日没の吉祥寺で少女誘拐事案が発生。被害者は大会社社長の娘で、 捜査は極秘裏に始まった。担当刑事野村と被害者の父には、ある 事件で因縁があり…。

コンダクター

『コンダクター』8

『コンダクター』8

第4章

 

 

病院に運ばれた野村は、治療を受け、一時間後に目を覚ました。顎は多少腫れているが、深い外傷は負っていなかった。

野村は、今日一日は安静にという医師の助言も聞かず、三笠邸に戻った。

本部はいまだ、永福町に現われた複数の犯人を検挙することに追われていた。東原を中心に、話しかける間もないほどごった返し、怒号が飛び交っている。

野村はすぐ澪の姿を認め、駆け寄った。

「有島さん」

声をかける。澪の顔があからさまに強ばった。

「三笠は?」

「書斎に……」

澪が答える。

野村はそのまま二階へ上がった。澪は階段の下から心配そうに野村の背中を見つめる。

書斎の前に立つ。野村はドアを思いっきり引き開けた。

執務椅子に背を深くもたせかけていた三笠が、びくりとして上体を起こした。

三笠の顔が引きつる。

野村は三笠を睨みつけ、机に歩み寄った。目の前に仁王立ちし、開いた両手を思いっきり天板に叩きつけた。

ドンという音に、三笠の腰が跳ねた。

「どういうことなんだ!」

野村は怒鳴った。

怒鳴り声が階下まで響く。澪があわてて駆け上がってくる。様子に気づいた東原も、指示を部下に任せ、二階へ上がってきた。

「あの若い男は誰だ!」

「知らん!」

「いい加減にしろ!」

野村は再び、テーブルに両手のひらを叩きつけた。三笠もまた、びくっと跳ねる。

野村は右腕を伸ばし、三笠のワイシャツをつかんだ。

「誰なのか、言わんか!」

締め上げて引き寄せ、三笠の上体を揺さぶる。

「く……苦しい……」

三笠の顔がみるみる紅くなった。喉元に指を通そうともがく。

「言え! 言わんか、貴様!」

野村は怒鳴り、三笠の首を絞めた。

「野村さん! やめてください!」

澪が駆け寄り、野村の腰に組み付いた。

「ノムさん、落ち着け!」

東原も駆け寄って野村の腕をつかみ、澪と共に引き離す。

野村は三笠から手を離した。目を吊り上げ、三笠を睨む。三笠は野村の視線を避け、咳き込みつつ、喉元をさすった。

「仕方なかったんです!」

澪が声を張った。

「有島君!」

三笠が澪を睨む。が、澪は野村に目を向けたまま話した。

「犯人から電車へ身代金を置けという指示があった後、もう一度連絡があり、ビジネスバッグに身代金を入れて、中央高架下公園の砂場で交換しろという指示が来たんです」

「なんだと?」

野村が気色ばむ。

「最初の連絡はボイスチェンジャーを使っていましたが、二度目の連絡ではそのままの声でした。千尋ちゃんも殴られ、電話の向こうで悲鳴を上げていました。だから、社長も私も、犯人が本当に千尋ちゃんを殺すかもしれないと思って──」

「それで、黙っていたというのか! そんな大事なことを!」

野村は怒鳴った。口唇が震える。

東原が澪と三笠の間に入った。

「つまり、犯人は電車での受け渡しを囮に使い、こちらの捜査を混乱させて、その機に乗じて公園で身代金を受け取り、逃げるつもりだったということだな?」

東原は澪と三笠を交互に見やった。澪は頷き、三笠はうなだれた。

「どうする、ノムさん?」

野村に顔を向ける。

野村は仁王立ちしたまま、腕組みをした。眉間に皺を立て、宙を睨む。

「現実、永福町の方の金は奪われているわけだな?」

「そういうことになるね」

東原が答える。

「彼らはなぜ、この計画を知ったんだ?」

「それは連中に訊いてみるしかないな。もうすぐ、何人かは捕まえられるだろう」

「セイさん、今、金を持って逃げている者、あるいはそのグループはわかるか?」

「ほぼ、つかんでる」

「各駅に配置した捜査員はみな、そいつらを追っていると思うが、そのうちの三分の一をこっちへ戻して、中央高架下公園で金を奪おうとした者たちの足取り捜査に向けてくれ。永福町からの逃走者を捕まえたら、ここへ連れてくるよう指示を。それと、この書斎の前に捜査員を二人配置。庭から書斎が見える場所にも二人配置してほしい」

