日没の吉祥寺で少女誘拐事案が発生。被害者は大会社社長の娘で、 捜査は極秘裏に始まった。担当刑事野村と被害者の父には、ある 事件で因縁があり…。

コンダクター

『コンダクター』9

『コンダクター』9

 

永福町で複数の犯人を追っていた捜査員の一班が、逃走した犯人の一人を捕まえ、三笠邸に戻ってきた。

野村は屋敷の八畳間の和室を借り、臨時の取調室を設置した。

捜査員の一人に犯人を連れてこさせた。猫脚机を挟んで差し向かいに犯人を座らせる。右の角には東原もいた。

「ありがとう。ここはいいから、捜査に戻ってくれ」

野村が捜査員に声をかける。

「承知しました」

捜査員は一礼し、部屋を出た。

部屋は野村と東原、犯人の三人だけになった。

改めて、犯人に目を向ける。よれたワイシャツを着て、煤けたジーンズを穿いた青年だった。髪もぼさぼさで無精髭も濃く、頬はこけている。ひいき目に見ても恵まれているとは言い難い雰囲気をまとっていた。

「名前は?」

野村が訊く。

「森田……です」

男はうつむいたまま、ぼそりと答えた。

「下の名は?」

「佑介……。森田佑介です」

「歳は?」

「三十一です」

「金はいくら奪った?」

「一円も取っていません」

「本当か?」

「本当です!」

森田が顔を上げた。双眸に涙が溜まっている。

「他の誰かが紙袋を奪ったのを見て追いかけたんですが、結局追いつかず。あきらめた時、刑事さんが追いかけていることに気づいて逃げただけです」

「あの金がどういう金か、知っていたのか?」

野村が見据える。

「知りません」

「知らないわけないだろうが!」

野村は机を手のひらで叩いた。

森田はびくっと双肩を弾ませた。

「本当です! 何も知らないんです!」

「とぼけるつもりか!」

「本当です。本当なんです!」

森田は涙を流し、必死に野村を見つめた。

東原が割って入った。

「本当に知らなかったのか?」

優しい口調で語りかける。

「本当です」

すがるような目を東原に向ける。

「ではなぜ、あの紙袋に金が入っていると知っていたんだ?」

「裏サイトの掲示板で知ったんです」

「裏サイト? SNSかチャットみたいなものか?」

「いえ、もっと古い掲示板形式のものです。昔からあるサイトで、一見、フェイクの闇情報をネタで楽しんでいる〝闇ふうサイト〟なんですが、裏口があって、そこから入ると本物の裏情報にたどり着くようになっているんです」

森田はぺらぺらとしゃべった。

罪から免れたくて必死な様が手に取るようにわかる。

「そこには、なんと書いてあったんだ?」

野村が静かに訊いた。

森田は野村に顔を向けた。

「今日の午前十一時に十八分、明大前駅発の吉祥寺行き1号車4番ドア付近の優先席の網棚に、紙袋に入った金が三千万円ある。警察は当然ガードしているが、見事、警察の追跡を振り切って手にした者には、その金をすべて与える。と」

「そんな書き込みを信じたのか?」

東原が呆れる。

「半信半疑でした。けど、そこの裏情報は本物が多いという噂があって、僕も生活が苦しかったんで、もし本当なら助かると思っていってみたんです。そうしたら、本当に紙袋があって、周りには刑事みたいな人たちもいるので、間違いないと思って」

「刑事だと、なぜわかった?」

「本当かどうかはわかりませんでしたけど、イヤホンをしている人がいつもより多かったんで、その中の誰かは刑事かもしれないと思っただけです。ほら、そういうシーンがテレビドラマなんかでもあるでしょ」

