があなたのあとをついて行きますが、くれぐれも私の方を見たり、駅に配置している捜査員たちに目を向けたりはしないでください」

「わかってる! あんたこそ、しっかりやってくれ!」

「最善を尽くします」

野村は会釈し、外に出た。

しばし、ドア前で立ち止まり、部屋の中の物音に聞耳を立てる。取り立てて、おかしな物音は聞こえない。

野村は小さく頷き、本部を置いているリビングへ戻った。

 

 

澪はドア口に近づき、廊下の音に耳をそばだてた。一瞬、野村の足音が止まった。が、まもなく、足音が遠ざかっていく。

澪がドアから離れ、三笠の脇に戻ってきた。

「気づかれなかったか?」

「おそらく、大丈夫です」

澪は言い、その場に片膝を突いて屈み、バッグのすぐ横にある机の大引き出しを開けた。新聞紙でくるんだ四角い包みがある。

バッグのファスナーを開き、中身を全部出すと、その四角い包みをバッグの中に入れた。包みはすっぽりとビジネスバッグに収まった。

すり替えるために、澪が用意していたものだ。帯封の付いた新札の百万円の束をブロックパズルのように並べ、ビジネスバッグにきれいに収まるよう、準備していた。

取り出した中身は、大引き出しに入れ、閉めた。ファスナーも閉じる。立ち上がって、ドア口を見た。開いた気配はない。

澪はポケットから小さなダイヤル式の鍵を出し、ファスナーの金具とバッグの金具を止めた。

「おい、それ、怪しまれないか?」

「大丈夫です。社外秘の書類を入れているから念のためと言えばよろしいかと」

澪はこともなげに言った。

「社長はとにかく、これを犯人に渡すこと。そうすれば、千尋ちゃんは戻ってきますから」

「……そうだな」

「あと少しですが、休まれてください。時間になったら、顔を出しますので」

澪は頭を下げ、部屋を出た。

三笠は三千万円の入ったビジネスバッグに目を落とし、大きく息をついた。

 

 

同時刻、上田は、吉祥寺駅から西へ一キロほど行った場所にある高架下の駐車場にワゴンを停めた。駅から少し歩くせいか、停車している車は少なく、とても静かなエリアだった。

上田はエンジンを切った。横に顔を向ける。

「いよいよだな」

「ああ」

松川が頷く。目元は心持ち強張っていた。

駐車場の先に柵があり、その先に高架下の公園が続く。松川が三笠と接触するのは、停車位置から三百メートルほど先にある砂場だ。そこには、円形のオブジェのような滑り台やトンネルがあり、駅から歩いてくると、砂場の位置が死角になる。そこで、三笠が持ってきたビジネスバッグと自分たちが用意しているバッグをすり替える。

「ホームレスがいるな」

上田が公園の方を見やり、呟いた。

松川が目を向ける。空間の中央付近に木製のアスレチック器具がある。その脇に紙袋を持ったホームレスが座っていた。薄汚れたジャンパーを着て、帽子を目深に被っている。顔も浅黒いがヒゲは剃っていて、小綺麗な印象を受ける中年のホームレスだった。

「どかしてこようか」

上田はドアハンドルに指をかけた。

「いや、いいよ。ひょっとしたら、いつもいるホームレスかもしれない。今日に限っていないということになれば、警察に勘繰るヒントを与えることになる」

「だけどよ。あのホームレスをおまえと間違って、三笠がビビっちまったら、それこそ怪しまれるんじゃねえか?」

「大丈夫。手は打ってある」

松川は言った。

「なんだよ、それ。俺が知らないことがあるのか?」

「ごめんごめん。ちょうど、対策を話し合っていた時、洋介いなかったからな。伝えたつもりだったけど」

「おいおい、頼むぜ。ここへ来て、共有できてないってのは問題だ」

「そうだな。実は──」

松川は対策について、要点をかいつまんで話した。

上田は目を丸くした。

「そんな仕込みをしてたのか!」

「一応ね。電車の現金を誰も取りに来ないというのはおかしいだろう?」

「そうだけどな。しかし、うまくいくのか?」

「大丈夫。金に困ってる連中がいそうなところにばらまいてるから。一人、チャレンジしてくれるヤツがいればいいだろ? チャレンジしなくても、狙おうとするヤツが四、五人集まれば、十分に警察の目を逸らすことができる」

