コンダクター
コンダクター
矢月秀作
2016.05.10
プロローグ
五月の連休が明け、桜花や新緑を楽しんでいた人々の賑わいもひと段落し、井の頭恩賜公園一帯はいつもの静けさを取り戻していた。
午後四時を回った頃、松川尚人は万助橋東側にある駐車場に白いワゴンを停めた。
「急げ」
後部座席にいる上田洋介と谷岡晋に声をかける。
二人は車を降りてバックドアを開け、竹ぼうきや熊手、布袋やロープを取り出した。
松川も降車し、二人の作業を手伝う。
三人とも、鼠色のつなぎの作業着に身を包んでいた。
松川はバックドアを閉め、電子キーでロックをかけた。上田と谷岡の顔を見て頷き、公園内へ入っていく。
駐車場に接する吉祥寺通りや玉川上水沿いの緑道は車や人々の往来で多少騒々しかったが、園内に入ると人影もなくなり、薄暗くひっそりとなった。
松川たちが入ったのは、井の頭池南西側に広がる御殿山地域だった。
江戸時代には徳川家光が鷹狩の際の休憩所を設けたといわれる場所で、シデやコナラ、クヌギなどの雑木林が広がる。
日中は三鷹の森ジブリ美術館や自然文化園などを訪れる人々の散策コースでもあるが、陽が暮れると、地元の人がちらほらとしか通らなくなる閑散とした林道となる。
松川たちは砂利を敷き詰めた舗道の脇に手荷物を置き、清掃を始めた。熊手や竹ぼうきをせっせと動かし、地面に落ちた木の葉やごみを集める。
時折、舗道に姿を見せる帰宅途中の学生やランナーは、松川たちを気にも留めず、行き過ぎた。
上田はちらちらと舗道に目を向けていた。
「洋介、仕事するふりをしろ」
松川は小声で言った。
「でもよ。あの娘、ホントにこんな道を通るのか?」
「何度も僕と晋ちゃんで確認した。な?」
松川は谷岡を見た。谷岡が頷く。
「今日はピアノのレッスンがある日だ。彼女は四時半前後にここを通る」
「もし、来なかったら?」
上田が訊く。
「その時はまた、計画を改めるだけだ」
松川は言い、熊手を持った手を動かした。
上田は気だるそうに、竹ぼうきで地面を掃いた。
枝葉が風に吹かれてこすれ合い、ざわざわと音を立てる。谷岡はそのたびにびくりと肩をすくめ、頭上に目を向ける。
「晋、もう少し落ち着けよ」
上田は苦笑した。
「でも……」
「晋ちゃん、嫌ならやめようか?」
松川が声をかけた。
「何言ってんだよ、尚人」
上田は松川を睨んだ。
松川は谷岡に目を向けたまま、続ける。
「今ならまだ間に合う。実行してしまったら、もう戻れない。僕はどっちでもいいんだ。この話は晋ちゃんの発案だからね。晋ちゃんがやっぱり嫌だというなら、僕は手を引くよ」
「ちょっと待て、尚人。勝手なこと言ってんじゃねえよ」
上田は松川の前に立った。
「何べんも話し合って決めたことだろう。今さら、やめるって話はないんじゃねえか? 元手もかかってんだ」
「やるなら、三人が本気でないと無理だ。おまえはどうなんだ?」
上田を見つめる。
「俺の腹は決まってる。やるつもりがなきゃ、来てねえよ。おまえはどうなんだよ、尚人」
「もちろん、やるつもりで来た」
松川が答える。
「迷いはない。だが、一人でも気乗りしない者がいれば、こういうことは失敗する。ほころびが出るからな。晋ちゃん、気が進まないなら、今のうちに言ってくれ」
松川は谷岡を見た。
谷岡は竹ぼうきを握り、うつむいていた。上田も谷岡を見つめ、返事を待つ。
と、谷岡が顔を上げた。
「来た……」
小声で言う。
松川と上田は舗道に目を向けた。
南側から一台の自転車が走ってくる。女の子が乗っていた。ショートボブの大きな瞳の女の子だ。下連雀にある私立聖林女子学園高等学校の制服を身に着けている。
「晋ちゃん、任せたよ」
松川は少し離れて、熊手を動かした。
上田は竹ぼうきを街路樹に立てかけ、落ち葉を拾うふりをして、布袋に手を入れる。
谷岡は舗道の際で竹ぼうきを握り締めた。
