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快挙!王谷晶『ババヤガの夜』インターナショナル・ダガー賞にノミネート! 冒頭をためし読み公開。

快挙!王谷晶『ババヤガの夜』インターナショナル・ダガー賞にノミネート! 冒頭をためし読み公開。

王谷晶『ババヤガの夜』が英国推理作家協会(CWA)主催の翻訳ミステリー賞「インターナショナル・ダガー賞」にノミネート!

「焼けつくような暴力と、胸を打つような優しさが交互に訪れる」──The Guardian誌

 

これまで同賞には、横山秀夫『64』、東野圭吾『新参者』、伊坂幸太郎『マリアビートル』などがノミネートされてきましたが、このたび快進撃が続く日本人女性作家の快挙となりました。国境を越えて届いた異色スリラーが、いま世界最高峰の舞台で脚光を浴びています。

ノミネート記念、一気読み必至の”シスター・バイオレンスアクション”王谷晶『ババヤガの夜』冒頭12000字をぜひお楽しみください。

 

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『ババヤガの夜』

 

 日暮れ始めた甲州街道を走る白いセダンは、煙草と血の匂いで満ちていた。

 

 後部座席には派手なネクタイの男と柄シャツの男に挟まれ、長い髪の女がぐったりと項垂(うなだ)れて座っている。あちこち破れたジーンズと安っぽいTシャツ一枚の格好で、だらんと投げ出された手は薄汚れている。車が少し跳ねた瞬間、黄色いTシャツの腹のあたりに粘り気のある血がぼたっと落ちた。男たちは、居心地悪そうな顔でちらちらとそれを見ている。運転している若い男も、信号で停まるたびにバックミラー越しに落ち着かない視線を女に投げる。

 セダンはすぐ前を走るフォードを追走していた。磨き上げられた黒い車体が、点灯し始めた街灯やネオンを受けてぬらぬら光る。強烈な夕焼けの日だった。新宿中のビルのガラス窓が、総身から血を流しているように真っ赤に染まる。

 やがて二台は世田谷の閑静な住宅街に入った。ごちゃついた新宿と同じ東京とは思えない、小綺麗で穏やかな風景が広がる。しかし二度、三度、角を曲がると、唐突に、辺りを威圧するような高い石塀が現れた。隙間なく積まれた白河石(しらかわいし)は人の背丈よりさらに高く、天辺には有刺鉄線まで張られている。何かを覆い隠すためにぐるりと広く張り巡らされたその前で車が停まると、ややあって、物々しい監視カメラが取り付けられた鉄の門扉が開いた。

 石塀の中には、平屋の巨大な屋敷と見事な日本庭園が収まっていた。隅には小さい五重塔まで建っている。車はゆっくりと石畳の道を進み、塔の前のあたりで停まった。

 いつの間にか、どこかから現れた男たちが車を囲むように集まっていた。みな白いワイシャツと揃(そろ)いの色柄のネクタイ姿で、若く、険しい顔をしている。

 フォードの運転席から男が飛び出し、後部ドアを開けた。ぴかぴかに磨き上げられた靴とそれを履いた細長い脚がぬるりと出てくる。葬式帰りのような黒いスーツを着た男が降りた。背が高く、削(そ)いだように痩(こ)けた頬と潰れた耳が目立つ。

 男が顎(あご)をしゃくるとすぐさま白セダンのドアが開き、中の男らがぐったりしたままの女を外に引きずり出し始めた。女は手足が長く、肥(ふと)ってはいないが厚みのあるがっしりした体格で、二人がかりでも運び出すのは容易ではなさそうだった。

 石畳の上に荷物のように無造作に投げ落とされ、女の背中がびくっと跳ねた。しかし、うつ伏せたまま起き上がらない。

「おい、生きてんのか」

 黒スーツの男が言うと、柄シャツが慌てて女の脛(すね)のあたりを強く蹴った。

 掠れた呻(うめ)きが上がる。這(は)いつくばったまま、鰐(わに)のように、女がゆっくりと顔を上げた。頬に血で固まった髪の毛が汚らしく張り付き、鼻の穴からは赤黒い血が流れ、右目の横も切れどす黒く腫れている。

