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祝! 高原英理『詩歌探偵フラヌール』「みんなのつぶやき文学賞」国内篇第5位記念 特別公開!──短篇「ファントマ博士の翻訳詩講座」
高原英理
2023.03.27
祝! 高原英理『詩歌探偵フラヌール』「みんなのつぶやき文学賞」国内篇第5位記念
特別公開! ―― 短篇「ファントマ博士の翻訳詩講座」
*本短篇は『詩歌探偵フラヌール』刊行時に「特別付録」として、一部書店で配布いたしました。
「あ、これ、知ってる」とメリが言ったのが「アナベル・リイ」という詩。有名だね。でも僕は文語体で読むの初めてだな。
「大江健三郎さんが小説の題名にしてた」
「はい、『﨟たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』ですね。後で『美しいアナベル・リイ』と改題されましたが」と博士。
アナベル・リイ
在りし昔のことなれども
わたの水阿の里住みの
あさ瀨をとめよそのよび名を
アナベル・リイときこえしか。
をとめひたすらこのわれと
なまめきあひてよねんもなし。
わたの水阿のうらかげや
二なくめでしれいつくしぶ
アナベル・リイとわが身こそ
もとよりともにうなゐなれど
帝郷羽衣の天人だも
ものうらやみのたねなりかし。
かかればありしそのかみは
わたの水阿のうらうらに
一夜油雲風を孕み
アナベル・リイそうけ立ちつ
わたのみさきのうらかげの
あだし野の露となさむずと
かの太上のうからやから
手のうちよりぞ奪ひてんげり。
帝郷の天人ばら天祉およばず
めであざみて且さりけむ、
さなり、さればとよ(わたつみの
みさきのさとにひとぞしる)
油雲風を孕みアナベル・リイ
そうけ立ちつ身まかりつ。
ねびまさりけむひとびと
世にさかしきかどにこそと
こよなくふかきなさけあれば
はた帝鄕のてんにんばら
わだのそこひのみづぬしとて
﨟たしアナベル・リイがみたまをば
やはかとほざくべうもあらず。
月照るなべ
﨟たしアナベル・リイ夢路に入り、
星ひかるなべ
﨟たしアナベル・リイ明眸俤にたつ
夜のほどろわたつみの水阿の土封
うみのみぎはのみはかべや
こひびと我妹いきの緒の
そぎへに居臥す身のすゑかも。
「どうですか、日夏訳の『アナベル・リイ』」
「はー、よくわかんなーい」と僕。
「そっす。なんだか難しいけど、でもいい感じ」とメリ。
「いい表現があればよいのです」
「でもこれ、とても意味分かって選べたとは言いにくいです」と僕が言うと、博士が、
「では現代語にしてみましょうか」
「はーい。でも翻訳を現代語訳って」とメリ。
「いいじゃないですか。ここはむしろ古文を味わうつもりで、いきましょう」と博士。
そしてまた、後ろの書棚から『THE POEMS OF EDGAR・ALLAN・POE ILLUSTRATED AND DECORATED BY W・HEATH・ROBINSON』という洋書を取り出してきて、その「ANNABEL LEE」のページを開けながら、こんな説明が。
「わたの水阿」は「わたつみの岬」と考えて、「里住み」はその海のそばにある里に住む、ということですが、原文だと「In a kingdom by the sea, That a maiden there lived whom you may know By the name of ANNABEL LEE;」、海のそばの王国に住む少女、その名を人も知ろうアナベル・リー、とあるだけで「浅瀬をとめ」にあたる語はありません。でも海ベの王国の娘ということを強調しているわけです。
「なまめきあひて」の「なまめく」は形容詞形が「なまめかし」で、「若々しくある、美しくある、優美である」というように使う動詞ですが、「色っぽいことをする」と言う意味もあります。ここはそれでしょう。原文は単純で「Than to love and be loved by me.」ですが、「愛し合っていた」というだけでなく、わざともう少し性的ニュアンスを加えているわけですね。「よねんもなし」は「余念もなし」です。
次の連の「わたの水阿のうらかげや」は原文では何度も出て来る「In this kingdom by the sea」のところで、「海のそばの王国で」の意味のことを少し言葉違わせて言っています。この後、何度も、少しずつ違う言い方にしていますが、原文はどれも「In this kingdom by the sea」です。
「二なくめでしれいつくしぶ」は原文では「we loved with a love that was more than love―」というところですね。「二なく」は「二つとなく」ですから、他にないくらい、といったところ、「めでしれ」は「愛で痴れ」でしょうか。狂わしいほど愛し、ということかと思います。「いつくしぶ」は、いつくしむ、ですね。