森田が笑みを見せる。

野村と東原は顔を見合わせ、苦笑した。

野村は立ち上がって戸を開け、捜査員を呼んだ。若い捜査員が小走りで来る。

「彼を署に連れて行って、詳しい話を聞いてくれ」

森田を見る。

森田は蒼ざめた。

「逮捕されるんですか……?」

「内容次第だ。取り調べには正直に話せ。隠し事をすれば、その時点でなんらかの罪が成立するかもしれない。すべてをありのまま話せ。いいな」

野村が言う。

「わかりました。話します。話します」

森田は何度も頭を下げた。

捜査員を見て頷く。捜査員は頷き返し、森田の腰のベルト通しを握って部屋を出た。

戸が閉まる。野村は座り直し、大きく息をついた。

「セイさん、どう思う?」

「噓をついているようには見えなかったな。永福町に無数の犯人が現われたことからみても、無差別に情報をばらまいたと考えた方が合点はいく」

「やはり、高架下公園に現われた真犯人と思われる若者たちが陽動作戦を取ったとみたほうがいいか」

「それもまた合点がいく話だな。実際、こっちは引っ掻き回された」

東原が渋い表情を覗かせる。

「高架下から逃げた連中を追わなければ、娘にはたどり着かないということか」

「そうだな。しかし、手掛かりはある」

東原が野村を見た。

「高架下に現われた犯人らの誰かが、裏サイトの掲示板に投稿したことは間違いない。IPアドレスをたどれば、彼らの一端は見えてくるだろう」

「いけるか?」

野村が訊いた。

「端末まで行きつくかはわからんが、近いところまでは可能だと思う」

「時間がない。急ぎで頼む」

野村が言う。

東原は立ち上がり、足早に部屋を出た。

野村は腕組みをし、宙を睨んだ。

 

 

朦朧としていた上田と松川は身を起こし、壁にもたれかかっていた。二人とも顔は腫れていて、口元から血も出ている。

谷岡や千尋と同じく、後ろ手に拘束されているせいで血を拭えず、固まっていた。

谷岡たちが松川や上田と会って、どのくらいの時間が経ったのかはわからない。

同じ照度の明かりが延々と灯っているだけだ。連れて来られた時から疲労していることもあり、体の疲れ方や眠気でも時間を計れなかった。

谷岡は、千尋に話したことを松川と上田にも話した。

上田は怒りを顔に滲ませたが、怒鳴ることはなかった。松川はじっと話を聞いていただけで、目も合わせず何も言わない。

谷岡が話をした後、四人は距離を取り、それぞれ押し黙っていた。

ドアが開いた。誰もが少しだけ顔を起こすだけだった。

高坂と矢萩が入ってきた。

「おいおい、もうくたばる寸前か?」

高坂が失笑する。

「ほら、食え」

高坂が肩越しに後ろを見る。

矢萩が手に持っていたトレーを床に投げた。トレーの金属音が部屋に響き、載っていた菓子パンが床に転がった。

「そのままくたばるつもりなら食うな」

高坂は言い、部屋を出た。矢萩も続き、ドアが閉まる。

最初に動いたのは、上田だった。ゆっくりと横に倒れ、うつぶせ、芋虫のように床を這った。転がったパンの一つを前に顔を寄せ、口を開いてかぶりつく。

「よく食べられるね」

千尋が言う。

「食わなきゃ死んじまう。こんなところで死んでたまるか」

上田は埃にまみれたパンにかじりついた。

「その通りだな」

松川も同じように這い、パンをくわえた。

「千尋ちゃんも、晋ちゃんも食べなよ」

松川が声をかける。

「私はいらない。こんなもの食べたくない」

千尋が言う。

「食べた方がいいよ。次、いつ彼らが食事を運んでくれるかわからない。体力が尽きたら、それこそおしまいだ」

「それならそれでいい」

千尋が顔を横に向ける。

「晋ちゃんは?」

松川が訊く。が、谷岡は壁にもたれ、うなだれたままだった。

「尚人、ほっとけ。生きる気のないヤツは野垂れ死ねばいいんだ」

「何よ、その言い方!」

千尋が睨む。

「どんな言い方をしようが同じことだ。生きる気のないヤツは野垂れ死ぬ。そうじゃねえのか?」

上田が顔を傾けた。血を被った右目を剥き、千尋を見上げる。

千尋は凄まじい精気に息を吞んだ。

松川が半分ほど食べたところで顔を起こした。

「千尋ちゃん。結果的に、こんな状況に巻きこんでしまって心底申し訳ないと思う。けど、今はいくら千尋ちゃんに謝ったところで状況は変わらない。君だけは生きてここから出すこと。それが僕たちにできる唯一の贖罪だ。だから、お願いする。食べてほしい。僕たちにせめてもの罪滅ぼしをさせてほしい。お願いします」

松川は額を床にこすりつけた。

「尚ちゃん、ちょっと……」

千尋が困惑する。

すると、谷岡が動いた。松川たちのように床を這い、菓子パンにかぶりつく。

「晋ちゃん……」

千尋は戸惑いを浮かべた。

谷岡は何も言わず、床を睨んで黙々と食べ続けた。

「千尋ちゃん、頼む」

松川がもう一度、床に額をこすりつける。

千尋はしばし松川を見つめていたが、やがて自分も床に伏せ、埃をかぶったパンに口をつけた。

 

