単行本 - 芸術

花代の世界100% Chapter1「生命写真」のハードコア!!!!

 今でも脳が覚えている。花代の『ハナヨメ』を最初に体感した日のことを……。独自のエコシステムで数億年生きていた、名もなき惑星を初めて発見したようなあの感覚を、四半世紀が経過した今も昨日のことのように覚えている。そこに写っていた「他人の顔(@安部公房)」は、ハーフサイズカメラの特性を引き出したビビッドなのにザラザラとした荒い粒子で構成されていて、顔面のすべての毛穴が、この穴蔵に一泊して行きなよと言わんとばかりに、フレンドリーに開いていた。それら皮膚の小さな穴達は、それぞれがバレンシアと愛媛に位置する青果農業協同組合のジュース工場と直結しているかのように、フレッシュなオレンジ色の果汁を無自覚にこぼしていた。先週歩いた円山町まるやまちょうに降り注ぐ太陽光は、それら人物の影によってアスファルトをドロドロと溶かし、フィッシャープライス製の緑色のプラスチックの毛虫がリカちゃんハウスを食い荒らしていた。虎の穴の謎のレスラーであるミスタークエスチョンは実はゲイで、タイガーマスクに恋心を抱いていたことにも気付いたし、スーパーサイズのファストフードを食べ過ぎたメタボリックなスパイダーマンは、蜘蛛くもの糸を出せなくなって、アシッドハウスで踊りながらダイエットにいそしんでいた。

 僕はこの花代の最初の写真集『ハナヨメ』を、「第三倉庫」から脈々と続く新宿花園神社の地下にあった「Club Wire」で本人から手渡された。その日は「Life Force」のパーティーをやっていたのでニック・ザ・レコードのDJを聴きながら『ハナヨメ』を体験したことになる。荒木経惟や森山大道も絶賛したというその写真集を踊りながら眺めていて、アシッディーな花代の世界に完全に「持ってかれた」僕は、その日フロアで二度も倒れた。心配した花代に膝枕をされた僕は、自然と接触した花代の腹部に耳が触れ、意識が朦朧もうろうとなりながらも、当時花代のおなかにいた赤ちゃん(花代は既にこの時、男の子ならアントン、女の子なら点子と名前を決めていた)の呼吸と同調してアクセスを果たし、つまり後に点子として今生に現れる存在と交信して、その場で女の子だと確信した。

 どんな魔法がそうさせたのか、いまだにこの日のことを考えるが、『ハナヨメ』を見せられたその日から、心(とよばれているもの)は「私」という器官に内在したものではなく、どうやら「私」の外側に存在するものだと感じ始めるようになったことは確かだ。そしてこの時、自分自身も花代が使うカメラ・テクノロジーの一部となり、花代の第六感に操られて自らの器官を機能させ得たという印象をいまも体感として持っている。

 そしてエクストリームなパーティーが終わった明け方、クラブの重い扉を開け、外に出るとなんと大雪で、フロアでさっきまで一緒に踊っていた当時のLOS APSON? の面々やBOREDOMSのEYEさんと一緒に童心を炸裂させて巨大な雪だるまを作りながら、そのままLOS APSON? に立ち寄って、Doctor Rockit名義のマシュー・ハーバートのレコードを聞いてから家路に着いた。この体験は、自己と他の境界が初めて溶け出し、環境と融合するのを実感したとても幻想的な一夜だった。そう、特別な日には必ず雪が降る。僕はあの雪をいまだに花代と点子が降らせたのだと信じている。

 このファンタジックな一夜を言語化することは大変難易度が高い。秋田昌美氏は『ハナヨメ』に寄せた巻末エッセイで、花代が使う魔法についてこのように説いている。

 「花代の手にかかるとカメラも従順になってしまうのだ。カメラは花ちゃんテクノロジーになってしまうのである。文字通りカメラは花代の眼に変わる。こんな単純な事をカメラに分からせるのは実は大変な作業なのだが、花代とカメラは良いお友だちだから簡単に出来るのである。機械もまんざら捨てたものではない事が花代の写真を見ると分かるのである」

 秋田氏の言うとおり花ちゃんテクノロジーは実在するし、そして人間にも効くのだ!!!!!!! 僕はこの日、この魔法を実感したのである!!!!!!!!!