「わかった」

東原は足早に部屋を出た。

「三笠さん、有島さん。申し訳ないが、ある程度、全体像がつかめるまで、あなたたちにはこの書斎にいていただきます」

「監禁するのか!」

「これ以上、勝手な行動をされると、本当に娘さんの命が危ないですからな。食事や飲み物については、ドア前にいる捜査員へ申し出てください。外部への連絡、外部からの連絡の受信は自由ですが、携帯、固定電話、メール、SNS、LINEなどの通信はすべて、こちらで傍受させていただきます。よろしいですね?」

野村が三笠を見据える。

「よろしいですね?」

再度、語気を強める。

「……わかったよ」

三笠は大きなため息をついた。

「犯人からの電話について、何度か訊くこともあるが、お二人とも正直に答えていただきたい。済んだことは仕方がない。千尋さんの救出に向け、全力を尽くします」

野村はそう言い、部屋を出た。

 

 

書斎のドアが閉まった。

三笠は机の天板に拳を打ちつけた。

「あいつが邪魔をしなければ、千尋は戻ってきたんだ!」

天板を睨み、歯ぎしりをする。

「社長……。しかし、野村さんは警察としての仕事をしただけで」

澪がなだめようとする。

しかし、三笠は憤りがおさまらない様子で、何度も何度も拳を叩きつけた。

「あのときも、あいつが邪魔しなければ」

天板を睨みつける。

三笠は、フレンドシップを現在のMIKASAに吸収した時のことを思い出していた。

三笠が西崎賢司の死後、フレンドシップを自社に吸収したのは、純粋に価値があると判断したからだ。

フレンドシップには優秀な人材とプログラミング技術があった。投資家として、将来成長の見込める技術と人材を放っておく手はない。

しかも、当時、三笠は筆頭株主だった。他の投資家が手にしていた株も二束三文で売られていた。TOBをかける必要もなく、フレンドシップのすべてを簡単に手に入れられた。

西崎賢司の死因は、確かに不審な点もあった。密室でナイフを手に首の頸動脈を切ったということだったが、自死で自分の首だけを切るというのは、ニュースなどでもあまり聞いたことがない。

ただ、そうしたことがないとも言えず、捜査本部も最終的に自殺と判断した。

それで、一連の事件は終息したはずだった。

しかし、野村がその後もしつこく事件を追い続けたことで、いったんはMIKASAの傘下に素直に収まった旧フレンドシップの一部の社員たちが不信感を抱き、本体の社員と衝突する事態となった。

結局、野村の調べでも他殺とは断定できなかったが、一度もつれた糸はほぐせず、優秀な人材の一部を失うこととなった。

投資家としては大損だ。

野村が余計な真似をしなければ、すべてはうまくいっていた。

今回もそうだ。

野村が三笠を無視して、電車内に現われる犯人だけに集中していれば、高架下公園での現金の受け渡しはスムーズに行なえた。

せめて、三笠を追いかけてきていれば、その間に犯人が逃げおおせることもできた。

だが、野村は公園内で立ち止まり、真犯人を見つけ、捕らえようとした。

刑事としては優秀なのかもしれない。しかし、三笠にとってはいつでも邪魔者でしかなかった。

「もし、千尋を失ったら、野村だけは殺してやる」

「社長、そんなことを考えてはいけません」

「君に迷惑はかけない。これは、私と野村の問題だ」

「なぜ、そこまで気になさるのですか?」

澪が訊く。

「君は、疫病神の存在を信じるか?」

三笠が唐突に訊く。

「いえ、そのようなものは……」

「私は信じている。何かにつまづくとき、必ず関わってくる者がいる。私にとって、野村はその一人。このままあいつにまとわりつかれれば、千尋の命はおろか、私の会社での地位も失うことになる」