「ひでえブスだな」

 黒スーツの男が鼻で嗤(わら)うと、周りの男たちも追従するように嗤いさざめく。

「起こしてやれ」

 柄シャツが頷(うなず)き、女の左腕を掴んで引っ張り上げた。女は素直にそれにすがり、ふらふらしながら立ち上がる。しかし、

「ぶえっ」

 途端、蝦蟇(がま)を踏み潰したような声が上がった。柄シャツの身体が宙に浮き上がり、ぐるりと回転しそのまま背中から石畳に叩きつけられた。

 男たちがざわめいた。柄シャツはひゅー、と息を細く吐き、そのまま白目を剥(む)いて動かなくなった。

 女は今度はふらつきもせず、その場で仁王立ちになった。掌(てのひら)を開き、腕を広げ、男らをねっとりと睥睨(へいげい)し、かぱっ、と口を開く。血塗(ちまみ)れの歯が覗いた。

 それが自分らを挑発する笑いであることに気付いた白シャツの一人が、顔を歪(ゆが)めて正面から女に飛び掛かった。

「シッ」

 空気を裂くような音が、女の歯の間から漏れた。素早く膝を曲げ、頭を低くし突進する。猪のような強烈な頭突きをもろに腹に喰らった男はあっけなく吹っ飛び、受け身を取る間もなく肩から硬い地面に落ちた。がぽっ、と骨の外れる鈍い音がする。ひっくりかえった悲鳴が上がる。

 一瞬、ためらうような間が空いて、それから他の男たちも女に襲い掛かった。

「シッ」

 右手から飛び掛かった男の喉仏には拳がめり込んだ。声も出せず、息もできず、男はその場に尻もちをつき足をバタバタさせる。左から突っ込んできた男の膝頭には、安全靴の蹴りがぶちこまれた。関節が壊れる嫌な音が怒号の飛び交う中でもはっきりと鳴った。別の男の拳が女の頬を思い切り殴りつける。女はよろけて数歩蹈鞴(たたら)を踏んだが、すぐに姿勢を立て直しボクサーのように両腕で頭をガードした。

「シッ」

 再び殴り掛かってきた男の拳を腕で止め、同時にその股間に鉄板に包まれた爪先を突き刺す。悲鳴。怒鳴り声。ガレージの前に大量の白シャツ男たちが集まってくる。

 男たちは誰もが怒りと緊張で頬を赤くしながら、でもどこか夢でも見ているような表情をしていた。自分の目の前にあるもの、起こっていることが受け止められず、信じられないというふうな。怒りと困惑の中、血塗れの女だけが歯を剥き出しにして笑っている。笑いながら絶え間なく殴り、蹴り続けている。

 野太い罵声に混じって犬の吠え声が聞こえた。白シャツの群れの隙間から黒と茶の塊が飛び出す。太い黒革の首輪を着けた巨大なドーベルマンが、真っ直ぐに女に飛び掛かった。正面から体重四〇キロの突進を受け女が倒れる。すぐさま男たちが群がり、その身体を押さえ込みにかかる。人と犬の唸(うな)り声。布を裂く音。

「おい、殺すなよ。親父への手土産だ。丁寧に扱え」

 黒スーツの男は楽しそうにそれを見ている。日が落ち、夜になった。

 玉砂利の敷かれた瀟洒(しょうしゃ)な庭園の真ん中で、女は四本の刺股(さすまた)で地面に縫い止められていた。それを持つ男たちもみな無傷ではなく、憎々しげに眉間に皺(しわ)を寄せて、地面に這いつくばる女を睨みつけている。女は服も髪もさらにぼろぼろになっていたが、身動きはせず、呻きもせず、うつ伏せたまま静かに呼吸している。靴は脱がされ、引き裂かれたTシャツの下から黒い下着が剥き出しになっているのが手負いの虎のように見える。宵の静けさに、池の鯉(こい)の跳ねる音が響く。

「柳、なんだそれは。女か?」

 酒焼けした声が響いた。庭に面した縁側に置かれた革張りのソファに、縞(しま)の浴衣姿の男が座っていた。六十半ばくらい。でっぷりと腹の突き出た禿頭(とくとう)で、短い猪首(いくび)が撫で肩に埋まっている。