 秋田氏は続けて、このように近況を報告していた。

 「そんなわけで花ちゃんの写真は私のCDのインナーとポスターをメデタク飾り、次いで、彼女が撮った赤ん坊の写真が、カークラッシュしたジェーン・マンスフィールドの頭やアントン・ラヴェイ叔父さん、イタリアのカーニバルのペニス人間などに囲まれて拙著『スカム・カルチャー』の表紙を飾ることになったのである」

 遡ること二年、花代と初めて出会ったのは、秋田氏にデザインを依頼され、著書『スカム・カルチャー』の装丁のミーティングを、僕の家で三人で行った1994年のあの日である。秋田氏の御報告どおり、この日、花代が持ってきてくれた複数のプリントから皆で胎児の写真を選び取り、表紙を飾ることが確定した。思い返せば、何もかもがこの日を切っ掛けとして始まるのだが、といっても、胎児とはこの数年後にコウノトリが花代の子宮に運んで来るあの日交信した点子のことではない。花代が大英博物館で撮影した胎児のことである。

 この日僕は『スカム・カルチャー』のロゴタイプ制作のために、テッド・V・マイケルズの『The Worm Eaters』(邦題:ミミズバーガー)にインスピレーションを得て、生きたミミズでタイトルロゴを作ろうと、釣具屋で購入して来たミミズをスキャナーにはさんでアルファベットの形を作りながら皆と対話していた。オレンジジュースが飲みたいという花代に「それって100%?」と聞かれて「うん、もち100%」(もちは、勿論もちろんという意味である。念のため)と答えたら、彼女は安心して飲んでいた(確かミニッツメイト)ことをなぜか鮮明に覚えている(DOMMUNEでいま販売しているのは瓶に入った0%のバヤリースだ/笑)。多分僕は彼女に怪しすぎるミミズの人と認識され、信用0%から少しずつ少しずつ評価を重ね、世紀をまたぎ、今に至っているのだろう。ところでミミズバーガーは、100%のミミズパティで生産される方が高品質なのであろうか?

 秋田昌美氏は、この日、バッドテイストのセンスが近いということで僕と花代を対面させたのだと思うが、一夜にして打ち解けた我々三人は夜が明けるまで話し込み、二人は始発で帰った。早朝4時30分、カラスが「下ぁ、下ぁ」と、この世の愚かさを声高に論じる中、駅まで送る途中の裏路地で、三人は朝日を浴びながら「早見優の顔がゲロに似ている」と意気投合して大爆笑したことをなぜか今も覚えている。世は世紀末……1994年、悪趣味ブームの夜明けであった。しかし早見優や松本伊代や小泉今日子や中森明菜や堀ちえみらの「花の82年組」は、今世紀も皆揃って生き残っている。あぁ、バッドテイストの神様、ノストラダムスに免じてすべてを許していただきたい……。

 その後、すべてのミミズとオレンジ、そして人型をしたゲロに懺悔ざんげした僕に、花代は何度も何度もデザインを依頼してくれることとなる。中でもCD、Hanayo vs The Black Dog『Sayonalala(サヨナララ)』(1996年)は、バリカンで刈り上げた頭に赤のアイシャドウで「犬」と書かれたポートレートを花代から渡されて、それを30匹の犬とコラージュし、内ジャケには10リットルほどの血しぶきをまき散らしながら彼女自身の生首が飛んでいるグロテスクな世界観を描いた。今考えると、これら花代が『ハナヨメ』〜『サヨナララ』で生み出したテイストこそが「キモかわいい」や「グロかわいい」の原点の一つであり、同時期に6%DOKIDOKIを裏原宿にオープンさせ、2010年代以降、原宿KAWAIIカルチャーを牽引する増田セバスチャンと、後のきゃりーぱみゅぱみゅの世界に直結するエクストリームであったと強調しておきたい。つまり、花代こそがその「エクストリームかわいい」テイストの始祖であったのであり、このことは特筆すべき「女の子スタイルウォーズ」案件であろう!!!!!!

