『コンダクター』 5
日没の吉祥寺で少女誘拐事案が発生。被害者は大会社社長の娘で、 捜査は極秘裏に始まった。担当刑事野村と被害者の父には、ある 事件で因縁があり…。

コンダクター

『コンダクター』 5

三笠は、本社ビル最上階にある社長室にいた。
デスクには、犯人が連絡用に使っているプライベート携帯を置いていた。パソコンのモニターで仕事をしつつも、時折、携帯に目を向ける。
千尋が誘拐されて以降、社長室に通すのは秘書の澪だけにしていた。用事がある時は澪を通すようにし、面談しなければならない場合は自ら出向いた。
週末、瀬田副総監から連絡があった。
誘拐事案を扱う特殊第一係を投入したいという申し出だ。これ以上、事態を長引かせては、千尋の身にも危険が及ぶという。
三笠は逡巡した。
千尋の無事を誰よりも願っているのは、他でもない、三笠自身だ。親兄弟とはとうの昔に縁を切った。今、身内と呼べるのは千尋だけ。失いたくはない。
一方社内では、三笠降ろしの勢いは加速していて、反社長派の一部が、千尋の誘拐事案を嗅ぎつけたかもしれないという報告も上がっている。
彼らが、千尋の事件解決に専念してほしいと持ち掛けてくることも考えられる。
心配からではない。
そうして三笠を会社から追い出している隙に、社内の反体制勢力を一気に拡大するためだ。
同じことを、十三年前に経験している。
当時、三笠は投資会社を経営していた。
あらゆる情報源を駆使してリーマンショックを予見し、損害を最小限に留めてうまくすり抜け、ITバブルに乗って同業他社を出し抜き、成長を続けていた。
が、右腕を務めていた副社長が突然牙を剥き、会社を乗っ取ろうとした。事に気づいた時には、すでに株主の半数を口説き落とす勢いだった。
もちろん、三笠も指を咥えて見ているわけではなかった。
株主や後継人の支持を得ようと奔走した。
そもそもは、三笠個人の経営手腕で伸びてきた会社だ。株主たちの支持も徐々に戻ってきた。
その矢先、春子が倒れた。
元々病弱で、入退院は繰り返していたが、深刻な状況に陥った。
副社長は一時休戦を申し出てきた。
春子のことは、この副社長もよく知っている。会社を起ち上げた頃は、家族同然の付き合いをする仲だった。
三笠は副社長の気持ちを受け取り、半年間、春子に付き添った。
おかげで、春子は回復した。
しかし、半年後、会社に復帰した時にはすでに、副社長は過半数以上の株主と役員び支持を自分の手中に収め、乗っ取り態勢を整えていた。
憤怒に駆られた三笠は、強引な巻き返しに出た。
金をばらまき、私財を投じて、無茶なTOBも行なった。
だが、焼け石に水だった。
あっという間に資金は尽き、親類縁者からも見限られ、会社を追い出されることとなった。
現況は、当時の状況とよく似ていた。思い出すだけでも忸怩たる思いが込み上げる。
二度とあのような屈辱は味わいたくない。
三笠は、熟考した末に、瀬田の申し出を断わった。
今、会社に捜査員が詰めかければ、必ず反社長派の連中に食い込まれる。気は抜けない。
事と次第によっては、犯人に金を払ってでも穏便に済ませたい。
「二度と渡さんぞ……」
三笠は宙を睨み、拳を握り締めた。
その時、デスクの携帯電話が鳴った。
三笠はわしづかみ、二つ折りの携帯を開いた。ディスプレイには千尋の名が表示されている。
通話ボタンを押した。自動的に内臓SDカードへの録音スイッチも入る。
「もしもし!」
三笠の語気がつい強くなる。
――三笠だな。
ボイスチェンジャーを通した声が耳に飛び込んできた。
犯人だ。
「ああ、私だ! 千尋は!」
――無事だ。今のところはな。
声の主が言う。
三笠は横目で携帯を睨んだ。
社長室のドアが開いた。澪が飛び込んできた。
三笠のプライベート携帯に着信が入ると、澪の携帯も同番号の電波を拾うよう、野村を通じて警察に設定されていた。
三笠はちらりと澪に目を向け、頷き、出ていくよう右手の甲を振った。
澪は首肯し、部屋を出てそっとドアを閉めた。
――今のは警察か?
犯人が訊く。
「違う! 私の秘書だ。追い出した」
――どうせ、警察には通報しているんだろう?
「そんなことはない!」
三笠が言う。
犯人の小さな笑い声が、受話器を通して聞こえた。
――まあ、どちらでもかまわない。これから、現金の受け渡し方法を伝える。一度しか言わないから、メモでも録音でもしろ。
「ま、待ってくれ!」
三笠は引き出しからメモ用紙とボールペンを取り出した。
電話の向こうは無言で三笠を待っている。三笠は携帯を見つつメモを広げ、ボールペンを握った。
「用意できた」
――では、言うぞ。現金を一万円紙幣で三千万用意して、紙袋に入れろ。その紙袋を持って、六月九日、午前十時五十六分吉祥寺発の京王井の頭線渋谷行き急行に乗り、三両目の二両目に近い角席に座れ。紙袋は網棚の上だ。そのまま渋谷まで行き、紙袋を置いたまま、反対側に停車している十一時十六分発の吉祥寺行きに乗り換えて、吉祥寺まで戻れ。以上だ。
「千尋は!」
――無事に金を受け取れれば、すぐにでも解放する。家で待て。
犯人は言うと、一方的に電話を切った。
「おい! もしもし! もしもし!」
三笠は携帯を握り、がなり立てた。
しかし、電話はすでに切れている。
澪が再び、入ってきた。
「社長!」
ドアを閉め、デスクに駆け寄る。
三笠は携帯を閉じ、椅子に腰を落とした。
「社長、すぐ野村さんに連絡をしましょう」
「いや……」
椅子の背に深くもたれ、携帯を見据える。
「社長! 躊躇している場合ですか!」
澪が珍しく声を荒らげた。
「犯人が接触してきたんです! この機会しかありません!」
澪は眼鏡の下の涙袋を膨らませ、唇を震わせた。
しかし、三笠は伏し目がちに携帯を見据えるだけだ。
「わかりました! 私が届けます!」
「有島君!」
「止めても無駄です!」
澪は携帯を開き、野村直通の番号を表示し、コールボタンを押そうとした。