松川は言い切った。

「まあ、どっちにしても、もう退けねえもんな。他に隠してること、ねえだろうな?」

「ないよ。あとは、時を待つだけだ」

「どうする?」

「ジタバタしても仕方がない。休んでおこう」

松川はシートを倒した。ボディーに身を隠すように横たえる。

「そうだな」

上田もシートを倒し、仰向けに寝転がった。

 

 

午前十時半、澪が三笠の書斎をノックした。ドアを開け、顔を覗かせる。

「社長、そろそろお時間です。野村さんが下でお待ちです」

「わかった」

三笠は重い腰を上げた。

金を詰めたビジネスバッグを取り、部屋を出た。部屋の前では澪が待っていた。目を合わせ、互いに頷くと、澪が三笠を煽動するように階下へ降りていく。

玄関ホールで野村が待っていた。右耳には補聴器型の受信機を。襟にはラペルピン型のマイクを付けている。

「三笠さん、少し休めましたか?」

「どう休めというんだ」

仏頂面で答える。

「それもそうですな」

野村は微笑み、ビジネスバッグに目を留めた。

「おや? 鍵など付いていましたか?」

目ざとく見つける。

「これは──」

三笠が口を開こうとした時、澪が割って入った。

「一応、中に詰めているのは、先ほど見ていただいた通り、弊社の社外秘資料ですので、万が一がないよう、万全を期させていただきました」

「本当ですか?」

野村が三笠を見やる。

「本当だ。私もそう言おうとしたところだ」

三笠は睨むように野村を見返した。

野村は腕時計を見た。時刻が表示されているのは、腕時計上部の細い部分だけ。液晶の文字板には、三笠のバッグから発信されている電波が拾えるようになっていた。

電波を受信している証拠となる点滅を見つめる。ほぼ真ん中で点滅している。バッグが野村の近くにあることを示している。発信機を取り外したわけではないようだ。

「まあ、いいでしょう。三笠さん、私とそこに待機している部下二名は、あなたの背後からあなたを監視します」

野村は玄関口で待っているスーツを着た若い捜査員二人を指した。

「犯人が直接、三笠さんに接触してきた時のための護衛も兼ねています。安心して、犯人の指示通り、振る舞ってください」

「安心などできんがね」

「知っておいていただけるだけで結構です。では、行きますか」

野村が促す。

三笠は緊張した面持ちで玄関へ向かった。革靴に足を通す。澪が靴べらを差し出す。三笠は靴を履き、靴べらを澪に返した。野村と捜査員二人も靴を履いた。

「先に出てください。我々は距離を取って、あなたのあとに続きますので」

野村が言う。捜査員の一人がドアを開けた。

「この状況を見張られているということはないのか?」

「周辺もパトロールさせています。犯人グループがよほどの大人数でない限り、家まで見張っているということはないでしょう」

「なぜ、大人数でないとわかる?」

「要求は三千万円です。たとえば、十人でこの誘拐事件を実行しているとすれば、一人頭三百万。割に合わない額です。多くても五人、いや、私は二人か三人の若者の犯行だと睨んでいます」

「なぜ、若者だと?」

「電車を使うことを考えているからです。年配者であれば、まず車を使って逃走することを考えるでしょう」

「本当かね?」

「あなたもそう感じているのでは?」

野村が聞き返す。

三笠の眦が一瞬揺れた。

「まあしかし、あなたの言う通り、犯人の人数が多く、あなたが家を出るところから見張られているという可能性もなくはありません。事前に、そうした可能性を踏まえ、近辺は別の捜査班に当たらせていますからご安心ください。あなたは、今はともかく、犯人の指示通りに動くことだけを考えてください」

野村は言い、玄関口にいた捜査員を見る。

捜査員は頷き、三千万円の入った紙袋を持ってきた。

「三笠さん、これを」

差し出す。

三笠は受け取り、ビジネスバッグと共に右手に持った。

「そろそろ出ましょう。十時五十六分の電車に乗り遅れるとまずい。どうぞ」

野村は三笠の背に手を当てた。

「社長」

澪が声をかける。

三笠は澪を見た。

「大丈夫だ。行ってくる」

澪に強く頷いて見せ、三笠が玄関を出た。少し間を置いて、若い捜査員二人が玄関を出る。

「有島さん。あなたはリビングにいて、ここから出ないように。必ず、捜査員の誰かの目に届くところにいてください」

「承知しました」

澪が言う。

野村は頷き、三笠邸を出た。

 

