単行本 - 自然科学

世界的ベストセラーを連発する天才物理学者が、 世界の見方を刷新する驚嘆の書!『カルロ・ロヴェッリの 科学とは何か』試し読み

カルロ・ロヴェッリの
科学とは何か

カルロ・ロヴェッリ 栗原俊秀訳

・目次より

はじめに
第1章 紀元前六世紀 知の天文
第2章 アナクシマンドロスの功績
第3章 大気現象
第4章 虚無のなかで宙づりのまま空間を浮遊する大地
第5章 目に見えない実体と自然法則
第6章 反抗が力となる
第7章 文字、民主制、文化の混淆
第8章 科学とは何か?
第9章 文化的相対主義と「絶対」的な思想のあいだ
第10章 神を抜きにして世界を理解できるか?
第11章 前–科学的な思考
第12章 結論 アナクシマンドロスの遺産

 

はじめに

 あらゆる古代文明は、にある空と、にある大地が、世界を形づくっていると考えていた。大地の下には、大地が落下しないよう、また別の大地があるに違いない。あるいは、アジアの神話が伝えるように、象に乗った大きな亀が大地を支えているか、はたまた、聖書が語っているように、大地を支える巨大な柱が立ちならんでいるのだろう。エジプト、中国、マヤ、インド、ブラックアフリカ(サブサハラアフリカ)、旧約聖書の民であるヘブライ人、ネイティブ・アメリカン、バビロン王朝など、今日まで痕跡を残している古代の社会はことごとく、こうした世界認識を共有していた。ただし、ひとつだけ例外がある。古代ギリシア文明。古典古代においてすでに、ギリシア人にとって大地とは、落下せずに宙に浮かぶ岩山のことだった。大地の下には、別の大地が無限に続いているわけでも、亀がいるわけでも、柱が立っているわけでもない。そこには、わたしたちが見上げるのと同じ空が広がっている。大地が虚空に浮かんでいること、空が足の下にも広がっていることを、ギリシア人がそんなにも早い時代に把握できたのはなぜだろう? 誰が、どのようにして、それを理解したのだろうか?
 世界を知るための、この巨大な一歩を踏み出した人物こそ、本書で主役を務めるアナクシマンドロスである。アナクシマンドロスはいまから二十六世紀前、現在のトルコ沿岸に存在した都市国家ミレトスで生を送った。大地は宙に浮いているという洞察だけでも、あらゆる時代を代表する知の巨人と呼ぶにふさわしい。だが、アナクシマンドロスはより莫大な遺産をわたしたちに残していった。彼の思索は物理学、地理学、気象学、生物学の先駆けとなった。こうした貢献に加えて、彼はさらに、世界像を捉え直すこと、、、、、、、、、、への道を切り開いた。それは、言い換えるなら、一見したところ明白な確実性に反旗をひるがえすことに基礎を置いた、知の探求の道のりである。この意味において、アナクシマンドロスは科学的思考の源流に立つ思想家といえる。
 アナクシマンドロスの思想を本書の第一のテーマとするなら、科学的思考の本質は第二のテーマに相当する。科学的に考えるとは、まずもって、世界について考えるための新たな方法を、絶え間なく、情熱的に探求することにほかならない。科学の力は、すでに打ち立てられた確実性のなかに宿るのではない。そうではなく、わたしたちの無知の広がりにたいする根本的な自覚こそが、科学の力の源になる。この自覚があればこそ、知っていると思っていた事柄を絶えず疑うことができるようになり、ひいては、絶えず学びつづけることができるようになる。知の探求を養うのは確かさではなく、確かさの根本的な欠如なのだ。
