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特別対談 女優・蒼井優×作家・若竹千佐子「日本の〈妻〉たちが見てきたもの」ーー映画『おらおらでひとりいぐも』『スパイの妻』の衝撃

映画『おらおらでひとりいぐも』より

 

今秋、映画『おらおらでひとりいぐも』と『スパイの妻』が全国劇場公開中だ。『おらおらで~』は1964年の東京オリンピックの時代に上京し夫を見送り子を育て上げた「桃子さん」を、『スパイの妻』は太平洋戦争へとむかう日本で軍の非道を告発する男の妻「聡子」を主人公にした物語。いずれも「昭和の日本の妻」を描いたこの二作の映画をめぐり、両映画に出演の蒼井優氏と、『おらおらで~』の原作者である若竹千佐子氏をむかえ、縦横に語っていただいた。

 

ふたりの「尽くす」妻

若竹 『スパイの妻』を観ました。蒼井さんが演じた役・聡子は、夫の抱える秘密を疑いつつ、夫のミステリアスなところに惹かれる若い妻ですね。戦時中の奥さんとしてはかなり……

蒼井 大胆ですよね。

若竹 うん。全部捨てても夫についていくんだという気迫がすごい。ほとんどの妻はああいうふうにはできなくて、ただ貞淑に従うというのが妻のあり方だった。私は妻の役割を終えてずいぶん時間がたつけど、実はね、私はこれでも可愛いお嫁さんだったんです(笑)。

蒼井 「これでも」なんて、そんなこと言わないでください。

若竹 惚れた男だったから一生懸命尽くしたの。でもそれだけでは満たされないものをいつも抱えていて、自分が学んだものを全然活かしきれていないという気持ちがあった。片方では幸せを感じるけれども、もう片方では自分に対して消化不良だったんだね。その不満は私固有のものだと思わなかった。専業主婦の多い時代で、夫を支えて、自分の夢は子どもに託す、そういう生き方を多くの女性がしていたから。

蒼井 ええ。

若竹 それが夫が亡くなって、私は悲しみと一緒に自由も感じたの。これからは自分の内面にいる自由な人間と対話しながら生きていこうって。そこから『おらおらでひとりいぐも』を書いていったんだけど。蒼井さんはいま新婚時代で、しかも女優さんという仕事もしていて、社会性がもてるでしょう。女性として素晴らしい生き方だと思うの。

蒼井 母が言っていたことがあるんです。「私は実家暮らしで、その頃は◯◯さんの娘さんと呼ばれてた。お父さんと結婚したら◯◯さんの奥さん。あなたたちが生まれたら、◯◯ちゃんのお母さん、◯◯くんのお母さん。お父さんはずっと同じ名前で呼ばれていたのにね。だから私は会社に勤めたとき、個になれた気がしたの。個になったことが嬉しくてしかたなかったのよ」。私はそれを聞いてびっくりしたんです。私も母をお母さんとしてしか見ていなかったから。それからは母がひとりの人として見えるようになりました。ありがたいことに私も貰ってくれる人がいたから結婚しましたけど、母から教わった感覚は忘れてはいけないと思っています。

若竹 お母さんは私と同年代くらいでしょうか。

蒼井 今年60歳です。

若竹 私より若いけれど、同じ思いをされている。平安時代からそうですもんね。菅原孝標女とかね、女の本名がわからない社会をこの国はずっとやってる。学校のあいだは男も女も同じように勉強して、男女は対等かもしれないと自信をもちながら、でもいざ社会に出てみると女は閉ざされていて、いまも変わっていない。

 

世界の広さに愕然として

若竹 『スパイの妻』の妻は、従順なんだけど、その従順さで相手に突きつけてしまう何かがある。妻が夫の真意にようやく気づいて「お見事!」と叫ぶシーンがありますね。あのとき、妻は夫を好きだったんだろうか。それとも、くそ、一杯食わされた! と悔しかったんだろうか。

蒼井 『スパイの妻』はどの瞬間をとっても観た人が受け取りたいように受け取れると思うんです。だからこれは私の意見に過ぎませんけど、あの役の中にいた私の体感としては、夫は心の底から惚れた男でした。だからその男の手腕を目の当たりにして、もうあっぱれとしか言いようがないし、誇らしさすらあるんです。

若竹 私は最後のシーンでも、妻が「お見事」と言っているような気がした。

蒼井 妻は世界の広さを知ってしまったんですね。すぐ触れられる距離にいると思っていた夫が、どこにも見当たらない。生きているのか死んでいるのかもわからない。夫婦二人で生きていたはずなのに、それは幻想だったのかもしれない。最後のシーンでは、世界の果てしない広さに愕然としました。本当に寂しくてしかたなかったです。ただ、これも私の感覚で、黒沢清監督はまたちがう解釈をされているかもしれないし、観た人によって変わるとも思います。