 

AZソリューションの社長室には、西崎と郷原がいた。ソファーに腰かけ、向き合っている。

「谷岡たちはどうだ?」

西崎が訊く。

「さっき連絡があって、四人とも与えた菓子パンを口にしたそうだ」

「ほお、なかなか骨のある連中だな。松川が主導しているのかもしれんな。あいつは頭がいい」

西崎が片笑みを覗かせる。

「買ってるな」

「今回の身代金奪取の作戦は、詰めが甘かったとはいえ、陽動としては悪くない計画だ。谷岡だけならこうはいかなかったどころか、娘の誘拐もできなかったかもしれない。松川と上田を巻きこんで正解だったな」

「しかし、それだけ知恵の回るヤツなら、逃げ出すかもしれんぞ」

「今すぐは困るが、事が進んだ後であれば、別に逃げ出しても問題ない」

「俺らのことをチクるぞ」

「逃げる気はない」

西崎は郷原を見つめた。

郷原は見返し、ふっと笑みを浮かべる。

「やはり、そのつもりか」

「心配するな。おまえらにはいろんなものを遺してやる」

「俺はおまえと行動を共にするよ」

「無理することはないんだぞ」

「無理やりなら、とっくに去ってる」

郷原は微笑み、壁に目を向けた。

古びた一枚の写真が額に飾られている。倉庫のような小汚く狭い事務所で七人の若い男女が肩を組んで並んでいる写真だ。

写真は、AZソリューションの前身、フレンドシップを起ち上げた時に撮ったものだ。

真ん中には創立者の西崎賢司が、両脇には西崎哲也と郷原が、向かって右端には有島澪の若き日の姿もある。

郷原は視線を西崎に戻した。

「で、これからどうするつもりだ?」

「今は静観だな。警察の動きは?」

「今は、松川たちが計画した永福町での陽動作戦の逃走犯の検挙に追われているようだ。いずれこちらにも手が回ってくるだろうが、二、三日は大丈夫だろうな」

「車から足がつくんじゃないか?」

「心配ない。連中を運ぶ前にナンバーを変えて、フロントグリルとリアのデザインも変えた。同一車両と特定するには時間がかかるだろう。まあ、その頃には肝心の車もなくなっているがな」

郷原はほくそ笑んだ。

「警察の電波傍受状況はわかったか?」

「それも調べさせた。屋敷の固定電話、三笠の携帯、有島の携帯回線もチェックされている。メッセンジャーやLINEもチェックされているとみたほうがいいな」

「会社の方は?」

「社長室への回線は押さえているようだ。サーバーにも手を加えた形跡がある」

「三笠に繋がるすべての通信を監視しているというわけか」

「アナログで行くか?」

郷原が言う。

「誰を使うんだ?」

西崎が訊いた。

「こんなこともあろうかと仕込んでおいた」

郷原はにやりとした。

「手回しがいいな。しかし、〝誰か〟というのは信用ならんな。俺の知っている者か?」

「いや、おまえは会ったことないと思う」

「そうか……」

西崎は腕組みをし、ソファーの背にもたれた。少しの間、宙を見つめる。

「三笠の状況は?」

西崎が口を開く。

「家に軟禁されているようだ。有島も同じくだ」

「今後は、三笠や周辺の人物は警察に監視されるな……」

西崎は再び宙を睨み、腕に力を込めた。少しして、やおら腕を解く。

「せっかく仕込んでもらったんだが、そいつを使うのはやめよう」

「俺はかまわんが。どうするつもりだ?」

「正攻法で行く」

「直接、三笠に吹っ掛けるのか?」

郷原は目を丸くした。

西崎が頷く。

「そうだ。その方が騒ぎも大きくなっておもしろくなる」

「その前に、俺らがパクられるかもしれんぞ」

「そうなりゃ、俺たちの負け。それでいいじゃないか」

「まったく、おまえってヤツは──」

郷原は目元を緩めた。

「わかった。ドンとぶち当たってやろう」

左手のひらに右拳を打ちつける。

「とりあえず、三笠や周りの者の通信傍受状況、三笠邸と会社の監視状況、それと今回の誘拐事件の報道状況をつぶさにウォッチしておいてくれ。こっちが動く時期は俺が決める。それまで、松川や娘たちの監視を怠るな。他の者は指示があるまで通常の業務を」

