ためし読み - 文藝
第59回文藝賞受賞作!日比野コレコ『ビューティフルからビューティフルへ』試し読み
日比野コレコ
2022.11.25
絶望をドレスコードにして生きる高校三年生の静とナナは、「ことばぁ」という老婆の家に毎週通っていて――。まるで日本語ラップのリリックのような鮮やかなパンチラインで、若者の生の切実さを描き出す。第59回文藝賞を受賞した、日比野コレコの注目作!
日比野コレコ
『ビューティフルからビューティフルへ』
ナナ
今まで知らなかったのだが、堕胎のホームページは、整形のホームページと似ている。埋没で二重にする際の正規価格は十万円で、子供を堕ろすのに必要なのもやはりおなじ十万円だった。ホームページには、キャッチーな文字でゼロが五つ並んでおり、「ここをクリック!」とでもいうように、その数字は大きくなったり小さくなったりしていた。ひとりの命と、まぶたのうえの一筋の線は、天秤にかけるとちょうど釣り合う。どちらを選ぶか悩みどころなのは理解できる。ひとりの人間のなかに、ふたつの命があるというのには、卵のなかに黄身がふたつ入っているのと同じ不気味さがあった。子供を堕ろすのにはタイムリミットがあって、それは時限爆弾みたいだなとナナは思ってしまうのだった。
高三のクラスでは、一、二、三、四、五、六、ナナの七人グループだった。ナナはいつも、七人グループのなかの、一と三と、さんにんで固まって行動した。ナナはその仲良し三人グループの二番目だった。でもそれは総合的には、チョキ、グー、グー、でナナがいつもじゃん負けしているみたいな三人組で、なんとか勝とうとして相手のグーをこじ開けてみたところでなかに真珠が入っているのがオチなのだった。
「してるときゴムが外れちゃって、アフターピルをオンライン処方してもらったんだけどさ、あれってお金をクレカで払わなきゃなんないの。それで彼氏にクレジットカードを貸してもらって、名前を大文字で、REN FURUNOって入力してるとき、このひとと結婚しようって思ったんだよね」などと言っていた三の生理開始日が一週間半遅れていた。もしかしたらアフターピルが効かなかったのかもしれない、とかなり真に迫っていた三の妊娠疑惑が、結果として杞憂だったとわかったあの日、みんなで妊娠検査薬の値段を調べながら、プリクラが三枚撮れる、とナナは思ったものだった。その薬はドラッグストアでも手軽に買えるものであることがわかったので、放課後にプリクラを一枚撮って、「これから妊娠検査」と落書きして笑い合った。
妊娠検査薬代を三で割って購入し、ナナたちは腕を組んで、そそくさとドラッグストア前のトイレに入って行った。くすくすくす、とドアの向こうから聞こえてくる笑い声を音姫代わりに、妊娠検査薬の下方の採尿部分に三は尿をかけた。妊娠の可能性を意味する赤い線は出てこなかった、と三は言った。三人は好き放題に手を絡ませながらプリクラ機に突進していく。みんなでもう一度プリクラを撮る。三のスカートから突き出た二本の足はあまりにも細く、生理不順を説明するには十分すぎるほどだった。
ナナには、生きていくなかで、心をここになら置いておける、というような安全な場所がないから、負の感情をぜんぶ受け取ってひとりでため込んでしまう。そしてそのため込んだものはボットントイレ方式で、ナナより弱いものに向かって排泄される。たとえばナナの五歳年下の弟の例がある。小学校高学年にもなると彼は精神的に成長し、姉の言うことなど聞かなくなったが、ナナは小学校高学年から中学生時代にかけて、よく弟に女装をさせて、その写真を撮って楽しんでいた。そして突発的に訪れたその撮影期間は、この姉が精神的に不安定だった時期とぴたり一致している。
妊娠疑惑のことを低い声で話し合う一週間半がハッピーエンドで終わって、三人はまた教室でわいわい騒ぐようになった。その声は前にも増してやたら響いた。もう七月になっていたが、そのころには、クラスの生徒が四十一人から減りに減って、二十八人しかいなくなっていた。不登校の者もいれば、転校する者もいた。その違いはナナにはよくわからない。