「一応、メスみたいです。例の仕事にいいんじゃないかと思って連れてきました」

 柳と呼ばれた黒スーツの男は、ポケットから古びたオレンジ色の革財布を取り出した。中から免許証を抜き取る。

「新道(しんどう)、依子(よりこ)……歳は二十二。道産子です」

「何者(なにもん)だ」

「事務所の前が騒がしかったんで若い奴に様子を見に行かせたら、これが暴れてたんです。珍しい生き物だったんで、スカウトしてきました」

 柳が言うと、縁側の男が耳障りな声で笑った。はだけた襟元に鮮やかな和彫が覗いている。

「スカウトと来たか」

「ご同行いただくまでビール瓶で二、三発どつかせてもらいましたがね。素性は改めて洗いますが、喧嘩(ゴロマキ)の強さは本物ですよ。玄人を十人いっぺんに相手して平気で立ってやがる。メスじゃなけりゃ、舎弟にしたいくらいです」

「本当に女なんだろうな。最近はナリは女だがチンポが生えてるようなのも多いからな」

「そっちもあとで、じっくり調べておきます」

 男たちから下卑(げび)た嗤いがあがる。

 女──新道依子は、そのやり取りを黙って聞きながら、ただ目線を縁側の男に据えていた。睨むのでも、何かを訴えかけるのでもなく、ただ、見ている。

「調べついでに、奥まで洗って身ぎれいにさせろ。その小汚ねえなりのまま、あれの前に出すなよ」

 縁側の男はそう言うと大儀そうに立ち上がり、家の中に引っ込んで行った。すぐさま黒子のように現れた白シャツの若い男たちが、灰皿や椅子の片付けをする。

「おい、ホース持ってこい。水出せ」

 庭のどこかから引っ張られてきたホースを掴むと、柳は逬(ほとばし)る冷たい水を新道にばしゃばしゃと掛けはじめた。

「なんだ、大人しいな。いいかげん観念したか?」

 勢いよく放たれる水流が血塗れの顔にぶち当たる。新道は口を開けて、うまそうにその水をごくごくと飲んだ。柳が笑う。

「たいしたタマだな。それとも頭が足りなくてどうなってるのかも分からねえのか」

 水が止まる。冷水で洗われた顔は血こそ取れたが、乱闘で喰らった新しい打撲傷でますます腫れあがり、元の人相を想像するのも難しい。

「バカならそのほうが都合がいい。いいか、依子ちゃん。お前は今日からこのお屋敷で働くことになった。嫌なら今すぐここで殺す。分かるか」

 新道は黙ったまま、こくりと頷いた。

「よし。さっきまでのはお遊びだ。今この瞬間から、俺に逆らったらお前は死ぬ。いいな」

 柳はスーツの上着を軽く開いた。腰に白木の鞘(さや)の匕首(あいくち)が挟んである。新道はまた頷いた。

「お前ら、退(ど)け」

 柳が刺股を持つ男たちに合図すると、金属製の戒めがゆっくり新道の身体から離れた。

「立て」

 ふらつきもせず、新道はすっくと立ち上がった。破れた服から覗く肌は真新しい生傷と痣(あざ)だらけだが、痛みを堪(こら)えるような仕草も見せない。

「さっきの話は聞いてたな。脱げ。本当にメスなのか見せてみろ」

 新道は黙って、すでにぼろ布と化していたTシャツを脱いで地面に放った。

「下着もだ」

 黒いブラジャーをためらう様子もなく脱ぎ捨てる。取り囲む男たちの何人かはにやにやと笑っているが、露(あら)わになった乳房より、その下の見事に割れた腹筋が威容を見せていた。Tシャツに隠されていた腕もみっしりと筋肉が付き隆々と盛り上がっている。東大寺南大門の金剛力士像にも似た、巨木を彫り込んで作り上げたような肉体だった。