「伝達しよう」

郷原はスマートフォンを出し、独自にプログラミングした仲間内の連絡用チャットに西崎の言を打ち込み始めた。

西崎は壁にかけた写真を見た。

いよいよ始まるぞ、兄貴──。

 

 

身代金受け渡しの日から二日が経った。

野村率いる捜査本部は、京王井の頭線から金を奪って逃走した者たちの大半を検挙した。金もほとんど回収したが、まだ二百万円弱は見つかっていない。捜査員たちは引き続き、逃走を続けている犯人たちの捜索に当たっている。

一方、野村たちは、検挙した者たちから事情を聴いた。森田と同じく、ほぼ全員が裏サイトの掲示板に書き込まれた情報を信じ、犯行現場に来ていた。

また他の者も、掲示板を見た者から話を聞き、犯行に及んでいた。

永福町に現われた者たちは、裏サイトの掲示板の情報で集まった繋がりのない不特定多数の者たちだという結論に至った。

かたや、中央高架下公園から逃走した若者たちの捜査は難航していた。

東京駅まで、彼らに似た若者と彼らの手助けをしたホームレスらしき男の姿が確認されていた。彼らが八重洲地下の駐車場に入ったとの情報から、逃走に使用したと思われる黒いミニバンも防犯カメラ映像と目撃情報から特定し、行方を追った。

当該車両は台場ICを降り、テレコムセンター方面へ向かったことだけはわかった。

が、青海の倉庫街あたりで、行方をくらませ、その後の足取りはわかっていない。

また、捜査本部にとって、困った状況も発生していた。

永福町での騒動が動画や写真に撮られ、SNSで拡散されていた。

誘拐事案については箝口令を敷いている。そのせいで、SNSでは集団強盗事件ではないか、テロ事件が起こったのではないかといった憶測が飛び交っている。

マスコミも動き出し、情報を嗅ぎ回っている。まだ誘拐事件だという報道はないが、騒ぎを報じるメディアも出てきていた。

上層部からは対処を求められている。

野村は逡巡していた。

誘拐事案はデリケートだ。わずかでも扱いを間違えば、それは即、誘拐された被害者の死に直結する。

とはいえ、無用に騒ぎ立てられる状況を放置しておくこともまた、リスクを増大させることになる。

野村は、取り調べ用に使っていた三笠邸の和室に二人で詰めていた。

「ノムさん、そろそろ情報拡散の状況をなんとかしないとまずいな。どうする?」

「うむ……」

野村は腕を組み、唸った。

「報道規制に踏み切るか?」

東原が訊く。

野村は答えず、右の人差し指で左二の腕を叩いた。

逃走した真犯人らしき者たちが、この状況をどうみているのかがわからない。

裏サイトに情報を流すような連中だ。騒ぎが起これば、SNSなどでの情報拡散が起こり得ることは織り込んでいるだろう。

彼らにとっては、こうした情報拡散も捜査の攪乱になり、好都合でもある。

しかしそれは、彼らが金銭の奪取に成功していれば、の話だ。

彼らは最も大事な金銭を手にできなかった。これ以上騒ぎが大きくなれば、再度、金銭を要求することも不可能となる。

このまま逃走するつもりなら現状も容認できるだろうが、まだ身代金を奪うつもりであれば、今の状況にはかなり苛立っているに違いない。

公開捜査に踏み切るか。だが、踏み切った途端、犯人たちに雲隠れされれば、いよいよ千尋の命は危うくなる。

「セイさん。裏サイトのIP情報からの特定はどうなっている?」

「サイバー班が徹夜でがんばってくれているが、やはり、複数のプロキシサーバーを経由しているようで、特定は難航しているみたいだ。あと数日はかかりそうだな」

「そうか……。もう少し待つか」

「現況放置か?」

「そうなるが仕方ない。報道規制も敷いても、マスコミは勝手に動く。真犯人らしき若者たちへの手掛かりがない実情で記者に勝手に動き回られては困る」

「しかし、情報の拡散は止まらんぞ」

「今はそれでいい。むしろ、情報が錯綜していると犯人側が知れば、我々の手がまだ自分たちに及ばないと判断して、再度、身代金奪取を試みるかもしれん。であれば、人質は生かす可能性も高くなる。ともかく、IPからの特定を急がせてくれ。手を打つのはそれからだ」