 

野村は三笠と百メートルほどの距離を取り、若い捜査員を先行させ、三笠の姿が見えるか見えないかの場所を歩いた。

三笠と捜査員が過ぎた後、さりげなく周囲を確かめる。三笠を尾行している者がいるかもしれないからだ。ただ、あまりキョロキョロすると、犯人に気づかれるかもしれない。少しくたびれた中年を装い、時折顔を上げ、周囲を見回した。

特に怪しい者は見当たらない。駅近くになると、街の風景に溶け込んでいる捜査員の姿が見て取れた。

駅の構内に入る。と、三笠邸に設けている本部から無線連絡が入った。

──マルM、改札潜りました。

マルMというのは、三笠自身を表わす隠語だった。

野村は頷き、腕時計型の受信機を見た。三笠は間違いなく、百メートルほど先のホームへ入っていた。

野村は切符を買い、周囲を確かめつつ、改札を潜った。

三笠は犯人に指定された〈2号車1番ドア〉の乗車枠に並んだ。乗客のふりをした捜査員たちが、ぱらぱらと真後ろに付いたり、他の乗車枠に並んだりして、三笠の周囲を固める。

野村は乗車枠に向かうふりをしつつ、全体の動きを確認した。

──IN17、配置完了しました。

本部からの連絡が、野村の耳に届いた。

アルファベットと数字は、駅を表わすナンバリングだ。INは京王井の頭線を、17は吉祥寺駅を示している。そこから一駅ずつ番号が減り、渋谷はIN01となる。

──IN14、配置完了しました。

──IN08、配置完了。

続々と野村の耳に報告が届く。

──IN01、異常なし。内外配置完了しました。

渋谷駅からの報告が入る。

野村は小さく頷いた。

犯人が金を奪取する可能性が最も高いのは渋谷だ。駅へ着いて、吉祥寺からの急行が折り返し各駅停車の吉祥寺行きとなって出発するまでに時間がある。

また、渋谷は乗降客が多く、改札を出た後も多数の人で混み合い、他の鉄道への乗り換えも容易だ。いったん人混みで見失えば、発信機は付けているものの追跡は困難を極める。

それだけに始発着駅である渋谷と吉祥寺には人数を割いた。

──電車、到着します。

吉祥寺駅構内にいる捜査員から各無線に連絡が入る。野村は一両隣の1号車4番ドアに並んだ。

1号車4番ドアの奥には車椅子やベビーカー用のフラットスペースがある。

野村と共に三笠警護を兼ねた監視役の捜査員二人はそれぞれ、三笠の後ろ、同車両隣の2号車3番ドアに並んだ。

渋谷からの電車が到着する。同電車がそのまま折り返し、十時五十六分発の急行渋谷行きとなる。

犯人がどこに現われ、どうやって身代金を確保するつもりなのか、見当が付かない。

しかし、電車の網棚に置いた紙袋を奪取しなければ、彼らの実入りもないことだけは確かだ。

身代金目的の誘拐がほとんど成功しないのは、そこにある。

犯人側は、最後は現物を手にしようとする。その時必ず捜査側に姿を見せる。あるいは、なんらかの痕跡を残す。そこから足が付く。

今回は、犯人が誘拐に使用したと思われる車種や犯人グループの全体像も、不確定ではあるがつかめている。

現金受け渡しの際、確保できなかったとしても、辿る道筋はある。

もっとも、人質となっている千尋の安否が最優先だ。金が渡ったところで、犯人グループが千尋を解放するとは限らない。

野村は犯人を検挙して口を割らせる方法が一番だとは考えているが、金を取られて、紙袋に付けた発信機を追尾して犯人の根城を特定する手段も悪くないと思っている。

万が一、取り逃がした時は、すぐさま発信機電波追尾捜査に切り替えるつもりだった。

その旨は、今回参謀を務めてくれている東原にも伝えていた。

──マルM、所定の位置に着座。Rも所定の位置に設置完了。

Rというのは、ランサムマネー、身代金の頭文字の〝R〟を取った隠語だ。