と、デスクの上の電話が鳴った。
澪は動きを止めた。三笠も息を呑み、顔を上げて澪を見た。
三笠のデスクにある固定電話は、社長直通の電話だ。この番号を知る者は側近や秘書、千尋くらいなものだった。
コールは三笠を急かすように鳴り続ける。
澪が手を伸ばそうとした。
「待て。私が出る」
三笠は澪を制し、自ら受話器を持ち上げた。ゆっくりと電話を引き寄せ、電話口の向こうを探るように耳を突き出し、押し当てた。
「もしもし……」
――三笠崇徳さんですね?
若い声だった。聞き覚えはない。
「そうだが……」
――ちょっと替わりますね。
男が言う。やや間があって、電話の向こうから突然、叫び声が飛び出してきた。
――お父さん!
女の子の声だ。
三笠は双眸を見開いた。
「千尋! 千尋か!」
三笠は受話器を握り締め、身を乗り出した。
澪もデスクに手をつき、電話に顔を寄せる。
――お父さん、助けて!
女の子の声が、澪の耳にも届いた。千尋の声だった。
澪は思わず、三笠の手から受話器をひったくった。
「千尋ちゃん! どこなの!」
――わからない! 澪さん、わからない!
涙声だった。
「千尋ちゃん、必ず、助けるから!」
澪が声を張る。
三笠の手が伸びてきて、澪の手から受話器を奪う。
「千尋! 無事か!」
――さっきまで縛られてた。今は解かれてるけど、腕を握られてる。お父さん、この窓から川が──。
千尋が言いかけた時、肉を打つ音が響いた。
──きゃっ!
千尋の短い悲鳴が聞こえる。
「千尋! 大丈夫か、千尋! 千尋に手を出したら、地の果てまで追いかけて殺すぞ」
怒気を滲ませる。
が、涼しい声が返ってきた。
――あなたが要求に従ってくれれば、千尋さんはお返しします。我々も殺人犯にはなりたくないですから。
冷静な口調にかえって寒気がする。
三笠の眦が引きつった。
――先ほど、電話に出た女性は、千尋さんの世話係で姉のように慕っている有島澪さんですね? あなたの秘書の。
「なぜ、それを……。おまえは誰なんだ!」
三笠が怒鳴った。
――その問いにはお答えできかねますが、我々はあなたのことを隅々まで調べている。有島さんのこと、あなたのプライベート携帯や社長デスク直通の電話番号を知っているのも一つの証拠です。
若い男は落ち着き払った声色で淡々と答える。
社内の反体制派が絡んでいるのか。それとも、まったくの第三者が自分のことを調べ上げ、計画的に脅しをかけているのか。判断がつかない。
三笠はざわつく思考を抑えつつ、電話の向こうに話しかけた。
「さっき、身代金受け渡しの電話がかかってきた。あれは誰だ?」
――あれも我々です。仲間は複数いる。
「じゃあ、さっきの指示通り、金を渡せばいいんだろう?」
――いえ、さっきのは警察用に仕込んだだけです。
若い男が言う。
三笠の目元がまた強張った。
プライベート携帯が監視されていて、直通の固定電話は監視されていないということを知っているということか?
それを知っているのは――。
三笠は澪を睨んだ。
澪はなんとなく気配から事情を察した。瞳を見開き、首を振る。
――三笠さんには、これから私が言う通りに動いてもらいます。よろしいですか?
「待て。メモを──」
――これは記録に残さず、頭に叩き込んでください。言いますよ。いいですか?
「わかった……。言え」
――吉祥寺を出て戻ってくるまでは、先ほどの指示通りです。ただその時、紙袋とは別に、黒いビジネスバッグを用意してください。
「どうするんだ?」
――その中に、三千万を入れてもらいます。
「紙袋の金は?」
――紙袋にも本物の紙幣を。
「六千万も奪うというのか!」
──落ち着いてください。紙袋の方は囮です。すでに警察に通報しているでしょうから。本物を入れないと、ビジネスバッグの方を怪しまれるでしょう?
「吉祥寺に戻って、それからどうするんだ?」
――家へ帰るのも同じです。ただ、その時、線路沿いの中央高架下公園の中を通ってもらいます。途中、滑り台付きの小山があり、その後ろに砂場があります。そこに私がいて同じようなビジネスバッグを持っていますから、すり替えさせてもらいます。その後、あなたはダミーのバッグを持って家まで走ってください。
「なぜだ?」
――刑事が尾行していると厄介でしょう?
どこまでも冷静な口調だ。計画が練られたものであることがわかる。
三笠の眉間に皺が立った。
「千尋は?」
――我々が無事に金を手にし、逃げ切った後、即座に解放します。
「信用できん!」
――信じる信じないではない。あなたが我々の計画を実行するかどうかです。従っていただければ、解放の可能性はある。ですが、行動を起こしてくれなければ、御殿山の邸宅に千尋さんの亡骸が届くことになります。これだけはわかっておいてもらいたいのですが。
若い男が口調を強めた。
──千尋さんの命は我々が握っている。
有無を言わせぬ圧力が受話器から滲む。
三笠は奥歯を噛んだ。
「……わかった。言うとおりにしよう」
──一応、念を押しておきますが、我々は複数人で動いています。あなたが妙な真似をすれば、その時点ですべてが終了となることを忘れないでください。
──では、九日に。
若い男は最後まで落ち着いた口調で、電話を切った。
三笠は受話器を戻した。手のひらは汗で濡れていた。
「社長。犯人はなんと?」
澪が訊く。
「とりあえず、八日までに六千万の現金を揃えてくれ。表に出せない現金だ。そして、そのうちの三千万を私の家へ持ってきてもらいたい。誰にも見られないように」
「どういうことですか?」
「事情は家で話す。三千万が入る黒のビジネスバッグも用意してくれ。ひそかにだ」
三笠は澪を見つめた。
澪は三笠の目を見返した。しばし、三笠の様子を探る。
「承知しました」
しばらくして、やおら首肯した。
「野村には私から連絡を入れておく。君は私が指示したことをやってくれ」
「はい」
澪は一礼し、部屋を出た。
三笠は固定電話を睨み、汗ばんだ両手を固く握りしめた。