「わかった」

東原が頷く。

野村は組んだ腕に力を込めた。

 

 

ドアが開いた。高坂と矢萩がいつものように食事を届けに来た。

松川たち男性陣は壁にもたれていた。千尋は脚で引っ張り出したマットに横たわっている。

「ほら、メシだ」

高坂が言う。

矢萩がトレーを放ろうとした。

「待ってください」

松川が声をかけた。矢萩の手が止まる。

「僕たち、逆らわないので、手足の拘束を解いてくれませんか?」

「たった二日で音を上げたのか?」

矢萩が失笑する。

上田が顔を起こし、矢萩を睨みつける。

「あっちの友達は、まだ元気がよさそうだが?」

高坂が上田を見据えた。

「彼は多少血の気が多いだけです。逆らう気力なんてありませんよ」

松川は力なく微笑んだ。

「それはどうかな? この状況でも出されたパンはすべて食べている。俺なら、この状況で食欲など湧かない。それだけ、おまえらは生きる意志を持っているということだ。そういう相手は手ごわい」

高坂は松川を見つめた。松川も見返す。弱弱しさを演じようとするが、つい双眸に力がこもる。

高坂はふっと笑みをこぼした。

「まあ、いいだろう。バンドを切ってやれ」

高坂が言う。

矢萩はトレーを床に置き、ズボンの後ろポケットからバタフライナイフを取り出した。片手で振り出し、千尋の下に歩み寄る。

まずは千尋の手首の拘束を解いた。続いて、谷岡の手首の拘束を解き、松川の手足の拘束も切る。

最後に矢萩が上田の脇に屈んだ。

「あー、一つだけ言っておく」

高坂が声を上げ、上田を見やる。

「拘束は解いてやるが、その瞬間、暴れる気ならやめておくことだ。まあ、懸命な諸君はこの意味がわかると思うが」

高坂は言うと、指笛を鳴らした。

ドアの向こうに人影が現われた。青井の姿だけでなく、複数の男が入口を壁のように塞ぐ。手にはそれぞれがナイフを握っていた。

「ドアの鍵も開けておいてやる。トイレまでの移動は自由にしろ。だが、この部屋とトイレまでの間から一歩でも出れば、そこで人生を終えることになる。娑婆の地面を踏みたけりゃ、その一歩は我慢することだ」

高坂は矢萩を見て頷いた。

矢萩が上田の拘束バンドも切る。四人の手足は自由になった。

高坂と矢萩が出ていく。これまで聞こえていた施錠の音はなかった。

四人は床に座って、それぞれ、固まった関節や手足の首をほぐした。

松川はトレーを取った。千尋に差し出す。

「ありがとう」

千尋はパンを手に取った。

「晋ちゃん」

谷岡に差し出す。

谷岡は何も言わずパンを取り、壁の端で膝を立てて座り、口に入れた。

「洋介」

松川はパンを取って投げた。

上田は右手でつかみ、かじりついた。松川もパンを取り、さっそく食す。

「簡単に結束バンドを外したな」

上田が言う。

「それだけ、守りは鉄壁ということだ」

松川が答えた。

「厄介だな」

「ああ」

松川はパンを握った。

「どうするつもり?」

千尋が訊く。

「とりあえず、このままおとなしくしていよう。外の状況も彼らの人数もわからないし、みんなの体力も戻っていない。拙速に動いて、また拘束されたら、脱出する機会を失う。今はともかく、彼らが出す食事を摂って、よく寝て、体調を戻すことに専念しよう」

「そんな悠長なことを言っていていいの?」

「急がば回れ。急いては事を仕損じる。いろんな言葉がある。こういう時こそ、慌てちゃいけない」

「尚ちゃんはさ。どうしていつもそんなに落ち着いていられるの?」

「落ち着いてなんかいないよ」

松川は苦笑した。

「今すぐにでも叫び出したいくらいさ」

「そんなふうには見えないけど」

「尚人は、あまり感情を表に出さなくなったんだ、中学くらいからな」

上田が割り入ってきた。

「なぜ?」

千尋が上田を見る。

「中学の時、尚人の親父さんが死んでな」

「洋介」

松川が止める。

「いいじゃねえか。時間はたっぷりあるんだ。話でもしてなきゃ、退屈で仕方ねえ」

上田は言い、千尋に向き直った。

「最初はみんな同情的だったんだけど、旗色が変わったのはおふくろさんがスナックで働き始めてからだったよな。おふくろさんは、尚人たちのために一所懸命働いていただけなのに、田舎じゃ、片親や夜の街で働く人たちは敬遠される。そのうち、根も葉もない噂で尚人たちまで敬遠されるようになって。うちの親なんか、松川の家とは付き合うなとか言いやがった。殴ってやったけどな。親父と止めに入った兄貴を」

