『コンダクター』 3
日没の吉祥寺で少女誘拐事案が発生。被害者は大会社社長の娘で、 捜査は極秘裏に始まった。担当刑事野村と被害者の父には、ある 事件で因縁があり…。

コンダクター

『コンダクター』 3

第2章

 

 

午後二時を回った頃、野村は一週間ぶりに、本庁に顔を出した。

瀬田に呼ばれたからだ。捜査状況を報告してほしいという。

庁舎へ入った野村は、副総監室へ足を運んだ。すぐさま中へ通された。応接用のソファーで瀬田と向かい合う。

「ご苦労様です。久しぶりの現場はどうですか?」

瀬田は挨拶代わりに訊いた。

「還暦間近のオヤジにはきついよ」

皮肉交じりに言う。

瀬田は苦笑した。

「申し訳ありません。早速ですが、捜査の進展具合を聞かせてもらえますか?」

「せっかちなヤツだな」

野村は息をついて、ジャケットの横ポケットから手帳を取り出した。広げて、少し顔から離し、目を細めてメモ書きを見る。

「まず三笠千尋の足取りだが、最後に目撃されたのは五月九日の午後四時二十分頃。場所は、井の頭公園西園の万助橋から三百メートルほど南東に入った場所にある遊歩道だ。誘拐されたとすれば、ここだろう」

「どんな場所ですか?」

「周りに木々が生い茂り、砂利道の先に少し広くなったスペースがあるところだ。その先は万助橋まで舗装された道が続いている。公園の入口には近いが、道が曲がっていて、ちょうど死角になっている空間だ」

「犯行の目撃者は?」

「今のところ、そうした目撃情報は得ていない。夕方で人通りはあるが、タイミングによっては通行人やランナーが三分から五分いなくなる場所でもある。それだけの時間があれば、人を攫うことはできる」

「不審者の情報は?」

「当日の午後三時から五時前あたりまで、二十代から三十代の清掃員三人を目撃したという情報はあるが、本事案に関係しているかは何とも言えないな」

野村は言った。

「三笠千尋の交友関係はどうですか?」

「一応調べてみたが、現時点で特筆すべきものはないな」

息を吐き、口元を結ぶ。

目撃情報の聞き込みにあたるかたわら、千尋の友人や関係者から話は聞いていた。

千尋の友人のほとんどは、聖林女子学園の同級生だった。他は習い事のピアノ関係で知り合った者程度。交友関係は広くもなく、狭くもなくといった感じだった。

行動範囲も吉祥寺近辺がほとんどで、あまり渋谷や新宿といった繁華街には出かけていなかったようだ。

男の影もなく、それといったトラブルも聞こえてこない。

夜な夜な遊び回るということもなく、帰宅が遅くなる時や花火大会などのイベントに出かける時は、必ず澪に連絡を入れていた。

澪に届いたメールも確認した。

調べてみた限り、日常生活はごくごく普通の、もしくは今時の子よりも真面目な女子高生のものだった。

瀬田は野村の話を聞き、腕組みをした。

「となると、犯人は純然たる身代金目的とみた方がいいのでしょうか」

「いや、そうとも言い切れない」

野村は手帳をめくった。

「三笠崇徳の秘書、有島澪から聞いた話だが、今、MIKASA内部で三笠降ろしの動きがあるようだ」

野村が言う。

瀬田の眼差しが鋭くなった。

「原因は何ですか?」

「給料格差のようだな。旧フレンドシップからの古参と新会社になってからの社員が給与面で対立しているそうだ。それが労使紛争に発展し、三笠の解任にまで話が及んでいるということだ」

「なぜ、給与格差が生まれているんですか?」

「私もよくわからんのだが。有島が言うには、新しい社員と古参とでは、プログラミング技術や企画力に差があるらしく、その差を忠実に給与に反映しているそうだ」

「IT業界は日進月歩ですからね。若い方が柔軟で、ニーズを的確につかめるのかもしれません」

瀬田が自分の言葉に頷く。腕を解いて、野村を見やった。

「ということは、古参社員の一部が暴走したということも考えられますね」

「その線を調べてみるつもりだ。が、いかんせん、手が足りない。人を増やせないか?」

「それは……」

「娘が消息を絶って、もう二週間になる。そろそろリミットだ。あんたの立場もわかるが、これ以上悠長に構えていれば、娘の命は保証できん。旧フレンドシップの社員が関わっているとすれば、身代金目的だけではなく、怨恨という線もあり得る。三笠がフレンドシップを買収したことで、自分たちが育てた会社が消失したわけだからな。もしそうした側面も併せ持っていれば、それこそ娘の命は危ない。三笠に上からそう伝えろ」