つまり、三笠は2号車1番ドアの1号車側にある優先席の一番端に座り、その真上の網棚に紙袋を置いたということだ。

野村は対角線上となる1号車4番ドアの車椅子スペースの手すりに尻をかけ、折り畳んだ新聞を読むふりをしつつ、それとなく2号車を覗いてみた。

三笠の姿は確認できないが、2号車に待機している捜査員が野村と目を合わせ、小さく頷いた。

野村は新聞で顔を隠し、ワイシャツの襟に口元を近づけた。高感度マイクを仕込んでいる。

野村からの電波は、三笠邸に置いた本部を介し、直接捜査員たちの耳に届くようになっていた。

「マルMは配置についた。もうすぐ電車が動き出す。これより電車が往復する一時間弱が勝負だ。些細な変化も見逃さぬように。よろしく頼む」

野村は言い、少しだけ新聞の端から目元を出した。目が合った捜査員たちはそれぞれ、かすかに首を縦に振った。

出発の合図がホームに鳴り響く。駆け込んでくる乗客に目を向ける。車内はそこそこの混み具合となった。

ドアが閉まる。

いよいよだ──。

野村は新聞に隠した口元をしっかりと締めた。

 

 

松川は閉じていた目を開き、腕時計を見た。時計の針は午前十一時前を差していた。

むっくりと上体を起こす。

「さて、そろそろいくかな」

車中で腕を小さく上げ、伸びをする。

「まだ、早いんじゃないか?」

上田が運転席から声を掛けた。

「いきなり砂場に父子連れが現われるというのも妙な話だろう? 周りから見ても不自然じゃないようにして待機しなきゃ」

そう言うと、松川はスライドドアを開いた。

シートを倒し、車のボディーに隠れるようにして荷台に積んだものを出す。

ベビーカー、赤ん坊の人形、タオルケットだった。

松川はベビーカーを開いて組み立て、その上に赤ん坊を乗せ、口元までタオルケットを被せて人形の体を包んだ。

上田も出てきて、松川の作業を見守る。

松川は助手席のドアを開け、グローブボックスからICレコーダーを取り出した。

「それ、何が入ってるんだ?」

「これだよ」

松川は音量を下げ、再生した。

赤ん坊の声が流れてきた。泣き声もあれば、笑い声もある。何かをしゃべるような声もあるし、ただ甘えているだけのような声も入っている。

「これをここに入れて」

松川はタオルケットの中にICレコーダーを入れた。附属の小さなリモコンスイッチをポケットに入れる。

「こうすると──」

ポケットの中で再生する。

と、あたかも、ベビーカーの中の赤ん坊が泣いているような雰囲気が漂った。

「すごいな。でも、もっと本格的なものもありそうな気もするが」

「仕込みに金をかけても意味がないだろう? これから一時間程度、警察や公園に集まる周辺の人たちにバレなきゃいいだけだ。晋ちゃんとも相談して、これで十分だという結論に至ったんだよ」

「俺がいない間に、そこまで話していたのか。悔しいが感謝だ」

上田が言う。

「いいんだよ。策を練るのは僕と晋ちゃんの役目。運転や肉体関連のことは全部洋介に任せている。金を受け取って逃げるときにはよろしくな」

「ああ、任せておけ」

上田は親指を立てた。

「しかし、肝心の赤ん坊、そんな人形みたいなので大丈夫なのか?」

「それも問題ないよ。こうすれば」

松川はベビーカーの開口部をすっぽりと包む黒編みのサンシェードをかけた。人形の顔が薄陰に隠れ、本物のように見える。

「ほう、これなら大丈夫そうだ。だが、よく赤ん坊のことを知っているな」

「バイト先の先輩女性が出産したとき、ベビーカーで息子さんを連れてきたんだ。その時にベビーカーがあまりによくできているんで、赤ん坊をあやす傍ら、いろいろ訊いてみた。ただの興味でしかなかったんだけど。なんでも訊いておくもんだね」

