日没の吉祥寺で少女誘拐事案が発生。被害者は大会社社長の娘で、 捜査は極秘裏に始まった。担当刑事野村と被害者の父には、ある 事件で因縁があり…。

コンダクター

『コンダクター』 2

『コンダクター』 2

松川が自室に使っている部屋のドアがノックされた。ドアが開き、谷岡が顔を出す。
「尚ちゃん。夕飯の買い出しに行ってくるから、代わってもらってもいいかな?」
「僕が行ってくるよ」
「ちょっと、外の空気も吸いたくて」
「そっか。なら、代わるよ。洋介は?」
「出かけたままで、まだ帰ってない」
「どこに行ったんだろうか」
「さあ。何も言わずに出て行ったから、パチンコにでも行ってるんじゃないかな」
「しょうがないヤツだなあ……」
松川がため息を吐く。
「駅前に行くから、見てこようか?」
「うん、頼むよ。もしいたら、一緒に帰ってきてな」
「わかった」
谷岡は笑顔を見せ、ドアを閉じた。
足音が遠ざかる。玄関ドアの開閉する音がし、静かになった。
松川は読みかけの本にしおりを挟んで閉じ、立ち上がった。部屋を出て、二階へ上がる。
二階は二十畳のリビングになっている。左手にはキッチンが、右奥隅には三畳間がある。
松川はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。三畳間に目を向ける。その部屋に、千尋を閉じ込めている。眠っているのか、物音一つしない。
松川は持ったままだった本を広げ、再び読み始めた。
昔好きだったファンタジー小説だ。気晴らしにとページをめくっているが、文字がまったく目に入ってこない。
千尋を誘拐して、一週間が経っていた。
千尋を連れ込んだのは、松川たちが三人でシェアしている一軒家だった。
聖蹟桜ヶ丘駅から東へ二十分ほど歩いたところにある。
一階は八畳部屋が三部屋と風呂がある。二階は広いリビングとなっていて、キッチンもある。トイレは両階に設置されていた。
地下車庫や植木に囲まれた庭もあり、ちょっとした邸宅だ。
そもそも、どこかの会社が郊外の事務所として使うつもりで購入したそうだが、予定が変わり、シェアハウスとして貸し出したものらしい。
らしい、というのは、松川が直に契約をしたわけではないからだ。
二年前、この家の賃貸情報を持ってきたのは、谷岡だった。
SOHOで知り合った社長から、シェアハウスにした物件があるのだがどうだと紹介されたらしい。
三人は、上京してからもたびたび会っていた。
谷岡は、それぞれが窮地に陥っている中、助けになればとその話を持ってきた。
上田は即決した。
松川は少し躊躇した。
谷岡の話を聞く限り、そうした話はあってもおかしくないとは思ったが、実は物件を占有するための住人役だったり、事故物件を洗浄するための間借り役だったりするかもしれない。
ただ、谷岡の申し出は、願ってもないものだった。
松川は当時、無職だった。
大学を卒業し、一度は就職した。しかし、そこは見事なブラック企業で、研修という名目の安い給料で一日二十時間を超える労働を強いられた。
松川はがんばった。再就職先を探している余裕はない。ふらふらになりながらも、なんとか踏ん張ったが、半年で完全に体を壊し、望まないまま依願退職した。
それから、次の就職先を探したが、なかなか見つからず、わずかな貯金を切り崩して、なんとかしのいでいた。
そして、いよいよ貯蓄の底も見えてきた頃、谷岡からシェアハウスの話を持ちかけられた。
これまで六万円強払っていた家賃が、三万円になる。この差額は、松川にとって大きかった。
松川は時間を見つけ、家の下調べをした。
幸いなことに、占有物件や事故物件ではなかった。
地元の友達もいる。家賃も下がる。断わる理由がなくなり、松川はシェアハウスへの入居を了承した。
松川、上田、谷岡は、長野盆地の河東にある城下町の出身だ。松川と上田はその町に生まれ育ち、谷岡は中学一年の頃に転校してきた。
千曲川の東にあるこの町は、天然の要衝として知られ、かつては真田氏が城主を務めた城や旧日本軍大本営の移設予定地があった場所だ。
現在は史跡豊富な観光地として栄え、長いもをはじめ、桃や杏、葡萄などの名産地としても知られる。
風光明媚な場所だったが、松川たち三人には多少、居づらい土地だった。
松川の父は中学二年の時に病死した。それ以降は、松川と弟妹を母親が女手一つで育ててくれていたが、片親ということで理不尽な言動を浴びることも少なからずあった。