「……わかりました。手配してみます」

瀬田が言う。

野村は首肯し、さらに口を開いた。

「もう一つ、頼みがある」

手帳のメモを一枚破る。野村はテーブルに置き、瀬田に差し出した。

瀬田は紙片を取り、手元を見た。

車の種類が数台分記されている。

「なんですか、これは?」

野村を見やる。

「千尋が失踪したと思われる場所の裏手に駐車場がある。五月九日の午後四時から五時までの防犯カメラ映像を確認し、その時間に出ていった車の情報だ」

「犯人は車を使ったと?」

「おそらく。小柄とはいえ人ひとり抱えて出るには人目が多すぎる。市民が集う公園で、大きなキャリーバッグを引きずっているのも目につく。誘拐してすぐ車に押し込み、逃走を図る方法が最も合理的だ。顔見知りであれば、甘言で車に誘い込んだということもあり得る。しかし、さすがに私一人では、車の捜査にまでは手が回らん。そこでだ。それらの車の持ち主と駐車場を出てからの行き先を調べてもらいたい」

「ノムさん、増員は……」

「刑事課や特一以外の者ならいいだろう?」

「誰に頼むつもりですか?」

瀬田が訊く。

野村はにやりとした。

 

 

野村が庁舎を出て一時間後、かつての同僚だった東原清治がスーツに着替え、本庁から出てきた。

「あいつ、面倒を押しつけやがって……」

坊主に刈ったゴマ塩頭をかき、野村が置いていったメモを手に井の頭公園へ向かった。

 

 

