ためし読み - ノンフィクション
あなたが疲れるのは、脳が実は、”仕事”と”プライベート”を区別しない器官だから。「楽しくても脳は疲れる」と脳科学者が語る『感情労働の未来』
恩蔵絢子
2026.05.16
脳科学者・恩蔵絢子さんの最新刊『感情労働の未来 脳はなぜ他者の“見えない心”を推しはかるのか?』が話題です。
顧客や患者の満足度を高めるために自分の感情をコントロールし、相手に合わせた感情表現を行う感情労働は、心の負荷が重く、ストレスが溜まりやすいという、あまり良いイメージを抱いていない人が多い概念。
しかし、特に脳の感情に関する動きを中心に研究を続けてきた恩蔵さんによると、「感情労働は必ずしも悪いものではなく、自分も他人ももっと幸福にする感情の動かし方がある」とのこと。
“自意識と感情” を専門とする脳科学者が、現代の「感情労働」に迫った本書に対して、「これまで読んだ本のなかでも、ダントツよかった」「感情について、全く違う見方ができる」「今なぜ自分が息苦しさやもやもやを抱えているのかが、見えてくる」「脳科学の本ですが、感動しました。何度でも読み返したい」など、科学者による本格的な一冊に対しては異例とも言える感想が寄せられています。
今回は、本書でも特に反響と感動の声が大きかった章「感情労働と感情作業は、同じ脳活動」を無料公開いたします。
本書が、あなたの疲れや生きづらさを解決するきっかけとなることを祈っています。

『感情労働の未来——脳はなぜ他者の“見えない心”を推しはかるのか?』
amazon、楽天ブックスほか全国書店・ネット書店で販売中

感情労働と感情作業は、同じ脳活動
感情労働の多い職業として、客室乗務員や集金員以外にも、医師や看護師、また保育士や教師といった子どもに関わる職業や、介護職などが挙げられる。これらの職業に共通するのは「人の面倒をみる」ということである。もちろん、人の面倒をみるというのは、これらの職場だけでなく、家族も大きな役割を果たしている。しかし、仕事でする場合と家庭でする場合は、感じ方は確かに違うところがあるのかもしれない。
介護職の人が「仕事で他人の面倒をみるのと自分の家族の面倒をみるのとは全く違う。なぜなら、これでお金をもらえるのだし、家に帰れば自由になれると思うから。しかし他人に対してはできることが、家族に対してはなぜかできなくなる」と言うのを聞いたことがある。その意味ではアメリカの社会学者アーリー・ラッセル・ホックシールドの言うように、仕事場での感情労働と私的な場での感情作業を区別するのも有効だろう。「仕事場の規則で嫌な顔はしてはいけない」「多くの人の面倒を限られた時間内でみなくてはならない」「他人の命を預からなければならない」「家族からの要望も聞かなくてはならない」「高い技術を身につけなくてはならない」という意味では、プロのほうが大変なところがあり、「他人事としては割り切ることができない」という意味では家族のほうが大変なのかもしれない。
それゆえに、場によって特徴的なものがあることは確かだけれども、この本では、場によらない普遍的な新しい感情労働を脳科学から考えてみたい。
感情労働は、企業に個人の感情が搾取されることで、それは確かに重大な問題を生む。しかし、脳科学から見ると、感情労働を企業に搾取されることに限定する必要はないように思われる。興味深いことに、『管理される心——感情が商品になるとき』(原題The Managed Heart: Commercialization of Human Feeling(1983)石川准・室伏亜希訳 世界思想社 2000年)の中でホックシールドは、仕事場でなく、家庭の中や、友人同士という私的な領域で行われる、相手の気持ちを考えて行動することを「感情作業」と呼んで、「感情労働」とは区別している。なるほど仕事場と私的な場では、種類の違った問題(仕事場で個人の感情規則が定められているという社会問題と、自分から好きな相手の基準に合わせていくという個人の問題)が生じるが、脳から見ると、その方法自体や脳に起こり得る結果は同じなのである。つまり脳は、感情労働と感情作業を区別しない。
