ためし読み - ノンフィクション

【無料公開】雪山を滑るパンダ、屋根でスノボするカラス、ボール遊びに夢中なハチ…「遊ぶ」のは人間の専売特許じゃなかった!『生きものは遊んで進化する』【書評で話題】

【無料公開】雪山を滑るパンダ、屋根でスノボするカラス、ボール遊びに夢中なハチ…「遊ぶ」のは人間の専売特許じゃなかった!『生きものは遊んで進化する』【書評で話題】

「動物たちの遊びは隠されていた自然の本質と幸福の源泉を教えてくれる」

——山極壽一氏推薦!(霊長類学者・人類学者/総合地球環境学研究所所長)

 

 動物だって「遊び」が大好き! 飛行機ごっこをするゴリラの親子、スノーボードをするカラス、空きボトルで遊ぶタコ、ボールを転がすマルハナバチ……。

 長年、遊ぶことは人間の専売特許のように思われてきましたが、野生の生きものも、驚くほど多様な遊びを楽しんでいるということが分かってきました。

 生物の心と進化の秘密に「遊び」という視点から迫る、『生きものは遊んで進化する』(デイヴィッド・トゥーミー著 梅田智世訳)より、「はじめに」を一挙、無料公開します。

 

『生きものは遊んで進化する』
デイヴィッド・トゥーミー 梅田智世訳
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はじめに

 

 2020年から2021年にかけての冬は、おおぜいの人が不安を抱え、途方に暮れ、ひとりぼっちだった。わたしたちは画面に話しかけてはまた話しかけ、画面に話しかけるのにうんざりしていた。一日一日がだらだらと続いていく以外の未来を思い描くのは難しかった。
 そんな一月のある朝、ワシントンDCにあるスミソニアン国立動物園が、パンダカメラで撮影した動画をインターネット上で公開した。夜のうちに10センチあまり積もっていた雪のなかで、動物園にいるおとなのジャイアントパンダ二頭、メイシャンとティエンティエンが遊んでいる——転げまわったり、でんぐり返しをしたり、カーブする長い斜面を滑り下りたり。その動画は広く拡散された。友人が友人に、孫が祖父母に、愛犬家が愛猫家に送った。動画を見た多くの人はひどい一年のつらさをひとまず脇に置き、ほんのつかのま、こみあげる幸福感に包まれた。そのパンダの遊びは、わたしたちを安心させてくれた。たんにあたりまえの日常を思い出させるだけでなく(その年は日常への回帰がたびたび話題になった)、数々の苦難にもかかわらず、この世界にはまだあふれんばかりの活力の、それどころか喜びの居場所があるのだと伝える、ありがたい証拠だった。パンダ——とりわけ仰向あおむけで頭から斜面を滑り下りているパンダ——の遊びのようすは、言ってみれば、重力と勢いに進んで身をまかせる行為、最後にはすべてうまくいくという信頼のあらわれだ。その意味では、信念の営みとさえ言える。それは当時のわたしたちが何よりも目にしたいものだった。