谷岡はレジ袋を持って、戻ってきた。家の中に入り、一階の松川の部屋を覗く。

「尚ちゃん、ごはん買ってきたよ」

「ありがとう。上に行こうか」

谷岡が頷く。

松川は読みかけの本を置いて、谷岡と共に二階へ上がった。ドアを開く。

ダイニングテーブルの椅子には、上田の姿があった。

「交代か?」

上田は谷岡と松川を見やった。

「夕食だよ。ちょっと早いけどね」

谷岡が言う。

上田はレジ袋を引き寄せた。中から弁当を取り出す。

「また、のり弁かよ。たまには肉を食わせろ、肉を!」

「お金がないんだよ……」

谷岡が困り顔で眉尻を下げる。

松川は二人の様子を眺めつつ、三畳部屋の引き戸を開けた。光が差し込む。

千尋は横たわっていた。顔を上げる。

「ちょっと早いけど、夕飯だ」

声をかけて中へ入り、手と足を拘束した錠を外した。

千尋は上体を起こした。手首と足首を回し、立ち上がって部屋から出てくる。顔に被さった髪の端を指で梳き、入口から最も遠い席に座った。

谷岡は棚からコップを四つ、冷蔵庫からペットボトルの麦茶を出して、それぞれに注いだ。

千尋はコップを取ると、冷たい麦茶を飲み干した。すぐ、谷岡が注ぐ。

「礼ぐらい、言ったらどうだ」

上田が睨む。

千尋は上田を見返し、弁当を取った。

松川は二人の様子を気にしつつ、千尋の差し向かいの席に腰を下ろした。

「じゃあ、いただきます」

松川が言う。谷岡も手を合わせて、いただきますと言い、箸を割った。

千尋と上田は何も言わず、黙々と食べ始めた。

千尋が錠を解かれ、部屋から出られるのは、食事の時とトイレ、シャワーを浴びる時だけだ。他の時間は部屋にいることを強制されている。

連れこられた当初は制服姿だったが、今は谷岡のスウェットを着ている。

松川は白飯を口に運びながら、千尋を見やった。

千尋は家へ連れてきた当初から、騒がなかった。

油断させたいのか、あきらめたのか。わからないが、一言も口を開くことなく、ただただ松川たちの指示に従っていた。

松川だけでなく、谷岡と上田も不思議な感覚に見舞われていた。

四人で食事をしていると、まるで最初から四人暮らしをしていたような錯覚を覚える。

それほど、千尋は空間に馴染んでいた。

もちろん、三人とも気を抜いているわけではない。が、ややもすると、もう錠はいらないのではないかと思うほど、千尋は落ち着き払っていた。

静かな食事が続く。

一番に食べ終えたのは、上田だった。箸を折って空箱に入れ、麦茶を飲み干し立ち上がる。

「もう、交代時間だろ?」

「どこに行くんだ?」

松川が訊く。

「気晴らしだ」

「また、パチンコに行くつもりか? さっき、晋ちゃんも言ってただろう。手元の資金に余裕はないんだ」

「わかってる。勝ちゃあいいんだろ、勝ちゃあ」

「そう言って、いつも負けてるじゃないか」

「うるせえなあ……。こいつの身代金を取っちまえばチャラじゃねえか。グダグダ言うんじゃねえ!」

上田は椅子を蹴飛ばした。

谷岡がびくりとして、箸を止める。

上田は部屋から出ていった。

「洋ちゃん!」

谷岡が腰を浮かせる。

「いいよ、晋ちゃん。放っておけ」

松川はため息を吐いて、弁当を食べ進めた。

千尋が箸を置いた。弁当は空になっている。麦茶を飲むと、自分から両手首を合わせ、松川に突き出した。

「まだ、いいよ。僕と晋ちゃんがいるんだ。逃げられないだろう?」

千尋を見る。

いつもなら、千尋は席を立って、部屋へ戻るところだ。

が、その日は椅子に座ったままだった。

「ねえ」

連れてきて二週間。初めて、千尋が言葉を発した。

松川と谷岡は驚き、箸を止めた。

「あんたらさあ、いつになったら身代金を取るのよ」

松川に目を向ける。怒っている雰囲気ではない。多少呆れた目つきだ。

「たった三千万でしょ? 親父のオフィスに乗り込んで、取ってきたらいいのに」

「いや、そんな簡単なものでは……」

谷岡が言葉を挟む。

千尋は谷岡に冷ややかな視線を送った。

「脅しが足りないから、ナメられてるんじゃないの?」

片頬を上げ、嘲笑する。

谷岡は弱り顔でうつむいた。

「どうして、そう思うんだ?」

松川が訊く。

「うちの親父なら、三千万くらいたいしたお金じゃないもの。ただ、それを出すかどうかはわかんないけどね」

「どういう意味だ?」

「あの人、何よりもお金が好きだもん。私に三千万も出したくないかもね」

笑みを浮かべる。が、どことなくやるせない。

「父親との間に、何かあったのか?」

「別に……」

千尋はそっぽを向いた。

「教えてくれないか」

松川が訊く。

しかし、千尋はそれ以上答えず、席を立ち、部屋へ戻って戸を閉めた。

谷岡は視線で千尋の姿を追い、松川に目を向けた。松川は微笑み、小さく顔を振った。

二人で食事を続ける。

「尚ちゃん」

谷岡が声をかける。

松川は顔を上げて、谷岡を見た。

「ごめんね」

「どうしたんだよ、急に」

「だって、彼女の父親がどういう人間かはともかく、身代金の受け取りを延ばしてしまったのは、僕のせいだから……」

谷岡がうつむいた。

当初、この誘拐は一週間でカタを付ける計画だった。

千尋を攫って、上田が一日置きに脅しをかけ、松川が二日間だけ三笠の動向を見張って、その日の行動をつかみ、一週間後に谷岡が第三者のふりをして金を受け取りに行く、という予定だ。