ナナたちが最初に始めた軽いいじめは、桜前線みたいに、ばあーっとクラス中に広がって行った。あらゆるグループがいがみ合い、また、グループ内でも抗争が起こった。ナナはまごうことなく、誰かをいじめてきた側の人間だが、そのとき標的となっていた人間の名前も、顔も、性別でさえもう思い出せない。四十一人、ひく、十三人。間引きされたようにクラスのなかはすかすかで、間引きされなかった側の二十八人のクラスメイトは総じて健康的だった。しかし、蹴飛ばして遊んでいた小石の行方を必死で探すことがないように、ナナにとって、クラスから消えた彼らの行く先など、知るよしもなかった。ナナは、一軍でなかったことは一度もない、敗者だったことは、一度たりともないと思う。
でも、去年は最悪だった。そう考えながら、ナナは舌を歯ブラシのようにして歯を磨く。
なんの間違いか、高二のときは陰キャばっかりのごみ箱みたいなクラスに入れられて、パンツをはいたままお風呂に入って、お風呂で自分のパンツを洗わなきゃいけない、みたいなあるあるに耐えた。まだマシなメンバーでグループをつくったはいいけど、誰かの悪口を言ったらすぐ引きやがるし、ノリも悪い。自殺も殺人もできない人間は道化師になるしかないというけど、ほんとうにその通りで、ナナは今年で芸歴十八年の道化師である。このときも、話題もないし気を遣って噓ばかり吐(つ)いて、それでなんっとか人生を回した。あの頃にはもう、ナナの性根の腐敗は、腐ったリンゴ方式で舌の根にまで及んでいた。
いつからか、ナナに四季はめぐってきていない。過食と拒食の繰り返しがナナの季節だ。食べたくないと泣きながら食べたり、食べたいとむせび泣きながら食べられなかったり。高二の頃は過食期で、手にくっきり吐きダコができたが、こんな進学校の勉強オタクの友人たちは、ペン回しダコと説明したら馬鹿みたいに信じた。
ナナの心は硯(すずり)であり、なかには墨汁がなみなみと入っている。ナナは思う。私は、先っぽを墨汁に浸した尻尾を引きずって生きているのだ、と。だから私の大切な日々の記述は余すところなく、戦後の黒塗り教科書みたいになってしまう、ぜんぶがぜんぶ黒歴史になってしまうのだ。
静
馬鹿高校三年三組が、高三の夏休み前まで来て、ちょっとちぎれた! 体育のあいだ、鍵などとっくに壊れているボロ教室に泥棒が入って、総額四万円の被害が出たのだ。長財布をリュックに入れていた生徒はお札をすべて抜き取られていて、静(しず)のように小さいポーチに入れていた者に被害はなかった。警察は呼ばない、学校は治外法権だ、と担任は言った。三万円とすこしを盗まれた男子生徒がひとりいたが、あとはせいぜいひとり二千円くらいの被害だったので、犯人捜しに熱は上がらず、そのことはじきに忘れ去られていった。
学校は治外法権だ、という考え方は─静はその意味をなにひとつ理解していなかったが、絡まった意味なんて中指で巻きとってわたあめにして─なんとなく静を全肯定してくれるように思えた。自分に関することはぜーんぶ、チガイホーケンとやらな気がしたのだ。
そして、このとき、三万円を盗まれたのが、他でもなくダイだった。その隣の席が静だった。ふたりはこの大盗難事件をきっかけにして話をするようになった。
このクラスは、いわゆる軍、みたいな序列が激しく、男女仲も、男子どうし女子どうしのグループ間の仲も険悪なクラスだったから、大っぴらにはふたりで話せなかった。だから親しくなったあとも、ふたりの逢瀬は痙(けい)攣(れん)的なもので、しゃっくりのように突然現れしばらくヒックヒックしてまた突如消えていくようなそんな繋がりでしかなかった。静とダイの疑似デートはなにかが突沸するみたいに不定期で突拍子もなく起こるものだった。だから、静はお忍びデート感覚でダイと接したし、そういう状況は彼女をとてもどきどきさせた。
静は人の困った顔を見るのが好きだった。そして、恋の力で、範馬勇次郎(はんま ゆうじろう)に殺されるのを0コンマ何秒、絶対遅らせられるくらい、ダイのことが好きだった。希望は人間の骨格だって言うけど、ダイの困った顔を見るのが好きで好きでたまらなくて、骨がいっぽん無駄に生えてきそうだった。
その日、「時間が余ったので、数学の授業を一コマまるまる文化祭準備に当ててよいことにする」と、数学の教師は宣言した。自席を離れる者もあったし、ゲームをし合う男子集団もいた。大道具係の静とダイは、仕事がないために教室の廊下側、隣どうしの席でしゃべっていた。
西田くんがガス型過敏性腸症候群だ、という話で盛り上がる。
「なんか早口言葉みたい」と静はきゃっきゃと笑う。