若竹 蒼井さんは役に感情移入して、自分をその女性と一体化して演じるんですね。

蒼井 私は憑依型の俳優ではまったくないんですけど、演じているときはその役の体感がありますね。

若竹 高橋一生さんが実際の夫みたいな感覚にもなるんですか。

蒼井 本番中だけはなります。でも本番以外の時間にそんな誤解はしないですよ。誤解して、奥さん面して撮影に手作りのお弁当を持ってきたりなんかしたら、いい迷惑ですよね(笑)。

若竹 女優さんって、役柄としていろんな人生を生きられて、すごい仕事ですよね。

蒼井 それほど誇らしい仕事ではないなと思うんです。誰かのお腹を満たすわけでもないし、だれかの命に直接つながるものではないから、どこかで照れ臭さみたいなものがあります。でも、コロナ禍で少し変わりました。2月末から映画館が閉じてしまって、後ろめたさを感じながらも、見逃していた作品をここぞとばかりにネット配信で観たんです。自分は映画をつくっているのに映画館で観ないって、ちょっと後ろめたさがあるんですよ。でも五月に緊急事態宣言が解除されてすぐに映画館に行ったら、映画や舞台からしか得られないエネルギーがあるんだと感じたんです。そのとき観たのは自分の出演作ではなかったから、照れることもなく、いいお仕事だなと思えました。

若竹 映画づくりって、観客に見えているほど派手な仕事じゃないのかな。そうだよね、小説を書くのも地味だもんね。ひとりで机に向かって。

蒼井 作品が完成するまでに、何回くらい読み返すものなんですか。

若竹 何回と言われれば、暗記するくらいですね。私は行き詰まると最初から声に出して読むんです、言葉の調子が気になるから。『おらおらでひとりいぐも』のときは、文章が口からすらすら出てくるくらいまで読んでいましたね。今はすっかり忘れてしまいましたけど。

蒼井 ある程度、起承転結を決めてから書き始めるんですか。

若竹 うん。構想するのは好きなんです。書くのは意外と嫌いなんだけど。

蒼井 物語を書ける方はすごく尊敬してしまいます。自分も書けたら幸せだろうなって。

 

女の過去・現在・未来

映画『おらおらでひとりいぐも』より

若竹 映画『おらおらでひとりいぐも』で桃子さんの若い時期を演じられて、どうでしたか。

蒼井 若い桃子さんを演じた時間よりも、田中裕子さんが演じる桃子さんに声をあてている時間のほうが長かったので、そちらの記憶のほうが鮮明なんです。私は田中裕子さんとお仕事させていただくのが夢だったので。『おらおらで~』のおかげです。裕子さんと共演するって、そうそうできることじゃないので。

若竹 尊敬されているんですね。

蒼井 はい。

若竹 田中さんは私と同年代で、私はもちろんテレビドラマの「おしん」からみてきたんだけど、「女の人差し指」というドラマがすばらしくてね。向田邦子さん原作、久世光彦さん演出で、台詞から流れている音楽から全部憶えてる。撮影中、田中さん演じる桃子さんを見ていてどうでしたか。

蒼井 スタジオの端っこで何回か泣きました。母の未来を見ているような、生きていた頃の祖母を見ているような、自分の老後を見ているような感覚になって、胸がいっぱいになったり、きゅっと苦しくなったり。裕子さんと田畑智子さんの母娘のシーンなんて、どうかこんなことが起きませんように、と願いながら見ていました。

若竹 若い頃は、いつか終わりがくるなんて考えないもんね。その場その場で幸せを感じて、夫と私がいればそれでいい、みたいな感覚で生きていて。

蒼井 私が演じた若い頃の桃子さんは楽しいシーンが多くて、旦那さんと子どもがいて、いっぱい笑ってました。それとの差を感じながら老後の桃子さんを見るから、余計に切なかったです。ただ、老後の桃子さんはとても寂しそうに見えるんですけど、でもそれはどこかで本来の姿だという気もします。

若竹 そうそう、経験を重ねていくなかで変わっていくんですよね。田中裕子さんはすごい女優さんですね。静の役者さんなのかな。無表情に見えながらいろんな想像をさせる。映画のメイン写真の顔も、心にもっている深さがかえって伝わってくる。「寂しさ」の三人組、濱田岳さん、青木崇高さん、宮藤官九郎さんもよかった。

