単行本 - 自然科学

【課題図書】佐藤勝彦『科学者になりたい君へ』試し読み公開

 

「どうすれば科学者になれるのか?」宇宙の果て、生命の謎、コンピュータ…サイエンスに関心を抱き、研究職を目指す人へ、日本の科学研究を牽引した著者がその扉を開きます。第67回青少年読書感想文全国コンクール、「高等学校の部」課題図書から、冒頭文を公開中!

 

 

じめに

 

初めての海外旅行でデンマークの研究所に赴任

 今から40年以上前の、1979年6月の夕方。当時33歳だった私の乗った飛行機は、北欧デンマークの首都コペンハーゲンの近郊にあるカストラップ空港に到着しました。入国審査を終えて、リムジンバスでコペンハーゲン中央駅に向かいました。
 私はこの日の午前、成田空港から生まれて初めて飛行機に乗り、初めての海外旅行に出ていました。それは、コペンハーゲンにある「北欧理論物理学研究所(NORDITA)」から客員教授(臨時に雇用された非常勤の教授)として招かれ、この地で1年間研究をするためでした。
 成田からモスクワ経由でコペンハーゲンまで、16時間ほどかかったでしょうか。日本ならすでに深夜ですが、時差のために現地に着いたのは夕刻でした。夏至のころで、しかもコペンハーゲンは北緯55度に位置しているので、日没が現地時間の22時くらいと遅く、夕陽がとてもまぶしく感じられました。時差ぼけの影響でぼんやりした私の目に、バスの窓の外の異国の景色が飛び込んできました。煙突の突き出た赤い屋根の家々。板塀で囲まれた赤レンガづくりの農家の家。それは子どものころに読んだアンデルセンの童話の絵本に描かれていた風景そのままで、自分が童話の世界にまぎれこんだような気分になったのをおぼえています。
 私は当時、京都大学理学部で助手(現在の助教)として働いていました。今は大学院生でさえ、所属する研究室のお金で国際会議に出席したり海外の大学を訪問したりできる時代です。でもそのころは、国から大学に支給される研究費を使って海外出張することは許されていませんでした。私もそれまで何度か国際会議に招待されていましたが、自腹では高い旅費を工面できず、出席をあきらめざるをえませんでした。ですから、理論物理学のメッカ(聖地)とされるNORDITAに招かれ、1年間の給与と赴任旅費をもらい、研究できることは大きな喜びだったのです。

 

研究に没頭したコペンハーゲンでの日々

 7月に入ると、私の妻と4歳になる娘もコペンハーゲンにやって来ました。当初は家族とともに暮らす予定で、1年間滞在できるビザを二人の分もとっていました。ですが教師をしていた妻の仕事の関係で、夏休みを終えると妻と娘は日本に帰り、その後は私一人でコペンハーゲンで暮らすことになったのです。
 私が住んでいた下宿は、研究所に紹介された「モルトケ家」という家の3階の部屋でした。下宿といっても、研究所にやって来る外国の研究者に安く部屋を貸すボランティアのようなものだったのでしょう。モルトケ家はデンマーク貴族の末裔ということでしたが、近くの家並みの中ではそれほど大きな家ではありませんでした。子どもたちはすでに独立し、夫に先立たれた70歳過ぎの品の良いおばあさんが一人で暮らしていて、毎週末は別荘に出かけてそこで過ごすという優雅な生活をされていました。時には私たち下宿生を庭に連れだし、たわわに実った西洋梨の木を指しながら「この梨はモルトケという品種なのよ」と話してくれたりしたのをおぼえています。
 コペンハーゲンでの私の日々は、次のような感じでした。
 毎朝7時に、ラジオでNHKの国際放送を聞きながら起床します。窓を開けると小鳥のさえずりが聞こえ、リスが3階まで上ってきて部屋の中をのぞきこむこともあります。ダイニングキッチンで、牛乳、パン、卵の簡単な朝食を自分でつくって食べ、8時ちょうどに下宿を出ます。バスを2回乗り継いで30分ほど、8時半には研究所に到着。午前中は研究所がまだ静かなので、まさに一人で研究に集中する貴重な時間であり、研究の方向を熟考したり、論文を執筆したり計算をしたりするのが日課でした。

 

NORDITAの自分の研究室にて(1979年)

 