「パンツも脱げ。そこが肝心だからな」

 柳から目を逸(そ)らさず、新道はボタンフライのジーンズを脱ぎはじめた。黒い下着に包まれた大きな尻と、張り詰めた太股が現れる。男たちの視線がそこに集中した。

 次の瞬間、新道は濡れたジーンズを振りかぶり、鞭(むち)のように柳の顔面に叩きつけた。

「くそっ!」

 濡れた硬い布地が頭を強打する。柳がそれを払いのけるまでの一瞬の間で、新道はまっすぐ前に飛んだ。すがりつくように柳の胸に飛び込み、左手でスーツの襟を取り、右手で腰の匕首を抜き取る。と同時に、今度は柳が動いた。新道の髪を掴んで引き付け、流れるような大外刈りで地面に打ち倒す。そのまま匕首を握った手を蹴り飛ばそうとするが、新道は転がってそれを避(よ)けすぐに身体を起こした。

「いけ!」

 誰かの号令が飛んだ。先刻のドーベルマンが、主人の命令に従い白い牙を剥き出しにし半裸の身体に襲い掛かる。新道は即座に地面に落ちていたジーンズを拾うと、素早く振り回し腕に巻き付け、犬の目の前に突き出した。

 唸り声と共に、犬が濡れたジーンズの上から腕に食いつく。並の人間なら肉が裂け骨が折れることもある力で、絶対に離さないという強い意思で噛み締め続ける。振りほどこうとしても、犬はますます意地になる。

 獣と、獣のような女の目が合った。

 新道は歯を剥き出しにしガァッと吠えた。生き物としてどちらが強いか誇示する。犬は噛み付くのを止(や)めなかったが、その濡れた大きな黒い瞳に一瞬怯(おび)えの色が浮かんだ。しかし四〇キロの重りを付けられ動きの鈍くなった新道の胴体にまた四方八方から刺股が飛んできて、再び地面に這いつくばされる。犬は「やめ」の号令ですぐに嚙み付くのを止め、主の元に戻っていった。

 乱れた髪を手(てぐし)で直しながら、柳が地面に唾を吐く。匕首を握ったままの新道の手首を、革靴で踏みつける。

「お前、キチガイか。ここにいるのは全員モノホンのヤクザだ。死ぬのが怖くねえのか」

 柳の酷薄そうな顔は、面白くて仕方ないというふうな笑みを湛(たた)えていた。

「気安く呼ぶな、ゴミ野郎」

「なんだ、喋(しゃべ)れるのか」

 柳は新道の手首をさらに強く踏んだ。匕首が掌から、からんと離れる。

「お前……なんで犬を刺さなかった」

 新道は顔を歪め、べっ、と血液混じりの唾を吐く。

「西、その犬こっち持ってこい」

 西と呼ばれた白シャツが頷き、首輪にリードを着けられたドーベルマンを引っ張ってくる。柳は匕首を拾い上げた。

「もう一度言うぞ。お前は今日からここで働く。嫌と言うなら、今すぐここで殺す」

 刃先で新道の顔を指す。

「好きにしろ。てめえの言いなりになるくらいなら死んだほうがましだ」

「そうか」

 そう言うと、柳は大人しく尻尾を揺らしながら座っていた犬の首輪を鷲掴み、喉元に刃を押し当てた。新道が目を見開く。

「──やめろ」

 キュウン、とか細い声が上がる。その気になれば人間などひと噛みで殺せる強い生き物が、己の命を脅かされて抵抗もできずに震えている。

「聞こえねえな」

 ドーベルマンの尾が縮こまり、キュウーッと甲高い、恐怖を訴える声が大きくなる。

「やめろ!」

 大きな耳が押し潰されたように平らになり、黒い目が真ん丸に見開かれる。

「殺していいんだな、お前のせいで死ぬぞ、こいつ。可哀想に」

 刃を食い込ませる。犬の濡れた瞳が新道をじっと見つめる。

「言う通りにする」

「なんだって?」

「言う通りにする!」

 ぱっ、と柳が首輪から手を離した。犬はキュウンと鳴くと、哀しげに地面に伏せ、上目遣いで柳を見上げた。その目に怨(うら)みや怒りの色はない。

「男の金玉は潰せてもワンちゃんは可哀想か。優しいねえ、依子ちゃん。いいか、今後俺に逆らったりここから逃げようとしたら、こいつの腹かっさばいて、生きたまま生皮を剥ぐ。お前の目の前でな」