上田が笑う。

千尋も小さく苦笑した。

「そんな状態が一年以上続いた頃から、尚人は気がついたら笑わなくなってたよ。なんでか、訊いたことがあったよな?」

上田が松川を見る。

松川は目を伏せ、パンをかじった。

「尚人、なんて言ったと思う?」

上田が千尋を見やる。

千尋は首を傾げた。

「笑っていれば、片親のくせにと言われる。怒れば、やっぱり夜の街で働いている親の子はと言われる。感情を見せないのが一番平和に過ごせるから、だったな」

上田は松川に目を向けた。

「そんなことがあったんだ……」

千尋が同情的な目を松川に向ける。

「もう昔の話だよ」

松川は笑みを作った。

「それにね。そんな立派なもんじゃなくてさ。ただ怒るのが嫌だったところもあるんだよ。争うのは嫌いだし、大人になれば自然と気にならなくなるだろうと思っていたところもあるし。消極的選択の結果でもある。時々、洋介がうらやましかった」

「俺をか?」

「洋介は気に入らないことがあると、誰であろうと向かっていったもんな。僕にはそんな勇気はなかった」

「それ、無鉄砲っていうんじゃないの? あるいは、バカ」

千尋が笑う。

「バカはねえだろう、バカは」

上田はふくれっ面でパンを食べた。

松川も微笑む。一瞬だが、空気が和んだ。

「ともかく、今は状況を把握しつつ、体力を回復させることに専念──」

松川が話していると、谷岡が突然立ち上がった。

三人が谷岡に視線を向ける。

谷岡は何も言わずドアを開けた。

「どこ行くんだよ、晋」

上田が声をかける。

が、返事もせず、外へ出た。

千尋が立ち上がり、谷岡を追おうとする。

「ほっとけ。トイレにでも行ったんだろ」

上田が言う。

千尋は松川を見た。松川は小さく頷いた。千尋はマットに戻った。

松川は静かにドアを見つめた。

 

 