「本当だな。その母親も、まさか身代金を奪うために使われるとは思ってないだろうが」

上田が笑う。

松川も笑った。

「いつか、僕たちにも本物の家族ができて、洋介の運転で三家族一緒に旅行できたりすると楽しいな」

「いいな、そういうのも。どうせなら、同じ地区に住んで、同じ学校に通わせよう」

「そうだな。僕たちと同じ、幼なじみにさせよう」

松川は目を細めた。

「そのためにも──」

松川が真顔になる。

「今日は成功させよう」

「おう」

上田が右手を広げる。

松川も右手を広げた。親指を絡め、しっかりと握り、見つめ合い、頷く。

「じゃあ、僕はこの子を連れて、ちょっと近所を回ってくるよ。怪しい動きがないかどうか探るためにね」

「俺は?」

「車中で待機しておいてくれ。できるだけ、運転席からは見えない方がいい」

「俺も偵察しようか?」

「大人数で動くより、一人の方が目立たない。洋介は、逃走時の運転だけ、しっかり頼む。ハードになるだろうから、それまで体を休めておいてくれ」

「わかった」

上田が強く首肯する。

松川はベビーカーのハンドルを握った。

上田は運転席へ戻ろうとした。が、足を止め、松川を見た。

「そうだ、尚人。その子、男なのか? 女なのか?」

「女の子だよ」

「へえ、そうか。名前は?」

「未来」

松川が笑みを滲ませる。

上田も笑みを返した。

「気をつけてな」

「行ってくる。万が一、警察に不審がられたときはいったんここを出て、他の場所で待機しておいてくれ。洋介だけ、金の受け取り時間にここへ戻ってきて、僕を案内してくれればいいから」

「うまくやるよ。頼んだぞ、俺たちの未来を」

上田はサンシェードに隠れた赤ん坊を見つめた。

「ああ。行ってくる」

松川は頷き、〝未来〟を連れて駐車場をあとにした。

 

 

午前十一時十二分、吉祥寺を出た急行電車が渋谷駅に滑り込んだ。

三笠が席を立った。連結器近くのドアにもたれ、下車を待つ人々の最後尾に付いている。ビジネスバッグは手に持っているが、金の入った紙袋は網棚に置いたままだった。

三笠監視役の二人の捜査員は少し距離を取り、脇を固めた。その他捜査員も周囲に目を配っている。

野村も1号車4番ドアに並んだ。三笠の方には目を向けず、降車する客を装う。

が、胸中はざわついていた。

渋谷に到着するまでの間、特に気になる報告はなかった。

いや、なさすぎた。

金の受け渡し現場には、捜査員の緊張感とは別に、犯人側の刺すような目線というか、ピアノの低音域を乱打するような不穏な空気が漂うものだ。

しかし、そうした雰囲気を微塵も感じない。

つまり、犯人がここにいないということでもある。

ただのロートル刑事の〝勘〟でしかないが、野村は自分が受信している違和感を大事にしていた。

なんらかの行動に出るはずだ──。

野村がホームに降り、それとなく周りを見回していたときだった。

三笠監視役の捜査員の一人から、緊急無線が飛び込んできた。

──マルM、急ぎ改札を出ていきます。

「なんだと?」

野村は三笠の方を見た。

最後に降りた三笠が、人混みを縫うように改札へ足早に向かう。

「聞いていないぞ」

野村が呟く。

三笠から聞いていたのは、急行到着後、反対側のホームに停車している折り返しの吉祥寺行き急行電車に乗るということだけだ。

三笠の姿が人混みに埋もれていく。

京王井の頭線は、武蔵野以西が急速に発達し、人口が増えたせいもあり、ホームの動線がうまくできていない。そのため、始発着駅では乗降客でごった返す。

「マルMを見失うな」

野村は命令し、すぐさま三笠を追った。

三笠はビジネスバッグを手に、自動改札へ向かっていた。空いている自動改札機を見つけ、すたすたと歩いていく。

後方に三笠監視役の捜査員も見える。他の捜査員も三笠を包囲するように続く。

野村も周囲に目を配りながら、別の自動改札機に急いだ。

──マルM、改札を出ました。

「追尾しろ」

野村は襟に口元を近づけて命じ、自らも切符を自動改札機に通し、外へ出た。

が、すぐ監視役から連絡が来た。

──マルM、再び、改札を潜りました。

「何?」

野村は足を止めて三笠に目を向けた。

三笠は改札を出てすぐ踵を返し、構内へ戻った。そのまま急行へ向かっていく。

──マルM監視交代。

命令し、自分は急ぎ、切符を買いに行く。

三笠の監視役は渋谷駅にも置いていた。野村以外の者まで反対側の急行電車へ乗り込むのはさすがに不自然だ。万が一、犯人が様子を見ていた場合、すぐに捜査側の動きを悟られる。

犯人から指令を受けた陽動か?

それとも、三笠のスタンドプレーか?