 その後、この花代のオリジナルテイストにいち早く気がつくのが、何とアニエス・ベーである。花代は世界中のAgnès b.で個展を行なっているが、2000年に青山のAgnès b.で行った展覧会のオープニングでは、故・東谷隆司氏の手でザ・スターリンの遠藤ミチロウメイクを施された花代が、絶叫しながら現れた。この時もスターリンメイクの魔法少女をモチーフにしたAgnès b.のロゴ入りの哺乳瓶のデザインを僕が担当した。その後も『ドリームムムムム…ブック』(2000年)や、椹木野衣氏監修の「ウツシユメクニ」展(2000年)も僕が担当することとなるが、今回、花代の世界史を改めて振り返ると、彼女はこの時期、アンダーグラウンドとメインストリームを縦横無尽に行き来していたことに改めて気づき驚愕きょうがくした。まるでローマ字になって世界的流通を始める以前の「エクストリームかわいい親善大使」であったかのように……。

 1970年に生まれた花代は、1986年に中野ブロードウェイでスカウトされ「ミスタードーナツ」のCMモデルとしてお茶の間デビューした。当時は池袋の私立高校に在籍しており、自ら編集長を務めた『女子高生通信』(1986年)では、千葉テレビで個人的に番組枠を購入し、怪獣と戦っていたロック起業家ジャガーや、映画『星くず兄弟の伝説』を撮り終えたばかりの手塚眞監督にインタビューを行い、同年『宝島』の中森明夫の人気連載「東京トンガリキッズ」にモデルとして登場。ボ・ガンボスのライブにもダンサーとして参加。同年、高校卒業後、大学に進学し、フランス・パリへと留学。その後、東京の向島で半玉として芸妓修行を始める。そのとおり、もはや忘れがちだが、出会った頃の花代は、なんと芸妓だったのである。1992年、この時代の活動を追った『小さな芸者さん! お酌チャンNo.1!』が刊行され、1993年には芸妓姿で『The Face』の表紙を飾り、ジャン = ポール・ゴルチェの広告に登場した。翌年『STUDIO VOICE』の「BAD INTERVIEW」(1994年)で僕は初めて花代のことを知った。そこに写り込んでいた円山町の日本家屋は、当時花代が住んでいた和テイストな昭和のラブホテルを外国人向けのシェアハウスに改造した、通称イチゴハウスであった(家屋の門に花代がイチゴの絵を描いたからそう呼ばれていたのであって、サンリオが田園調布に建設した「いちごのお家」ではない/笑)。ついにこの時期、我々は先述の『スカム・カルチャー』のミーティングで意気投合し、その後ソウルメイトに成った。そして花代は当時のドイツ人ボーイフレンドと結婚し、1995年に花柳界を引退。僕らがよく遊んだ95年頃、花代は並行して最も盛んに芸能活動を行なっていたことを今回資料を紐解いて、改めて思い知った。花代本人から話は聞いていたが「超てんねん博物館」という関西テレビの深夜番組のホストをバッファロー吾郎と一緒に勤めていたこの時期は、関西で追っかけが大量発生するほど人気があったといまも伝説を小耳にはさむ。同年、カルビーの「ピザコーン」のCMにも出演。その頃彼女が「笑っていいとも!」のレギュラーを獲得したのは存じていたが、クビに成った原因が、放送禁止用語の多発だったとは、このたび初めて知った。僕の地元高松の中学の先輩である松本明子が「鶴光のオールナイトニッポン」で四文字熟語を絶叫し、その後二年間干された理由とまったく同じで、円山町をレペゼンするたくましさすら感じるエピソードではないか!?