一見、ずさんな計画に思えるが、実は理に叶っていた。

一日置きに脅しておけば、三笠も迂闊に警察へ連絡はできまい。

怪しい動きを見せた時には、松川が調べた日の行動の一部を三笠に伝え、終始見張っていると信じ込ませ、動きを封じる。

受け取り役の谷岡は、現場でもおどおどするだろう。しかしその小心な感じがまた、三笠たちを撹乱する罠だ。

今にも殺さんばかりの勢いで怒鳴り散らす上田と谷岡が仲間だとは、先方も考えないだろう。万が一の時、知らない人に頼まれたと言っても、谷岡なら通用する。

何より、一週間ですべてを進めることが肝要だった。

日が経てば経つほど、三笠が警察へ連絡を入れるリスクが高まる。

一週間であれば、それはない。一週間と決めたのは、現金を用意させるためでもある。三笠なら対外的なイメージもあり、金を用意すると踏んでいた。

しかし、いざ誘拐を実行した後、受け取り役の谷岡がどうしてもできないと言い出した。

気持ちはわかる。

松川の計画で三笠に顔を晒すのは、谷岡だ。最も危険な役目でもある。いざとなると足が竦むことはあるだろう。

だが、迷っている間にも時間は経っていく。タイミングを外せば、この計画は破綻する。

松川と上田は懸命に谷岡を説得した。が、最後まで谷岡はできないと言い張った。

そして、リミットは過ぎた。

仕切り直しをするしかなくなった。

上田は憤怒し、それからは見張りのとき以外、ほとんど家にいなかった。

谷岡は自分の不甲斐なさを詫びた。

谷岡とすれば頭を下げるしかないのだろうが、今さら謝られても意味を成さない。

松川は谷岡の失態を不問にし、改めて、金を取る算段を思案していた。

しかし、なかなか思いつかない。

三笠はすでに警察へ連絡をしていると考えた方が妥当だ。

日本の誘拐事件で、警察が介入して身代金目的の誘拐が成功したことはない。

どうしたものか……。

つい思案に耽る。と、谷岡が言った。

「尚ちゃん。彼女、このまま家に戻してあげようか」

顔を上げ、松川を見つめる。

「そして、ここを引き払って、三人で逃げよう。もしかしたら、何事もなかったように暮らせるかもしれない」

精一杯、笑顔を見せる。その目に涙が滲む。

松川は下唇を噛んだ。

やはり、それが一番かもしれない……。

松川の気持ちが傾きかけた時、いきなり、三畳間の戸が開いた。

「あんたたち、何言ってんのよ!」

千尋が声を張った。

谷岡はびっくりして、身を固くした。松川も少々肝を潰し、目を丸くした。

千尋は戸口で仁王立ちし、二人を睨みつけた。

「何? ここまで来て、あきらめるとか言うの?」

「君もその方がいい──」

谷岡の言葉に、千尋が被せた。

「よくない!」

さらに声を荒らげた。

「あんたたち、それでいいの? こんな中途半端であきらめるくらいなら、最初から誘拐なんかするんじゃないよ!」

千尋が怒鳴った。

谷岡は肩を竦ませた。

松川の胸に、千尋の言葉が突き刺さる。

千尋がなぜ怒っているのか、真意はわからない。しかし、彼女の言う通りだ。

今、ここで投げてしまえば、尻切れトンボで終わる。

何も変わらない。

いや、犯罪すら満足にできないという傷が、三人の心の奥に残ってしまう。その小さな澱は、やがてだんだんと蓄積して胸中を蝕み、みんなの生きる気力を奪ってしまうだろう。

なんのために、誘拐というリスクを犯したのか。

人生を変えるためじゃなかったのか。

今、変えられなくて、この先、何が変えられるんだ。

「あきらめたわけじゃない」

松川は千尋を正視した。

千尋が松川を見返した。

「どうするのよ」

「今、考えている。最良の方法を」

「そんなもの、あるの?」

「わからないけど、あきらめない。千尋ちゃん、だったね」

「気安く呼ばないで」

千尋は急に自信を取り戻した松川の態度に多少困惑の色を覗かせた。

「今日から錠はしない。監視もしない。表に出ることは遠慮してもらうけど、家の中なら自由に動いていいよ」

「尚ちゃん!」

谷岡が驚いて、目を見開く。

松川は千尋から視線を外さない。

「どのくらいで最良の方法を思いつくか、僕にも正直わからない。その間、ずっと今のように拘束しておくのは無理だ」

「いいの? 逃げちゃうよ?」

千尋は片笑みを浮かべた。

「その時は、僕らの負けだ」

松川は笑顔を向けた。

千尋の顔から笑みが消える。

「バカじゃないの!」

松川を睨みつけ、音が鳴るほど強く、引き戸を閉めた。

リビングが一瞬、しんとなる。

やや間があって、谷岡が口を開いた。

「尚ちゃん……。本当に、彼女を自由にさせるつもりなのか?」

恐る恐る訊く。

「ああ、そうするつもりだ」

「逃げて、警察に通報されたら?」

「その時は仕方なし。僕たちが愚かだっただけだ」

「そんな……」

谷岡の視線が泳ぐ。

「なあ、晋ちゃん。何かに本気で人生を懸けたことがあるか?」

松川が訊いた。

谷岡は答えない。

「上京した時、僕らはみんな、東京に人生を懸けてみた。けど、みんなして、挫折した。仕方ない面もあるけど、今になって思うんだよ。本気でかかっていったのかな、って。晋ちゃんはどう?」