そしてホックシールド自身、同書の中で、「最も私的なつながりにおいて感情作業は最も激しい(p78)」のかもしれないと言っている。そして彼女が客室乗務員や集金員の感情労働に注目したのは、それが目につきやすいからにすぎないのかもしれず、「私たちは、感情作業が最も強力に機能する場所、つまり個人的な絆の結合のなか[で、感情作業がどのようになされているのか——訳者補足]を推定するために、一番見やすい場所で感情作業を見つめるのかもしれない(p79)」と述べている。つまり、やっていることは私的な場でも公的な場でも同じだが、公的な場のほうが見えやすいからそちらを見ているだけで、本当に激しく感情が使われている場所は、私的な空間だと言うのである。
社会の中で起こる問題に目を向けるのならば、感情労働と感情作業は異なるのかもしれない。しかし、自分がどのように感情を動かして人に対するか、と自分の脳に目を向けると、感情労働と感情作業に区別はなくなってくるのだ。
実際に今、多くの人が仕事場と私的な場を問わずに「感情労働」という言葉を使うようになっている。仕事場でも、家庭でも、インターネット上でも感情的な無理が続いていて、感情をどうコントロールしたら良いのか、そしてどこへ向かうべきなのか、自分たちの脳に今悩んでいる。それは脳と脳のつながりの問題で、私たちは、今のような不確実な世界の中でどう感じるべきなのか、そして自分が感じたことを多様な人がいる中でどう表出するべきなのかと、正解を探している。
社会学は、私たちの感じ方が実は周りの条件によって決められていることを明るみに出し、私たちを救ってくれる大切な学問である。しかし今、感情労働について企業と自分に限定せずに、脳と脳のつながりで起こる問題として眺めてみることで、自分たちが直面している感情の問題により迫ることができるかもしれない。
みなさんは、子どもの頃転んでもぽかんとしていて、しばらくたってからワッと泣き出したことはないだろうか。子どもは自分がどう感じるべきかがすぐにわからなくて、周りの人の顔を見たり、周りから声をかけてもらったりして、すなわち他人の規則を参照して、やっと自分の感情がわかるということがある。
数十億年前に生物が誕生してから、ずっと生きるか死ぬかの行動の選択をし続けてきたことで、「今どう感じるべきか」ということが私たちに備わってきたのであり、また人間の社会の規則として自分が生まれた後に学んできたことも加わって、それを全て有限な身体に引き受けて、無意識の「今のその人の感じ方」が作られている。感情は個人差があるものであると同時に、感情はみんなのものである部分がある。
例えば私の場合、料理が得意ではないのだが、一生懸命家族(今は父と二人暮らしである)のために料理をした時には、「おいしい」と言ってほしいと思っている。そういう時には「おいしい」と言われる「べき」だと無意識のうちに思っている。しかし、父は何も言わずに食べることが多く、私の不満が噴出してしまうことがある。「なんで仕事から早く帰ってきてまで料理をしたのに、何も言ってくれないの?」というように。しかし、父の世代は、男の人は何があっても「おいしい」などとは口にしなかったものらしい。「こうあるべき」と参照している規則が、私と父の間で違うのである。つまり違う時代に生まれていると、感じ方は違っているのであって、私たちが個人の感じ方だと信じているものが、実はそれぞれの世代の中の感情規則を学んだだけだということは多いのである。私と父のどちらが正しいということはない。そんな時、私たちはどうしたらいいのだろう? みんなのものであることと、個人のものであることをどう調和させたらいいのだろう?