 花代にとってこの事件は今となっては「オルタナティヴな勲章」だろう。なぜなら花代が同時に生きていたアンダーグラウンドサイドのマルチバースでは、彼女は並行して世界的なノイズ/アヴァンギャルドアーティストとの活動を行っていたためだ。先述の秋田昌美/メルツバウを筆頭に、暴力温泉芸者の中原昌也、灰野敬二、レッド・クレイヨラのメイヨ・トンプソン、アタリ・ティーンエイジ・ライオットのアレック・エンパイア、ブラックドッグ、カイ・アルトフ、テーリ・テムリッツ、 デイジー・チェインソー、パナシア、皆、当時、花代の存在に惚れ、花代と共演した錚々そうそうたるアーティスト達だ。さらにはそれと並行で、花代は日本舞踊をたしなんでいた。円山町で花柳流の師匠に出会い、七年修行した花柳界卒業の証として、この年、国立劇場で、清元の「子守」を見事に演じている。いま考えてみると花代は、インターネット以前から既に、並行宇宙を駆け抜けるパラレル・インフルエンサーのような活動をワールドワイドに行っていたのかもしれない。

 このような第1期絶頂期とも言える1995年末のピーク期に花代は『Sayonalala』というThe Black Dogとのマスターピース・アルバムを残してロンドンに移住し、花代が去った東京は退屈だと言わんばかりに、僕は96年からサンフランシスコに移住することとなる。

 ご存じの通り、当時の日本はバブルが弾けきった最後っ屁で何とかしのいでおり、1995年は阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件という過酷な現実を目の当たりにした年であった。さらにはWindows 95のリリースによりインターネット元年を迎えた激動の一年で、日本のオルタナティヴ地図が大きく書き換えられた年であったと言えよう。要するに、泡が弾け飛んで、地震が起き、サブカルチャーをまとって国家転覆を目論んだカルト教団が、地下鉄に毒をいた時代、ワールド・ワイド・ウェブによって情報がタダで入手できる世界が現出した、ということだ。日本はいまだにこの95年の痛みを引きずっていると言っても過言ではない。

 その後、文化のインフラは、徐々にインターネットに移行していき、セゾンカルチャーと入れ替わるようにオタクカルチャーが台頭した。そんな象徴的な年をまたいで、ノイズ/アヴァンギャルドな僕ら二人共が日本から脱出し、海外に移住した。この時代は既に平成であったが、深く回想してみると、この年こそが、ディレイがかかってハウリングを起こした、歪んだ昭和文化のひとつの終焉しゅうえんであったのではないか? このタイミングで欧米に引っ越したぼくらは、「昭和のアイデンティティ」を欧米に持ち込んで、「昭和の世紀末」を海外で乗り越えたと言っても過言ではないだろう。この時代、日本から離れたことは僕らにとって幸福だったのかもしれない。なぜなら、オタクによってオルタナティヴが征服される時代を無効化できたからだ。そう考えると僕らはそれぞれロンドンとサンフランシスコに亡命したと言っても過言ではないだろう。そして二人共がどんどん国籍を失っていった。

 その証拠に僕は『クレクレタコラ』や『ウルトラファイト』や実写版『けっこう仮面』、そしてオウム真理教のアニメ『超越神力』をVHSにダビングして、点子の英才教育のためにサンフランシスコからFedexでロンドンの花代に送り、花代はロンドンからハノーファー、そしてベルリンへと移り住む過程で、入手した情報をFAXや郵便で僕に送ってくれていた。故に離れていても彼女の活動は把握していた。

 ワールドワイドなサヴァイヴを経ても、花代は子育てをしながら、ミュージシャンであり、現代アーティストであり、写真家であり続けた。そして、ベルリンに移り住み、僕が一方的に師と仰ぐカルト・アーティスト=クリストフ・シュリンゲンジーフの舞台に出演するようになる。クリストフは『ドイツチェーンソー大量虐殺』や『テロ2000年 集中治療室』や、僕がデザインを担当した『ユナイテッド・トラッシュ』が当時日本でも上映され、そのエクストリームな作風はアンダーグラウンドでは知れ渡っていた。社会を挑発し、常にメデイアを賑わせ続けていた、そんなクリストフから花代の元へ、1997年、一枚のファックスが届く。そこには「君の声は僕の次の舞台ローザ・ルクセンブルクのローザ役にぴったりです! ベルリンに君を招待したい」と書かれていた。花代は、全台詞ドイツ語でローザを演じきった! そしてクリストフの舞台において、無くてはならない存在となった。しかし当時のクリストフはポリティカル・コアなその表現から、完全に当局に目をつけられていて、花代も何度も警察に補導され、警察が放ったシェパードに股間をまれ、そのニュースが新聞に載ったりすることとなる。