「そんなことは──」

「あるんだよ。なぜか、関わるとろくなことにならない、事態が悪い方向へ向いていく者がいるんだ。君も気をつけるといい」

「恐縮です」

澪は軽く頭を下げた。

三笠は椅子の背もたれを倒し、靴を脱いでオットマンに両脚を乗せた。

「私は少し寝る。どのみち、ここからは出られんのだからな。君もソファーで休んでいろ。会社からの連絡も無視していい」

「承知しました。では、私も休ませていただきます」

澪は応接ソファーに座り、深くもたれた。両手を軽く握って、下腹部に置き、目を閉じる。

三笠は腕組みをして目を閉じたが、怒りや憤りで眠れなかった。

 

 

松川と上田は、ホームレスの男に連れられ、吉祥寺駅から中央線に乗った。

そのまま終点の東京駅まで行き、八重洲の地下駐車場へ連れていかれた。

どこへ行くのか、誰が待っているのか、松川も上田も若干の不安を感じていた。だが、計画が失敗に終わり、警察に追われている今、頼れるのはホームレスの男しかいないのも現実だ。

二人はホームレスの男の後ろに付き、駐車場を奥へと進んだ。

ライトがパッシングされた。三人は一瞬、足を止めた。正面に黒塗りのミニバンが停まっている。

ホームレスの男は右手を小さく上げ、ミニバンの方へ急いだ。松川と上田の足取りも速くなる。

ホームレスの男が車の陰に入ると、スライドドアが開いた。

「乗って」

急かされる。

二人は促されるまま、乗り込んだ。上田は三列目の後席に入れられた。隣には男がいる。二列目に乗った松川の隣にも男がいた。

ホームレスの男は助手席に乗り込んだ。薄汚れたジャンパーを脱ぎ、真新しい黒いTシャツ姿になる。帽子を取ると、一緒に髪の毛も取れ、短髪が現われる。男は服と帽子を足下に押し込んだ。