上田の親は公務員で、二人の兄は国立大学に進学した。しかし、上田自身は優秀な兄たちとは違い問題児で、家族の中でさえ疎まれていた。
谷岡の親は銀行員だったが、転勤が続き、それに家族が付き合わされ、各地を転々としていた。中一の時に松代町へ引っ越してきたが、地方都市にありがちな閉鎖性によって、よそ者として時々苦しめられた。
三人とも、どこかしら、町の中に居場所を持てない少年だった。
松川たちが親しくなったのは、中学一年生の時。谷岡がイジメに遭っていたのを松川と上田が助けた頃からだ。
なんとなく世間からはぐれた三人は、四六時中つるんでいた。
同じ高校を卒業し、三人はそれぞれの進路を選び、上京した。
松川は奨学金を受けて進学した。
上田は役者を目指し、養成所に入った。
谷岡は漫画家を志望し、都内の専門学校へ入学した。
希望に満ちていた。各々の不遇を跳ね返し、未来を創るべく、瞳を輝かせていた。
しかし、現実は甘くなかった。
松川は退職後、うまくいっていない。
上田は短気な性格が災いし、早々に養成所を退所した。以後、バイトを転々としていたが、どれも長続きせず、都会に埋もれていった。
谷岡は専門学校でコツコツと勉強したが、いかんせん周囲の才能に気後れする日々を過ごし、卒業と同時に早くも挫折した。それ以降、バイトの傍ら、SOHOでイラストの仕事を受け、細々と暮らしていた。
三人で暮らす家は、安堵感があった。だが一方で、三人とも夢破れ、都会の片隅で鬱屈していた。
三ヶ月前、リビングで共に食事をしているとき、谷岡が唐突に切り出した。
〝誘拐でもして、身代金を取ろうか〟
単なる冗談だったのかもしれない。が、松川も上田も戯れ言と笑い流せなかった。
松川は奨学金の返済に困っていた。何度となく、返済期限猶予の申請を行なっているが、そろそろそれも厳しくなってきた。延滞をしたこともあるので、減額返還申請もできない。
いよいよ返せなくなれば、自己破産もと考えてはいたが、連帯保証人となっている母親に迷惑をかける。奨学金の返済を求められれば、母も破産せざるを得なくなるだろう。それでは、弟妹の道も閉ざしてしまう。
上田は上田で、上京してきてずっと借金を抱えていた。多くは遊興費だ。役者の道を早々にあきらめた後、自暴自棄になり、放蕩を繰り返して借金を重ね、首が回らなくなっていた。
誘拐を提案した谷岡もまた、上京後、二万、三万と借り続けた生活借金が、気づけば膨れ上がっていた。
それからしばらくは、誘拐の話は出なかった。が、三人の中で、誘拐という言葉は燻り続けていた。
二ヶ月前、谷岡が話を蒸し返した。三人でテレビを観ているときだった。
総合IT企業大手〈MIKASA〉の代表取締役社長・三笠崇徳がある経済番組に登場した。流暢にビジネスを語るCEOの姿を見ながら、谷岡が言った。
〝この人、相当あくどいことをしているらしいよ〟
そして、こう続けた。
〝なんで、悪いことをしてる人が報われて、僕たちのささやかな人生は報われないんだろうね〟
さらに続けた。
〝こんな人のお金なら、少しくらい分けてもらっても、いいよね〟
谷岡はぶつぶつと独り言を言うように話し続けた。
谷岡の言葉は、松川と上田の心を侵食していく。
松川は湧き上がる黒い感情を必死に押し込めた。しかし、意識すればするほど、正常な思考が掻き回される。
そして、上田が口火を切った。
〝やるか?〟
松川の心臓がドクンと跳ねた。
リビングの空気が異様な熱を帯びた。
思考が傾いた。
一度転がり始めた思惑は三人を巻き込み、急速に膨張した。
上田と谷岡が話を進めていく。
松川は傍らで話を聞いていた。止めなければいけない。自分に何度も言い聞かせるが、熱を帯びる二人の会話に心の声が掻き消される。
〝俺たちの人生を切り拓こう。自らの手で〟
上田が言った。
松川の胸の奥で理性がプチッと弾けた。
そう。持たざる者は、自分の手で人生を切り拓くしかない。
それが不合理な手段でも──。
三人ともおかしくなっていた。
しかし、やると決めた瞬間、上京してきた当時の気勢が戻ってきた感じがして、澱んでいた三人の双眸が輝きを取り戻した。
そこからは早かった。
三笠の娘をターゲットにし、日々の行動や学校のカリキュラムを下調べをして計画を立て。
実行した。
松川は三畳部屋を見つめた。
千尋は布団一枚しかない畳部屋に両手足を手錠で拘束され、転がされている。眠っているのか、コトリとも音はしない。
これでよかったのか?