「僕は……」

谷岡は、早々に漫画家の道からドロップアウトした自分を顧みて、口ごもった。

「あの時は、僕も晋ちゃんも洋介も本気だった。でも、覚悟が足りなかった気がする。長野にいた時から、何をするにも半端だった気がしてる。これじゃあ、この先、何も変わらない。今逃げたら、ダメになりそうな気がしているんだ」

松川は静かに語った。

「晋ちゃん。もし怖くて逃げたいなら、逃げてもいいよ。責めたりはしない。そもそも、僕らが今行なっていることは犯罪だから。無理して付き合う必要はない。僕は最後までやってみるよ」

谷岡に微笑みを向け、リビングのドアに歩み寄る。

「どこへ行くんだよ」

「洋介にも話してくる。晋ちゃん、もし出て行きたいなら、僕と洋介がいない間に出ていってもいいからね」

「彼女はどうするの?」

谷岡は三畳間に目を向けた。

「その間に彼女も逃げ出したら、それで終わり。その時はその時。捕まっても名前は出さないから、心配しないで。じゃあ、ちょっと出かけてくる」

松川は谷岡を残し、家を出た。

 

 

午後七時を回った頃、野村は自宅へ戻ってきた。年季の入った木造二階建てのアパートだ。

鍵穴に鍵を差し込み、回す。ドアを開くと、全体が揺れるように軋んだ。

大人の靴を三足も置けば満杯になるほどの狭い三和土で靴を脱ぎ、部屋に上がる。床はみしりと音を立てた。

三畳のキッチンの奥に八畳の部屋がある。居間は一部屋しかないが、押し入れは広く、独り身の衣服の収納には困らなかった。

部屋の片隅には位牌と遺影があった。

二十年連れ添った妻の美保だ。十年前に病死した。

子宝には恵まれなかった。

しかし、夫婦二人で生きていくことに不満はなかった。

美保が生きていた頃は、郊外の一軒家に住んでいた。が、妻が死に、妻との思い出が詰まる戸建てで独りで暮らすのはつらかった。

三回忌を済ませた後、野村は家を売り払い、家財道具も処分して、わずかばかりの衣服と妻の遺影位牌を持って、現在のアパートに移り住んだ。

冷蔵庫を開けた。缶ビールを一本取り出し、遺影の前に胡坐をかく。

「ただいま」

声をかけ、プルを開けて、ビールを喉に流し込む。初夏の日差しの中を歩き回った体に、ほろ苦い琥珀色の炭酸が染みた。

野村は転居を機に、一線から退き、現在の企画第一係に異動した。

現場に出る気力が失せた。

妻を旅行に連れて行ったこともなかった。

約束はするものの、事件が起これば捜査優先となる。災害が起これば、家人の安否より先に一般市民の安否の確認に追われる。ついぞ、夫婦旅行は実現できないまま、妻は独りで遠くへ旅立った。