 流動的で、絶えざる発展へと開かれた科学の思考には、大きな力と言い知れぬ魅力が宿っている。科学の力は事物の秩序を転覆させ、世界を休みなく再考するよう促してくる。自然にたいする合理的な思考が帯びる、発展的でしかも転覆的なこうしたイメージは、実証主義者が描く科学の姿や、現代の哲学が科学について語る際の断片的で無味乾燥な姿とは大きく異なる。わたしがこの本で明るみに出したいと思っているのは、何度でも世界を描きなおしてむことのない、批判的で反抗的な科学の思考の横顔である。
 知の探求の核心が、こうした「世界の描きなおし」にあるとするなら、科学の冒険の出発点となったのは、ニュートン力学でも、ガリレオの実験でも、アレクサンドリアで産声をあげた初期のきわめて強力な数学的天文学でもない。さらに時代をさかのぼって、人類の歴史に起こった最初の偉大な「科学革命」に着目する必要がある。科学の冒険は、アナクシマンドロスの革命とともに幕を開けた。
 私見では、思想史におけるアナクシマンドロスの重要性は、過分に低く見積もられてきた。この過小評価にはいくつかの要因がある。古代において、彼が示した方法論はまだ、具体的な成果をもたらしていなかった。長い成熟と、幾たびもの航路の変更を経たのちに、近代になってようやく、アナクシマンドロスの手法は実を結んだ。本書の巻頭エピグラフに引用したプリニウスをはじめ、多少なりとも「科学的な」感覚を備えた書き手からの称賛とは裏腹に、アリストテレスを筆頭とする古代の哲学者はアナクシマンドロスを、知への自然科学的なアプローチという、得るところの少ない手法の擁護者と見なしていた。アナクシマンドロスの思想は、対立する文化集団から激しい論争を挑まれてきた。
 ひるがえって、アナクシマンドロスの思想の今日における、、、、、、過小評価の要因は、科学的な知と、文学–歴史–哲学的な知のあいだに生じた、きわめて有害な分断のうちに求められる。もっぱら科学の分野でキャリアを積んできたわたしが、二十六世紀前に生きた思想家の功績について語るのは、たしかにリスクの大きい挑戦だろう。だが、アナクシマンドロスの思想の解釈には目下のところ、それとは逆の意味で問題が生じている。歴史や哲学の分野で研鑽けんさんを積んできた知識人にとって、アナクシマンドロスの貢献の重要性を正当に評価することは困難である。なぜなら、その本質と遺産は、言葉のもっとも奥深い意味において、「科学的な」性格をもっているから。註1で名前を引いた著者たちにしても、アナクシマンドロスの思想の偉大さを認めるにやぶさかでないとはいえ、その貢献の意義を奥底まで見通すことには、いささか困難を感じているように見える。まさしく、アナクシマンドロスの貢献の意義こそ、わたしが本書を通じて明らかにしたいと思っているテーマである。
 したがって、アナクシマンドロスに向けるわたしの眼差しは、歴史家としてでも、古代ギリシア哲学の専門家としてでもなく、今日の科学者としての眼差しである。科学的思考の本質や、このような思考が文明の発展に果たした役割に、わたしはひとりの科学者として関心を寄せている。この思想家について書かれた大部分の文章とは異なり、本書の目的は、彼の思想や、彼が構築した概念について、可能なかぎり歴史に忠実に再構築することではない。この種の再構築にかんしては、西洋古典学者や歴史家による細心で入念な仕事、たとえばチャールズ・カーン[一九六〇]、マルセル・コンシュ[一九九一]、ディルク・クプリ[二〇〇三]らの研究に、わたしは全面的に信頼を置いている。本書の狙いは、これら先人による再構築を修正することではなく、こうした研究から浮かびあがる思想の奥深さや、普遍的な知の発展のためにこの思想が果たした役割に、新たな角度から光を当てることである。