「いいぞ」

ホームレスの男が言う。運転手がエンジンをかけた。ゆっくりと滑り出す。

車は地下から直接、首都高速道路に乗った。汐留方向へ向かっている。

「臨海へ行くのか?」

上田が隣の男に訊いた。

隣の男は何も答えない。上田はため息をついて、車窓に目を向けた。

十分ほど走り、台場出口で車は高速から降りた。

通りを徐々に南下したミニバンは、テレコムセンターの南東に広がる倉庫街へ向かった。

青海四丁目の倉庫街へ入り、敷地内にある古びた倉庫の中へ車を乗り入れた。シャッターは開けっ放しだった。

助手席のホームレス男が降り、スライドドアを開ける。

「降りろ」

松川に言う。松川は従った。

シートを前に倒し、上田も降りてくる。松川と上田は倉庫内を見回した。

がらんとした室内だった。荷物はなく、左隅にパレットが積み上げられている。

「ここは?」

松川が訊いた。

「我が社が所有している倉庫だ」

「我が社?」

「紹介が遅れたな。俺はAZソリューションというIT企業の副社長、郷原だ。こいつらもうちの社員だ」

郷原は車から降りた男たちを目で指した。

上田は郷原や他の男たちを見た。みな、体を鍛えていて、他人を威嚇するような目つきだ。

「IT関係者には見えねえな」

上田は郷原を睨んだ。

「よく言われるよ」

郷原は言い、笑みを覗かせた。

「なぜ、あんたらが俺たちを助けた?」

上田が訊く。

「いや、それ以前に。なぜ、僕たちの計画を知っていたんですか?」

松川が訊いた。

「もう少し待ってくれ。説明するから」

郷原は倉庫の出入口に視線を向けた。松川と上田も同じ方を向く。

郷原の仲間の一人が出入口に走った。外を見つめる。しばし、妙な沈黙が松川たちを包む。

五分ほど経って、出入口にいた男が郷原の方を見た。

「来ました!」

郷原の下に駆け寄る。

すぐさま、濃紺の3ナンバーのセダンが入ってきた。静かに倉庫内を進み、郷原の前に横付けする。仲間の一人が後部ドアを開けた。

すらりとしたスーツ姿の男が降りてきた。郷原の仲間たちが頭を下げる。スーツ男は郷原に近づき、握手をした。そのまま松川と上田の前に立つ。

「君が……松川君。そっちの体格のいい君が上田君だね」

交互に目を向け、言った。

「そうですが……。あなたは?」

松川が訊く。

「AZソリューション代表の西崎です。よろしく」

西崎が笑顔で右手を差し出す。あまりにも自然なので、松川は握手をした。

西崎は柔らかく松川の手を包み、力強く握った。仕事のできる青年社長といった風情だ。上田も右手を出され、つい握手をした。

「ここは、サブサーバー、バックアップサーバールームにするつもりで購入したんだよ。今は殺風景だけど、二年後にはここにサーバーが並ぶことになる。こんなところに連れてきて申し訳なかったが、ここは完全なうちの持ち物なので安全なんだ。もう少ししたらまた移動するのでね。僕の車でよければ」

西崎が自分が乗ってきたセダンを指す。

社員の一人が後部のドアを開けた。

西崎が先に乗った。松川が促され、西崎の隣に座る。上田は運転手に言われ、助手席に座った。運転手が乗ってくる。外にいた郷原たちが助手席や後部座席のドア横に立った。

「狭い車で申し訳ないね」

西崎が自嘲する。

「これで狭けりゃ、街中を走ってる連中の車は犬小屋だ」

上田は言った。

「それはいい。うちのクライアントの高級車ディーラーに伝えておこう」

西崎が笑う。上田は口をへの字にし、腕組みをしてフロントを睨んだ。

「西崎さん、AZソリューションという会社は何をしているのですか?」

「企業のシステムプログラムを作ったり、メンテナンスをしたりする会社だよ。昔はソフトも作っていたけど、利幅が薄いんで、企業向けに特化したんだ」

「そうですか。そんな人がなぜ、僕たちのことを知っているんですか?」

「谷岡君に聞いたんだ」

「晋ちゃんに?」

松川は西崎を見た。助手席にいた上田も振り返る。

「あんた、晋の知り合いなのか?」

「知り合いというか……いい先輩といったところかな」

「晋ちゃんが西崎さんのところで働いていたとか、そういうことですか?」

「それも違うかな。私と谷岡君が知り合ったのは、インターネット。谷岡君がSNSで悩みを呟いていて、それに返信してあげたのがきっかけだったね」

「ネットの知り合いってわけか」

上田が西崎を見る。

「まあ、そういうことになるね」

「そこで、俺たちのことも聞いたってのか?」

「そうだね」

「そこまではわかるんですが、なぜ、郷原さんは今日の僕たちの計画を知っていたんでしょうか。そこがどうにもわからない」

松川が首を傾げる。

「簡単な話だよ。谷岡君に教えてもらったんだ」

「晋がしゃべったってのか!」

上田の眉間に皺が寄る。

「彼がしゃべったというより、今回の計画を立案したのは私なんだよ」

西崎はさらりと言った。

松川と上田の表情が強張った。

「どういうことですか?」

「そのままだ。谷岡君が人生みじめなままで終わりたくないというのでね。大金をつかめば運命は変わると教えてあげた。すると、どうすればいいかと訊いてきたので、金のあるところからとればいいと教えた。例えば、MIKASAの社長、三笠崇徳のようなヤツから、と。谷岡君は乗り気になってね。だから、私の方で計画を立ててあげた。実行するかどうかは彼の胸先三寸だったが、彼は人生を変える方を選んだ。立派だと思うよ」