企業の規則に従うことだけが問題なわけではないのだ。自分に近い人にこそ、私たちは自分のことをわかってほしい、相手のことをわかりたいと思うものであり、相手と一体化しようとする。そしてうまくいかなくてぶつかることがある。私的な場は感情の規則から自由であるように見せかけて、相手に合わせたり、自分に合わせさせたり、見えないところで私たちは膨大な感情作業を行っている。
「この状況に対してどう感じたらいいのか」ということは子どもだけではなくて、大人になってからも、ずっと迷い続けるものなのかもしれない。「私はこう感じてしまう」けれども「それって大丈夫?」「それって正解?」というように、私たち大人も他人を参照する。
インターネットやSNSが登場して、日々膨大な人々の意見に出合うようになり、その傾向はますます強くなった。社会的合意から隔たったような感じ方を表明するとSNSで炎上してしまうなど、今までに存在しなかった罰を受けることにもなっていて、このつながりすぎた世界の感情作業に私たちは苦しんでいるのではないだろうか?
感情はいろいろなふうに動くものだ。だから客室乗務員のように常に笑顔で、ネガティブなことは感じてはいけないと言われ続けたら苦しいだろう。集金員のように常に怖い顔をして、ポジティブなことは感じてはいけないと言われ続けるのも苦しいだろう。企業が個人の感情の幅を限定するのは、確かに疲れる感情労働で、私たちはマニュアル通りに動くことで自分も他人もロボット化してしまうのだが、ホックシールドが、このように企業の場で行われている感情労働を詳らかにしてくれたことによって、私たちは今こそ自分たちの感情の働かせ方に光を当てることができるのかもしれない。ホックシールドが感情労働を提唱した1983年から現在の2025年まで、40年以上の時間が過ぎたが、今、私たちは自分たちの感情をどんなふうに使っているだろうか?
例えば一人の子どもがここにいる時に、この子を大切に育てたい、と思う。しかし、子どもは癇癪を起こすことがあり期待する行動を取ってくれないことがある。また子どもが失敗するのを見ていられなかったり、時間的な制約があったりして、なかなか冒険させてあげられないことがある。子どもがゆっくり学んでいくのに任せられないことがある。
その子のやりたいことを尊重しようと思っても、社会の基準は気になるし、つい「こうでなくてはならない」と思い込み、そこからズレていると大人が焦ったり、怒ったりしてしまう。またこちらも忙しく、無限にやることがある中で、子どもにばかり合わせていることは不可能で、こちらの要望に応えてくれない子どもにいらいらしてしまう。
生活に必要なことに追われて、子どもの気持ちは後回しになってしまう。そして自分の気持ちはもっと後回しなのかもしれない。自分のしたいことができないストレスが溜まり、「私はこの子のためにこんなに考えているのに!」と子どもや周囲の人、あるいは関係のない人にまでもストレスを放出してしまうことがあるかもしれない。
人の面倒をみるのは、思い通りにならない一人の人がここにいるということに直面することだと思う。ただ笑顔でいればいい、というのではなく、本当に自分には動かしがたい、本人の動機を持った人がここにいて、自分の動機もある中で、自分はどうしたらいいのかと、ポジティブにもネガティブにも感情を動かすのが、子育てや介護なのだろう。
そしてそのような苦心は、「当たり前」のことと思われて、なかなか感謝されない傾向がある。見えないところで膨大に感情を動かしているのに、それは「評価」とは無縁である場合が多い。むしろ職場では非効率だからと、思い通りにならない一人の人間について悩むなどということは推奨されないのかもしれない。それで言われたとおりに「こういう場合は笑顔」と記号的に感情を使っているうちに、他人のことも、自分のことも、人間扱いできなくなっていく。
それならば、人の面倒をみること、思い通りにならない人と関わることの本当の価値はどこにあるのか、はじめから考え直す必要があるだろう。
次章からは、脳という視点から自分たちの日常の感情の働かせ方を眺め、感情労働と感情作業を区別せず、その本質が理解できるようにしていこう。それは私たちがどれほど自由に生きられるかという問いにつながっていく。
==続きは『感情労働の未来』でお読みください。==

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