 アナクシマンドロスの思想が——古代ギリシアに芽吹いた科学的思考のいくつかの側面と同じように——過小評価を受けている第二の理由は、わたしの見るところ、科学的思考の中心的な性格にたいする、根拠薄弱ではあるが広く共有されている無理解のうちに求められる。
 十九世紀の科学に特有のよどみない確実性、とりわけ、世界についての決定的な、、、、知として祭りあげられた科学の栄光は、すでに跡形もなく崩壊した。この崩壊に大きく寄与したのが、二十世紀の物理学革命である。ニュートン物理学は、その計り知れない有効性にもかかわらず、きわめて厳密な意味においては「間違っている」ことを、二十世紀の物理学は明るみに出した。その後に展開された科学哲学の議論の多くは、この崩壊を清算する試みとして読むことができる。科学的な知とはなんなのか? かぎりなく有効であり、しかも同時に「間違っている」知などというものがありえるのか?
 一部の科学哲学は、確実性という基盤を救い出すことで、科学的な知の立ち位置を守ろうとした。たとえば、科学理論の知の内実は、数値または現象を予見する能力にのみ限定されると主張することによって。この場合、科学理論は、直接に検証可能な結果にのみ関心を向ける構築物として描写される。しかし、このような考え方を採用するなり、科学的な知の質的な側面や、わたしたちの世界の見方を転覆させ発展させる科学の力は、たちどころに見失われる。科学のこうした側面は、一見したところたしかにわかりづらく、込み入っているように感じられる。しかしほかでもない、この「世界の見方の変革」こそが、「科学的に考えること」の第一の目的なのだ。
 反対の極に視線を移すなら、科学的な知を全面的に否定し、反科学主義を広めようとする現代文化の一派が存在する。二十世紀以後、合理的思考はかつての確かさを失ったものと見なされ、たびたび非難の矢が向けられてきた。いまでは文化の領域や、一般的な思考様式の内部にまで、さまざまな形態の非合理主義がはびこりつつある。無知を受け入れることへの恐怖、「科学はこの世界の決定的なイメージを提供できる」という幻想が失われたことへの不満が、反科学主義を勢いづかせている。不確かさよりは、間違った確かさの方がまし、、というわけだ……。
 だが、好奇心、反抗、変化の思考として理解される合理的思考にとって、「確かさの欠如」はかつてもいまも、弱点どころか、前に進むための原動力そのものである。自然科学が提示する答えが信頼に値するのは、それが決定的な答えだからではない。そうではなく、わたしたちの知の歴史の一時点、いま、、における最良の答えだから、自然科学の答えは信頼に値する。自然科学の答えが改良を続けられるのは、わたしたちがそれを決定的と見なさずにいられる、、、、、、、、、からこそである。
 このような視点にもとづくなら、ニュートンの科学に支配された十七世紀から十九世紀を「科学の時代」と呼ぶことは、いくぶん不適切であるといわざるをえないだろう。それはむしろ、大いなる成功という木陰の下での、ちょっとした休息期間だったのだ。ニュートン力学を問い直したからといって、アインシュタインはなにも、世界の成り立ちを見通そうとする、科学の思考の可能性を問い直したわけではない。アインシュタインはただ、マクスウェル、ニュートン、コペルニクス、プトレマイオス、ヒッパルコス、そして、アナクシマンドロスの歩みを再開しただけである。それはすなわち、わたしたちの世界の見方を、絶えず根底から問い直し、絶えず改良しつづける歩みである。わたしたちの過ちを認め、少しずつ、より遠くを見ることを学ぶ歩みである。
 ここに名を挙げた人物や、彼らよりはマイナーな無数の科学者の歩みが、わたしたちが世界にたいして抱くイメージを修正し、さらには、世界の見方の基盤となる法則まで修正してきた。手っ取り早い解決策を模索したり、この冒険がふらふらと寄り道せぬよう、方法論的または哲学的な固定点を見いだそうとしたりすることは、その本質からして発展的かつ批判的な科学の性格を裏切る行為であるとわたしは思う。
 人類はしばらく前から、知の探求にあたって、最終的な真理の守護者を自称する人びとの「確かさ」から距離を置くよう努めてきた。そうすることで、ふたつの異なる視点が提示されたとき、どちらが正しく、どちらが間違っているかを判別することは不可能だとする、一部の現代思想がしかける陥穽かんせいを回避してきたのである。この点にかんしては、本書の終わり近くで詳しく論じるつもりである。
 古代世界の歴史を学び、自然にたいする(広い意味における)合理的思考の最初の歩みをたどりなおすことは、この思考様式の際立った特徴を浮かびあがらせることにつながる。アナクシマンドロスについて語ることは、アインシュタインによって端緒を開かれた科学革命がなにを意味するかを考えることでもある。
 わたしの専門分野である量子重力理論は、現代の理論物理学の核心に位置する未解決のテーマである。量子重力理論の問題を解決するには、おそらく、わたしたちが知っている時間と空間の概念を変革する必要がある。アナクシマンドロスは世界を変えた。高いところに空があり、低いところに地面がある閉じられた箱としての世界は、アナクシマンドロスの思索によって、大地が浮かぶ開かれた空間に変貌した。これほど巨大な世界の変革がいかにして可能となったのか、世界はどのような意味において「修正」されたのかを明確に捉えることによってのみ、重力の量子化が求める、空間と時間の概念の変革という難問に立ち向かえるようになる。