役割は決めていた。
口火を切るのは、谷岡の役目だった。
女の子の乗った自転車が近づいてくる。枝葉のこすれる音に、タイヤが砂利を噛む音が混じる。
松川は周囲に目を向けた。人影はない。絶好のタイミングだった。
あとは、谷岡の決断に委ねるだけだ。
落ち着いていたつもりだった。が、女の子が近づいてくるにつれ、鼓動が速くなる。熊手を握る手にも力が入り、汗ばむ。
上田に目を向ける。上田の背にも緊張が漂っていた。
女の子が、髪の端の揺れもわかるほど近くに迫った。
横目で、谷岡を見た。
谷岡は竹ぼうきを握り、うつむいていた。
やめるのか……。
そう思った瞬間、谷岡が竹ぼうきを舗道の方へ伸ばした。
ブレーキ音が雑木林に響いた。竹ぼうきが車輪に絡まる。まもなく、自転車が倒れ、女の子が舗道に投げ出された。
「いたっ……」
腰を押さえて、顔をしかめる。
「何やってんのよ!」
尻もちをついたまま、女の子が怒鳴った。
「すみません……」
谷岡が眉尻を下げる。
松川と上田が駆け寄った。
「ちょっと、あんたたち、気をつけて──」
女の子が文句を言おうと口を開いた。
松川は腰に提げていたタオルを取り、女の子の口に突っこんだ。女の子は目を剥き、嗚咽を漏らした。
上田が頭から布袋を被せた。谷岡にロープを放る。谷岡は一瞬立ちすくんだ。
「両手を縛れ!」
上田が怒鳴る。
谷岡は竹ぼうきを投げ出し、ロープを取った。女の子の手を後ろにねじ上げ、おたおたしつつも両手首を縛る。
松川も両足首をロープで縛った。
「悪く思うなよ」
上田は女の子の鳩尾に右拳を叩きこんだ。
女の子が息を詰めた。もう一度、鳩尾を殴る。袋の中で呻きが漏れ、女の子の体から力が抜けた。
上田は袋をずり下げて女の子の全身を包み、口を縛って肩に担ぎあげた。
「晋! 竹ぼうきと熊手を拾え!」
上田が命ずる。
谷岡は散らばったほうきと熊手を集めた。
松川は自転車を担いだ。三人は舗道を外れ、雑木林の中を突っ切り、駐車場へ急いだ。
谷岡が先に雑木林を出る。松川はポケットから電子キーを出し、ロックを解除した。
谷岡は周りを見て、バックドアを開けた。竹ぼうきと熊手を中へ放り込む。再度、周囲を見回し、人目がないことを確認して、右手を振った。
松川と上田が雑木林を出た。後部スペースに自転車と女の子を入れた布袋を放り込む。
谷岡がすぐさまドアを閉めた。
三人は足早に車へ乗り込んだ。
松川はハンドルを握り、エンジンをかけた。大きく深呼吸をして、昂ぶりを抑え、努めてゆっくりとアクセルを踏んだ。
車が静かに滑り出す。
もう、戻れない……。
松川は胸の奥から沸き上がる動揺と混乱を飲み込み、前だけを見据え、吉祥寺通りを南下した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
第1章
1
野村昭一は、半年ぶりに、桜田門にある警視庁本庁舎へ赴いた。
受付にいた老警官が野村に声をかけた。かつての同僚だった東原清治だ。
「やあ、ノムさん。品川中央署の新米たちの教育は終わったのか?」
「まだ途中だったんだがね。瀬田さんに呼ばれて戻ってきた。何か聞いているかい、セイさん」
野村が訊く。
「いや、特別何も聞いていないが……。面倒なことか?」
「わからんが、副総監に呼ばれるときは、ろくな話じゃないからな」
「確かに」
東原は笑った。
「面倒を押しつけられた時は、セイさんも応援に入れてくれるよう推薦しておくよ」
「勘弁してくれよ。俺はもう、現場はいい」
東原はそう言い、業務に戻った。
野村はフロアを奥へ進み、エレベーターに乗った。副総監室のある最上階へ向かう。
野村は、本庁刑事部刑事総務課刑事企画第一係に所属する警部補だ。
刑事企画第一係は、所轄に出向いて、配属されたての新米警刑事を教育するという仕事に従事する。いわば、現場の刑事の教育係だった。
