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『論語』はこんなにも感動的だった! 物語でわかる論語の世界⑤ 『論語物語』より「渡場」

 

『次郎物語』の著者として知られる下村湖人は、生涯をかけて『論語』を学び続ける中で、『論語』にある孔子の言葉を、短い物語に仕立てました。そうして出来上がった『論語物語』(河出文庫)には、熱心な教育学者でもあった下村湖人と、孔子による弟子への人間味あふれた熱情が組合わさり、歴史に残る「座右の書」が生まれたのです。

今回は『論語物語』(河出文庫)刊行に際しまして、この感動的な物語を現代の皆様にお届けすべく、収録された28話の中から、5話を公開します。
続きは、文字が大きく読みやすい河出文庫版でお楽しみください。

 

 

* * *

渡場わたしば

 

 

 春はまだ寒かった。傾きかけた日が、おりおりかげって、づらは明るくなったり、暗くなったりしていた。

 葉公しょうこうに見切りをつけて、からさいに引きかえす孔子の心は、いくぶん淋しかった。彼は車にゆられながら、眼をとじては、じっと考えに沈んだ。手綱を執っている子路しろは、もう小半時こはんとき近くも黙りこくっている。ほかの弟子たちもずいぶん疲れたらしく、三四さんよん町(約三〇〇~四〇〇メートル)もおくれて、黄色い土埃つちぼこりの中を、とぼとぼと足を引きずっている。

「しばらく休むことにしたら、どうじゃ。」

 孔子は、思い出したように車の中から顔をつき出して、一行の様子を眺めながら、子路しろに云った。

「はあ──」

 子路しろは生返事をした。そして車は相変らず、かたりことりときしりつづけた。

「みんなもだいぶ疲れているようではないか。」

 と、孔子は軽く子路しろをたしなめるような口調で云った。

「もうすぐ渡場わたしばだと思います。」

 子路しろは面倒臭そうな顔をして、ぶっきらぼうに答えた。孔子もそれっきり黙ってしまった。

 それから十五六分じゅうごろっぷんも経ったころ、子路しろは急に自分でぴたりと車をとめた。孔子は、渡場わたしばに着いたのかと思って、顔を出して見たが、そうではなかった。みちが二つにわかれている。子路しろは手綱を握ったまま腕を組んで、じっと前方を見つめている。

「どうしたのじゃ。……休むのか。」

 孔子は半身を車から乗り出して云った。

渡場わたしばに行くみちはどちらだか、考えているところです。」

 孔子は微笑した。そして武骨な子路しろの後姿を黙って見ていた。しかし、子路しろはいつまで経っても、木像のように動かなかった。

「考えたらみちがわかるかね。」

 孔子はふとそんな皮肉を云った。このごろ、子路しろに対してだけは、おりおりこうした皮肉が、軽く彼の口を滑るのである。

 子路しろの顔には、しかし、いつものとおりの反応が現われなかった。彼はやはり前方を睨んだまま、反抗するように答えた。

「わかります、わかると思います。」

 孔子はもう微笑しなかった。彼は、子路しろが心に何か迷いを持っている時、いつも自分に無愛想になる癖を、よく知っていた。

子路しろは、渡場わたしばに行くみちのことだけを考えているのではない。)

 孔子はそう思った。そして、子路しろが何を迷っているかも、ほぼ見当がついた。

子路しろとしては無理もない。彼は、淋しく旅をつづけるには、弟子たちの中でも一番不似合な男なのだ。)

 しかし、孔子は口に出しては何とも云わなかった。彼は、あわれむような眼をしばらく子路しろの横顔に注いでいたが、やがて眼を転じて、みちの附近を見まわした。左手に墓らしい小高い丘があって、すぐその手前に、二人の農夫がせっせと土をいじっている。みちから一町(約一〇〇メートル)とは隔っていない。

 彼は急ににこにこしながら子路しろに云った。

「考えているより、たずねた方が早くはないかね。ほら、あそこに人がいる。」

「はあ──」

 子路しろは、やっと孔子の方を振りむいた。彼は孔子に何を云われたのか、はっきりしなかったかのように、きょとんとした顔をしている。

「すぐ行って、渡場わたしばたずねておいで。手綱はわしが握っている。」

「恐れ入ります。」

 子路しろは、いかにも狼狽うろたえたように、何度も頭を下げた。そして、孔子の手に手綱を渡すと、大急ぎで二人の農夫のところに走り出した。その後姿が何となく可笑しかった。孔子はしかし笑わなかった。彼は、胸の底に何かしみじみとしたものを感じながら、子路しろから眼を放さなかった。