 最後に、本書に生命を吹きこんでいる、より扱いの難しい第三のテーマがある。このパートの議論は、答えよりもむしろ、多くの問いによって構成されている。自然にたいする合理的な思考の、古代世界における最初の顕現けんげんについて問うのであれば、合理的な思考以前、、の知の性質にかんしても、論じないわけにはいかない。この種の知は、今日においてもなお、合理的な思考の代替物としての地位を占めている。合理的な思考はこの知から生まれ、この知から差異化され、この知に反旗をひるがえし、いまもってこの知に抵抗しつづけている。このふたつの知の関係について論じることが、本書の第三のテーマとなる。
 プリニウスの言葉にあるように、「自然への扉」を開けることによって、アナクシマンドロスは途方もない対立を引き起こすことになった。それはつまり、根本的に性質の異なるふたつの知の対立である。一方には、好奇心、「確かさ」への反抗心、すなわち「変化」に基礎を置いた世界についての新たな知があり、もう一方には、その時代において支配的で、もっぱら神話–宗教的な思想がある。後者は「確かさ」の存在に全面的に依拠しており、そうした性質があるがゆえに、いかなる疑義も受けつけようとしない。これは、何世紀にもわたってヨーロッパの文明の障害となってきた対立であり、時代ごとの浮き沈みはあるにせよ、わたしたちはいまなおこの対立にとらわれたままである。
 正反対の性格をもつふたつの知が、相争うのではなく共生する方法を見いだしたかに思えた時代を経たのち、いまふたたび、この対立が激化しようとしている。政治的にも文化的にも色合いの異なるさまざまな論者が、非合理主義の諸形態を再提案し、宗教的思想の優位を説いている。実証的な思想と神話–宗教的な思想の衝突は、わたしたちを啓蒙主義の時代の対立に連れ戻そうとしているかのようである。いまあらためて、事態を打開しようとするなら、直近の数十年、あるいは直近の数世紀を振り返るだけでは、おそらくじゅうぶんではないだろう。これはより根の深い対立であり、世紀ではなく千年紀を視野に入れて考える必要がある。この対立は、人類の文明のゆっくりとした展開、文明という概念が組織化される際の深層構造、社会的・政治的な観点から見た文明の発展などと、密接に絡まり合っている。これは広大なテーマであり、わたしにはせいぜい、問いを提示し、いくつかの思索の跡をたどることしかできそうにない。とはいえ、わたしたちの世界にとって、そしてこの世界の未来にとって、このテーマが中心的な位置を占めていることはたしかに思える。わたしたちの生や人類全体の運命は、ほとんど毎日のように、この先の見えない対立の結果から、決定的な影響を被っている。
 わたしはアナクシマンドロスを過大評価する気はない。そもそも、今日のわたしたちがこの哲人について知りうることは、ほんのわずかしかないのである。ただ、ひとつ確実にいえるのは、いまから二十六世紀前、誰かがイオニアの地〔小アジア南西部、エーゲ海沿岸の帯状地帯の古名〕で、知へいたる新たな回路を、人類にとっての新しい道を切り開いたということである。現代を生きるわたしたちにとって、紀元前六世紀は深い霧に包まれている。あの壮大な革命に、実際のところアナクシマンドロスがどこまで寄与したのか、正確に見定めることは難しい。それでも、革命は実際に起こったし、好奇心と変化の思想が誕生した事実は消えない。はたしてアナクシマンドロスは、革命を実現に導いた唯一無二の立役者だったのか。あるいは、古代の史料が革命について記述する際、適当に引き合いに出してくる便利な名前に過ぎないのか。突きつめて考えるなら、それはわたしたちにとって、さしたる意味をもたない問いである。
 本書はこれから、トルコの沿岸で二十六世紀前に始まり、いまもわたしたちがその影響のもとに生きている、この驚くべき革命について語っていく。そしてまた、革命によって口火が切られ、いまなお燃えさかる対立の炎についても。

 

※続きは本書でお楽しみください。

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