野村は三十年以上、刑事部の多くの部署に所属してきた。刑事の多くは、配属された部署で専門捜査官として生涯を終えるが、野村のように各部署を渡り歩く者もいる。
その様々な経験を、これから現場へ出ようとしている若い刑事たちに伝えている。
エレベーターを降り、廊下をさらに奥へ進む。最奥手前の部屋の前で立ち止まった。
長年愛用しているブークレ仕立てのくすんだブラウンのジャケットのボタンを留め、少し乱れた白髪交じりの頭を手のひらで撫でつけ、身なりを整え、ノックした。
「野村です」
「どうぞ」
中から声が返ってきた。
ドアを開け、中へ入る。副総監の瀬田登志男は執務机にいた。瀬田に歩み寄ろうとする。
瀬田は応接用のソファーを手で差した。
「ああ、ノムさん、そっちへ」
野村は二人掛けのソファーに腰を下ろした。瀬田が手を止め、椅子から立ち上がって歩を進め、野村の差し向かいに座る。
瀬田は野村の一つ下で、かつて組織犯罪対策部で共に捜査に従事した仲だ。階級はキャリアである瀬田の方が上だったが、当時から瀬田は野村のことを〝ノムさん〟と呼んでいた。
「どうです、企画係の仕事は?」
「悪くないですよ。人に教えることで、自分の捜査手法を客観的に見直すことができます。といって、私はもう、現場に戻ることはありませんがね」
「現場は嫌ですか?」
「嫌ではありませんが、私も歳ですからな。気力と体力が続きません」
そう言い、苦笑する。
「で、副総監。用件は何ですか?」
野村は早々に切り出した。
「満身創痍なところ申し訳ないんですが、少々教育から離れて、現場に戻ってはいただけませんか?」
瀬田が言う。
「やはり、面倒か……。あんたの話はいつもそうだな」
ぞんざいな口ぶりになる。
「すみません」
瀬田は詫びて見せるが、悪びれたふうは一切ない。野村は昔から変わらない瀬田の態度につい笑みをこぼした。
「とりあえず話は聞くが、さっきも言ったように私も年だ。あまりに面倒な申し出は受けられんよ」
「ノムさんだから、お願いするんですよ」
瀬田は野村を見つめた。
「誘拐事件の捜査をしてもらいたいんです」
「誘拐? それは特殊第一の管轄だろう」
「本来はそうなんですが、少々ワケありでして」
瀬田が改めて、野村を見やった。
「誘拐されたのは、三笠崇徳の娘・千尋です」
瀬田の言葉に、野村の片眉がひくりと動いた。
「あの三笠か……」
野村は腕を組み、眉間に皺を立てた。
大手IT総合企業〈MIKASA〉は今や押しも押されもせぬ日本を代表する企業で、三笠崇徳は、その最高経営責任者だ。過去に野村は、三笠と対峙したことがあった。
〈MIKASA〉の前身は、〈フレンドシップ〉という小さなソフト開発会社だった。
有限会社として、若者数名で起ち上げたフレンドシップは、優良なソフトを世に送り出し、着々と力を付けていた。
そこに現われたのが三笠崇徳だった。
三笠は、エンジェル投資家としてフレンドシップに多額の投資をし、株式会社化すると同時に、フレンドシップの株式の三十三パーセントを取得した。
三笠からの資金を得たフレンドシップは、SNSやソーシャルゲーム事業などに次々と参入し、急成長を遂げた。
株式も公開し、三笠、フレンドシップ双方が多額の利益を得ることになる。
しかし、これからという時に粉飾決算の容疑で東京地検の捜索を受け、勢いは失速。代表者が自殺をしてフレンドシップは解散する。
その後、三笠崇徳が二束三文となったフレンドシップの株式をすべて買い取り、社員とIT関連のノウハウを引き継いで事業を継続させ、社名を〈MIKASA〉と変えて、現在までフレンドシップの系譜を存続させている。
野村は十年前、フレンドシップの最高経営責任者であった西崎賢司の自殺の案件を捜査した。