 そう言うと、柳は血の付いていない匕首を腰の鞘に戻した。

 顔が映りそうなほど磨き上げられた渡り廊下の上で、新道は一人で正座していた。赤茶けた髪は事務用の輪ゴムで後ろにひっつめられ、サイズの合っていないぶかぶかの白いシャツと黒いパンツを身に着けている。顔には目鼻口以外の全てを覆い隠すくらいガーゼと絆創膏がべたべたと貼られ、出来損ないのミイラのようになっていた。傷の手当てというよりは、ただ怪我を覆い隠しているだけの処置だ。

 白シャツの男──〝部屋住みの若い衆〟から服を借りて着替える間、柳から一方的に説明を聞かされた。ここは関東最大規模の暴力団興津組の直参である内樹會の会長、内樹源造の邸宅で、柳は内樹會の若頭補佐をしている。この邸宅は掃除から飯炊きまで全て下部組織から選りすぐった若い衆たちで賄っているが、ある仕事でどうしても女手が必要になり、新道を〝スカウト〟した、という話だった。

 どんな仕事かはこれから説明するから座って待っていろと言われて、三十分あまり。辺りは暗く、人影もない。一番近い石塀までは二〇メートルほど。その気になればすぐに逃げられる。しかし、新道は動けなかった。

 あのドーベルマンの、絶望したような諦めたようなか細い鳴き声が耳に残ってしまっている。

 犬に罪はない。どんなに外道な人間に飼われていたとしても、犬には、罪はない。あの眼……絶望しているのに自分の命を握っている奴に抵抗もしないあの眼。哀れな呻き。犬はみんなそうだ。どうしようもない人間にも、なぜか忠誠を誓う。

 溜息を吐くと、肋骨(ろっこつ)のあたりが少し痛んだ。折れている感覚は無いがヒビくらいは入ったのかもしれない。今日起きたことを振り返る。

 二つあるバイトのうちの片方、食事の個人配達をするために自転車で新宿に向かい、夕方まで働いた。一旦新大久保のアパートに戻って自転車を置き、汗を流し服を着替えて今度は徒歩で新宿まで出る。食事だけなら近所でもできるが、ついでに映画でも観るかと思ったのだ。しかし歌舞伎町に入ってすぐ、明らかに酒に酔ったチンピラがげらげら笑いながらすれ違いざまに新道の尻を叩いた。即座に踵(きびす)を返し、その男の襟首を後ろから掴んで足を払い顔からアスファルトにぶち落とした。相方が気付かず数メートル歩いていってしまったのがおかしかったが、ほどなく慌てて駆け戻ってきて大振りなパンチを繰り出してきた。避けようと思えば避けられたが、ギャラリーも集まってきていたので、一回は殴られておいたほうが面倒が少ないと思いそれをわざと顔に喰らった。酔いのせいか元々の技量のせいか痒(かゆ)い程度のパンチを受け、その手首を下から掴んで身体の内側に勢いよくひねった。ごりゅっ、とあまり気持ちよくはない感触が伝わり、うまいこと一回で手首の関節が外れる。悲鳴。パニックを起こした男は無事な方の手で腹を矢鱈目鱈(やたらめたら)に殴ってきたので、手を離し蹴り飛ばし距離を取る。野次馬があっという間に増えていた。アスファルトに倒した男は盛大に鼻血を出したままのたのたと転がり呻いている。まだ何発か殴りたかったが、手応えのない相手だし、警察を呼ばれると面倒なので逃げることにした。が、人混みの中から明らかにガラの悪い男が数人出てきて進路を塞がれた。増えた、と思った瞬間蹴りが飛んでくる。さっきのチンピラよりはだいぶましな上段蹴りだ。クソアマ、このブタ等と叫びながら二度、三度と蹴ってくるのを躱(かわ)し、四回目で足を掴まえた。相手は背が低かった。その軸足を踏みつけ動かないようにし、足を肩に担いで勢いよくしゃがみ股関節を強制一八〇度開脚させてやる。産まれたばかりの赤ん坊のような悲鳴が上がった。立ち上がったとき、背中に衝撃を感じた。たぶん飛び蹴りを喰らった。振り向くと蹴った男が着地した瞬間よろけていたのですかさずがら空きの首筋にハイキックを入れる。ぱしん、といい音がした。次に脇腹のあたりが痛くなって、見ると空のワインボトルで横薙(よこな)ぎに殴られていた。おそらく、この時の怪我が今痛んでいる。こんな狭い場所で武器を持ち込まれると分が悪い。見物人にも怪我人が出るかもしれない。逃げ道を探したが、ボトル男が振りかぶってもう一撃入れてこようとしたので正面から顔面に拳を叩き込んだ。取り囲む野次馬たちの隙間から、殺気がいくつも近付いてくる。もっと来る。私に殴られに、もっとやって来る。新道の顔は自然に笑っていた。もっと広い場所で、もっと誰にも邪魔されなかったら、お前ら全員一人残らず相手にしてやれるのに。都会の狭さと人の多さを呪った。そのとき、後頭部にがん、ときつい衝撃を喰らった。先刻の柳の言葉を信じるなら、ビール瓶で殴られた。続けざまにもう一発喰らって、ブラックアウト。