「おうい。」

 と、子路しろは、まだ七八しちはち間(約十三~十四メートル)も手前に突っ立って、大声で農夫を呼んだ。

 農夫は、しかし、顔をあげなかった。子路しろは仕方なしに、更に二三にさん間(約四~五メートル)進んで声をかけた。しかし二人共振りむいて見ようともしない。

 車の中からこの光景を見ていた孔子は、ただの百姓ではないらしいと思った。そして子路しろの無作法な様子が少し気がかりになって来た。

(もし例の隠士いんしだと、子路しろは少し手こずるかも知れない。)

 彼はそう思った。が同時に、子路しろとの間に取交とりかわされる問答を想像して、これは一寸ちょっと面白そうだ、とも思った。子路しろがどんな顔をして帰って来るのか、心配なような、待遠しいような気持きもちになって、彼は相変らず子路しろの様子を眺めていた。

 子路しろの方では、農夫たちがまるで彼の声など耳にも入らぬような風なので、ひどくしゃくさわっていた。彼は、それでも、仕方なしに二人のすぐそばまでやって来た。そして呶鳴どなりつけるような声で云った。

「おい、これほど呼んでいるのに聞えないのか。」

 背のひょろ長い方の農夫が、顔をあげて、じろりと子路しろを見た。そして変にあざけるような笑いをもらしたかと思うと、またすぐ下を向いてしまった。三四さんよん寸(約九~十二センチ)ひげを垂らした、五十恰好かっこうの、どこかに気品のある顔である。それは長沮ちょうそという隠士いんしであった。

 子路しろは、この時はじめて、これはしまった、と思った。で、少し照れながら、急に丁寧に云った。

「いや、これは失礼。……実は渡場わたしばに行くみちがわからなかったものですから……」

 すると、また長沮ちょうそが顔をあげて子路しろを見た。今度はあまり皮肉な顔はしていなかった。しかし、返事をする代りに、道路の方を見遣みやって、そこに孔子の車を見つけると、もう一度胡散うさん臭そうに子路しろの顔を見た。

渡場わたしばの方に行きたいのですが……」

 と、子路しろは少し小腰をかがめながら、ふたたびたずねた。

「あれは誰ですかい。あの車の上で手綱をとっているのは。」

 子路しろは、自分の問いには答えないで、すましきって、そんな事をあべこべにたずね出した相手の横着さに、腹が立ったが、つとめて丁寧に答えた。

「あれは孔丘こうきゅうという方です。」

孔丘こうきゅうというと、孔丘こうきゅうのことですかい。」

「そうです。」

「じゃあ、渡場わたしばぐらい知っていそうなものだ。年がら年中、方々うろついている男だもの。」

 そう云って、長沮ちょうそは、すぐ腰をこごめて鍬を動かしはじめた。そして、それっきり子路しろが何を云っても、おしのように黙ってしまった。

 子路しろは呆気にとられた。

 この間、もう一人の農夫──これは桀溺けつできというずんぐりとした男だった──は、あたりに何が起っているのか、まるで知らないかのような風をして、耕された土に、せっせと種を蒔いていた。子路しろは、長沮ちょうそに比べると、この方が少しは人が善さそうだと思った。で、その方に近づいて行って、もう一度渡場わたしばに行く路をたずねた。

「何、渡場わたしばじゃと……」

 桀溺けつできは顔も上げないで答えた。

「ええ、渡場わたしばに行くんですが、右に行ったものでしょうか、それとも左に……」

「右でも左でも、自分の好きな方に行くさ。」

「どちらからでも同じでしょうか。」

「同じじゃない。」

 桀溺けつできは、そう云ってひょいと顔をあげた。あから顔で、眼が小さくて、ひげはちょっぴりしか生えていない。長沮ちょうそより年は三つ四つ下らしい。

「同じじゃないよ。」

 彼はもう一度そう云って、にっこり笑った。小さな眼が肉に埋もれてしまって、大きな皺のように見える。

 子路しろは何が何やら解らなかった。彼は怒ることも笑うことも出来なかった。すると桀溺けつできは、急に笑いやめて、まじまじと子路しろの顔を見ながら云った。

「お前さんはいったい誰だね。」

仲由ちゅうゆうという者です。」

 子路しろは素直に自分の名を告げた。

仲由ちゅうゆう? そして何かい、やっぱり孔丘こうきゅうの仲間だというわけかね。」

「そうです、門人の一人です。」

「ふふふ──」

 桀溺けつできはだしぬけに笑い出した。それは菎蒻こんにゃく玉が振動して、その割目から湯気を吹き出すような笑い方だった。

 子路しろは、孔子の門人だと答えたのを笑われたので、さすがにきっとなった。しかし、相手は子路しろの様子などまるで気にもとめていないかのように、そっぽを向きながら云った。