 遊んでいる動物は驚きと喜び、さらには畏怖をもかきたてる。にもかかわらず、最近になるまで、科学者は動物の遊びにほとんど注意を向けてこなかった。その見落としっぷりは興味深い。人間、とりわけ人間の子どもの遊びは、一世紀以上もの昔から心理学のサブ分野のひとつになっていた。それ以外の人間の行動——たとえば交配、身づくろいグルーミング、子育てなど——は、別の生物種にも見られる同じ行動、もしくは似た行動をめぐる研究をつうじて解明されてきた。それを思えば、動物の遊びを説明して理論づける本や博士論文、学術論文の重みで図書館の書架がきしんでいるだろうと予想してもおかしくない。ところが、そうはなっていない。動物の別の種類の行動に比べると、遊びにかんする研究の数はごくわずかだ。動物の遊びの専門誌はないし、動物の遊びの便覧や百科事典も、動物の遊び学会も、動物の遊びを専門に研究する部のある大学もない。そして、このテーマだけを扱った本は、120年以上のあいだにほんの5冊しか出ていない。
 いったいなぜ、このテーマはこれほど無視されてきたのか?
 それにはいくつかの理由が考えられる。まず、遊びは定義するのが難しい。これまでに児童心理学から文化人類学までの幅広い分野の研究者により、「遊びとは、あらゆる創造性と革新の基礎である」から「遊びとは、残酷なスポーツであり、からかいであり、競争である」、果ては「遊びとは、人間の暮らしを構造化する手段たる儀式や神話の源である」まで、さまざまな定義が示されてきた(1)。遊びはほかの行動、たとえば探索や求愛などと区別しにくい場合もある。遊びが実際にしっかり定義され、ほかの行動としっかり見わけられたとしても、観察するのはなかなか難しい。なにしろ、遊びをするたいていの動物は一日に数分しか遊ばない。
 科学者が遊びを無視するもうひとつの理由は、動物のどんな行動を遊びと見なすかという問いよりも、科学者のどんな行動を研究と見なすかという問いに関係している。最近になるまで、科学研究を承認して資金を出す委員会や助成機関の多くは、動物の遊びを真剣な調査に値しないものと考えていた。それをだれよりもよく知っていたのが、動物の感情研究の先駆者である故ヤーク・パンクセップだろう。パンクセップは1990年のインタビューで、遊びは「題材としてはどちらかといえば軽薄であり、とるにたらないものだといまだに多くの人が見なしている」と話していた(2)。動物行動学者のゴードン・バーグハートも、動物の遊びにかんする自身の研究をほかの科学者に話しても「おもしろ半分の関心とよくあるペットの話」しか返ってこないのが関の山だといかにも悔しげに述べている(3)。遊びを研究している当事者でさえ、遊びを理解しようと努力しても結局はむだかもしれないとほのめかしている。哲学者のドリュー・ハイランドは1984年の著書『遊びという問題(The Question of Play)』のなかで、遊びを厳密に定義するのは不可能であり、分析となればなおさらなのではないかと疑問を呈した。ロバート・フェイゲンは名著『動物の遊び行動(Animal Play Behavior)』でこのテーマをめぐる研究の検証と考察に500ページ近くを費やしたあげく、遊びは「純然たる美的価値観の問題であり、科学の範疇はんちゆうを明らかに越えている」と述べた(4)
 そうした見解は現実的な影響をおよぼしてきた。動物の遊び研究には財団や学術委員会の助成金をもらえないだろうと考える科学者は、そのテーマを中心に据えた研究計画を練らない。当の財団や学術委員会は、動物の遊び研究にかんする申請が来ないせいで、このテーマには科学者の関心がほとんどなく、したがって出資する価値はないと考え、この分野の助成金をますます出さなくなる。助成金を期待する大学院生を指導する科学者は、どこかほかの分野で学位論文のテーマを探せと助言する。やがて、その大学院生たちが大学でポストを得て、自身の指導する学生に同じ理由から同じアドバイスをする。それが延々と次世代の科学者へ、そのまた次世代の科学者へと続いていく。1980年には、卓越した生物学者で動物行動学者、そして著述家でもあったE・O・ウィルソンが、動物の遊びを研究する難しさをこんなふうに要約している。「これほど定義されず、とらえどころがなく、物議を醸し、流行遅れでさえあると証明された行動学の概念はない(5)」とはいえ、状況は変わりつつある。近年では、発展途上のふたつの研究分野により、動物の遊び研究に新たな弾みがついている。そのうちのひとつが、動物の文化の研究。文化と遊びは密接に絡まりあっており、動物の文化をめぐる理解は、どんなものであれ、動物の遊びをめぐる理解に後押しされる可能性が高い。もうひとつの分野が神経科学だ。脳撮像の新テクニックや新技術(とりわけ陽電子放出断層撮影法と磁気共鳴画像法)のおかげで、神経網のマッピング〔訳註:脳の「地図」を描き、脳の各領域がどのようなはたらきをしているかを明らかにすること〕がますます詳細になっている。いずれはそうした技術により、遊びが脳の化学的特性や神経経路をどう変えるのか、逆に化学的特性や神経経路がどのように遊びを可能にしているのか、その仕組みがわかるときが来るかもしれない。
 