スマートフォンを切った松川は、大きく息をついた。手のひらや額には汗が滲んでいた。
「どうだった?」
洋介が訊く。
「うまくいったよ。後は三笠がどう出るかだけど、電話の様子じゃ、僕たちの指示に従うと思う」
松川は三人を見やった。
上田はホッとした表情に多少の緊張を覗かせていた。千尋は笑みを浮かべている。谷岡は頬をさすっていた。
松川は千尋から三笠の詳しい動向や連絡方法を聞き、さらに計画を練り上げていた。
社長室の固定電話は仕事上の秘密の話をすることが多いため、自分か澪以外に取らせないと言っていたが、本当だった。
固定電話も盗聴されている可能性もなくはないが、話した限り、そういう気配はなかった。
おかげで、松川のブラフは大いに信憑性を増した。
「私の演技、どうだった?」
「ばっちりだ」
松川が親指を立てた。
千尋は愉快そうに無邪気に笑った。
「うまくいったならよかったけど……。何も、本当に頬をはたくことはなかったんじゃないか?」
谷岡が涙目で上田を睨む。頬には大きな手形が付いていた。
「バカ。両手でパチンとやる音と本当に頬をひっぱたく音は違うんだよ。リアルな音じゃねえと相手もビビんねえだろう」
「おかけでうまくいったよ、晋ちゃん」
松川が同情を込めて言う。
「はい、これ」
千尋は流しで濡らしたハンドタオルを谷岡に差し出した。
「ありがとう」
谷岡は複雑な笑みを浮かべ、ハンドタオルを受け取り、頬に当てた。
千尋が殴られる演技の際、本当に平手打ちする音があった方がいいだろうと上田が言いだした。かといって、千尋を叩くわけにもいかない。
代役として、谷岡が自分の頬を差し出した。
かわいそうな役目を引き受けさせたが、千尋の真に迫った演技と本物の平手打ちの音を聞いた三笠は、電話口で息を呑み、激昂した。
三笠が、松川たちが千尋を乱暴に扱っていると感じた瞬間だ。
これもまた、脅しを利かせる大きなポイントとなった。
後は、実行あるのみだ。
「みんな」
松川は改めて声をかけた。
笑っていた三人が表情を引き締め、松川に顔を向けた。
「いよいよ、もう後には退けないところまで来た。決行は三日後。必ず成功させて、自分たちの人生を切り拓こう」
強く言い切った。
上田と谷岡だけでなく、なぜか千尋も大きく首肯した。

(つづく)

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矢月秀作

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