「ちょっと待て。あんた、どこからこの計画に関わってんだ?」

上田はセンターコンソールに右肘をかけ、後席に上体を乗り出した。

「君たちが聖蹟桜ヶ丘の一軒家へ移る前からだな」

「つまり、晋ちゃんが僕と上田に共同生活を持ちかけたところからすでに始まっていたということですか?」

質問する松川の声が震える。

「聡明だね、松川君は。そういうことだ」

西崎が片笑みを覗かせた。

「俺たちは、そんな前からあんたに踊らされてたってことか。ふざけんな!」

上田が左腕を伸ばした。西崎の胸ぐらをつかむ。

助手席のドアが開いた。脇に立っていた郷原が上田の後ろ襟をつかんだ。強烈な力で車内から引きずり出す。

上田は足元がふらつき、尻もちをついた。

「何すんだ!」

顔を上げた。

瞬間、上田の鼻頭に郷原の右膝が食い込んだ。上田の顔が歪んだ。背中から地面に叩きつけられる。

郷原は右脚を上げた。踵を上田の腹部に落とす。

上田は目を剥いて腹を押さえ、胃液を吐き出し横たわった。

「洋介!」

松川が後部ドアを開けようとする。

「松川君」

西崎が声をかけた。

振り向こうとした。その眼前に拳が迫った。避けられなかった。

西崎の左裏拳が松川の顔面を抉った。ヘッドレストに後頭部を打ちつけた。バウンドし、顔が前に傾く。鼻と口からしぶいた鮮血が、松川のズボンやフロアカーペットに降り注いだ。

「騒ぐんじゃない。おとなしくしていれば、俺の車を汚したことは許してやる」

西崎の口調ががらりと変わった。ポケットからハンカチを出し、左手の甲に付いた松川の血糊を拭き取る。

西崎はそのハンカチを松川に渡した。

「血を垂らすな」

松川はハンカチを受け取り、鼻と口元を押さえた。顔面が脈動して熱くなる。口の中に鉄の味が広がる。

松川はうなだれたまま双眸を見開き、足下を見つめた。

後部のドアが開いた。ミニバンに乗っていた男の一人が松川の肩をつかみ、引っ張る。松川はよろよろと車外へ出た。

いきなり、足をひっかけられ、引き倒された。うつぶせに寝かされ、両腕を結束バンドで縛られる。両足首も結束バンドで拘束され、口にはビニールテープを何重にも巻かれた。

気づけば、上田も同じように拘束されていた。

セダンに目を向け、西崎を睨む。

西崎はうっすらと笑みを浮かべた。

「松川君。君のおかげで、いい方向に計画が進んだよ。ありがとう」

西崎は言い、ドアを閉じた。

ゆっくりとセダンが動き出す。

松川は呻きながら、暴れた。と、脇に立っていた男が右足を振った。

松川は目を剥いて呻いた。口の中の血と胃液が混じる。

まもなく、松川の両眼は、ビニールテープを巻かれ、視界を奪われた。

「おまえら、これ以上逆らうな。殺したくないからな」

郷原の野太い声が響く。

「運べ」

郷原の命令が聞こえた。松川は二人の男に脇の下と脚を抱えられ、ミニバンに乗せられた。少しして、松川の隣に上田らしき男も乗せられる。

男たちが無言で乗り込んでくる。スライドドアの閉まる音がする。

前席のドアも開閉する音が聞こえ、車が動き出した。

松川と上田はなすすべなく、倉庫から運び出された。

 

 