いろんな考えが脳裏を巡る。だが、深慮している時間はない。

野村は切符を買い、ジャケットを脱いで裏返した。リバーシブルのジャケットは濃茶のスエード地に替わった。内ポケットに差していた野球帽も出し、目深に被る。そして、急ぎ構内へ戻った。

急行発車を告げるベルが鳴り始める。

──マルM、2号車3番ドアより乗車。七人掛け真ん中に着座。

短い報告が入る。

「4号車4番より乗車した。マルM監視は継続。他の者は予定通り、遂行のこと」

野村は言い、車内を歩き、2号車へ向かった。

戻りの電車にいる捜査員は、先ほど乗ってきた急行の半分以下だ。その他の人員は網棚に金を置いた折り返しの各駅停車吉祥寺行きに振り当てた。

野村や監視役の捜査員の役目は、三笠を無事に自宅へ戻すことだ。犯人の検挙は、第一特殊犯捜査係を中心としたメンバーに任せてある。

野村は2号車に入った。乗客はそう多くない。三笠は七人シートの真ん中に、バッグを抱えるように背を丸め、小さくなって座っている。

野村は対面するシートの右端に腰を下ろした。帽子のつばを摘み、少し上げて三笠を見やる。

三笠が視線に気づき、野村を一瞥する。が、すぐさま顔を伏せた。

妙だな……。

野球帽を目深に被り直し、寝ている中年男性を装う。

ちらりと見せた三笠の表情が気になった。

出かけたときより、緊張しているように見えた。

本来なら、大金を持って、いつ現われるかもしれない犯人を待つ渋谷行きの電車での方が緊張するのではないだろうか、と思う。

帰りはただ、自宅へ戻るだけだ。事の推移が気になるにしても、大役は果たした。

何か、隠しているのか?

そのように思える。だが、三笠とあからさまに接触できない今、確かめる術がない。

眠ったふりをして目を閉じ、様々な可能性を模索する。

自分が犯人であれば、どうする──。

これまでに接した犯罪者の心理を思い出し、自らが犯人となって考えてみる。

野村の耳に、異常なしとの連絡が次々に飛び込んでくる。電車も動き出した。が、いずれもを感じられないほど、野村の思考は深くなっていた。

 

10

 

谷岡は聖蹟桜ヶ丘のアジトの一室でパソコンのモニターを見つめていた。

「何を見ているの?」

千尋が後ろから覗く。

「どんな反応か、確かめていたんだよ」

「反応って?」

「これの」

谷岡はモニターを指差した。

モニターには黒地に白と赤の枠の怪しげなサイトが映し出されていた。

その中には、雰囲気に違わない怪しげな文言が飛び交っている。

架空口座、トバシ携帯、振り込め詐欺マニュアル、ランサムウェイといった言葉から、誘拐や殺人といった物騒なものまである。

「何これ……」

千尋は気味悪そうに顔をしかめた。

「闇サイトだよ」

「ニュースなんかでやってる、犯罪に使われるというやつ?」

「よく知ってるね」

肩越しに千尋を見やる。

「そのくらいは知ってるわよ。え、何? 晋ちゃんって、そんなに悪い人だったの?」

真顔で訊く。

「まさか。知ってるだけで、使うのは今回が初めて。ていうか、今回しか使わない。どうせ、このサイトもあと二、三ヶ月もすれば消えると思うけどね」

「今回使うって、身代金の受け渡し?」

「そうそう。これ見て」

谷岡は画面をスクロールさせ、自分がアップした部分を見せた。

千尋は谷岡の右肩に顎を預けるようにして、画面を覗き込む。

千尋の髪の端から甘酸っぱい香りが漂ってくる。千尋の肌の温もりもほんのり感じる。谷岡は少し頬を赤らめた。

千尋は谷岡の心情など気にも留めず、書いてある文章を読んだ。

「ちょっと、これ、本当なの!」

目を丸くする。

「うん。これでいいんだ」

「そんなにうまくいく?」

「意外とね。こういうサイトを覗く人たちって、スキルを持っていて好奇心旺盛な人か、切羽詰まっている人。切羽詰まっている人たちは、必ず試みるよ。僕たちがそういう経験をしてきたんだから、切羽詰まっている人たちの心理はよくわかる」

谷岡は語勢を強めた。

「あまり知りたくない心理だね」

「確かに」

谷岡は自嘲した。

「そろそろ始まる。あとは、尚ちゃんたちから連絡が入るのを待つだけ。三、四十分といったところだと思う。もうちょっとでお別れだね」

「そうだね……」

千尋が少し淋しげな表情を覗かせる。

「最後に、僕の特製ココア、飲んでいく?」

「あ、いいね。作り方、教えといてよ。あれ、好きなんだ」

「よかった、気に入ってもらえて。じゃあ、二階のテーブルに戻ろう」

谷岡は千尋を連れて、二階に上がった。

 