 五月にしては薄寒い夜風が吹き抜けていく。冷たく硬い廊下でじっとしながら、もう一度深呼吸し、じくじく痛む肋骨と後頭部を自分で撫ぜた。

 その時、渡り廊下の先にある木戸が開いた。白シャツの男が億劫(おっくう)そうに手招きしている。立ち上がり、大人しくそれに従った。

 部屋の中に入ると、線香の強い匂いが鼻を刺した。二十畳ほどの広さで、銘木の一枚板の文机を前に先刻の縁側の男──内樹源造があぐらをかいて座っている。その後ろには雄雉(おすきじ)や鷹の剥製と一緒にガラスケースに入った博多人形や金色の五重塔の模型などが無造作に置かれ、いかにも趣味の悪い成金の部屋という雰囲気を醸している。中には柳もおり、四隅には体格のいい白シャツが四人、直立不動の姿勢で立っていた。

「おう、まあ座れや」

 妙に気さくな調子で促され、新道は畳の上に正座した。ぴりぴりした視線があちこちから刺さる。内樹は文机の上にあった缶コーヒーを下品な音を立てて啜(すす)ると、にやっと笑った。

「依子と言ったか。女だてらにえらく腕が立つらしいな。うちの若いのを何人もオシャカにしてくれたそうじゃねえか」

 にやけた顔から出る嗄(しゃが)れ声は、鷹揚さの裏に隠しきれない嗜虐(しぎゃく)性を滲(にじ)ませていた。新道は何も答えず、いつでも立ち上がれるように尻の筋肉に力を入れる。

「極道が堅気の、しかもこんなお姉ちゃんにこてんぱんにやられたなんてことが表沙汰になったら、面子(メンツ)が丸潰れだ。本来なら、その立派な身体で落とし前を死ぬまで払ってもらわなきゃならねえが……」

 身体、に力を入れて発音し、内樹はねばついた眼で新道をじろじろと眺め回す。

「実は、ちょうどあんたのような腕っぷしの強い女を探してたところでな。どんないざこざがあったかは知らねえが、ここはひとつ、水に流して仕事を頼まれてくれねえか。伝法(でんぼう)なお姉さんよ」

 新道は内樹を見つめ返す。獣も人間も同じ。先に目を逸らしたほうが負け犬になる。

「仕事ならもう持ってる」

 そう言うと、内樹はからからと笑った。

「おい、調子に乗るなよ、メスブタ。今すぐその腐れまんこに長ドスぶちこんでやってもいいんだぞ」

 明るい笑顔のままそう言い放つ。柳がじろりと横目で睨んできた。

「仕事の相手を紹介してやろう。──尚子、入れ」

 奥の襖(ふすま)がすっと開いた。

 人形だ、と思った。

 よくできたマネキンが、そこに座っていたように見えたからだ。しかしそれは、当たり前のように音もなく立ち上がり、部屋の中に入ってきた。人間だ。

 少女と言えるくらいの、若い女だった。白い長袖の飾りっ気のないブラウスと紺色の長いスカートを穿(は)き、僅(わず)かに覗く細い足首は野暮ったい肌色のストッキングに包まれている。長い黒髪を一本のおさげに結(ゆ)って背中に垂らし、身体は華奢(きゃしゃ)で、肌は青みがかって見えるほどに白く、子鹿のような黒々とした眼と小さな唇をしている。明治や大正時代の美人画から抜け出てきたような、古風な風体(ふうてい)の美少女だった。