谷岡と千尋を乗せた車が停まった。

後部のドアが開く。

「降りるぞ」

高坂の声がした。

「きゃっ!」

千尋の短い悲鳴が聞こえる。

「千尋ちゃんに手を出すな!」

谷岡は声のした方に顔を向け、怒鳴った。

「車から降ろしただけだ。いちいち声を張るな」

高坂が言う。

まもなく、谷岡も車から降ろされた。

谷岡と千尋は、両手首をガムテープで拘束され、目隠しをされて車に乗せられた。

ずいぶんと長い時間を走り、ぐねぐねと曲がる道も走ってきた。

車外へ出た谷岡は耳を澄ませ、空気を吸い込んだ。

枝葉が擦れる音がする。緑と土の匂いが濃い。かすかだが、川のせせらぎも聞こえる。

山の中だな……。

谷岡は思った。

聞こえてくる音や匂いが、実家のある山間の町を思い出させる。

歩くたびに足が沈む。ふかふかの絨毯の歩くような感覚は、おそらく腐葉土だろうと感じた。

少し歩き、立ち止まる。

鍵を開ける音がした。続いてドアの開く音がする。蝶番は軋んでいた。古い建物のようだ。

中へ入れられる。少し湿った木材の臭いがし、黴臭さも感じた。

階段を上がる。コンクリートの階段だった。砂利のようなものを踏みしめ、二階と思われるフロアの廊下を進む。

また立ち止まり、鍵がちゃらちゃらと鳴る音が聞こえた。開錠し、ドアを開ける。

谷岡は中へ連れ込まれた。

突き飛ばされた。足下がおぼつかず、つんのめって両膝と両手をついた。その上に、短い悲鳴と共に千尋が乗っかってきた。谷岡は潰れ、うつぶせた。

「外してやれ」

高坂の声が聞こえた。

谷岡は目隠しを取られた。眩しさに一瞬目を細める。すぐ近くに千尋の姿を認めた。千尋もまた、明かりに目を細めていた。

視界が戻ってきた。高坂たち三人が谷岡と千尋を囲むように立っている。

部屋を見回す。広い部屋だが、窓がなかった。正確には、窓があったと思われるところがコンクリートで塞がれていた。

フロアは絨毯張りだった。全体がコンクリートかすや砂埃で白んでいて、ところどころ擦り切れていた。

収納があったと思われるところも、中板や扉はすべて取り去られ、区切り柱だけが残っている。

部屋の隅には、真新しいマットと毛布が置かれていた。

壁にはエアコンがあった。空調はすべて、一台のエアコンで行なっているようだ。

天井にはシーリングライトが取り付けられている。笠は少し汚れているが、部屋全体を照らすには十分な明かりを灯していた。

「ここはどこだ?」

谷岡が訊く。

「さあな。おまえたちが知る必要はない」

高坂は片頬を上げ、二人を睥睨した。

「疑問は抱くな。おとなしくしていれば、すべてが終わった後に解放する。この部屋から出すことはできないが、食事は運んでやるから飢え死にすることもない」

「どうやって食べろと言うんだ」

谷岡は背後に顔を傾けた。

「おまえらが逆らわないとわかったら外してやる。それまでは、這っても食えるものを用意してやるよ」

高坂はにやりとした。

千尋が高坂を睨み上げた。

「あんたたちの施しなんか受けない! 声が出なくなるまで叫んでやる!」

すると、高坂が笑い声を立てた。矢萩と青井もくすくすと笑う。

「何がおかしいの!」

「叫んでもかまわんが、ここの周りには人もいなけりゃ、家もない。熊にでも助けてもらおうってのか?」

高坂は言い、さらに笑い声を立てる。

「うるさーい!」

千尋は声を張り上げた。

それでも高坂たちは笑い続ける。

「まあ、好きにしろ。ただ、あまり長く逆らってると、拘束した結束バンドを外せなくなる。血流が止まれば指先から壊死して、両手首から先がポロリと落ちてしまうぞ。手のない生活がしたけりゃ、永遠に叫んでろ」

高坂は矢萩と青井を見た。互いに頷き、部屋から出て行った。

鍵をかけられる。室内は二人だけとなった。

谷岡は千尋を見た。

気丈に高坂を睨みつけていた大きな瞳に、涙が滲んでいた。

「千尋ちゃん、ごめんね。こんなことになるなんて思わなくて……」

谷岡が言う。

千尋は下唇を嚙んだ。涙をこらえ、谷岡に目を向ける。

「どういうことなの。一から話してよ」

千尋は責めるような目で谷岡を見つめた。

谷岡はうつむいた。

「二年前のことだったんだ。僕はSOHOで仕事をしててね。簡単なプログラムのチェックをしていたんだ。その時、西崎さんというIT会社の社長さんと知り合った」

「実際に?」

「いや、チャット上で。その頃、僕はなんだか煮詰まっててね。西崎さんに愚痴を言っていたんだ。西崎さんは僕のたわいもない愚痴を根気よく聞いてくれた。毎日のように話していて、三ヶ月経った頃かな。西崎さんにいい仕事があると言われたんだ。人生を変えられる大きな仕事があると」