11

 

三笠や野村を乗せた急行は、すでに久我山まで戻ってきていた。あと一つで終点の吉祥寺だ。

捜査員たちから、明大前駅を過ぎたあたりから、不審な人物が複数人乗ってきたとの報告が届いている。

それがホンボシかはわからない。

特一の捜査員の報告だから、見た目の印象だけで物を言っているとは思わないが、野村の腑に落ちるものではなかった。

野村は終始うつむき、思考を巡らせていた。が、なかなか犯人の思考に行き当たらない。

若いと思われる犯人たちは、詰めの甘さは随所に感じられるが、行き当たりばったりの乱暴な手法を採っているとも思えない。

どちらかといえば、理知的だ。少なくとも、絵を描いている者は馬鹿ではない。時刻表ミステリーさながらに電車を使うあたりも、その片鱗を臭わせる。

だが、このままでは身代金を奪取できない。

それほどの者なら、捜査員がすでに動き回っていることは織り込んでいるだろうし、電車内で金を奪ったとしても逃走できないことくらい容易にわかる。

しかし、犯人はその手法を指示してきた。

先ほどの三笠の予期せぬ行動も、おそらく指示の一環なのだろう。

が、その意図が見えない。

何を考えているんだ……。

パズルのピースが頭の中で揃わなかった。

野村は息をつき、顔を上げた。

三笠を見つめる。三笠は、渋谷駅からずっとビジネスバッグを抱えたままだった。

ふと、気になった。

なぜ、あのバッグを後生大事そうに抱えているんだ?

会社の重要書類が入っているとはいえ、犯人が三笠の追い落としを画策している反体制派の人間でない限り、三千万円の価値など持たないものだ。

どうしても金が欲しい犯人がバッグを手にすれば、中身を見て焼却炉に放り込んでしまうだろう。

犯人は会社の者なのか?

これまでの調べでは、その線は薄い。

もう一度、洗い直してみる必要があるか?

三笠を見つめる視線が鋭くなる。

三笠がやおら顔を上げる。野村の視線に気づく。三笠はバッグに目を落とすと、何かを隠すように顔を背け、バッグをギュッと胸に抱いた。

なんだ、今のは……?

あきらかに不自然な仕草だ。

バッグを見つめる。

バッグにはMIKASAの社外秘のファイルが詰まっている。それは確認した。間違いない。

「間違いない……?」

独りごちる。

ちょっと待て。あのバッグの中身は確認したが、それは出かける三十分前のことだ。その後、有村澪がバッグを預かり、三笠邸の書斎にあった。

書斎から降りてきた時、三笠の手にあったバッグは小さなダイヤル錠でロックされ、中を確かめられなくなっていた。

多少の疑いはあったものの、三千万円の現金は紙袋の中にあったことで、確認は必要ないと判断した。

しかし、もし、バッグの中身が違っていたら……。

野村はさらに双眸を開き、立ち上がった。

三笠に歩み寄る。監視役の捜査員たちが驚いて、野村に目を向けた。野村の行動に戸惑った様子を見せる。

「三笠さん」

声をかける。

三笠の両肩が大きくびくんと跳ねた。顔は上げない。

「バッグの中身を確認させてもらえませんか?」

「何を言うんだ!」

つい、声が大きくなる。

周囲の乗客たちの視線が一斉に集まる。

野村はバッグをつかんだ。三笠はバッグを抱いたまま立ち上がる。そのまま三笠をドアの近くまで連れていく。

顔を近づけ、小声で訊く。

「その中身、身代金じゃないですか?」

途端、露骨に眦が引きつった。

「犯人から指示で、まだ私に話していないことがあるのでは?」

目の玉を覗き込む。三笠は激しく動揺し、黒目が泳いだ。

「話してください」

「隠し事はない」

「三笠さん!」

「隠していることはないんだ!」

三笠は怒鳴った。

車中がざわつき始めた。監視役の捜査員二人が駆け寄ってくる。

「野村さん」

声をかけ、二人の間に割って入ろうとする。だが、野村は三笠から目を離さなかった。

「三笠さん。犯人たちに金を渡しても、千尋さんが戻ってくるとは限らない。この機を逃せば、リスクは大きく高まる。犯人を確保するのが一番なんです。あなたが勝手な真似をしたせいで、娘さんにもしものことがあればどうするんですか」