 研究所の同僚たちが出勤する時間は各自ばらばらですが、お昼ごろまでにはほぼ全員がそろいます。昼食は研究所内のカフェテリアで。弁当持参の人もみんなカフェテリアに集まります。食事をとりながら「僕は今、こんな研究をしているんだ」「君のこの前のアイデアは、その後どうなった?」などと話します。食後はそのまま、侃侃諤諤かんかんがくがくの議論に突入。すべてのテーブルにはメモ用紙とボールペンが置いてあり、計算式を書きながら討論が行われます。イタリア語なまり、ロシア語なまり、デンマーク語なまり、そして日本語なまりの英語、いわゆる「ブロークン・イングリッシュ」が飛び交い、情報を交換して刺激を与え合うのです。
 午後はふたたび自分の研究にいそしみます。各人の居室はすべてドアが開け放たれ、来訪者はいつでも歓迎、自由に議論が行われます。3時になるとお茶とケーキの時間で、みんなでラウンジに集まっておしゃべりをします。その後は、国際研究所なのでいろんな国から訪問者があるためにセミナーが多くあり、それに参加したり、研究所の方と議論したりしました。夕方5時になると、有名な「人魚姫の像」のある公園までジョギングで往復します。「コペンハーゲンの厳しい冬を生き抜くために、体を鍛えておくべきだ」と助言されていたのです。研究所に戻ってバスルームで汗を流し、6時半頃、仲間数人と研究所の隣にある大学病院の食堂にもぐり込んで夕食です。メニューはなく、日替わりの決まったものだけで、豚肉料理が多かったのですが、たまに魚料理が出るとうれしかったです。かならずジャガイモが付けられ、好きなだけ食べられるのですが、ゆがいた芋にホワイトソースをかけたものが多くてこれは苦手で、揚げたポテトチップのときはラッキーでした。そして夜9時半には研究所を出て、10時に下宿に帰宅します。
 こうした、まさに判で押したような規則正しい毎日を送り、研究に没頭しました。私の科学者人生の最大の成果といえる、「なぜ宇宙はビッグバンで始まったのか」を説明する理論、いわゆる「インフレーション理論」はこの研究所で生まれたのです。

 

科学の力で「宇宙の始まり」の謎に挑む

 私は現在まで50年以上にわたって、宇宙の研究をしてきました。特に力を入れて取り組んできたのは「宇宙の始まり」についての研究です。
 私たちを取り巻く広大な宇宙は、昔からずっと存在してきたのか? それとも、過去のどこかの時点で誕生したのか? そうだとしたら、宇宙はいつ、どのように生まれ、その後どんなふうに成長して現在の宇宙になったのか?
 これは、人類の歴史が始まったころから、宗教や哲学の問題としてずっと考えられてきた「根源的な問い」です。この難問に対して科学の力で答えを出そうというのが、私たち「宇宙論」の研究者の目標なのです。宇宙論とは、宇宙の誕生や歴史、さらには宇宙全体の構造について研究する学問であり、天文学の一分野です。

 

インフレーション理論をもとに描いた宇宙の歴史

 

 現代の科学では、宇宙は今から約138億年前に、超高温の小さな火の玉として生まれたと考えられています。これを「ビッグバン宇宙論」といいます。ビッグバンとは大爆発という意味です。小さな火の玉宇宙は138億年間膨張を続けながら温度を下げていき、現在の広大で冷たい宇宙になったのです。今から56年前(1964年)、私が大学生の時に、昔の宇宙が小さくて熱かったことを示す証拠が見つかり、ビッグバン宇宙論の正しさが科学界で広く認められるようになりました。
 科学では、ある「結果」が生じた時、その「原因」は何だろうと考えます。宇宙がビッグバンで始まった、超高温の小さな火の玉として生まれたという「結果」があったとしたら、その原因はいったい何でしょうか。ものを高温にするには何らかの「エネルギー」が必要です。宇宙を超高温の火の玉にしたエネルギーは、どこからやって来たのでしょうか。私が宇宙の研究を始めた1960年代から70年代にかけて、それはまったくの謎でした。
 私は1980年、コペンハーゲンに赴任した年の翌年に「宇宙は生まれたとたんに激しい急膨張をした」という論文を発表しました。これがこんにち「インフレーション理論」と呼ばれる理論を世界で初めて発表したものになります。生まれたばかりのミクロの宇宙には「真空のエネルギー(※空っぽの空間である真空そのものが持つエネルギー)」が満ちていて、このエネルギーによって宇宙は一瞬のうちに急膨張をしました。電子顕微鏡でも見えないミクロのサイズだった宇宙は、急膨張によって目に見える大きさ(諸説ありますが、たとえば1メートルくらい)に成長したのです。そして急膨張が終わると、真空のエネルギーが熱のエネルギーに変わって、宇宙全体が超高温の火の玉になりました。これがビッグバンです。その後、宇宙はゆるやかな膨張を続けて現在の宇宙になったのです。
 まるでSFのような話に思えるかもしれませんが、これは科学的な裏付けのある理論です。そして人工衛星による観測によって、インフレーション理論の正しさが認められつつあります。現在もインフレーション理論の決定的な証拠を見つけようと、多くの観測が行われています。
 宇宙はどのように生まれたのか──人類にとって究極の謎といえるものに対して、私たちは科学の力で挑み、答えを見つけ出そうとしているのです。