蒼井 現場は本当に楽しそうに撮影していましたよ。

若竹 わたしは原作者だからつい、こんな怪しい3人組を登場させちゃって申し訳ありません、という感じがあったんだけれども、3人が心からの笑顔で演じてくれていた。映画の人たちはすごいなって思ったよ。

蒼井 沖田修一監督のアイデアがどんどん溢れていましたね。映画『おらおらで~』は監督がお母さまに宛てたラブレターでもあったし、田中裕子さんに対するラブレターでもあったと思うんです。きわめて個人的なもののほうがお客さんに届きます。

若竹 沖田監督がお母さんを尊敬しているというのがよくわかりました。前に沖田監督と対談したことがあって、「お母さんはどんな感想でしたか」と訊いたら、「修一がつくった映画のなかでいちばんいい、って褒めてくれました」と言っていて。「修一が」という言い方がね、親子の間柄を感じさせて。若い桃子さんがお風呂上がりの家族とわあわあやっているところを、年をとった桃子さんが見ているでしょう。2つの時間が1つのところにあった。あの画がすばらしいと思ったの。ありきたりの映画だったら、若い桃子さんから老いた桃子さんに切り替えて回想シーンに入っていきそうだけど、すごいね。映画ならではの語り方だし、あれで桃子さんの幻想世界が伝わると思った。

蒼井 そうですね。生活の楽しさも、映画の可笑しみもあって、それから人生の見え方みたいなものもあるのかもしれないですね。

映画『おらおらでひとりいぐも』より

先を行く人

若竹 『おらおらで~』を出版したとき、これは玄冬小説ですと謳ったんだけど、それはちょっとハッタリの部分もあって……

蒼井 玄冬ですか。

若竹 五行思想では人生を四つの季節——青春、朱夏、白秋、玄冬で分けるんですけど、青春小説は若い人たちの小説で、よく書かれるし、よく話題にもなる。その対極にある玄冬小説はそれほど言われない。だから、私は玄冬小説を書きました、って打ち出しちゃったの。

蒼井 宮沢賢治さんの詩と関係があるんですよね。

若竹 そう、「永訣の朝」の一節「Ora Orade Shitori egumo」をもじったんです。

蒼井 「永訣の朝」、大好きな詩です。「おらおらでひとりいぐも」は、わたしはわたしでひとりでいく、という意味なんですよね。

若竹 そうです。老年の女の人のすべてを書いてみたいという気持ちから書いたの。私がこれから行く先だと思ってね。だけどそれは、老人の生き方がどうしたとか、老人を励ますとかは、一切考えてなかったの。でも今の私は、桃子さんに励まされるところがある。年をとって病気をしたりいろいろすると、桃子さんはちゃんとやってるな、ひとりでちゃんと生きるというのはすごいことだなって。寂しさも道連れ、そのなかに喜びがあるって、しみじみ感じる。これは若い頃にはわからない。私も経験を積まないとわからなかった。

蒼井 ばっちゃ(桃子さんの祖母)は目がわるくて、幼い頃の桃子さんはそれをわずらわしく感じてしまって優しくできない。小説でも映画でも、桃子さんはそれを心残りにしていますね。私も似たような思いで後悔していることがあるんです。お祖母ちゃんが認知症になりはじめたときに、それまで私は「ぼける」という状態になった人を見たことがなかったから、お祖母ちゃんについていけなかった。母の更年期のときも同じように、私はなかなか追いつけなくて、どうしてこの人は急に泣き出したんだろうと思ってしまった。しだいに理解が追いついたんですけど、母にも祖母にも、たぶん最初の数ヶ月はつらい思いをさせてしまったんじゃないかって。『おらおらで~』を読んだり撮ったりしながら、そういう記憶を思い出していました。

若竹 先に生きてる人はそういうことで示してくれるんだよね。道連れなのよ。自分が祖母ちゃんの年齢に近づくにつれて、いま私が思っていることはあのとき祖母ちゃんも感じていたことなんだなって思うの。それは言葉じゃない。老いた人はいろんな状況のなかで示してくれて、若い人たちにつなげてる。認知症にしても、死にしても、私が初めて体験することじゃなくて、ずっとずっと前の人たちが営々と体験してきたこと。だから桃子さんは「おらばいでね」と言う。「私ばかりではない」という意味なんだけど、人間はくりかえしくりかえし悲しんで立ち上がって生きてきた。それが年をとるにつれて自然にわかってくる。もしかしたらそれは、言葉より重要なことかもしれないとも思うのよ。蒼井さんのお祖母さんも、認知症の姿を蒼井さんに見せてくれたんだよね。

蒼井 そうですね。いまはそう思えます。

 