粉飾は西崎の指示だったとの経理担当者の証言もあり、当時三十五歳の若者だった西崎が重圧に耐えきれず、自殺した、という見方が主流だった。
しかし、野村は西崎の自殺に疑念を抱いていた。
粉飾決算が西崎の指示だったとする証拠は薄い。遺書もなく、西崎自身は次なる事業拡大に向けて奔走していた。
地検の捜査を受けるというトラブルはあったものの、西崎の当時の現況や西崎自身の人物像を調べるほどに、自殺とは断定できない背景が浮かび上がる。
が、自殺を否定するだけの確たる証拠も見当たらない。
西崎は睡眠薬を飲んで、自宅マンションの寝室のクローゼットの取っ手にネクタイをかけ、座るような形で首を吊っていた。いわゆる、非定型縊死というものだ。
突発的な衝動で自殺する者に多い形で、西崎が人知れず粉飾決算の処理に悩み、衝動的行動に出たとの裏付けにもなった。
西崎は睡眠薬も常飲していた。また当日の服用時間も微妙で、何者かが眠らせた後、自殺を偽装したとまでは断定できなかった。
結果、粉飾の件は西崎一人が背負い、その責任を取って自殺したということで、フレンドシップに関わる一連の騒動は終息した。
野村は組んだ腕を解き、太腿に両手を置いた。
「今回の三笠の娘の誘拐事案とフレンドシップの事案に関わりがあるのか?」
瀬田に訊く。
「いえ、そういうわけではありませんが、今回できれば内密に捜査をしてほしいとの指示が上から出ていまして。であれば、三笠をよく知るノムさんが適任ではないかと思い、お願いしているまでです」
「上ということは、公安委員長か警察庁といったところか」
「ええ、まあ……」
瀬田は言葉を濁した。
三笠崇徳は、豊富な資金力と経営手腕を買われ、今や経済界の重鎮と化している。当然、政界にも顔が利く。
おそらくは、その筋から手を回し、娘の誘拐という事件まで、内々に処理しようとしているのだろう。
三笠らしいやり口だ、と野村は深く息を吐いた。
「何人体制で動くつもりだ?」
「ひとまずは、専任はノムさん一人ということで願えませんか?」
「無茶なことを言うな」
「そうなんですが、大ごとにはしたくないというのがまた、上の意向でして……」
「誘拐事案だぞ。娘の命がどうなってもいいというのか」
野村は憤りを隠せない。
「そういうわけではありません。しかし、現段階では、ノムさんに引き受けてもらえないと、捜査すらできない。それこそ、娘さんの命を無用な危険にさらすことになります」
瀬田が苦渋を覗かせる。
野村はふうっと息を吐き、太腿を平手でパンと打った。
「仕方ないな。わかった」
「ありがとうございます」
「ただし、背後関係がわかり、娘の居所が判明した時点で、特殊第一の捜査員を私に預けてもらう。娘の生命保護が第一だからな。その条件を呑むなら、引き受けよう」
「私も官僚であると同時に警察官です。そこは確約します」
瀬田が強く首肯する。
「先方に話は付いているのか?」
「捜査担当がノムさんだとは話していませんが、専従捜査員を一人送るということは伝えています」
「三笠はどこに?」
「私邸にいるはずです」
「そうか。では早速、顔を出そう」
野村は立ち上がった。
「三笠に連絡しておきますか?」
「いや、いい。私が専従と聞けば、変えろと言ってくるかもしれん。知らん顔して覗いてくるよ」
「わかりました。何かつかめたら、私に連絡を入れてください」
「そうするよ」
野村は言い、背を向けた。
「よろしくお願いします」
瀬田は立って、深々と頭を下げた。
2
三笠崇徳は仕事を早めに切り上げ、御殿山にある私邸に戻っていた。秘書の有島澪も同行している。
「警察の者はまだか!」
澪に怒鳴る。
「小一時間ほどと連絡がありましたので、もうそろそろかと」
「見てこい!」
「承知しました」
澪はワインレッドの眼鏡のつるを指で押し上げ、大きな手帳を手にしたままリビングを出た。