 尚子と呼ばれたその少女は新道に目もくれず、まっすぐに内樹の傍らに行き、また静かに正座をした。巨体の内樹の横で、その姿はますます人形じみて見える。

「一人娘の尚子だ。この春から杉並の白浜女子短大に通わせとる。しかしこのご時世、何かと物騒だからな。毎日の送り迎えとボディガードが必要だ。それをあんたに頼みたい。本当なら己で一日中護(まも)ってやりたいところだが、こう見えても忙しくてなあ」

 内樹の手が尚子の肩をゆっくりと撫でた。大事な娘というよりは、座敷犬を愛(め)でるような仕草だった。尚子は口を開かず、表情も変えず、ただ膝の上に揃えた自分の爪の先を見つめている。その爪も、波に磨かれた桜貝のようにちんまりとしている。

 掃き溜めに鶴というが、その姿はこのあからさまなヤクザ部屋の中でひどく場違いなものに見えた。内樹も、柳も、白シャツも、そして新道も、その身の内から物騒な熱量や欲を発散させている。きれいな言葉で言えば、生命力のようなものだ。少女からは、そういう動物くささが一切感じられなかった。

 新道は部屋に立つ白シャツたちに視線を向けた。尚子が部屋に入った瞬間から、彼らの緊張が高まったのを感じたからだ。誰一人として、この作り物じみて見えるほど美しい少女に視線を向けていない。それどころか、一番若そうな一人などこめかみに脂汗まで浮かせて、必死に尚子とは反対側の何もない空間を凝視している。

「私は、ボディガードなんて、経験がない」

「なに、簡単な仕事だ。尚子に妙な輩(やから)が近付いたらぶちのめせばいい」

「信じられない」

「何がだ」

「あんたらみたいなヤクザが、見ず知らずの人間に身内の命を預けるはずがない。ボディガードができそうな人間なんて、ここにいくらでもいるだろ」

 新道がそう言うと、内樹がにやりと笑った。

「おい、アレ持ってこい」

 また襖が開き、白シャツが漆塗りの箱を持って部屋に入ってきた。大きめの弁当箱ほどのその箱が文机に置かれたとたん、線香の匂いを押(お)し退(の)けるほどの強烈な悪臭が部屋全体に溢あふれた。

「確かに、前はうちの者から適当な男を選んで護衛をやらせていた。しかしそいつがあろうことか、尚子に手を出そうとしやがったのよ。あんた、同じ女として許せねえだろう? 嫁入り前のきれいな身体を穢(けが)す外道なんざよ。それで、年頃の娘の傍に血の気の多い若い男をつけとくわけにはいかねえと思ったのさ。親心ってやつだ。分かるかい」

 内樹が、漆箱の蓋(ふた)を開けた。

「あんたならこういう間違いは起こさずに、尚子を護ってくれるんじゃねえかと見込んでるんだ。どうだ。頼まれてくれるか」

 箱の中には、人間の右手が入っていた。腕時計を嵌(は)めるあたりの位置で切断され、皮膚が黒ずみ一部は腐り溶け、骨が露出している。どろどろしたどす黒い液体が膿(う)んだ皮膚の下から溢れ、朱塗りの箱の中を汚していた。悪臭はますます強くなり、立っていた白シャツの一人が身を折って嘔吐した。しかし、腐った手首をすぐ目の前にしている尚子は、やはり無表情にじっとしている。新道は手首より、そのしんとした顔が気になった。