 二冊めの写真集『ドリームムムムム…ブック』には、まさにこの時期にベルリンで花代が吸っていた空気と、インクレディヴルなネットワークが封じ込められている。ヨーロッパとアメリカで終末を乗り越えた僕らにとって、訪れなかったハルマゲドンの結晶のような作品だと思っている。ここには『ハナヨメ』以降の世紀末の花代の活動が120%濃縮され注ぎ込まれている。そしてこの作品は生まれたばかりの点子の幼少時代の成長の記録としても機能しているのだ。

 当時僕は、3000枚以上のプリントを託されたが、同時期に予定されていたドイツの写真集に収める作品は外さざるを得ず、残りの写真でどう構成するかを考えた。そこで閃いたのはトビラを開くと、全ページが横二つにざっくり切断され、スプリットになっている構造だ。このレイアウトの中で、連番の四枚をGIFアニメのように見せたり、途中から見開きで一枚の写真になるように構成したり、上半分と下半分で流れるまったく別の時間軸が交差して一つになったり、「ドリーム」というタイトル通り、不条理な夢のモンタージュをいかにエディトリアルで実現するかにこだわった。

 まったく違うキャラクターが入ってきて夢が遮断されたかと思ったら、先週観た夢が突然割り込んできたり……レム睡眠中に記憶の整理や定着が行われている状態や、潜在意識からイメージが登ってくる状態など、深いノンレム睡眠に入る手前のエクスペリメンタルな花代の夢物語を追体験する装置にしたかったので、全写真を並べて構造を考えた。当時僕が住んでいた武蔵境のレトロフューチャーな一軒家は、ニューヨークの教会を手がけた建築家による建物で、この写真集の無限の構成を三週間くらい考えているうちに、床に並べていたプリントアウトが、大きな天窓から射し込む日光で焼けてしまったのを覚えている。

 表紙は、アルグラスの紙の上に、M(マゼンダ)100を敷いたのであの発色になった。花代は当時この色を、メタリックな折り紙の赤と比喩したが、874個の「M」を並べて、斜め上に貼っている点子のステッカーをがすと幻想的な夢に導く羊が登場し、見返しにも羊を配置して、ドリームバースへの入口と出口を用意した。

 花代は、処女作『ハナヨメ』の時代から、ヴィヴィッドでハイコントラスト、なのになぜか淡く渋みもあって、いつの時代に何処どこで撮られたのかまったくわからない、幻想的な独自世界を既に写し出していた。『ドリームムムムム…ブック』では、読者がページをめくって引き当てた時空を、無意識にコラージュしていくチャンスオペレーションによって世界が創出されるが、テキストの冒頭で言語化したように、花代はその活動黎明期から、現実をシュルレアリスティックにコラージュせしめていたのだ。お菊人形がThe Clashの缶バッジを帯留めに利用していたり、セルロイドの人体から本物のカニの爪が生えていたり……。コントラスト比の高い記号同士が全ページに渡って紙とインクのスワッピングパーティーを果たしていた。花代特有のサイケデリアは色彩だけではなく、このようにシミュラークルな記号の循環によって現実に揺さぶりをかけていたのである。

 では、にもかかわらず淡く渋みがあって粒子が荒い視覚世界はどこから導かれるのであろうか? 花代は、中学一年の時に、祖父の形見として父からもらったハーフサイズカメラを使いつづけている。最近、高画質/高性能なスマホカメラの反動で、ハーフサイズカメラやインスタントカメラ、そして「写ルンです」のリバイバルが話題になっているが、花代はそんな逆行するテクノロジーを80年代より手懐てなずけ、世紀をまたいで独自世界を構築するに至っている。のちに続く、『MAGMA』(2008年)も『ベルリン』(2013年)も『点子』(2016年)もそれぞれ何時何処いつどこで撮られたか? そしてどの惑星の風景なのかすら定かでないが、にもかかわらず、摩訶まか不思議だが、一つの安定した時空が花代の写真世界に形成されているのは、地球上のどこに身を投じようともブレない心のレンズが脈打っているからである。