内なる声が聞こえる。胸がしくりと疼く。
だが、もう、事は起こしてしまった。
振り返っている時間はない。
三千万円をどう受け取るか。
松川は手にした本のページをめくりながら、思量を重ねた。

西崎徹也は、ある旅行代理店の会議室にいた。すらりとした姿態にミッドナイトブルーのスーツを纏い、椅子にの背に深くもたれ、脚を組んでいる。
隣には頭髪を短く刈った大柄の男が座っている。西崎の右腕の郷原浩紀だ。
郷原は黒いスーツを着て、少し茶色を差した眼鏡をかけ、対面に座っている二人の男を見据えていた。
「葛西社長。そろそろ決めていただけませんか?」
西崎は正面に座っている白髪頭の男性を見た。
「ですが、金額が……」
葛西は顔を伏せ、生え際から溢れて止まらない汗を白いハンカチで何度も何度も拭う。
「たったの五千万。あなた方が管理している十五万人の会員情報が盗まれることを考えれば、安いものじゃないですか。それとも、目先の金を惜しんで信用を失う方が良いですか? この規模の会社なら、破産ですね」
西崎は片笑みを覗かせた。
「無礼な!」
葛西の隣にいた専務の大峰が紅潮し、唇を震わせた。
しかし、西崎は眉一つ動かさない。やおら、大峰に顔を向ける。
「私は事実を申し上げたまでです。なんなら、お宅のセキュリティーホールの情報を流してみましょうか? もっとも、その瞬間にすべてが終わりますが」
「脅すつもりか!」
大峰がテーブルを叩いて、立ち上がった。今にも摑みかからんばかりの形相だ。
郷原が腰を浮かせる。西崎は右手を上げ、郷原を制した。
「私は、御社のシステムに重大な欠陥があるから、それを解決するためのプログラムを提供できますよ、とご提案申し上げているだけです。しかし、あなた方は金を出し渋って、対策を打とうとしない。だから、実際、セキュリティーホールの情報が拡散された場合どうなるかを、身を以て知っていただこうかと思ったまでです」
「それが脅しだろう!」
鼻息を荒くする。
西崎はふっと息を吐いて、目を伏せた。
「やれやれ。これだから、何年も前のシステムを使っていても、危機感ひとつ持たないわけだ」
「なんだと?」
大峰が気色ばむ。
「大峰君……」
葛西は困った様子で大峰を見上げた。
「社長! こんな怪しい連中の言うことなど聞く必要はありません!」
「どうされるおつもりですか?」
西崎が顔を上げる。
大峰は西崎を睨みつけた。
「うちに出入りしているITの会社がある。彼らに修正プログラムを作ってもらえばいいだけだ」
「そうですか」
西崎は隣に目を向けた。
郷原は、脇の椅子に置いたバッグからノートパソコンを取り出した。
起動し、太い指で軽快にキーを叩く。
「情報をばらまくつもりか!」
大峰が怒鳴る。
郷原はモニターを見つめ、淡々とキーを叩き続ける。
「やめろ!」
大峰がノートパソコンを奪おうと、手を伸ばした。
郷原が顔を上げ、ひと睨みした。
大峰の手が止まる。
郷原はエンターキーを押し、キーボードから手を離した。
西崎はノートパソコンを引き寄せた。モニターに表示されたデータを見て、ニヤリとする。
「どうぞ、ご覧下さい」
モニターを葛西と大峰の方に向け、ノートパソコンを差し出す。
大峰がパソコンを手元に寄せた。葛西と共にモニターを覗き込む。二人の双眸がみるみる見開き、顔が強ばった。
画面に表示されていたのは、この旅行代理店が管理している顧客情報だった。
氏名、住所、年齢はもちろん、パスポート番号や顔写真、クレジットカードのナンバーと有効期限、個々人の渡航歴まで、葛西の会社が管理している顧客情報のすべてが記されていた。