孔丘こうきゅうのお仲間じゃ、渡場わたしばがわからないのも無理はない。気の毒なことじゃ。」

 子路しろはとうとう我慢しきれなくなって、腕まくりし出した。

「おッと仲由ちゅうゆうさんとやら、それがいけない。そう腕まくりをして見たところで、物事はかたがつくものではない。それよりか、お前さんはいったい今の世の中をどう考えていなさる?」

 子路しろは、折角せっかくまくり上げた両腕を、だらりとさげて、眼をぱちくりさせた。

何処どこ此処ここも、どろどろの沼みたいになっているのが、今の世の中じゃないかね。え、仲由ちゅうゆうさん。」

「そうです。たしかにそうです、だから……」

「だから渡場わたしばを探していると、お云いかね。そりゃもう、ようわかっとる。だが、どの渡場わたしばも気に入らないのが、お前さんの先生ではないかね。」

 子路しろは、相手が孔子をひやかしそうになったので、また両腕に力を入れた。しかし、彼は心の中で、相手の云うことに何かしら共鳴を感じた。うまいことを云う男だな、と思った。そして、内々自分が孔子に対して抱いている不平を、この男の口をとおして聞いて見たいような衝動しょうどうに駆られた。彼はりきみながら相手の顔を見つめた。

「沼に船をうかべては見たいが、泥水のとばっちりをかぶるのは嫌だ、と云うんじゃ、お前さんの先生も、少々むしがよすぎはしまいかね。今時、何処どこをうろついたって、満足な渡船なんか、見つかりゃしないよ。わかるかね、仲由ちゅうゆうさん。どうせ今の世の中が泥水の洪水見たいなものだとわかったら、なるだけ洪水の来ない山の手に避けているのが一等だよ。洪水だ、洪水だ、とわめき立てて、自分で泥水のそばまで行っちゃ、逃げまわっているなんて、そもそも可笑しな話さ。だい一、見っともないじゃないかね。」

 子路しろは、半ば感心したような、半ば憤慨したような、変な顔をして突っ立っていた。

「おや、そのお顔はどうなすったい。孔丘こうきゅうの仲間だけあって、お前さんも、よっぽど悟りの悪い人間らしいね。そう世の中に未練があっては、話がしにくいが、しかし五十歩百歩ということもある。あの殿様もいやだ、この殿様もいやだというところを、ちょいと一つ飛びこして、この世の中全体に、見切りをつけて見る気にはれないものかね。気楽に高見の見物が出来て、そりゃいいものだぜ。わッはッはッ。」

「しかし……」

 と、子路しろは非常に真剣な顔をして、何か云おうとした。だが、桀溺けつできはもうその時には、そのまるい尻をくるりと子路しろの方に向けて、せっせと種を蒔いていた。そして、それっきり、子路しろが何と云おうと一言も返事をしなかった。

 子路しろは、なぜか、もう腹が立たなかった。彼は、これまでにも、何度か隠士いんしに出会ったことがあったが、今日ほど愚弄ぐろうされたことはなかった。肝心の渡場わたしばは教えて貰えないし、おまけに孔子も自分も、まるで台なしにくさされてしまったので、ふだんの彼なら、黙っては引下れないところであった。しかし、今日の彼は、妙にしんみりとなってしまったのである。

 隠士いんしたちの物を茶化すような態度には、彼も流石さすがに好意が持てなかった。しかし、彼等がいかにも自由で、平安で、徹底しているらしいのに、彼は強く心を打たれた。孔子の持たない、ある高いものを彼等は持っているのだ、とさえ彼には思えたのである。

 彼は黙ってきびすをかえした。

 彼は歩を移しながら孔子の車を見た。そしてその中にしょんぼりと坐っている孔子を想像した時、彼の眼がしらが急に熱くなった。彼は存分に孔子をなじりたいような気持きもちにさえなった。そして一散いっさんに車のところに走りつけた。

 おくれていた門人たちは、すでに車の周囲に集って、何かしきりに孔子と話していた。彼等は子路しろが走って来るのを見ると、話をやめて一斉に子路しろの方に顔を向けた。子路しろは、しかし、彼等の誰の顔も見なかった。彼は乱暴に彼等を押しのけて、いきなり車の窓枠に両手をかけた。