谷岡はトイレには向かわず、反対側の廊下を進んだ。男たちが出てくる。

「どこに行くんだ?」

一人の男が前に立ちふさがった。

「高坂さんに会いたい。話がある」

「おまえ、監禁されてんだぞ。わかってんのか?」

男が言う。他の男が笑い声を立てる。

「高坂に会わせろと言ってるんだ! 僕は、フリーマンZだ!」

声を張り、男を睨み上げた。

「だから、どうした?」

男が谷岡の胸ぐらをつかんだ。

谷岡は男の腹に右拳を叩き入れた。不意をつかれた男は手を放し、腹を押さえてよろけた。

「何すんだ、てめえ……」

腰を折りつつ、谷岡を睨む。

「話がしたいだけだ。僕はそっち側の人間だったんだ。話ぐらいいいだろう」

「何、騒いでんだ?」

高坂が矢萩と青井を従え、姿を現わした。

「何やってんだ、谷岡」

「僕以外の三人を解放してくれ」

谷岡は高坂を睨み、言った。

「何を言い出すかと思ったら」

高坂は失笑した。矢萩や青井、他の男たちも笑いだす。

「笑うな!」

谷岡は怒鳴った。

それでも高坂たちは笑うのをやめない。

「本気で言ってんのか?」

矢萩が訊く。

「本気も本気だ! 尚ちゃんも洋介も千尋ちゃんも、金の受け渡しが失敗した時点で、もうこの計画には関係なくなった人たちだ。今すぐ、自由にしろ!」

高坂や矢萩を睨みつける。

「おまえ、自分の立場をわかってて、言ってんのか?」

高坂があきれ顔で見返す。

「もちろんだ。わかっているから、頼んでるんだ!」

「そうか。しかし、こっちも、はいそうですか、というわけにはいかないんだよ。おまえらを逃がすにも、それなりの理由がいる」

「わかってる。僕はどんな目に遭ってもかまわない。だから、三人は解放してほしい」

「覚悟はあるというわけか」

高坂が言う。

谷岡はまっすぐ高坂の眼を見て、頷いた。

「わかった。おまえの心意気は受け止めた」

「じゃあ──」

谷岡が瞳を輝かせる。

「おっと、早まるな。さっきも言ったように、逃がすにはそれなりの理由がいる。ということで、これから出す条件をクリアすれば、おまえの言い分は吞んでやろう」

「何をすればいいんだ?」

「俺と矢萩と青井、三人を相手にして、誰か一人を倒せば、お望み通り、おまえ以外の三人を逃がしてやろう」

高坂が言う。

谷岡は蒼ざめた。激しく動揺し、黒目が泳ぐ。

谷岡は顔を伏せた。三人の強さは、聖蹟桜ヶ丘の家で思い知らされている。谷岡は彼らにまったく歯が立たなかった。

まともに対峙すれば、万に一つも勝ち目はない。

拳を握った。腕も膝もガクガクと震える。堅く目を閉じる。今にも涙が出そうなくらい、恐怖が込み上げる。

「どうした? やる前から白旗か?」

高坂が挑発する。

「まあ、おまえじゃ無理か。あの上田ってヤツなら、迷う前に殴りかかってきそうだけどな」

高坂がなおもけしかける。矢萩たちが笑い声を立てた。

谷岡は奥歯を嚙みしめた。

笑い声が頭の中で反響する。臆病な今の自分だけでなく、小さい頃からの自分の人生すべてを笑われている気がする。

「笑うな……」

ぼそりと口にする。

高坂たちには届かない。

谷岡は両掌に爪が食い込むほど固く、拳を握った。

「笑うなー!」

咆哮する。

高坂たちの笑い声が止んだ。

谷岡は顔を上げた。高坂を目一杯睨む。拳を握り締め、震えを抑えようとする。

「やるんだな?」

高坂が訊いた。

「やる!」

「わかった。おい」

周りの男に目を向ける。

「下のロビーだった広間に松川たちを連れてこい。後ろ手に結束バンドをしてな。逆らったら谷岡を捕らえていると言って従わせろ」

命令する。

男三人が返事をし、部屋へ向かった。

「来い」

高坂が谷岡に言う。谷岡の背後に矢萩と青井が立つ。

谷岡は三人に囲まれ、階下へ降りて行った。

 

 

「どこへ行くんだ?」

上田が訊く。

「黙って歩け」

男が上田の背をつついた。

松川と千尋も同じように薄暗い廊下を歩かされる。再び、手枷をされるのは大きな後退だったが、谷岡が捕らえられていると聞かされ、みな黙って従った。

確かに、トイレにしては長すぎる。松川は内心案じていたが、状況は悪い方に動いたようだ。

歩きながら、松川は上田と横目で見合った。

状況が良いとは思えないが、廊下の先へ連れていかれるのは、脱出するのに格好の機会でもある。

谷岡の状況がわからないこと、手枷をされていることを考慮し、無理はできないことはわかっているが、隙があれば全員で逃走したい。

逃げられなかったとしても、部屋から出されたことで、少なくとも、自分たちの置かれた状況だけは確認できる。

今は、できることをその都度判断し、動くしかない。その意思をアイコンタクトで上田に送った。

上田は松川の意図を感じ取っていた。黒目を少しだけ動かし、頷いて見せる。そして、前を向いた。

松川たちは、コンクリート剥き出しの階段を下りていた。階段には以前、カーペットが敷かれていたようだがほとんどがボロボロに剥がれ、埃をかぶって白くなっていた。

階段を下りると、広々としたスペースが現われた。玄関が見え、その向かいにカウンターがある。

エントランスの天井は高く、シャンデリアが飾られている。そのシャンデリアは明かりを灯すことなく、装飾が壊れ、鎖もちぎれて傾いている。椅子やテーブルもあったようだが、壁の端に転がり、壊れているものも多かった。

玄関の並びには、一面ガラス壁となっている。ところどころ割れ、無残な姿となっているが、その先には庭のようなものもあり、整っていた頃は美しい空間だったのだろうと容易に想像できた。