三笠はチャコールグレーのスーツのボタンを外し、ネクタイを緩めた。ソファーに腰を下ろして脚を組み、苛立った様子で爪先を小刻みに揺らす。
千尋を誘拐した、と何者かから連絡があったのは、六日前のことだった。
三笠は数台の携帯電話とスマートフォンを持っている。かかってきたのは、プライベート用のごく一部の者しか番号を知らない携帯電話にだった。しかも、ディスプレイには千尋の名が表示された。
何者かは、ボイスチェンジャーを使い、電話口での声色を変えていた。悪戯にしては、手が込んでいる。
千尋の世話係も務めている澪に、すぐ確認させた。
通っているはずのピアノ教室には顔を出していなかった。家にも不在で、友達と遊んでいる様子もない。
本来であれば、すぐにでも警察へ連絡すべき話だ。
が、三笠は思い留まった。
今、会社内では、旧フレンドシップから登用した社員と新しくMIKASAに入社した者が対立している。そして、旧フレンドシップの執行役員が三笠降ろしを画策している。
彼らは、三笠が前身であるフレンドシップの理念をないがしろにしていると訴えている。
三笠にしてみれば、言いがかりだ。理念も何も、三笠が会社を丸ごと買い取らなければ、消滅していたのだ。
よくよく彼らの主張を精査してみると、昇給と待遇改善を要求しているだけだった。
新しくMIKASAに入ってきた者と旧フレンドシップの社員たちに差がつくのは当たり前だ。新しく入ってきた者の方がスキルは高い。実力のある者をより厚遇するのは、企業の姿勢として間違っていない。
ただそれだけのことを、彼らは理念などという曖昧な建前を持ち出して難癖をつけ、結局のところ自分たちの既得権益を守ろうとしている。
今すぐにでも叩き出してやりたい。が、上場企業として、社会の批判を受けるようなやり方はできない。
三笠は、検討しているという言葉を繰り返し、のらりくらりとかわしつつ、回答を先延ばしにしていた。
その態度に業を煮やした一部の者が、娘の誘拐という愚行に出たとも考えられる。
それだけではない。
三笠は一代で財を成してきた。その過程では好むと好まざると、時に強引な手法で相手を制したこともある。当然、敵も多い。
隙あらば、追い落とそうとする者ばかりだ。
三笠は被害者だ。娘の無事を乞うような良き父親を演じて見せれば、会社や自分の世間的イメージも上がる。
しかし同情的な見方より、この機に乗じて、三笠自身や会社内部のことを暴き立てる輩の方が多いだろうと感じる。
そんな状況下で、娘の誘拐事件が表沙汰になることは躊躇われる。
今、騒がれるのはうまくない。
損得を天秤にかけた結果、三笠は内々に処理する方を選んだ。
三笠は学校には娘が旅行で長期欠席すると連絡を入れ、澪に社内外の反乱分子を探らせた。敵の正体がわかれば、警察の力を借りずとも秘密裏に解決できるかもしれないと考えたからだ。
しかし、澪の調査では、三笠に反目している者は皆、誘拐当日のアリバイが確認できた。それでも三笠は、調査を続けさせた。
いたずらに時間が過ぎる中、三日前の夜半、再び何者かから連絡が入った。
身代金三千万円を要求された。
三千万円という金額が引っかかった。
社内外で三笠の失脚を目論む者なら、もっと常識外れの金額を吹っ掛け、世間に知れわたるような大事にせざるを得ないよう、事を運ぼうとするはずだ。
三千万という現実的な要求額に、三笠は社内外の敵は関わっていないと判断した。
そうなると千尋をさらった者の正体は、三笠の与り知らぬ第三者という可能性が大きくなる。
有能だとはいえ、澪ひとりに不特定多数の虫けらの中から犯人を特定し、娘を救出しろというのも現実的ではない。
三笠は内々に警察の協力を仰ぐことに決めた。
ドアが開いた。
「失礼します。社長、警察の方がお見えになりました」
「通せ」
三笠が言う。
サンドベージュのスカートスーツを身にまとった澪が、スッと道を開ける。後ろから、ブラウンのジャケットを身に着けた野村昭一が現われた。