「何をしたんだ……」
大峰は声を震わせた。葛西は蒼白になっている。
「セキュリティーの不備を突いて、御社の管理サーバーに侵入しただけです。どうです? すべての情報を引き出すのに、三十秒とかからなかったでしょう?」
「不正アクセスだ! 警察に連絡する!」
大峰が語気を荒らげる。
「どうぞ、ご自由に。これは、あなた方に状況を理解していただくためにあえて目の前で侵入してみせたものですが、このセキュリティーの脆弱性情報を流せば、五分もかからないうちに数千、数万の不正アクセスが殺到し、あっという間に、今、目にされている顧客情報が全世界に出回ります。パスポートにクレジットカードの偽造、不正使用、オレオレ詐欺などに使われる顧客名簿、詐欺商法。被害は甚大でしょうね」
西崎が淡々と語る。
葛西と大峰はただただ呆然とするばかりだった。
西崎はノートパソコンを取り、上蓋を閉めた。
「では、交渉決裂ということで、私たちはこれで」
西崎が立ち上がろうとする。
「ま……待ってくれ!」
葛西が止めた。
「わかった。君たちの対策プログラムを買おう」
「社長!」
「君は黙っていなさい!」
葛西は大峰を一喝した。
西崎は座り直した。
「金額は?」
「見積もり通り、五千万でいい」
「さすがは社長さんだ。危機管理の重要性をわかっていらっしゃる。では──」
西崎は郷原を見やった。パソコンの入っていたカバンから契約書を取り出す。
「こちらにご署名と捺印をお願いします」
契約書を葛西に差し出す。
「大峰君、社判を持ってきなさい」
「しかし……」
「いいから。西崎さんの言う通り、顧客情報が流出すれば、我が社は一巻の終わりだ。対策してもらおう」
「……わかりました」
大峰は渋々立ち上がり、会議室を出た。
西崎が葛西の手元を見つめ、ニヤリとした。
西崎は、〈AZソリューション〉というIT会社の代表だった。
AZソリューションは、表向き、ソフトの制作販売、システムのプログラミング、企業のWEBサイト作成管理といったIT全般の事業を行なっている会社だ。
が、実態は、セキュリティーの甘い会社を探し出し、対策プログラムを法外な値で売りつけるITゴロを生業とする会社だった。
前身は、MIKASAと同じ〈フレンドシップ〉だ。粉飾決算を指示した疑いをかけられ、自殺した西崎賢司の実弟だった。
西崎や郷原たち、一部の社員たちは、三笠崇徳が新設したIT企業には籍を移さず、自分たちで会社を立ち上げた。それがAZソリューションだ。
当初は、兄の志を継ぎ、地道にソフト開発や企業内システムのプログラミングで稼いでいた。
が、大小のIT企業が群雄割拠する中、売上は思うように伸びず、赤字が続いた。
ある時、郷原が、AZソリューションの顧客だった自動車販売会社のセキュリティーに穴があることを発見した。
経営に窮していた西崎は、対策プログラムを作り、市場価格より高く売りつけた。
ターゲットとなった会社は、簡単に顧客情報が盗まれるデモンストレーションを目の当たりにし、西崎の言い値でプログラムを購入した。
味をしめた西崎は、同様の手口で高額なプログラムを売りつけ、経営を黒字に転化させることに成功した。
立て直した後は、あこぎな商売はやめるつもりだった。が、一度口にした蜜の味は忘れられず、徐々に裏稼業が主たる収入源へと逆転した。
もちろん、押し売りに応じない企業もある。
そういう企業には、制裁として脆弱性を示唆する情報を流したり、わざとセキュリティーホールを作り出して秘密裏に攻撃したりもした。