「おお、顔色ひとつ変えんとは肝が据わってやがる。柳が見初めた女だけあるな。よし、決まりだ。今日から務めてくれや。後のことは柳に任せる」

 内樹はしっしっと犬を追い払うように手を振った。すぐさますっくと柳が立ち上がる。目線で促され、仕方なく新道も後に続いて部屋を出た。

「──まあ、とりあえずこういうことだ」

 部屋を出ると同時に、柳は大きく溜息をついた。

「お前は今日からあの尚子お嬢さんの運転手兼ボディガード。この屋敷に住み込んで、毎日傷一つ付けず学校に送り出し、傷一つ付けず家に帰す。それが仕事だ」

「断ったら?」

「犬を殺す。ついでにお前も。嘘じゃねえのはさっきので分かったろ。それでいいなら俺は止めねえからどこにでも行きな。ただし、どこに行こうが必ずヤサ見つけ出して、犬の臓物と殺し屋を送り届けてやる」

「……ボディガードなんて、やれる気しない」

「犬程度の頭がありゃできる。怪しい奴は全員ぶん殴りゃいい。お前、女のくせに人を殴るのに躊躇(ためら)いがねえだろ。そういう喧嘩馬鹿にはうってつけの仕事だ」

 新道は俯(うつむ)き、小さく舌打ちした。その目の前に煙草が差し出される。

「いらない」

「なんだ、不良のくせに」

 新道は顔をしかめた。ヤクザに不良呼ばわりされる筋合いはない、と言い返そうと思ったが、この不快な男と会話を続けること自体が業腹(ごうはら)だったのでやめた。

 柳は銀色に光るライターでピースに火をつけ、深々と煙を吸い込んだ。吐き出した紫煙の向こうから、じろじろと不躾(ぶしつけ)に新道を見る。

「で、何やってた。空手か。レスリングか。正座慣れしてたな、合気道か? 少林寺って感じではねえな」

 新道は答えない。柳の眉が吊(つ)り上がる。

「……お前、本当だったら、今頃早く殺してくださいと自分からおねだりするくらいの目に遭ってたんだぜ。分かってんのか」

「脅してるつもりか」

「忠告してやってんだよ。あの手がくっ付いてた男もな、たっぷり半月近くかけて嬲(なぶ)り殺しにされたんだ。そういうのを得意にしてる奴がいるんだよ。最後の一瞬まで正気を保って痛みを感じさせたまま嬲り殺すのが大好きな奴が。お前、今日にもそいつに引き渡されててもおかしくなかったんだぜ。それを俺が執り成してやったんだ。命を救ってくださってありがとうございますくらい言いたくなっただろ」

 新道は表情を変えず、夜の空気に溶けていく煙草の煙をただ眺めた。

「気に入らねえな……その歳で、しかも女が、怖いものなんかねえってツラをしてやがる」

「あんたのことは少し怖い」

 そう言うと、柳は面食らったような顔をした。

「柔道をみっちりやってる奴は面倒だ。あんまり相手したくない」

「……その割には、大胆に胸に飛び込んできたじゃねえか」

「階級は私の方が上だ。あんた、七〇キロもないだろ」

 柳はげらげらと笑い出した。

「お前、本当に頭がおかしい女だな。しょうがねえ。拾っちまったからには面倒見るしかねえか。ほれ」

 無造作に取り出された幾枚かの一万円札が、胸元に押し付けられる。

「明日、お嬢さんを学校に送ったらこれで着替えと化粧品でも買ってこい」

「いらない」

 手を払いのけると、柳は一瞬で酷薄な真顔に戻った。

「薄汚ねえなりでお嬢さんの横に立たれちゃ困るんだよ。適当に小綺麗な服を用意しろ。しっかり化粧してそのブサイクなツラもましにするんだ。いいな。甘く考えてると、お前も膾(なます)にされるのを憶(おぼ)えとけ」

 廊下に札をばら撒まき、柳は背を向けて去っていった。

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→続きは河出文庫でお楽しみください!

 

■河出文庫『ババヤガの夜

著者:王谷晶

仕様:文庫判/並製/208ページ

初版発売日:2023年5月9日

税込定価:748円(本体価格680円)

ISBN:9784309419657

出版社:河出書房新社

https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309419657/

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著者

王谷晶

1981年東京都生まれ。著書に『完璧じゃない、あたしたち』『ババヤガの夜』『君の六月は凍る』『他人屋のゆうれい』、エッセイ集『カラダは私の何なんだ?』などがある。

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