静香ちゃんより花沢さん

若竹 『スパイの妻』の聡子も、『おらおらでひとりいぐも』の桃子さんも、誰かに従属して生きていたとも言えるし、それを突き抜けたり解いたりする女でもある。私はやっぱりね、女が我慢しなくていい世の中になってほしい。私は「ドラえもん」の源静香ちゃんより、「サザエさん」の花沢花子さんが好きなのよ。

蒼井 アハハハハって大きく笑う、しっかり者の女の子ですね。

若竹 そうそう。花沢さんには自分を盛らない良さがあるよね。女性差別に関しては医学部の不正入試問題も賃金格差もあったけど、ある意味でそれは表面的なことで、もっとね、女の心に内在化されている女性のイメージを蹴っ飛ばさないといけないよ。いまだに若い女の子がわざとゆっくり甘ったるい声でしゃべるでしょう。女は弱々しく見せたほうが好かれると思って、それで男は「この子は可愛い」とか「この女は俺より劣ってる」とか思って、そうやって惹かれ合ってる。本当は10キロの米を抱えて歩けるのにさ。

蒼井 先日、ヴェネチア国際映画祭の記者会見でヴェネチアと東京を中継でつないだんですけど、現地の記者の人から「『スパイの妻』はフェミニスト的な映画でしたね」と言われました。なぜなら女性が主人公で、女性目線で描かれているから、と。私はそんなふうに思ってなかったから驚いてしまったんですけど、時代が変わっている最中で、皆が敏感になっていると感じます。ベルリン国際映画祭が「男優賞」「女優賞」を廃止して、「俳優賞」に統一すると発表されたのもつい先日のことですし。

若竹 その賞はいいと思う。文芸の世界でも、昔は女流作家と言ったでしょう。そんな枠は壊していかなきゃ。

蒼井 私は演じる側なのでそれほど窮屈さを感じないですけど、プロデューサーや監督たちは大変かもしれません。

 

言葉の多面性

若竹 『風と共に去りぬ』が奴隷制を容認しているとして、米国内で配信を停止されたでしょう。あんなにいい映画が排除されたのが、私は悔しくてね。

蒼井 あの作品を今つくるのは違うと思います。現代に置き換えて描くのも違う。でも過去につくられた作品によって、私たちは時代を知ることができますよね。それを見せないというのは、過去にも今にも蓋をしてしまうこと。

若竹 もったいないし、本末転倒の規制でしょう。人間を豊かにしようとして、かえって窮屈になっているかもしれない。高校の国語の授業で、小説を扱う時間がずいぶん減らされるんですよ。文部科学省が学習指導要領でそう示したんだって。

蒼井 何を勉強するんですかね。漢字の暗記?

若竹 文章を速く読んで処理する能力を鍛えるんだって。情報を仕入れて、それを腑分けして、書類にしちゃうみたいな。文章が情報になっちゃうね。

蒼井 私が通っていた小学校は、国語の授業になると机をコの字形に並べかえるんです。カギカッコの中にある登場人物の言葉をとりあげて、この人はなにが言いたかったのかなって、みんなでディスカッションしてました。「おばあさんは悲しんでいると思う人」「はーい」「おばあさんは怒っていると思う人」「はーい」って手をあげて。私はその授業が大好きだったんですけど、中学に上がったとたん、みんなで話し合うことがなくなって、一方的に習うだけになっちゃって。国語って答えが一つじゃないですよね。みんなで言葉を覚えて、言葉の多面性を知りました。テストで百点を獲ることよりも、そういったことが大事な教科なのに。

若竹 その感性を大切にしたいですね。いま世の中が思いがけない方向に進んでる。私ね、ちょっと勘違いしてたんです。これだけ世界旅行が簡単になって、人も言葉も行き交うようになったから、知らない国の人どうしで友情が育まれると思ってたんですよ。ところが、コロナひとつで鎖国でしょう。鎖国どころか、「東京のひとは来るな」「外国からひとを入れるな」って排除を叫んじゃうのよ。戦争はこんなふうに起きたんだって感じるの。長い間の確執がじわじわと戦争に結びついた、なんて話じゃないのよ。人間の心ってぐるっと一気に変わるんだ。ぼんやりしていたら取り込まれてしまう。そんな危険を感じるの。蒼井さんがおっしゃったように、言葉とその多面性をじっくり見極めて、手放しちゃいけないと思うこの頃です。

(2020.9.11収録 初出「文藝」2020年冬季号

『おらおらでひとりいぐも』©2020「おらおらでひとりいぐも」製作委員会
監督・脚本:沖田修一 出演:田中裕子・蒼井優・東出昌大他
配給:アスミック・エース
全国公開中

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