 それは音楽についてもパフォーマンスについても言えるだろう。現在の花代の世界はメディアを越境しても一貫し続けている。この時期もジョナサン・ベプラーやトニー・コンラッドと共演したり、そしてユルゲン・パーぺとカバーした「Joe le Taxi」はコンピレーション・アルバム『2 Many Djs』に使われ大ヒットした。ベルンハルト・ヴィルヘルムのショーではライブパフォーマンスを披露し、Diorの広告写真も手がけている。

 そういえば花代がロンドンへと旅立った1995年頃から「女の子写真」ブーム(のちの「ガーリーフォト」ブーム)が巻き起こった。HIROMIX、蜷川実花、長島有里枝の三人が旗手として取り上げられ、1996年3月、雑誌『STUDIO VOICE』では「HIROMIXが好き」という特集が組まれ、前述のビッグミニというオートフォーカスカメラでドキュメンタルな日常を切り取ることが、フレッシュなユースカルチャーとしてはやされた時代があった。そのピークが2001年の木村伊兵衛賞同時受賞であるだろう。勿論、三人とも現在も活躍している大変重要なアーティストであるが、しかし僕は、その前に花代こそが受賞すべきだったのでは?と当時も現在も思っている。ジェンダーにもとづく偏見や不平等が生み出した評論家主導のカルチャーであったと指摘され、その後カテゴライズすら無効となった「女の子写真」であるが、1982年に出版された木村佳子の『女の子ルンルン写真術』はご存じであろうか? そのコピーは「女の子が内緒で撮った男の子には見せたくない秘密の写真集」である。そう、女の子同士の写真コミュニケーションが奔放に語られた時代は80年代に由来する。コミュニケーションツールとしての写真の可能性を『女子高生通信』の時代から提示し続けていた花代は、「女の子写真」のオセロ盤の二つの角を80年代から早々と蛍光オレンジの石で押さえていたが、時代は「ガーリーフォト」ブームに移行し、オセロゲームは放棄され、2021年まで保留となった。その間、花代は日本を離れて世界を飛び回り、数々の作品とパフォーマンスを残し、子育てを成就させ、貫禄と侘び寂びすらをも身につけて、帰還した。そして蛍光オレンジの石はいつの間にか朱石に深化を遂げていた。時代はジェンダーイコーリティを通過して「女の子写真」とは言われなくなり、ビッグミニからデジカメへ、そしてスマートフォンが高解像度なデジタルカメラとして手のひらに乗っかった。SNSでフラットになったこの世界はいま「生命写真」にあふれている。女の子も男の子もゲイもレズビアンもトランスジェンダーもクイアもクエスチョニングも、インスタグラムをプラットフォームとして、写真をコミュニケーションツールとして活用している。花代の写真は今世紀的ライフログに導かれた「生命写真」のハードコアであり、ポスト・パンデミック(@椹木野衣)の夜明けとも言える新しいパラダイムが描かれる時代に再浮上するHNS(花代ネットワーキングサービス)であり、HMP(花代ミーティングプラットフォーム)なのである!!!!!!!!  そう、花代の世界のセントラルドグマは今やっと御開帳されるのだ!!!!!!!!! 「これって100%?」「うん、もち100%」!!!!!!!!!!!!

 

追伸 

 この他にも、ケーブルTVでの「874 DREAMMMMM TV」のディレクション、Woodmanとの共作「874 cry baby killer」の作詞、台北ビエンナーレでのオープニングライブ、庭園美術館での「Extream Quiet Village」、四度にわたるDOMMUNE出演、北温泉での珍婚式の司会など、現在に至るまで花代と僕は数多くの共同制作を続けているが、もう一万字を費やす事になるため、ゼロ年代以降の花代の活動については続編に執筆することにする!!!!!!!

(花代の世界100% Chapter 2 につづく)

(現”在”芸術家)

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