西崎の方針についていけなくなったかつての仲間の多くが辞めた。代わりに、ITゴロも厭わない連中が運営に加わった。
次第に、社員は先鋭化し、いつしかAZソリューションはITゴロの筆頭格として業界にその名が知れ渡るようになった。
大峰が社判を持って戻ってきた。
葛西が受け取り、契約書に捺印をする。
西崎は署名と赤々とした判を確かめ、控えの一部を渡し、もう一部を郷原に渡した。郷原は契約書をクリアケースに収め、カバンにしまった。
「ありがとうございました。システムのメンテナンスは、格安でさせていただきますので、今後ともごひいきに」
立ち上がる。
郷原も立ち上がり、共に会議室を出た。
葛西と大峰は苦々しい様相で西崎たちの残像を睨みつけた。
西崎は、駐車スペースに停めていた車の後部座席に乗り込んだ。
郷原が運転席に座り、カバンを隣に放る。まもなく、車が滑り出した。
「あの様子なら、もう少し盛れたな」
郷原が言う。
「五千万で十分だ。欲を掻くと、小ネズミに牙を剥かせてしまう。生かさず殺さずでちょうどいい」
「おまえにはかなわねえな」
郷原はバックミラーを覗き、笑った。
電話が鳴った。
「俺のじゃないな。おまえだぞ」
郷原が言う。
西崎は上着の胸ポケットからスマートフォンを取り出した。繋ぎ、耳に当てる。
「もしもし、俺だ。うん……うん、そうか。報せてくれてありがとう。動きがあったら、また連絡をくれ」
手短に話し、電話を切った。
「何だ?」
郷原が訊いた。
「三笠の娘が誘拐されたらしい」
「ほお、動いたか」
郷原はニヤリとした。
「そのようだな」
西崎はフロントガラスの先を静かに見据えた。

「やはり、このあたりから先だな」
野村は、井の頭恩賜公園西園の東側にある玉川上水緑道に架かるほたる橋近辺で立ち止まり、北西の万助橋方向へ続く道を見つめた。
三笠より、千尋の捜索を依頼された日から三日が経っていた。
野村は朝から晩まで、御殿山にある三笠邸から千尋の通っていた聖林女子学園高校までの道程を往復していた。
道の隅々まで目を凝らし、防犯カメラを見つければ交渉して映像を入手し、通りすがりの人にも片っ端から千尋の写真を見せ、目撃情報を集めた。
誘拐事件が発生した場合、まずは徹底的にその日の被害者の足取りを洗うことから始める。
足取りが摑めれば、拉致された現場が判明するからだ。
拉致されたであろう場所を特定した後は、現場や周辺でさらに入念な聞き込み、痕跡の捜査を行ない、犯人の足取りを追っていく。
誘拐のような特殊事案は、本来であれば、解決にスピードを要するため、初動捜査に大人数を投入し、徹底して現場や関係者を洗う。
しかし、今回の捜査は野村一人。まずは、千尋が拉致されたであろう場所の特定から着手した。
三日間の聞き込みで、だいたいの様子は摑めてきた。
三笠千尋の行動は、十日前の五月九日午後四時十分前後までは確認された。
その日、千尋はいつものように自転車で聖林女子学園高校に登校している。そのまま授業を受け、放課後は教室で友人と話していた。
午後四時十分近く、千尋は学校を出た。
普段は、友達と共に三鷹の森ジブリ美術館から西園の西側を通って万助橋の方へ出るが、この日はピアノのレッスンがあったため、友人と別れ、西園東側にある玉川上水緑道へ一人で自転車を走らせた。
ほたる橋を過ぎるあたりまでは、西園にいた人や散歩している人、ランナーに確認されている。
しかし、そこから先は、ぷっつりと足取りが途絶えた。
野村は、万助橋方面へ歩を進めた。
ゆっくりと歩きながら、周囲を観察する。
木々に囲まれた道は砂利敷きで、西園からの見通しも悪くない。ただ、時折、樹木の幹が重なり合い、死角となる場所がある。
