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いま話題の『戦力外捜査官』連続文庫化&新作刊行! 第3弾『ゼロの日に叫ぶ』試し読みを公開

いま話題の『戦力外捜査官』連続文庫化&新作刊行! 第3弾『ゼロの日に叫ぶ』試し読みを公開

テレビドラマ化もした人気の警察小説シリーズ!
推理だけは超一流のドジっ娘メガネ美少女警部とお守役の設楽刑事の凸凹コンビが難事件に挑む!

〜〜「戦力外捜査官」シリーズ第3弾〜〜
ゼロの日に叫ぶ試し読み

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顔を乗せている床のタイルに二つのひびが入っているのを見つけ、それぞれに名前をつけることにした。左隅の大きなひびはジャック、右隅の小さなひびはアリス。何も考えずにつけたにしてはよく似合っているような気がし、ジャック、アリス、と声に出さずに呼んだ。もう一度呼ぼうとしたところで腹を蹴られた。顔の位置がずれ、目のすぐ横にジャックが来る。タイルに頬をつける形になり、冷たい感触が伝わってくる。白いタイルだが、ジャックの周囲は表面がわずかに剥がれ、灰色の内部を覗かせている。ここの床は市松模様だから、白の隣は黒だ。だがそちらのタイルも、ひびの周囲からは灰色の部分が見える。こういうバーの床に敷くタイルにどういうものが使われるのかについて、神崎かんざきには知識がない。もとから白い石と黒い石を切って表面に貼っているのだろうか。同じ材料の表面を白と黒に塗り分けているのだろうか。

そうやって目の前にあるもののことを考える以外、今の神崎にできることはなかった。それ以外のことを考えてはならなかった。何度蹴られたか分からない胸の中では肋骨が何本か折れ、その下の腹の中では内臓が破れているかもしれなかった。店の階段から突き落とされる時にびりりという音がしたから、一週間前に買ったばかりのスーツが破れているかもしれなかった。だが、そういうことを考えてはならなかった。体の痛みだけなら耐えられる。今の一撃で体に障害が残るのではないかとか、死ぬのではないかとかいったいくつかの恐怖はあったが、痛みそのものは耐えられないほどでもない。靴で腹を蹴られ、頭を踏みつけられ、爪先を口に押し込まれる。しかしそれらの苦痛には、もうだいぶ前から慣れてきている。

そしてそれは今の神崎にとって悪いことではなかった。蹴っている連中のやりとりに耳を澄ますと、連中が自分を痛めつけることに飽き始めていることが分かった。最初の頃は興奮していても、ただ転がっているだけで反応がなくなってきた人間を蹴り続けるというのは、そう楽しいことではないと気付き始めたのだろう。このまま、連中が飽きてやめるまで待てば、この苦痛に満ちた時間は終わる。だから呻き声をあげてはならなかった。何も考えてはならなかった。肋骨や内臓の心配をしてはならない。スーツなどどうせもうゴミだ。そしてそれ以上に、あの子のことを考えてはならない。

店の反対側の隅では、まだあの少女が犯され続けているはずだった。最初は抵抗するような物音が聞こえていたが、随分前からそれもなくなっている。外したベルトの金具が床にでも当たっているのか、がちゃ、がちゃ、という音が規則正しく続いているだけだ。最初の一人がずっと続けているということはないだろう。だが神崎を蹴る役の二人はまだ何もしておらず、さっきはそちらを振り返って「まだ?」と訊いていた。だとすると、彼女の地獄は少なくともあと二人分、続く。

どうしてこんなことになってしまったのだろう、と思う。

神崎はただ声をかけただけだった。連中はそれで諦めると思っていたし、そうでなくとも、騒ぎにはなるはずだった。騒ぎになれば、こんな結果にはならないはずだった。少女とともに引きずられ、車に押し込まれるまでの間に誰かが助けてくれるはずだった。それなのに。