 

科学者になりたいみなさんへ

 私の経歴を最初に簡単に紹介しましょう。
 1945年8月30日、第二次世界大戦(太平洋戦争)が終わった半月後に、香川県の坂出市で生まれました。子どものころから科学が好きで、日本人で初のノーベル賞に輝いた湯川秀樹先生にあこがれて、科学者の道へ進むことを決めました。
 そして京都大学に入学し、湯川先生の弟子である林忠四郎先生のもとで宇宙の研究を始めました。多くの先輩や友人、後輩との縁に恵まれ、厳しくも楽しい研究生活を送りました。デンマークのコペンハーゲンでの充実した日々も、忘れられません。
 デンマークから帰国して、2年後に東京大学に移り、宇宙物理学の研究室を持つようになりました。仲間たちや学生とともに、宇宙の始まりについて研究を進めることができました。今や宇宙物理学は多くの研究者が集まる分野となり、その発展に貢献できたことは本当にうれしく思います。
 大学を定年退職後は、日本の科学研究全体をどのように進めていくのかを考える組織で仕事を行いました。そうした仕事を通して「科学・科学者の応援団」としての活動ができたように思います。
 日本の科学者(研究者)の人数は、総務省の統計によると、2019年3月31日時点で約87万人とのことです。そのうち、大学等の研究者が約33万人、公的機関(国公立の研究所など)や非営利団体(財団法人など)の研究者が約4万人、企業等の研究者が約50万人です。日本の科学力の低下や、若い人の科学離れがメディアで話題になって久しいですが、日本は今でもまだ、世界有数の科学大国の地位を占め、多くの科学者が活躍しています。
「将来、科学者になりたいけど、どうすればいいんだろう?」
「自分もノーベル賞を取れるような科学者になれるかな?」
「研究ってどんなふうにするの? 研究は大変だと聞くけど、自分にできるかな?」
「科学者ってどんな毎日をすごしているの?」
 本書を手に取られたみなさんが思うことは、さまざまでしょう。もしかすると、
「科学にはあまり興味がないけど、科学ってそんなにおもしろいの?」
と思っている人もいるかもしれません。
 次の第1章から、私の科学者人生を紹介しつつ、「科学とはどういうものなのか」「優れた科学者になるためには何をしたらよいか」といったことについて、私が思うことをお話しします。
 日本だけで87万人もいる科学者のキャリアはみんな違いますし、考えていることもさまざまです。これから科学者をめざすみなさんと私とでは、生きる時代も違います。ですが研究生活の後半では、今後の科学のあり方や科学者の育成について検討し、施策を行ったり提言をしたりする機会も多くありました。それらはもちろん、21世紀を生きるみなさんを念頭に置いたものですので、私の話は若いみなさんのお役にも立つのではないかと思います。
 科学が大好きで、科学のおもしろさにずっと魅了されてきた私の経験や考えが、これからの時代を担うみなさん──将来科学者になる、ならないに関係なく─の人生の参考になれば、うれしい限りです。

 

 

 

※書籍では中学生以上で履修の漢字には読み仮名を入れています。

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著者

佐藤 勝彦(さとう・かつひこ)

1945年生。京都大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了。理学博士。東京大学名誉教授。現在は明星大学客員教授、日本学士院会員。専攻は宇宙論・宇宙物理学。主著に『14歳からの宇宙論』ほか多数。

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