途端、三笠は渋い表情を覗かせた。
「あんたか……」
「久しぶりですな、三笠さん」
野村は愛想笑いを見せ、中へ入った。
「野村さん、コーヒーでよろしいですか?」
澪が訊く。
「ああ、ありがとう」
野村が微笑むと、澪は会釈をし、下がった。
ドアが閉まる。野村は後ろで手を握り、部屋を見回しながらゆっくりと歩を進めた。
「相変わらず、豪華なリビングですなあ。私が初めて訪れた時より、調度品が増えている」
バロック調のリビングボードの脇を歩く。
野村は真ん中ほどで足を止めた。
「これは懐かしいですな」
写真立てを手に取った。
若かりし頃の三笠と幼い千尋、その右横には、青白い顔に柔和な笑みを満面に湛えるほっそりとした女性が立っていた。
「そろそろ、春子さんの十三回忌ではないですか?」
写真の女性を見つめる。
「あんたには関係ないでしょう」
三笠はぞんざいな口ぶりで言った。
千尋の横に写っているのは、千尋の母・三笠春子だった。春子は千尋が六歳の時に病死している。
野村は写真立てを置き、ソファーに歩み寄った。
「よろしいかな?」
差し向かいのソファーを目で指す。
「どうぞ」
三笠は仏頂面で言った。
野村は腰を下ろした。三笠を見つめる。
「このたび、娘さんの誘拐事案に関しての専従捜査を拝命しました、野村昭一です」
軽く頭を下げる。
「名前は知ってますよ。なぜ、よりによって、あんたなんだ……」
最後は言い淀む。
野村は聞き流した。ポケットから手帳を出し、開いて、ペンを握る。
「早速ですが、犯人からの連絡は二度ほどと聞きましたが、間違いありませんか?」
「そうです」
「録音は?」
「急なことで、録り損ねました」
「犯人は三千万円を要求してきたということですが、間違いないですか?」
「はい」
「受け渡し方法は?」
「おって連絡をすると言って、それからまだ連絡はないですよ」
「そうですか。犯人に心当たりは?」
「あれば、あんたに頼んだりはしませんよ」
「三千万ごとき、はした金だと?」
野村はやや鋭い視線を向けた。
「そういうわけじゃない」
三笠は野村から目線を外し、脚を組み替えた。
「どうしましょうか」
「どう、とは?」
三笠が野村を見た。
「犯人に三千万円を払ってでも娘さんを助けたいというなら、そのように手配しましょう。びた一文出すつもりがないのであれば、私もそれ相応の姿勢で臨みますが」
「あんた、刑事だろう? 犯人にむざむざ金を取られてもかまわないというのか?」
「もちろん、犯人については捜査しますよ。しかし今、一番に考えなければならないのは、娘さんの保護です。本当なら、しっかりとした捜査体制を敷くべきなんですがね」
野村が言う。
「あんたたちにはわからない面倒もあるんだよ」
三笠は顔を背け、小さく息を吐いた。
ドアが開き、澪がワゴンを押して入ってきた。リビングにほろ苦いコーヒーの香りが漂う。
ソファーの脇でワゴンを止め、カップに淹れたてのコーヒーを注ぎ、ソーサーに載せ、野村の前に差し出した。
「どうぞ」
「いただきます」
野村はソーサーを手に取った。口をつける。ズズッとコーヒーを啜り、喉に流す。
「これはうまい。どなたが淹れたんですか?」
「私です」
澪は三笠にもコーヒーを出しながら、答えた。
「ずいぶんゆっくりとドリップされたんでしょう。珈琲専門店並みですな」
「過分なお言葉、恐縮です」
澪は微笑み、ワゴンを押して部屋を出ようとした。
「あー、有島さん。あなたにも伺いたいことがあるんですが、よろしいですか?」
「何でしょうか?」
澪は立ち止まって、野村の方を向いた。
「あなたは確か、春子さんが亡くなった後、千尋さんの世話係をしていましたね」
野村が訊く。
十年前の西崎賢司の自殺事案の捜査過程で三笠崇徳の身辺を調べていた時に知った事実だ。