また腹を蹴られた。さっきと蹴り方が違う。頭上から、「今のいいね」「もっと踏み込んで」というやりとりが聞こえてくる。こちらの二人は退屈のあまり、倒れた神崎をどちらがうまく蹴れるかを競う遊びを始めたらしい。さっきより強い勢いで爪先が腹にめりこみ、神崎は激しくむせた。頭上から、楽しそうなやりとりが聞こえてくる。会話の内容は聞きとれない。聞きたくもない。

咳をするたびに痛む胸を押さえ、腹をかばって丸くなったまま、神崎は祈った。どうかあの少女が死にませんように。顔を見られたからといって念のために殺されたり、抵抗して逆上したこいつらに殺されませんように。

今度は背中を蹴られ、体が海老反りになる。ジャックとアリスはどこかにいってしまい、かわりに黒いタイルが頬に当たった。

お前らを、殺す。

ここで死んでなどやるものか。生きのびて体が治ったら、必ず殺しにいく。全部で五人。一人ずつ殺す。顔はまだよく覚えていない。名前も分からない。だが必ず捜し出す。何年かかっても、必ず。もっと強くなって、恐怖にひざまずかせることができるようになったら、必ず捜し出して、殺す。

殺す。じわじわ殺す。這いつくばらせて殺す。苦しめて殺す。はずかしめて殺す。

* * * * * * * * * *

警察官に必要な資質とは何か。

現職の警察官にこの質問をしたら、どんな答えが返ってくるのだろうか。「健康であること」とか「任務を真面目にこなす勤勉さ」と答える人が多いかもしれない。実際、どの部署においてもまずそれが重要なのだ。うちの川萩かわはぎ係長なら「気合と根性だ」とばっさり言うだろう。先輩の双葉巡査長は以前「図々しさだな」と答えていた。同期の麻生さんにも訊いたことがあるが、彼女は「臨機応変に判断できる頭でしょう」と答えた。バラバラである。

俺自身はどう答えるかと言われると、実は困る。警察官になってからまだ十年も経っていないし、捜査一課に配属されてからは何年も経っていない。よい警察官とはこういうものだ、という確固とした持論はまだない。だからもし訊かれたら、最も無難な答えを返すだろう。「正義感」と。

当たり前すぎることなので皆あえてこう答えはしないのだが、刑事だけでなく警察官すべてに必要な、最も基本的な素質はこれである。たとえどの部署に配属されても、仕事の質を犠牲にして手を抜いたり、職権を用いてちょいと小遣いを得たりすることが可能な職業だからだ。いかなる理由があっても自分は手を抜かない、ましてや犯罪に加担などしないという、最低限の正義感がないやつには警察官は務まらない。

あるいは外部の人からすれば、「体力」とか「運動神経」という答えが返ってこないのが意外かもしれない。だがこれは実際に、ほとんど重要視されないのだ。警察学校のきつい生活を卒業まで耐えられるだけの根性があれば、警察官にはなれる。なれさえすれば、あとは経験と工夫でどうにでもなる。俺の同期にもひょろひょろの男がいたが、こいつは「石にかじりついてでも警察官になりたい」という根性で立派に卒業までこぎつけた。警察学校の授業は「どんなやつでも最低限の職務遂行能力を身につけられる」ことを目的として作られているため、教官に肩を叩かれて辞めていくのは、何回やっても書類書きが覚えられないようなやつだけである。採用基準を満たしていれば、体が大きい必要もない。顔の威圧感なども必要ではない。川萩係長ではないが、そんなものは気魄きはくでカバーできるのだ。

が。

渋谷道玄坂のメインストリートからしばらく奥に入った路地。昼飯を食いに出てぶらぶら歩くサラリーマンと買い物中の学生たちと、落書きのされた自販機と明かりのついていないラブホテルの看板がごちゃまぜにひしめく狭い道に、無理矢理タクシーが入り込む。道端で立ち止まるだけで邪魔になってしまう窮屈な雑踏の中で周囲を見回しながら、俺は考えを改めていた。正義感だけではない。こういう場所ですぐ迷子になってしまわない程度の方向感覚も、警察官には必須である。