「それが、私の誘拐?」

千尋が訊く。

谷岡は頷いた。

千尋は呆れたように顔を横に振り、ため息をついた。

「最初は僕も、そんな大それたことはできないと断わった。いや、西崎さんの冗談だと思ってた。でも、西崎さんは本気で言っていたんだ。金持ちから金を奪って何が悪い。それで僕が立ち直れるなら、取られた側も本望だろうと。ちょうどその頃、唯一続いていたバイト先も解雇されて、家賃も払えなくなって、アパートを追い出される寸前だったんだ。千尋ちゃんはさ。たった百円のおにぎりも買えなかったことってある?」

「ないよ」

「人間ってさ。貧すれば鈍するんだよね。何もかもうまくいかなくて、空腹も続いて、将来に希望もなくて、その日その日を生きるのが精いっぱいで。そういう時ってね。西崎さんのような言葉が染みるんだよ。成功している人すべてが妬ましくなって、正常な判断ができなくなるんだ。そして、いよいよアパートを追い出されるとなった時、僕は西崎さんに言ったんだ。身代金目的の誘拐、やりますって」

「バカじゃないの! 第一、その西崎って人、誘拐なんて言い出すくらいだから、まともなわけないじゃん! 会って言われたの? 電話で話したの?」

「いや、チャットだけだよ」

「なんで、それで信じられるの?」

「今になれば、そう思うよ」

谷岡はやるせない笑みを浮かべた。

「ただ、そういう時って、今の千尋ちゃんみたいにまともな意見をぶつけてくれる人なんて、周りにいない。堕ちた人間の周りからは、人は消えるんだよ。千尋ちゃんにはわからないと思うけど」

「いるじゃない! 尚ちゃんや洋介が。なぜ、困った時に話さなかったのよ」

「話せないよ。僕の唯一の友達だもん」

「友達だから話すんでしょ?」

「違うよ。本当に大事な友達だから、自分のみっともない姿は見せたくない。そういう姿をさらせば、尚ちゃんたちは助けてくれただろうけど、尚ちゃんたちがきつい思いをしていたのも知ってたし。迷惑はかけられないしね」

「わかんない。わかんない! それじゃあ、なんのための友達なのよ! 助け合うのが友達じゃないの?」

「じゃあ、訊くけど。千尋ちゃんが五十万円しか持ってなくて、千尋ちゃんの友達が困ってるから百万貸してと言ったら貸せる?」

「貸せるよ」

「借金してでも? お父さんを頼るのはなしだよ」

「貸せる。私なら貸す。半分あげた気持ちで貸す」

「なぜ?」

「だって、友達だから」

「でもさ。お金の貸し借りをした瞬間に、友達ではなくなるんだよ。貸した方は友達だと思ってもさ。借りた方は返さなきゃいけないと思うじゃない。借りた方はずっと、貸した側に負い目を感じて生きることになるんだ。それはもう友達じゃないよね。僕がどんな状況にあっても、昔話ができるのが友達だよね。違うかな?」

「それこそ、気の持ちようじゃん」

「そう、気分の問題。貸した方は今まで通りにいようと思っても、借りた側は返せなければ返せなくなるほど、負い目を感じるようになる。少なくとも、僕はそう思ってしまう。だから、尚ちゃんたちには話せなかった。なんとかしてくれたとは思うけど、それを返せるアテが当時の僕にはなかったからね」

「でも、尚ちゃんたちも私の誘拐に関わったじゃない。犯罪に引き込む方が、悪いんじゃないの?」

「まだ、その方が気は楽だよ。さすがに人殺しなんかはダメだと思うけど、お金を奪うだけだし、そのお金もみんなで山分け。手伝ってくれた分、尚ちゃんや洋介に多めにあげればいいんだから」