「うなゐ」というのはもともと髪を襟首のあたりにたらして切り揃えた子供の髪形をさしますが、そのくらいの年ごろの子供の意味もあります。ここではそちらですね、「もとよりともにうなゐなれども」は、だから、わたしたちはどちらも子供だけれど、と言っています。ここの訳文は原文と位置が逆で、原文では先に「I was a child and she was a child, In this kingdom by the sea:」とあって、「But we loved with a love that was more than love―」と続くわけですが、日夏訳だと「二なくめでしれいつくしぶ」が先に来て「もとよりともにうなゐなれども」が後です。
「帝鄕羽衣の天人」は原文では「the wingèd seraphs of heaven」で、天国の羽根ある熾天使、となります。すると「帝鄕」が天国ということでしょう。
「だも」は「でさえ」という意味の副助詞ですので、「ものうらやみのたねなりかし」に続いて、天使でさえ、さぞ羨む心のもととなることだろう、といった意味。
第三連の「そのかみは」は「long ago」で遠い昔、「一夜油雲風を孕み」は「A wind blew out of a cloud,」なので、雲の間から風が吹いて、ですね。その後に「chilling」とあって、この語は「冷える、ひやっとする」ですから、アナベルが「そうけ立ちつ」すなわち、総毛立ちつ、はうまいと思います。ここの「つ」は完了の助動詞で今なら「た」です。
「あだし野の露」は死ぬことのたとえです。「なさむず」の「むず」は推量・意志・適当・当然のどれかを示す助動詞ですが、ここでは意志を示しています。ですから、「あだし野の露となさむず」は、死なせてしまおう、です。
「かの太上のうからやから」というのは「her highborn kinsmen」にあたるところで、彼女の身分高い一族、を表しています。今は亡くなったアナベルの親族たちということでしょう。その一族が来て、彼女を死の世界へ「bore her away from me」、「手のうちよりぞ奪ひてんげり」です。boreはbearの過去形で「持って行った・運び去った」ですから、「奪ひてんげり」のところです。「……てんげり」というのは「てけり」を強めた言い方で、「てしまった」と言う意味。『平家物語』なんかでよく出てきますね。
第四連の「天人ばら」の「ばら」は複数を示します。「天祉およばず」ですが、もともと「天祉」という言葉があるのかどうかは知りません。ただ「祉」は「幸い」の意味なので「天の幸せが足りない」という意味でしょう。原文は「not half so happy in haeven」で、「天国での幸せは半分もなく」という意味ですが、それは、この私たちの幸せにくらべて、ということです。そのことを「めであざみて」というのは、賞しながら憎み嘲り、というようなことでしょうか。天使たちが私たちを羨み憎んでそのようにした、と捉えます。そしてそのことを「さなり、さればとよ」、そうだ、そうなのだ、と得心するわけで、アナベルが奪われたのは天使たちが嫉妬したからとわかった、ということです。
こうして、「That the wind came out of the cloud by night, Chilling and killing my ANNABEL LEE.」夜、雲間から来た風で、私のアナベルは「そうけ立ちつ身まかりつ」、総毛立ち、そして死んでしまった、となります。風がアナベルを殺した、という原文に対して訳文では、風の寒さによって彼女は亡くなった、という言い方をしています。
第五連の「ねびまさりけむひとびと」の「ねび」は年をとる、老けるの意味の「ねぶ」の連用形で、かつそれがより勝っている、「けむ」は推量の助動詞で、つまり、私とアナベルより齢とっているだろう人々、です「世にさかしきかどにこそと」の「さかしき」は賢い、「かど」は門ですが、ここでは一門・一族。私とアナベルより年取った人も賢い一族も、といったところ。「こよなくふかきなさけあれば」は、私たちにこよなく深い情があるから、という確定条件を示して、「はた帝鄕のてんにんばら」また天国の天使たち、「わだのそこひのみづぬしとて」海の底の水の主であっても、ですね。この「みづぬし」は原文では「the demons」魔物です。「﨟たし」は愛らしい、「みたま」は魂、「やはか」は後と呼応して否定する副詞で「どうして」と反語の意を表します。「とほざく」は遠ざける、「べう」は推量・当然・適当・意志の助動詞「べし」の連用形のウ音便でここでは「べくもあらず」と考えて、のはずもない、の意味となります。そこで「やはかとほざくべうもあらず」は、どうして遠ざけることができようか、と解します。これはつまり、天使も水底の魔物も、私とアナベルを遠ざけることができるか、いや、できはしない、という意味です。