なるべく人の流れに逆らわないように電柱の陰に避難し、もう電話をかけるしかないと思って携帯を出すと、横から肩を叩かれた。

設楽したらくん、見つけた?」

困り顔で言う麻生さんに、首を振ってみせる。「いない。小さすぎて見つけにくい」

「ああ全く。なんでこう、あっさり迷子になるのかな」麻生さんは腰に手をやって周囲を見回す。「私だってもうこんなメジャーなとこで迷わないのに。あの人、渋谷来たことないの?」

「あるだろう。それでも迷うんだよあの人は」俺も頭をく。「この間は本部庁舎の中で迷って、警視総監室前で拘束されてた」

「十一階まで上った【*刑事部は四階から六階。】の?」

「あの人の場合、東西南北だけじゃなくて自分のいる高さも把握できないんだ」

捜一、、で浮いてるのもそのせい?」

「本人いわく、『理論的に前後左右と高さは等価ですから、自分の前後左右軸における位置を把握できない方向音痴が、自分の今いる高さを把握できないのは当然です』だそうだ」

「得意げに言われてもね」

俺と麻生さんが同時についた溜め息が、白く広がって混ざりあう。そろそろ冬も本番で、気温の方は「冷え込みが厳しい」という天気予報の通りだったが、歩き回ったせいでコートの中が汗ばんでいる。脱ごうとして腕を伸ばしたが、横を通る人にぶつけそうになってやめた。メインストリートから外れているとはいえ、このあたりのビルには昼飯にちょうどいい店が無数に入っているため人が多い。見通しも悪いので、この中から海月千波うみづきちなみ警部を見つけだすのは困難である。何しろ彼女は小さい。身長はどう見ても女性警察官の採用基準に達していないレベルであり、威圧感という単語からは地球七周半分も離れた外見をしている。もう少しなんとかならんかと思うが空気を入れて膨らませることもできない。

「補導されてたりして」麻生さんが不吉なことを言う。

「まさか」ありえなくはなかった。

海月千波。警視庁刑事部捜査一課第七強行犯捜査、火災犯捜査二係所属。つまり俺たちの同僚なのだが、国家公務員試験経由で入ってきた人間なので階級はすでに警部である。俺より三つも上、この間巡査部長に昇進した麻生さんと比べても二つ上になる。偉いのだ。

だが、組織に勤める人間なら誰もが同意してくれるだろう。偉さと能力は比例しない。

捜査一課刑事の平均的捜査能力を百、素人のそれを五十とするなら、彼女は十五くらいである。尾行中に道に迷う。夜十一時を過ぎるとうとうとし始める。聞き込みでは対象者と雑談になってしまい、訊くべき項目をすっ飛ばす。車の運転が破壊的に下手である。加えて運動神経が悪い。腕力は小学生程度、足が遅い上に走ると転ぶ。運動神経が悪いというより運動神経そのものがないと言った方がいいのかもしれない。それでも本人はいつも必死なのである。張り込み中、かたわらに「眠眠打破【*常盤薬品工業が提供する、地上最強の眠気防止ドリンク。カフェインの煮こごりのような恐ろしい液体であり、続けて二本飲むとその夜は絶対に眠れなくなる。】」の瓶を並べて落ちてくる瞼を押さえ押さえしている彼女を見ると、ああ、やはり努力や根性ではどうにもならない向き不向きというのは絶対的に存在するのだな、と実感させられる。警察官には向いていないのだ。渋谷署から道玄坂まで昼飯を食べにくる間にはぐれて迷子になるような人は。