警察官の性とはいえ、妻の死を目の当たりにした時、わずかでも妻のために時間を割いてあげられなかったことを悔いた。

以来、仕事はできるだけ早めに切り上げ、遺影の前であっても、妻と過ごす時間をなるべく多く取るようにしている。

野村は、ビールを半分ほど飲み、立ち上がった。ジャケットを脱ごうとする。

と、ドアがノックされた。

「誰だ……?」

野村はジャケット姿のままに玄関へ出た。ドアを開ける。

「勘弁してくれよ、ノムさん……」

東原だった。

歩き回ってくたくたの様子だ。東原は靴を脱ぎ、勝手に部屋へ上がった。これまた勝手に冷蔵庫から缶ビールを取り出し、居間へ入る。

「美保さんと飲んでたのか?」

「まあな」

野村が微笑む。

妻の生前は、野村夫婦と東原夫婦は家族ぐるみの付き合いをしていた。野村がどうしても捜査で戻れない時、東原の嫁に妻の面倒を診てもらうこともあった。

東原は遺影の前に腰を下ろし、プルを開けた。野村が隣に座る。

「とりあえず」

東原は缶を美保の遺影に掲げ、野村のビール缶と合わせた。

ぐっと缶を傾け、ビールを流し込む。

「あー、うまいな」

東原は手の甲で口元を拭った。

「つまみもメシもないぞ」

「あとで外に食べに行こう。まずは、仕事の話だ」

東原が切り出した。野村の顔が刑事の顔になる。

東原はスーツの内ポケットから膨れた封筒を取り出した。

「おまえがリストアップした車の所有者は、陸運局に行って割り出してきたよ」

封筒から四つ折りにしたA4用紙のコピーの束を取り出し、広げ、並べていく。

「そのうち、三笠千尋が消息を絶った後、午後四時二十分以降から五時までに駐車場を出たのは、この三台だ」

東原が写真入りのコピーを並べる。

一台はモスグリーンのセダン、一台は焦げ茶色のワンボックス、もう一台は白いワゴンだった。その他、銀色のコンパクトカーとブルーメタリックのスポーツ車の資料もある。

「コンパクトカーとスポーツ車は、午後四時ちょい過ぎに駐車場から出ている。この二台も一応調べたが、除外してよさそうだな」

「このセダン、ワゴン、ワンボックスのいずれかということか」

野村が指を差した。

「もし犯人が車を利用したとすれば、その三台のうちのいずれかだろう」

「駐車場以外の可能性は、どうみた?」

野村が訊く。

「難しいだろうな。吉祥寺通りに路駐している車に運び込むには、人目がに触れすぎる。当日の同時刻に園内に車が入っていたという証言はない。ジブリの方にも駐車場はあるが、そこへ運ぶにもまた人目が多い。おまえが特定した万助橋近くの場所から運び出すには、裏手の駐車場が一番だ」

東原はすらすらと答えた。

野村は微笑み、頷いた。

東原の見立てなら、間違いないだろう。

共に第一線で数々の事件を解決してきた仲だ。互いの手腕は知っている。

「人物については?」

「所有者の内偵はまだだ。今日は陸運局に行くのが精一杯だったからな。その三台の追跡調査も間に合わなかった。駐車場の防犯カメラの映像は確保したんだがな。すまない」

「いやいや、突然だったから」

「誰が突然にしたんだ?」

東原は野村を睨んだ。

野村はビールを含んでさらりとかわした。

「現場は見てきたんだろう?」

東原に訊く。

「見なきゃ、仕事にならないからな」

「セイさんは、私の見立てをどう思った?」

「まず、間違いないだろう。あの出入口に近いスペースは死角になっていたし、人通りも途切れる。五分もあれば、悠々と駐車場までは運べる。しかし、あの場所で攫うとすれば、犯人は相当下調べをしているな。そう考えて、ふと気になって調べてみたんだけどな」

東原は三台の車資料のコピーを引き寄せた。封筒を足下に置く。

「この封筒の場所が、攫われたと思われる現場。おまえの側が駐車場だ」

指を差す。

野村は東原の手元を見ていた。

「で、各車の並びはこうなっていた」

東原は封筒の前に三台の車のコピーを並べた。

「セダンは中央付近にあった。ここへ運び込むには、駐車場の管理人や散歩客の目に付きすぎる。娘が誰かに誘われて車に乗り込んだという可能性もあるが、管理人と防犯カメラ映像で確認したところ、そうした目撃証言や映像はなかった。こいつは外していいと思う」

東原はセダンの写真を取った。

「ワンボックスは駐車場南側の遊歩道に接している中央あたりにあった。ところが、ここは結構人通りが多い。管理人のブースからは死角になるし、娘だけを乗せたとすれば、ここも有力な場所になるだろう。だが、一つ問題がある。娘の自転車もなくなっているという点だ。自転車を載せるには、バックドアを開かなければならないが、ここでバックドアを開け放っていれば、必ず誰かが目撃しているはず。ところが、そうした目撃証言は出て来ない。このワンボックスの可能性も薄いと思う」

東原はワンボックスのコピーも取る。

「残ったワゴンだが、こいつは現場と思われる広場に接した茂みにリアを向けている。このあたりは裏通路に当たり、視界は開けているものの人通りは少ない。また、バックドアを開けていても、あまり気にならない。人に見られても、清掃員を装えば道具や自転車を載せてもただの作業にしか映らないだろう。確か、午後四時あたりに現場付近で清掃作業をしていた者がいたと言っていたな」

東原が訊く。

野村の眼差しが鋭くなった。

「四時半頃、このワゴンに清掃作業員が道具を片づけている姿が目撃されている。時間もないことだ。まず、この白いワゴンに的を絞ってあたってみようと思うんだが、どうかな、ノムさん?」

東原がにやりとした。

「その線は悪くない。頼むよ」

野村が首肯する。

「よし、決まった」

東原は太腿を叩いて、立ち上がった。

「とりあえず、捜査の続きは明日だ。メシを食いに行こう。腹が減っては戦はできない」

「そうするか」

野村も膝に手を突き、立ち上がった。

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