「晋ちゃんはまだまともだと思ってたけど。思いっきり壊れてるね」

「どこか壊れてないと、誘拐なんてしない」

谷岡は自嘲した。

「でも、初めは僕一人で実行するつもりだったんだ。もちろん、刑務所覚悟でね。その前に、尚ちゃんたちに会っておきたくて、連絡したんだ。そうして会って話してたら、尚ちゃんも洋介も、自分と似たような境遇に陥っていたことがわかった。だから、一緒に暮らすことを提案したんだ。西崎さんが用意してくれた聖蹟桜ヶ丘の家で。最初は、友達も困っているから住まわせてほしいと頼んだだけだったんだけど、そのうち、西崎さんが友達も困っているなら、三人で実行したらどうだと言ってきたんだ。その方が成功する確率が増すと。さすがにね、僕も揺れたよ。ただ、一人でするよりは心強いし、尚ちゃんも洋介もどんどん状況が悪くなっていたし。それで、二人に話したんだ。洋介はあんな感じだから、すぐに乗ってきたけど、尚ちゃんは最後まで慎重だった。けど、尚ちゃんも借金を抱えてた。頼れる人もいなかった。みんな、ギリギリだったんだ。そして、三人で実行することに決まった」

「西崎って人はなんと言ったの?」

「成功を祈ると同時に、不測の事態が起こった時はサポートするから、計画の詳細は教えてほしいと」

「教えたの?」

千尋が訊く。

谷岡はうなだれたまま、小さく頷いた。

「尚ちゃんたちが捕まりかけたところを助けてくれたと聞いた時は、本当によかったと思った。けど、まさかこんなことになるとは思いもしなかった」

「ごめんね。普通の感覚の私から聞いたら、どこをどう切り取ってもおかしいよ。それに気づかないなんて、理解できない」

「そうだよね。ほんとにそうだ」

「ひょっとしたら、尚ちゃんたちが捕まったというのも嘘かも。高坂が私たちを連れ出す口実だったのかもしれない」

「それならそれでいいよ。あの二人にはとんでもないことをさせてしまったから、無事でいてくれるだけで罪を償える気がする。もちろん、千尋ちゃんもここから無事に逃がすから。僕の命に懸けても」

「期待はしないけど。ありがとう」

千尋が言う。

強張った谷岡の顔が、少しだけ和らぐ。

「でも、もし尚ちゃんたちが無事なら、助けに来てくれるかもよ」

「僕を捜すことはないと思うけど」

「そんなことない。尚ちゃんも洋介も、根っから悪い人とは思えないもん。それに」

千尋は谷岡をまっすぐ見た。

「晋ちゃんにとって、尚ちゃんたちが大事な友達であるように。尚ちゃんたちにとっても晋ちゃんは大事な友達なんじゃない?」

千尋が言う。

素直な千尋の言葉が谷岡の胸に突き刺さった。胸の奥底に押し込めていた自責の念が一気に噴き出す。

谷岡の双眸から涙があふれた。

止まらない。

谷岡は額をカーペットにこすりつけた。

「ごめんなさい……ごめんなさい!」

詫びながらしゃくりあげる。

「ちょっと。泣かないでよ」

千尋は谷岡に体を寄せた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

谷岡は泣きじゃくる。

「ホントにやめて!」

そう言う千尋の目からも涙がこぼれていた。

胸中に抑え込んでいた不安が堰を切って溢れ出た。

「助けに来てくれるって。助けてくれるって!」

千尋は願望を叫んだ。

ドアから音がした。千尋は涙を止めた。谷岡の嗚咽も止む。二人はドアに目を向けた。

鍵が開けられ、ドアが開く。

見知らぬ短髪の男が入ってきた。高坂も後ろにいる。

「仲間を連れてきてやったぞ」

短髪の男が言った。

後ろから男たちが入ってきた。ぐったりとした若者を抱えている。男たちは息絶え絶えの若者二人を谷岡たちの前に放った。

「尚ちゃん! 洋介!」

谷岡が叫んだ。

千尋の眦が凍りつく。

短髪の男が谷岡を見据えた。

「おまえが谷岡だな。こいつらに言って聞かせろ。逆らえば、ここで死ぬだけだとな」

短く言い放ち、高坂たちと共に部屋を出る。

ドアが閉じる。

絶望が、谷岡と千尋の心を支配した。

 

(つづく)

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