「電話は?」

「つながらない」

「しょうがないなもう。昼、終わっちゃうのに」麻生さんは腕時計を見た。渋谷署には捜査本部をたたむ際の野暮用で顔を出しているだけだから、戻るのが少々遅れても特に支障はない。だがそれでも勤務中である。「もう置いて帰る?」

「そうしたいとこだけど」そうもいかない。何しろキャリア様なのだ。

殺人や放火といった重大事件を扱う捜査一課は本来、現場で功績をあげて引き抜かれた人間だけが所属できる特別な部署であり、将来を嘱望しょくぼうされるキャリア様は通常、こんなところには配属されない。彼女がうちにいるのは現刑事部長である越前憲正えちぜんのりまさ氏が何やら背後で暗躍した結果であり、それというのも、海月は刑事部長が極秘に進めているあるプロジェクトの実行者という役割を負わされているからだ。したがって彼女はただのキャリア以上の重要人物ということになる。道玄坂に置いて帰るわけにはいかない。

「麻生さんごめん。まさか、こんなにすぐ迷子になるなんて」海月は俺の相棒であり、たまたま一緒になったから昼飯に誘っただけの麻生さんはとばっちりである。「子供用のG​P​S携帯とかあったよな。あれ持たせとこうかな」

「設楽くんが悪いわけじゃないけどね。首に鈴でもつけといたら?」

首に鈴をつけてちりんちりん鳴らしている海月を想像する。よく似合った。

「とにかく、むこうの通りまで行ってみる」

無論、刑事部長の進めるプロジェクトのことは麻生さんにも言えない。海月が抜擢ばってきされているのだって、彼女が刑事部長の親戚であるという事情を考慮されてのことなのだ。あんまり足を引っぱると「なぜこんなのが捜査一課に」と疑問を抱かれかねず(すでに抱かれているようだが)、それも都合が悪い。とにかく早く海月を見つけようと、俺は小走りで路地を進んだ。そこで後ろから声をかけられた。

「あなたたち、誰か捜してるの?」

振り返ると、背筋をぴんと伸ばした小柄な女性が俺を見上げていた。オフィスカジュアル、といった恰好をしているから、付近の店の人間ではなく昼食に出てきたビジネスパーソンといったところだろうか。電話で話していたところを中断して声をかけてくれたのか、手に携帯を持っている。

「捜しています。ベージュのダッフルコートで眼鏡をかけた、高校生くらいの女の子です」実際はいい大人だが、見た目に合わせた表現をするべきだろう。「見ましたか」

「それってもしかして、あの子?」女性は親指で自分の後方を指した。

彼女の指した先、十五メートルほどむこうにドアを開けた白のミニバンが停まっていた。ミニバンの周囲には大柄な若い男の背中が二つ見え、その間から、腕を掴まれて車内に引っぱられ、ミニバンのドアを掴んで抵抗している少女の姿が見えた。

「いえ、あれは……」ダッフルコートに眼鏡。全く似合っていないスーツ。どう見ても中学生か高校生にしか見えないあの子は。「いや、あれです!」

「ちょっ、何あの状況?」

隣に来た麻生さんは言うが早いか車道に飛び出し、ミニバンに向かって走り出した。俺もそれに続いた。歩道は人が多くて邪魔すぎる。

確かに警視庁捜査一課火災犯捜査二係、海月千波警部だった。だが。

短い悲鳴が聞こえ、海月の姿が後部座席に消えた。

「……何やってんだあの人は!」

言うまでもない。さらわれているのである。

海月を車に押し込んでいた二人がこちらを振り返り、運転席に何か言いながら乗り込む。ドアが閉じるより早くミニバンが動き出した。

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続きは本書にてお楽しみください。

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著者

似鳥鶏

81年千葉県生。鮎川哲也賞佳作入選『理由あって冬に出る』でデビュー。魅力的な人物や精緻な物語で注目を集めている。『ダチョウは軽車両に該当します』『パティシエの秘密推理 お召し上がりは容疑者から』等多数。

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