「それはそれで──」

「仕方なくはない!」

野村は肩をつかんだ。

三笠はびくっと身を竦ませる。

「あんた、本当に彼女を助けたいのか! 娘の命をなんだと思っているんだ!」

「貴様に言われる筋合いはない!」

三笠が手を振り払う。

野村はバッグを奪おうとした。三笠が抵抗する。

「野村さん!」

「三笠さんも」

捜査員二人が双方の腰の後ろから腕を回し、引き離そうとした時だった。

──本部至急! 犯人が現われました!

「なんだと!」

野村はイヤホンを親指で耳に強く押し当てた。

──永福町駅にてRを収奪! 現在、永福町駅周辺を逃走中! 犯人複数!

「探せ! 検挙しろ!」

野村は命じた。

「何があった?」

三笠が訊く。

「犯人が現われたそうです」

「えっ?」

三笠は困惑した様子を見せた。

「おかしいですか?」

「あ、いや……。で、捕まえたのか?」

「現在、捜査員が追っています」

「必ず、捕まえてくれるんだろうな」

「全力を尽くします」

「また、それか。頼りにならんな」

三笠は野村の胸を突き飛ばし、座っていた席に戻った。

バッグは、今までとは違い、太腿にぽんと置いて手を添えるだけだった。

その態度の急変ぶりにも違和感を覚える。

が、犯人は現われた。

杞憂か……。

釈然としないまま、吉祥寺駅へ着くのを待った。

 

12

 

午前十一時半前、松川はベビーカーを押して周囲を探索し、公園へ戻ってきた。

少し小綺麗なホームレスはベンチに横たわり寝ていた。起きる様子はない。これなら邪魔にはならないだろう。

御殿山の三笠邸の前も通りかかった。中の様子は窺い知れないが、正門から覗く庭あたりにそれとなく刑事のような姿を認めた。

予想通り、警察は動いている。動いていない方がおかしい。

が、それでいい。

腕時計に目を落とす。

「うまくいっていれば、今頃、大騒ぎだろうな」

ほくそ笑む。

谷岡とはもう一つ、計画していた。

それは、紙袋に入った金の情報を闇サイトに流すことだ。

今日の午前十一時二十八分、明大前駅発の吉祥寺行き1号車4番ドア付近の優先席の網棚に、紙袋に入った金が三千万円ある。警察は当然ガードしているが、見事、警察の追跡を振り切って手にした者には、その金をすべて与える。

そう、掲示板に流した。

普通に生きる人間なら、たかだか三千万円で人生に棒を振るなどバカバカしい話だろう。いや、そもそもそんな都市伝説めいた話を信じない。

だが、切羽詰まった者は違う。

たった百円でも欲しい。その日、腹を満たせるだけの金を欲する。ないときの百円は、あるときの百万円の価値を持つ。

そこまで追い詰められた者が三千万を手にすれば、人生がひっくり返る。

豪遊してもいい。人生をやり直す元手にしてもいい。迷惑をかけた人々への弁済でもいい。

何に使おうがかまわない。しかし、得られるはずのなかった金を手にし、自分の思うように使えれば、散々だった人生のわずかな彩りとなる。

その想い出があれば、気持ちよく死ねる。

松川たちも同じ気持ちだった。そして、底辺で生きれば、同じ思いを抱き続けている者がいることを知る。

松川たちのように複数で組んで取ろうとする者もいれば、三千万を独り占めしようとする者もいるだろう。

どこの誰が取ったのかはわからない。それはどうでもいい。

彼らが実際に奪ってくれれば、犯人が予告通り、〝電車内〟に現われたことを意味する。

それはひいては、自分たちへの目を逸らすことにもなる。

それが目的だ。

見事に奪いきる者がいるとすれば、松川たちから捧げるその人の人生へのささやかなボーナスだ。

好きに使ってほしいと願う。

松川は砂場にベビーカーを入れ、しゃがんだ。あやすふりをして、未来を見つめる。

「もうすぐだ。あと二十分もすれば、僕たちの未来が開ける。早く来い、三笠」

未来を見つめる松川の眼光に緊張と興奮が交互に滲んだ。

 

(つづく)

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