文庫 - 日本文学
なぜ、文庫版『まちあわせ』を『JR品川駅高輪口』(「山手線シリーズ」)として刊行するのか(「新装版あとがき」より)
柳美里
2021.02.10
『JR品川駅高輪口』あとがき
一つの見晴らしとして
文庫版『まちあわせ』(二〇一六年一一月刊行)と『グッドバイ・ママ』(二〇一二年一二月刊行)のタイトルを、当初の『JR品川駅高輪口』(二〇二一年二月刊行)と『JR高田馬場駅戸山口』(二〇二一年三月刊行)に戻す、という選択をした理由を説明させてほしい。
二〇〇三年に発表した「山手線シリーズ」第一作の「山手線内回り」は、山手線に飛び込んで死のうと思っている女が、駅構内のトイレでオナニーをして、また山手線に乗って、別の駅で降りてオナニーをする、という筋書きのない短編小説で、人生から締め出された主人公の行き先の無い性と死を描いた。
この「山手線内回り」に、その後に書いた四作品の主人公たちは既に登場している。
第二作は、夫と別居して独りで幼稚園児を育てる母親が主人公の「JR高田馬場駅戸山口」。
第三作は、妻とは一言も口をきかない証券マンが主人公の「JR五反田駅東口」。
第四作は、集団自殺の仲間を募る自殺サイトの「スレ主」をしている女子高生が主人公の「JR品川駅高輪口」。
第五作が、『JR上野駅公園口』なのである。天皇と同じ日に、福島県相馬郡八沢村(現・南相馬市鹿島区)に生まれた主人公の男性は、十代の頃から出稼ぎを続け、郷里と家族から引き剥がされてホームレスとなる。
わたしは、JR山手線の駅の改札口から放射状に広がるそれぞれの登場人物の人生と、その人生から弾き飛ばされて円の中心に向かうように改札口をくぐり、気がつくと駅のプラットホームという断崖絶壁に立っていた登場人物たちの絶望に付き添った。
山手線は、日本の首都である東京の中心部を走っている環状線で、一周は三十四・五キロメートルで三十の駅があり、約六十分で運行する。平日朝八時台の通勤通学時間には約二分間隔で次の列車がやって来るが、どの列車も満員で缶詰のように人が詰め込まれている。
山手線は、二重円になっている。
時計回りで外側を走るのが「外回り」で、反時計回りで内側を走るのが「内回り」。二重円の中心、ドーナツの空洞部分に位置するのは、天皇が暮らす皇居である。約百十五ヘクタールの面積を有する皇居は、周囲が濠に囲まれていて、一般人が近づいて中を覗くことができない構造になっていて、小型無人機などの飛行も禁止されている。
皇居内には鬱蒼とした森が広がっている。生物学の研究者だった昭和天皇の意向で、一九三七年以降、森林エリアの公園的な管理は中止され、ほぼ自然のままに任せられている。皇居は、東京の中心部でありながら関東平野本来の動植物が保全されているという異空間になっているのである。
「山手線シリーズ」の核となるテーマは、二つある。
一つは、日本国憲法第一条で「日本国と日本国民統合の『象徴』と規定」されている天皇と天皇制である。
もう一つは、二〇一一年三月に東京電力福島第一原子力発電所が起こしたレベル七の事故である。
中心があれば、中心は波紋のような幾重もの圏域を広げ、そこから貧富、運不運、幸不幸という格差が生み出される。
「山手線シリーズ」の主人公たちは全員生き死にの瀬戸際に追い詰められ、プラットホームに立つ。
登場人物が、電車が近づく数分の間に、死を思い留まり、生に引き返すかもしれないという可能性を僅かでも残しておきたかったので、わたしは電車に飛び込むシーンは書いていない。
「危ないですから黄色い線までお下がりください」
という電車の入線を知らせるアナウンスが流れて、物語は終わる。
しかし、第三作の「JR五反田駅東口」を書き終えて、第四作の「JR品川駅高輪口」の主人公の少女には、「どんなに残酷であったとしても、人生は生きるに値する」ということを示したいと思った。
そして、一人の少女を生の世界に引き返らせることによって、第五作の『JR上野駅公園口』は、死の向こう側を書いてみようと思った。過去に存在したものが現在に無い、と感じるのは、わたしたちの感じ方の習慣に過ぎない。過去は、現在と共にこの世界の内部に潜在し続ける。だとしたら、どのような形で存在するのか──、と考えながら書いたのが、『JR上野駅公園口』なのである。
わたしは「山手線シリーズ」を、「山手線内回り」から始まって「山手線外回り」で終わる連作として構想した。
連作としてよりも、独立した一つの作品として読まれた方がいいのではないか、という担当編集者の助言に頷き、当初考えていた駅名をタイトルにすることは断念した。
二〇二〇年十一月十九日(現地時間十八日)に、『JR上野駅公園口』は、モーガン・ジャイルズに『TOKYO UENO STATION』として英訳されたことによって、全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞した。想像を遥かに超える反響があり、日本では三十万部を超えるベストセラーとなり、いま世界各国から翻訳のオファーが殺到している。
わたしは「山手線シリーズ」を連作として読んでもらう絶好の機会だと思い、駅名のタイトルに戻すことを担当編集者に提案し、了解していただいた。
十七年にわたって書き続けてきた「山手線シリーズ」は、今年発表する予定の「JR五反田駅西口」と「山手線外回り(Clockwise)」と、『JR上野駅公園口(TOKYO UENO STATION)』と対になる番外篇「JR常磐線夜ノ森駅(FUKUSHIMA NIGHTWOOD STATION)」の三篇で完結する。
小説家の仕事は、日々刻々とあらゆる出来事が生じ、目や耳に留める間もなく消えていくこの世界から、一人の人物を浮き立たせ、その存在を明るみに出すことである。
山手線という閉ざされた円環への眼差しが、この歪な日本社会への一つの見晴らしとなりますように、とわたしは両手を祈りの形に握り合わせている。
二〇二一年一月一一日
柳美里