人通りもそこそこあるが、時間帯によっては三分から五分程度、人影がなくなるタイミングがある。
芝の養生や建設途中の公園管理事務所の工事柵がそこかしこに立ち、それもまた周囲の人々からの目隠しとなる。
野村は道行く散歩客やランナーを呼び止めては、話を聞く。いずれも、当日、千尋の姿は見ていない。
先へ進むと、砂利道と舗装されたアスファルト道の境が見えた。周囲は他の場所より少し広くなっている。
野村は、ふと足を止めた。作業着を着た男性が清掃をしている。
「すみません」
声をかけると、初老の小柄な男性が腰を起こし、顔を上げた。
「私、警視庁の者ですが」
身分証を提示する。
男性は目を細め、野村の顔写真と名前を確認した。
「いつもここで、掃除しておられるんですか?」
「公園中を掃除してるよ」
男性の返答は素っ気ない。
「ちょっと見てもらいたいものがあるんです」
野村は内ポケットから写真を取り出した。
「五月九日、今から十日前ですな。その日の午後四時十分から二十分頃、このあたりでこの娘さんを見かけませんでしたか?」
写真を男性の前に差し出す。
「知らんね。ずいぶん前のことだから、思い出せん」
「そうですか。お仕事中、失礼──」
写真をしまおうとした。
と、男性は何かに気づいたように、顔を上げた。
「五月九日といえば、ゴールデンウィーク明けの月曜日だね」
「そうですが、何か?」
「いや、関係ない話かもしれんが」
「気づいたことは何でも聞かせてください」
「おれら、公園管理事務所から委託されて、武蔵野市のシルバー人材センターから派遣されている清掃作業員なんだがね。あの日は、若い清掃作業員がいたなあ」
「まれなことですか?」
「特別清掃するときや、木々の剪定や保護をするときなんかは若いのもいるんだけど、普段はおれらみたいな年寄りばかりだよ。あの日、特別な何かがあるとは聞いてなかったから、めずらしいなと思ってさ」
「どんな若者で、何人いました?」
「二十から三十歳くらいかなあ。三人で大中小揃った感じだったよ。このへんの葉っぱを熊手なんかで掃いてたみたいだけどよ。秋冬でもないのに、葉っぱを掃除するってのも違うだろう?」
「それはそうですね」
野村は懐から手帳を取り出し、聞いた話を書き留める。
「まあ、ここいらにタバコのポイ捨てをするバカもいるから、吸い殻なんかを集めてたのかもしんねえけどな」
「その若者たちを見たのは何時頃ですか?」
「三時くらいかなあ。公園内を一周して戻ってきたときには、もういなかったけど」
「戻ってきたのは何時頃です?」
「五時ぐらいだよ。道具もきれいに片づけてあったんだけどな。それも妙なんだよ」
「妙とは?」
「このあたりの掃除をする道具は、西園のテニスコートの前にある物置場から持ってくるんだけどな。あそこにいつもいる婆さんに聞いてみたら、若い連中が道具を持ってったり、返しに来たりしたことはないってんだ」
「つまり、その若者たちが持っていたのは、自前の道具ということですかね」
「ということだろうな。まあ、おれらが知らない業者もたまに入ってくることがあるから、そうした連中なのかもしれないけどさ。ちょっと覚えてたもんで話した。役に立ったか、刑事さん?」
「大いに。ありがとうございます」
礼を言い、再び歩きだす。
「清掃作業員ふうの若者か……」
野村は、手帳に書いた文字をペン先で突きながら、ぼそりとつぶやいた。

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