いくつもの謎

 若年成体のワタリガラスは急降下しながら片方の翼をたたんで体を回転させ、その翼をまた広げて逆回転する。飛びながらぐるぐる回転しては仲間どうしで追いかけあい、「急降下爆撃」を仕掛けたり、フェイントをかけるように相手の飛行経路に出たり入ったりする。水族館でのショーのために「テールウォーク」〔訳註:尾の力で水面上に体を垂直にもちあげて立ち泳ぎをする技〕を教えられている仲間を見ていたハンドウイルカは、野生に戻されたあと、自発的にテールウォークをするようになった。研究者らを驚かせたのは、そのイルカが加わった野生の群れの仲間もテールウォークをはじめたことだ。ゾウがぬかるんだ斜面を滑り下りるようすも目撃されている。腹ばいで滑るときもあれば、背中で滑るときもある。ワタリガラスとイルカの行動は、日々の活動の派手なバリエーション、反射神経やスキルの発達、あるいは求愛行動と言えるかもしれない。だが泥すべりは、いかなる想像をもってしても、ゾウのニーズとはまったく無関係のように思える。
 ここに挙げた行動は、どれも遊びだ。そしてそれは、動物行動学者と呼ばれる科学者たちにひとつの問題を突きつけている。この手の行動はエネルギーを費やし、かつ危険をともなう場合もある。そのため、遊びは生存か生殖に役立っているにちがいない、遊びにはひとつまたは複数の適応上の利益があるにちがいない、とたいていの動物行動学者は考えている。なにしろ、とてもたくさんの明らかな不利益があるのだから。だが、その利益とは何かにかんしては、動物行動学者たちの意見は一致を見ていない。
 動物はなぜ遊ぶのかという疑問は、さらに多くの疑問を生む。このテーマは、ひとつの首尾一貫した研究分野というよりは、ゆるく束ねられたいくつもの謎の集まりのように見えるかもしれない。まず、分類上の疑問がある。どの動物が遊ぶのか? 遊ばない動物はどれか? 定義と認定の疑問もある。遊びとは厳密には何か? ある特定の行動がたしかに遊びであり、(たとえば)探索ではないと、どうすればわかるのか? 動物の発達における遊びの役割をめぐる疑問もある。遊ぶ動物が遊ぶのは、一生の特定の時期だけなのか? それから、遺伝と環境にかんする疑問。遊びはどの程度まで本能なのか? どの程度まで学んで身につけるものなのか? さらに、動物の脳や神経系と遊びとの関係にまつわる疑問。神経のどんなメカニズムやプロセスが遊びを可能にする、もしくは遊びを引き起こすのか? 脳のどこか特定の領域が必要なのか? 特定の種類の脳が必要なのか? そして、進化と自然選択をめぐる疑問がある。地球上の長い生命史のどの時点で遊びが最初に現れたのか? 正確にはどんな経緯で進化したのか? そして未来はどうなる? わたしたちがいま目にしている動物の遊びが動物の文化の萌芽ほうがだという可能性はあるのか?
 そんなわけで、動物の遊びはたんなる数ある科学上の謎のひとつではない——謎の集まりであり、たいていの謎とは異なる謎なのだ。科学上の多くの謎——ふたつだけ例を挙げれば、量子もつれやダークマター——の核心にある現象は、どちらかと言えば、わたしたちの日々の暮らしからはかけはなれている。それを研究するためには、特殊な知識と、おそらくは大規模で高価な装置が求められる。一方、動物の遊びはわたしたちの周囲のいたるところにあり、毎日のように目にする。それを研究するのに上級の学位や粒子加速器は必要ない。動物を観察し、注意を払うだけでいい。
 そして、注意を払うに値する理由もある。
 