ここも最初のところの順序が原文と違っていて、そのせいでこちらはかなり分かりにくくなっています。原文だと「But our love it was stronger by far than the love」で始めて、だが私たちの愛は遥かに強い、と告げる。そこから、年長者たちよりも賢者たちよりも、と比較、そのあとで天使らも海の魔物らも、「Can ever dissever my soul from the soul Of the beautiful ANNABEL LEE.」、私と美しいアナベルの魂を分かつことはできない、という意味となっています。
最後の連では「月照るなべ」の「なべ」は「なへ」と同じで、するとともに、の意味で、月が照るとともに、あとの「星光るなべ」は、星が光るとともに。
「﨟たしアナベル・リイが明眸俤にたつ」の「明眸」は美しい眼、「俤」は普通「おもかげ」、「俤にたつ」は歌い手自身の心にうかぶといったところでしょう。ここの「が」は現在の「の」と同じです。その上で、明眸と俤の間に「が」を補わないとわかりませんね。
この部分は原文では「For the moon never beams without bringing me dreams Of the beautiful ANNABEL LEE;」というように、月光は美しいアナベルの夢を運ばないことがないのだから、つまり月光は必ずアナベルの夢を私にもたらしてくれるから、ということで、「﨟たしアナベル・リイ夢路に入り」だと、ここも「わが夢路に」と補わないと間違えますね。次の星の光とともにアナベル・リイの美しい眼の俤がたつ、というのも、見ているのは私と考えないとなりません。
「夜のほどろ」は本来、夜明け方の意味なんですが、後の誤用から、夜中、の意味にも使われました。原文では「night-tide」にあたりますが、このnight-tideはnight timeの古い言い方なので、ここでは「夜のほどろ」も「夜中」とします。
「土封」という熟語は私の知る所では辞書にありませんが、「つむれ」というのは小高くなった土地という意味で、ここでは塚ですね。つまり墓のことです。「うみのみぎはのみはかべや」も同じで、海の水際の御墓の傍よ、という繰り返しで、原文で「In her sepulchre there by the sea―In her tomb by the side of the sea.」のところにあたります。sepulchreもtombも墓をさします。原文はここが末尾です。ここも順序を変えています。
「こひびと我妹いきの緒の」の「我妹」は妻の意味です。「いきの緒」は命の意。アナベルを恋人、妻、わが命、と畳みかけています。原文は「Of my darling―my darling―my life and my bride,」でほぼ同じ調子。
「そぎへ」は側、「居臥す」は横たわる、「すゑ」はここでは、成れ果て、くらいに読みましょうか。これにあたる単語は原文にはありません。で、ここが原文では「And so, all the night-tide, I lie down by the side」なので、それで夜中に私は横たわる、わが愛する人、わが命、わが妻アナベルの傍らに、となっています。
こんなところですが、おわかりいただけましたか。
おわかりいただけただろうか、というのは今ではユーチューブでしか見られないずっと以前の心霊番組の決まり文句、なんだけど、もうメリも僕も、すごい授業受けた感。てか異世界に来たみたい。
「よっくわかったす」とメリ。
「ポーは死んだ美少女の話多い」と僕。
「実体験もありますしね」と博士。
なんとか全篇わかったけど、この消費カロリー、ちょっとダイエットなってんかな、といった顔のメリと僕であった。
ほんの少しだけ、明治以来の膨大な言葉の堆積量に触れた感じ。
「古雅といいますかなんといいますか」と僕が、
「でもなーんかさー、ポーの原作より日夏さんの訳の方が難しくなってない?」
「うん、そだね」
「こういう語彙に触れることがよいのです」と博士。
「プラットル・プロジェクトは必ずしも意味がわからなくてもよいのです」
初めて聞く言葉の面白味とか?
「聞いたことのない言葉の戯れに触れる喜びがあれば」
「でも日夏さんってなんすか、これ、呪文?」とメリ。
「日夏耿之介には『咒文』という詩集もあります。自身の詩について『ゴスィック・ローマン詩體』と呼んでいました。訳詩だとその傾向は『大鴉』でより顕著ですね」
(了)