当時、フレンドシップの総務で働いていた澪は、病弱だった春子のサポートを三笠から頼まれ、三笠邸に出入りするようになった。
一人っ子で、両親にはあまり遊んでもらえなかった千尋は、澪によくなついた。
春子は千尋の世話を澪に頼み、この世を去った。
澪はフレンドシップに籍を置きながらも、千尋が幼少の頃は三笠邸に住み込み、千尋の世話に従事していた。
「今でも、千尋さんの世話係は務められているのですか?」
「はい。当時のように、こちらへ住み込みというわけではありませんが、週の半分くらいは千尋ちゃんの様子を見に来ていました」
「ここ一、二カ月で、千尋ちゃんに変わった様子は?」
「特に、ありませんが……」
「失礼ですが、あなたと三笠さんの関係は?」
野村が唐突に訊く。
「何を言い出すんだ!」
三笠がぎょろりとした双眸を剥いた。
野村は三笠に顔を向けた。
「失礼を承知で伺っています。娘さんは、十七歳。多感な時期です。有島さんとは気心通じているでしょうから、異論はないにしても、あなたと有島さんがもしも秘書と社長という立場を越えた仲であれば、気にかけているかもしれません。自分の気持ちを言い出せず、家出をしたという可能性もなくはないですからな」
淡々と話し、澪を見やる。
「どうです?」
「あくまでも、社長は社長。そうした関係は当時から一切ありません」
澪は冷静に答えた。
野村は横目で三笠を確認した。不機嫌極まりない様子で、顔をしかめている。
「いや、下世話な質問で申し訳ありませんでした」
野村は視線を落とし、手帳を閉じた。胸ポケットに入れる。
「では、三笠さん。犯人がコンタクトを取ってくる携帯の会話はこちらで録音させていただきます。それと、通話記録の開示請求を行ないますが、よろしいですね?」
「……仕方ないですね」
「犯人から連絡が来た際は、すぐさま私に報告を。電波の中継局が絞り込めるかもしれません。ともかく、今は娘さんを無事に保護することを考えましょう。あなたが金を出す出さないは関係なく、犯人からのコンタクトがあった時は、払うような体で会話してください。いいですね」
「わかりました」
三笠は渋々答えた。
野村は立ち上がった。
「有島さん、千尋ちゃんの通学経路を知りたいのですが、よろしいですか?」
「はい、ご案内します。社長、外してよろしいですか?」
「そうしろ」
三笠が言う。
「では、行きましょう」
野村が促す。
野村と澪は、連れ立ってリビングを出た。
三笠は閉まるドアを睨みつけた。
野村と澪は屋敷を出た。吉祥寺通りを歩いていく。
「野村さん、社長のぞんざいな態度、許してあげてください」
「気にしていませんよ」
野村は微笑んだ。
「社長も心の中では千尋ちゃんのことを心配しているんです。誘拐の電話があった時は、かなり動揺していましたから。ですが、今、会社の方も大変で、弱みを見せられない状況なんです。それでつい、言葉も乱暴になってしまっているのだと思います」
「でしょうな。昔、三笠さんの話を周りの人たちに伺った時、三笠さんは千尋ちゃんの誕生を心底喜んでいたと言っていましたから。どんな状況になっても、親が子供を愛する心は変わらないものです」
「本当は私も、きちんと警察にお願いすべきだとは思うのですが」
「それはかまいません。いずれにせよ、誘拐事案捜査は秘密裏に行われるものですから。今は私の捜査で十分です。時が来れば、三笠さんを説得して体制は整えます」
「お願いします。私にとって千尋ちゃんは年の離れた妹のような存在ですから。必ず、助けてあげてください」
「もちろんです。そのためにはあなたにも協力を願いますが、よろしいですね?」
「はい」
澪は強く首肯した。
「では、早速ですが、今、MIKASAの社内で起こっていることをお聞かせ願えますか」
野村は澪と話しながら、千尋の通学路を辿った。