 
遊びの特徴は自然選択の特徴である

 160年前の発表以来、自然選択による進化というダーウィンの理論は磨きをかけられ、精巧に練り上げられてきた。20世紀にはメンデル遺伝学をもとに進化のメカニズムが解明され、微生物学、発生生物学、そして最近ではエピジェネティクスの知見によって進化論に修正が施されている。それでもなお、進化論の核になる部分は変わっていない。自然選択はひとつのフィルター、もしくは一連のフィルターとしてはたらき、不利な変異を取り除き、有利な変異を次世代に受け継がせる。それにより、世代を経るごとに生物の適応度が上がり、環境にあったものになっていく。
 自然選択には、よく定義された具体的ないくつかの特徴がある。たとえば、自然選択には目的がない。意図も目標もなく*1、ダーウィンいわく「進歩と発展の必要かつ普遍的な法則はない(6)」。また、自然選択は暫定的である。どんな生物であれ、生物の進化とは、ある特定の場所と瞬間に存在するなんらかの条件に対する反応だ。そして、自然選択には際限がない。生物の進化には到達点も終点もない。それを際立たせているのが、『種の起源』の最後の段落——ゆっくりと盛り上がっていき、最後の音が宙にとどまったままけっして完全には消え去らないクレッシェンドのような、あの段落だ。生物はいまもなお「進化しつつある」。『種の起源』はそう結ばれている。
 ここに挙げたあらゆる点で、自然選択は遊びと似ている。これから見ていくように、類似点はほかにもある。あまりにもたくさんありすぎて、自然選択のプロセスをひとつの行動に凝縮できるとしたら、その行動は遊びになるだろうと思うほどだ。あるいは、遊びが典型になりそうな進化上の理論や自然観を選べと言われたら自然選択を選ぶであろうほど、と言ってもいい。
 自然選択は、生物がかかわる重要な活動のひとつというだけではない。生物の本質的な活動、生物をほかのあらゆるものと隔てる活動でもある。生物は多くのことをする。成長し、物質をエネルギーに変換し、いずれは消えて存在しなくなる。しかし、そうした活動は生物に限ったものではない。蠟燭ろうそくの炎や恒星も同じことをしているが、このふたつは生物ではない。生物は蠟燭の炎や恒星にはできないことをしているではないか。そう指摘する人もいるかもしれない——いわく、生物は自己複製する。だが、自己複製する結晶は生物ではない。生物がして、炎や恒星や結晶がしない——そしてできない——ただひとつのこと、それが自然選択による進化なのだ。
 生物のもっとも的確な定義が「自然選択によって進化するもの」であり、かつ自然選択の多くの特徴が遊びと共通しているのなら、それほど大きく論理を飛躍させずとも、このあとの章で提示して展開していく主張に行きつくはずだ。生物そのものが、きわめて根源的な意味において、遊びに満ちているのである。

『生きものは遊んで進化する』
デイヴィッド・トゥーミー 梅田智世訳
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*1 なんらかの存在や主体が選んでいる、つまり選択しているわけではないため、「自然選択」は通常の意味での選択ではない。ダーウィンはみずからの命名に満足しておらず、ダーウィン書簡プロジェクトによれば、1860年6月6日のチャールズ・ライエルに宛てた手紙のなかで次のように書いている。「自然選択はまずい用語だと思いますが、それをいま変更すると、混乱がいっそう深まるだろうと考えています。もっとよいものも思い浮かびません」。ちなみに、適者生存は英国の生物学者で社会学者のハーバート・スペンサーによる造語である。ダーウィンは『種の起源』ののちの版でこの用語を使っている。

続きは『生きものは遊んで進化する』でお楽しみください!

『生きものは遊んで進化する』
デイヴィッド・トゥーミー 梅田智世訳
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著者

デイヴィッド・トゥーミー

マサチューセッツ大学アマースト校英語教授。ライティングや科学史のコースを教えている。著書に『ありえない生きもの――生命の概念をくつがえす生物は存在するか?』(白揚社)など。

梅田 智世(うめだ ちせい)

翻訳者。訳書に、ダレン・ナイシュ『太古の海の覇者 海生爬虫類図鑑』、エリザベス・コルバート『世界から青空がなくなる日』、クライブ・ウィン『イヌはなぜ愛してくれるのか』など多数。

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