しかし、今はその面影も朽ち、フロアにはコンクリートの瓦礫やガラス片、椅子やテーブルなどの破片がそこかしこに散らばり、かつての盛況は見る影もなかった。

松川は、自分たちが運ばれた場所がいわゆる、廃旅館、廃ホテルという建物だろうとみた。

ガラス壁や玄関の先には木々が生い茂っている。涼しげな空気も漂ってくるあたり、建物は山の中腹にあるものだろう。

ガラス窓の外は茜色に染まっていた。陽の色から見て夕方だと思われる。

もし、今逃げ出したとしても、途中で夜になる。知らない山の中で夜を迎えるのは危険だ。が、このまま手枷をされて、この場に残っているのも危険性は変わらない。

いざという時は──。

松川は歩きながら、自分の覚悟を固めていった。

エントランスはスタンド付きのスポットライトで照らされていた。高坂たちが持ち込んだもののようだ。

光が集まる中央には、谷岡の姿があった。

「晋ちゃん!」

松川が声を張った。

中央にいる谷岡の口からは血が出ていた。顔も腫れ、目尻も切れている。

「おまえら……」

上田が上半身を揺さぶった。背後にいた男がポケットからバタフライナイフを取り出し、歯を振り出した。切っ先を喉元に当てる。

「てめえから死ぬか?」

男が耳元で言う。

上田は動きを止めた。

「おとなしくしてりゃ、殺しゃしねえ」

男は言い、刃を戻して、バタフライナイフを右ポケットにしまった。

松川たちは谷岡から十数メートル離れた場所に座らされた。高坂が松川たちに近づいてくる。

「やあ、また手を縛ることになって申し訳ないね」

「おまえ、晋に何をした!」

上田が睨み、立ち上がろうとする。背後にいた男が上田の背中を殴った。

息を詰め、膝を落とす。

「谷岡が俺たちに向かってきたんで、応戦したまでだ」

「晋ちゃんをどうするつもりだ!」

松川が高坂を睨み上げる。

「おまえたちが見ている前で、俺たちと戦ってもらう」

「なんだと!」

上田が再び立ち上がろうとする。男は頭をつかみ、上田を押さえつけた。

「待て待て。これは俺が言いだしたことじゃない。谷岡が言いだしたんだ」

「噓だ!」

松川が怒鳴る。

「谷岡が俺と矢萩、青井の三人と戦って、誰か一人でも倒せば、おまえら三人を解放する。そういう条件で戦うことになった。友達想いじゃないか、谷岡は」

高坂が片笑みを浮かべる。

「そんな……晋ちゃん、やめて!」

千尋が声を上げた。

谷岡の方がぴくりと動く。が、谷岡は千尋たちの方を見ようともしない。対峙する矢萩と青井を見据えていた。

「晋、やめろ!」

「晋ちゃん、やめるんだ!」

松川と上田も声を張る。千尋も含めた三人の声がエントランスに響く。

谷岡は両手を強く握った。

「戦うんだ!」

谷岡が咆哮した。松川たちが聞いたこともない大きな声だった。

「僕が尚ちゃんや洋介を引き入れた。僕が千尋ちゃんを危ない状況に巻き込んだ。全部、僕のせいなんだ。僕が決着を付けなきゃならない」

谷岡が唸るように声を絞り出す。

「晋ちゃん、いいから! 私のことはいいから!」

千尋は涙声で叫んだ。

谷岡はやおら振り返った。千尋に顔を向ける。

「僕はいつも、尚ちゃんや洋介に助けてもらってた。でも、僕が尚ちゃんや洋介を助けたことはない。いつもいつも迷惑かけっぱなしだった。その上、千尋ちゃんまで巻き込んでしまった。もしまたここで、僕が何もしなかったら、もう僕は僕でいられなくなる。僕の存在価値はなくなってしまうんだ」

谷岡の眼から涙があふれていた。

「千尋ちゃんも尚ちゃんも洋介も、僕が助ける。僕はもう……逃げない」

谷岡は無理やり笑顔を浮かべ、再び、矢萩たちに顔を戻した。

「そういうわけだ。黙ってみてろ」

高坂は言い、谷岡の背後に近づいた。矢萩と青井が左右に広がる。

高坂たち三人は、谷岡を囲んだ。

高坂は谷岡に声をかけた。

「始めようか」

軽く拳を握る。

谷岡は顔を伏せ、両目を固くつむった。拳を握り締める。

「晋ちゃん!」

千尋が泣き叫んだ。

谷岡は顔を上げた。血走った眼で高坂を睨みつける。

そして、腹の底から声を張り上げて拳を握り、向かっていった。

 

(つづく)

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