ためし読み - 文庫
ノーベル文学賞受賞記念! ハン・ガン『すべての、白いものたちの』無料公開
ハン・ガン
2024.10.21
2024年のノーベル文学賞は、韓国の作家 ハン・ガンさんに授与されることが決まりました。アジアの女性としては、はじめてのノーベル文学賞受賞者となり、世界中で大きなニュースとなりました。
日本でも大変人気のある作家で、多数の著作が刊行されています。
河出文庫から刊行中の『すべての、白いものたちの』は、アジア初のブッカー国際賞を受賞した『菜食主義者』(cuonから2011年に邦訳刊行)に続き、2度目のブッカー国際賞候補となったハン・ガンさんの代表作です。詩的に凝縮された言葉で書かれた本書は、個人の痛みのむこう側に横たわる歴史的・普遍的な痛みという、著者のテーマがストレートに表れている作品です。
このたび、受賞決定を記念し、本作の冒頭を無料公開いたします。
ハン・ガン作品、どれから読んだらいいかわからない……という方には、個人的には『すべての、白いものたちの』をお勧めしたいです。
詩のように淡く美しく、それでいて強く心をゆさぶる名作です
と、翻訳者の岸本佐知子さんが語る作品。
ぜひハン・ガン1冊目にお読みください。
==↓ためし読みはこちらから↓==
『すべての、白いものたちの』
ハン・ガン
斎藤真理子訳
白いものについて書こうと決めた。春。そのとき私が最初にやったのは、目録を作ることだった。
おくるみ
うぶぎ
しお
ゆき
こおり
つき
こめ
なみ
はくもくれん
しろいとり
しろくわらう
はくし
しろいいぬ
はくはつ
寿衣
単語を一つ書きとめるたび、不思議に胸がさわいだ。この本を必ず完成させたい。これを書く時間の中で、何かを変えることができそうだと思った。傷口に塗る白い軟膏と、そこにかぶせる白いガーゼのようなものが私には必要だったのだと。
けれども何日かが過ぎて、目録を読み返して思った。
何の意味があるのか、この単語たちを眺めることに?
スティールの弦を弓で弾いたら、甲高い音が響く──悲しい音色が、また不思議な音色が。それと同じように、これらの言葉たちで私の心臓をこすったら、何らかの文章は流れ出てくるだろう。けれども、その文章の中へ白いガーゼをかぶって隠れてしまっていいものなのか。
この問いに答えるのは難しいことだったから、私は仕事の開始を延期した。八月、この不慣れな国の首都にしばらく滞在するためにやってきて、家を借りて暮らしはじめた。二か月ほどが過ぎ、寒さがやってきて、私にとっては長いつきあいの重い偏頭痛のために、夜、コップ一杯の水で薬を飲み下したあとで、(淡々と)私は悟った。どこかに隠れるなどとはしょせん、できることではなかったと。
* 埋葬の際に着せる衣裳
時間の感覚が尖ってくるときがある。病気のときが特にそうだ。十三歳のころに始まった偏頭痛は予告なく、胃痙攣とともにやってきては私の日常を停止させる。やっていたことをすべて止めて痛みをこらえるとき、したたり落ちてくる時のしずくの一滴一滴は、かみそりの刃で作った玉のようだ。指先をかすめるだけでも血が流れそうだ。やっとのことで息をしながら一瞬一瞬を生き延びている自分をありありと感じる。日常に戻ってきても、あの感覚がまだそこに息を潜めて私を待ち伏せている。
そのような鋭い時間の角で──時々刻々と形を変える透明な断崖の突端で、私たちは前へと進む。生きてきた時間の突端で、おののきながら片足を踏み出し、意志の介入する余地を残さず、ためらわず、もう一方の足を虚空へと踏み出す。私たちが特段に勇敢だからではない、ほかに方法を持たないからだ。今この瞬間にもその危うさを感じながら、まだ生きられていない時間の中へ、書かれていない本の中へ、私は無謀に分け入っていく。
ドア
もうずいぶん前のことになった。
契約前にもう一度、その部屋を見に行った。
本来は白かったのだろう金属のドアは時間とともに色あせ、汚れ、あちこちのペンキがはがれ、はがれたところが錆びていた。それだけなら、いかにも古びたただの醜いドアだったというだけのことだろう。問題は、「301」という部屋番号がドアに書き込まれた、そのやりかただった。
誰かが──おそらくこの部屋を借りていた人の一人が──錐のような尖ったものでドアの表面を引っかいて、数字を書き入れたのだ。筆順をたどって、私はそれをじっくり調べてみた。指尺で三個分ぐらいの高さがある、大きな、角張った「3」。それよりは小さいが、何度も引っかいて線を太くした、3より先に目に飛び込んでくる「0」。最後に、いちばん深く、精いっぱい力を込めて長々と引っかいた「1」。乱暴に引かれた直線も曲線も赤黒く錆びた傷となり、傷跡から錆び水が垂れ落ち、古い血痕のように固まっている。
惜しいものなど何もない。この住みかも、毎日開けては閉めるこのドアも、やくたいもないこの人生も、私が惜しむことはない。歯をくいしばったような数字たちが、私をにらみつけていた。
それが、私が借りようとしていた部屋、あの冬を過ごすための部屋へと通じるドアだった。
荷物を運び入れた翌日、白いペンキを一缶と大ぶりな平刷毛を一本買った。壁紙を貼っていない台所と部屋の壁にはさまざまな大きさのしみがあった。とくに電気のスイッチのまわりが真っ黒に汚れていた。ペンキがはねても目立たないように、薄いグレーのジャージに古い白いセーターを着て塗りはじめた。小ぎれいに仕上げるつもりは毛頭なかった。むらができても、白なら他の色よりはましだろう。そう思って心を空にして、汚れたところだけを選んで塗っていった。雨漏りでできた天井の大きなしみも塗りつぶしてしまった。薄茶色のシンクの内側が汚れていたのも、雑巾で一度拭いてから真っ白に塗った。
おしまいに、玄関の外に出てドアを塗っていった。傷だらけのドアに刷毛を滑らせるたびに汚れが消えていく。錐で刻みつけた数字たちが消えた。血痕のような錆の跡が消えた。暖かい部屋に戻って休み、一時間後にまた出てみると、塗ったところがむらになっている。ローラーではなく刷毛を使ったので、刷毛目が目立つのだ。刷毛の跡が見えなくなるまで厚く塗り重ね、また部屋に戻った。一時間後、どうなったかと思ってサンダルをはいて出てみると、雪がしんしんと降っている。いつのまにかあたりは暗くなっていた。まだ街灯は灯っていなかった。両手に刷毛とペンキの缶を持ったまま腰をかがめて、何百枚もの羽毛をまき散らしたようにゆっくりと沈んでくる雪片の一つひとつを、その動きを、私はぼんやりと見守っていた。
* 二本の指を伸ばしたぐらいの長さ。
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続きは河出文庫『すべての、白いものたちの』でお楽しみください!
*美しい装丁の単行本版もあります。