 孔子は微笑しながら、

「どうしたのじゃ、えらくひまどったではないか。」

 子路しろは、しかし、口が利けなかった。彼は何度も拳で荒っぽく眼をこすって、ただ息をはずませていた。

隠士いんしらしかったね。」

 孔子は、子路しろの心を落ちつかせるように、ゆったりと云った。

「そうです。隠士いんしでした。偉い隠士いんしでした。」

 子路しろは爆発するような声でそう云って、孔子の顔をまともに見た。

 孔子の顔は静かではれやかだった。それは子路しろが全く予期しない顔だった。彼はもっとみじめな顔を車の中に見出すはずだったのである。彼はあてがはずれたような気がした。

「ほう、それはよかった。そしてどんな話をして来たかね。」

 孔子にそう云われて、子路しろはすっかり出鼻をくじかれてしまった。存分に自分の意見を交えて、孔子の反省を求めるつもりでいたのだが、もうそれどころではなかった。やっと事実を報告するのが、彼には精一杯せいいっぱいだった。

 孔子は眼をとじ、門人たちは眼を見張って、子路しろの話を聴いた。一通り話がすむと、門人たちは、云いあわしたように顔を見合せた。それから、いかにも不安そうな眼つきをして、めいめいに、そっと孔子の顔を覗いた。

 孔子はやはり眼をとじたまま、しばらく考えに沈んでいたようであったが、深い吐息を一つもらすと、子路しろの方を向いて云った。

「それで、渡場わたしばに行く道は、どちらにするかね。」

 子路しろはぎくりとした。荘厳そうごんな殿堂の中で、神聖な審問しんもんを受けているような気がして、棒のように突っ立った。

「わしは人間の歩く道を歩きたい。人間と一緒でないと、わしの気が落ちつかないのじゃ。」

 と、孔子は子路しろから他の門人たちに視線を転じながら云った。

「山野に放吟ほうぎんし、鳥獣を友とするのも、なるほど一つの生き方であるかも知れない。しかし、わしには真似の出来ないことじゃ。わしには、それが卑怯者か、徹底した利己主義者の進む道のように思えてならないのじゃ。わしはただ、あたりまえの人間の道を、あたりまえに歩いて見たい。つまり、人間同志で苦しむだけ苦しんで見たい、というのがわしの心からの願いじゃ。そこにわしの喜びもあれば、安心もある。子路しろの話では、隠士いんしたちは、こう濁った世の中には未練がない、と云っているそうじゃが、わしに云わせると、濁った世の中であればこそ、その中で苦しんで見たいのじゃ。正しい道が行われている世の中なら、今頃はわしも、こうあくせくと旅をつづけていはしまい。」

 門人たちは、静まりかえって、孔子の言葉に耳を傾けた。子路しろの眼には、いつの間にか涙がいっぱいたまっていた。彼は、その眼を幾たびかしばたたいて、孔子の顔をまじまじとうちまもった。くれ近い光の中に、人生の苦難を抱きしめて澄み切っている聖者の姿を、彼は今こそはっきりと見ることが出来たのである。

「先生、私は先生に対して勿体もったいないことを考えておりました。」

 子路しろは、顔をまともに孔子に向けたまま、ぼろぼろと涙をこぼした。

 孔子は、それに答える代りに、車の窓から手綱を子路しろに渡した。そしてみんなをかえりみながら、ほがらかに云った。

子路しろの好きな方に行ってもらおう。間違っていたら、もう一度引きかえすまでのことじゃ。」

 みんなが思わず笑い出した。子路しろも赤い眼をしながら笑った。

 丁度その時、二人の隠士いんしは、鍬を杖にして、一心にこちらを眺めていた。子路しろには、それがあたかも二つの案山子かかしのように思えてならなかった。彼は嬉しいような、淋しいような気分になって、孔子の車を動かしはじめた。

 どこかでからすあざけるように鳴いた。

 

 

 

* * *


下村湖人『論語物語』(河出文庫)*大好評発売中!

*文庫版には該当箇所の原文も掲載されております。
また本文中、今日の観点から見て差別的と受け取られかねない表現がありますが、作品発表時の時代的背景を考慮し、原文通りといたしました。

 

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著者

下村湖人(しもむら・こじん)

1884年佐賀県生。東京帝大卒業後、教育界で活躍。台湾の台北高校校長となった後、大日本青年団講習所所長として社会教育に尽力する。『次郎物語』のほか、多数の随筆・教育論書がある。1955年逝去。

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