「ガスガタカビンセイチョウショウコウグン、ガスガタカビンセイチョウショウコウグン」とダイは繰り返し、静の笑い待ちをしてからまた話し出す。「だから、あいつの後ろの席にはならんほうがいいよ。ストレスが溜まるたびにガスが溜まって、人前でおならをするのをとめられないんだって。おなら恐怖症っていうやつで、一種の対人恐怖症らしい」
「西田くんってめちゃくちゃ特別な人だよね」
「だろ? あとあいつは、ケツがしぬほど黒い。あいつ、動きの悪いデブだから常にケツに全体重かけて座ってるじゃん、だからお尻周辺がしぬほど荒れるらしい。あれは珍しいよ、パンダレベルだから」とダイが言うと、静はまたけらけら笑う。
「えー、私も話してみたいなあ」と静は感情をこめずに言う。
「やめとけば。あいつエロ漫画ばっか読むくせに女の子恐怖症だからな。共通の話題とかねえだろうし」
「でも私、エロ漫画ですくすく育ったよ」と、静は言ってみた。「私、すごく大事に育てられたから、ゲームもテレビも漫画もインターネットも禁止されてて。本とかも母親のレシピ本とか以外はなくて、おもちゃで唯一家にあったのはね、なんと積み木。LEGOでもないの、ただの木なの」
「じゃあなんでエロ漫画?」とダイは困惑したように訊く。
「私が小二のとき、両親が携帯を替えたの。ふたりとも機械には疎くて、むかしの携帯は家のタンスの奥にしまわれた。私はその携帯をともだちの家のパソコンで初期化して、夜な夜なエロ漫画を読んだってわけ」
「何回も聞くけど、それでなんでエロ漫画?」
「無料の、両親に気づかれないようにふとんのなかで見られる、エンターテインメント性がある媒体がそれしかなかったから。映画を見るのにもふつうの漫画を読むのにも、ゲームするのにもお金も要るしややこしい手順があるし、アプリをダウンロードするにも、そのパスワードがわからないからどうしようもない。だけどエグい創作エロ漫画は、無料で、しかも大量に読めた。解約した携帯ってWi─Fi環境でしか──つまり家でしか使えなかったんだけど、家で携帯が見られるのは、ふたりとも寝静まったあとじゃん。しかも私、お父さんとお母さんと、川の字で寝てたの。だから、寝たふりをして、ふたりの真ん中で、エロ漫画読んでた」
静は、こういうことを話していて、軽い女に思われるのではないか、とそのことだけを心配していた。ダイとは、それがどんな話題にしろ、たくさん喋れるほどうれしいのだけど。こんなことを話してはやっぱりどう考えても軽い女だな、という結論に静は達した。でも、こんな軽い女のなかにある重い内臓を忘るるな、と、せめても椅子とか軋(きし)ませてみる。
「それ、ティーンズラブじゃないよな」とダイは言った。
「なにそれ?」
「恋人どうしのいちゃいちゃ、って感じの、女が読むようなシアワセなエロ漫画」
「あそこから手を突っこんで、子宮をわしづかみにして、その子宮を外に出す」
「え?」
「こう、なんか女の人の身体がトンネルみたいになって、男の人の人さし指がにょきって、彼女の口から出るの」
「それ、エロというかグロじゃない?」
「三本挿しどころか五本挿し」と静は裏ピースした。
「残り二本どこに挿すん?」
「花瓶にでも挿してよ」と、エロ漫画で道徳を暗記した清(きよ)川(かわ)静は首を振って笑った。「でもさ、漫画っていう媒体自体を読むのが初めてだったから、しぬほど面白かったんだよね。コマ割りとか、どんどん服がはだけていっているところから考えると、この順番で読むんだ、とか、なんとなく覚えたりして。ほかにエロ漫画で学んだことは、えっと、例えばさ、ナプキンってびりびりに破って八つ裂きにできるのわかる? ダイはナプキンつけたことないからわかんないかもしれないけど」
ダイは黙ってうなずいた。
「エロ漫画で、私の初潮以前、小学校低学年くらいのときかな。まだかけ算も習ってないような幼いときね。生理中の女の子にむりやり迫るときに、その女の子のパンツから血のついたナプキンを剥がして八つ裂きにするみたいな描写を見たの。そういう捨て方するのが普通なんだなって思っちゃうよね」
ダイは静をじっと見ていた。毒っけが排除された、お人形のような顔だ。
清川静はビックリ箱入りの娘だ。扱い方が仮にあったとして、そんなもの人にバレてたまるか。静は、自分の肩身の狭い狭い人生を、肩幅の広い広いダイの人生にならポテンヒットできるという確信があった。なにかに突き動かされて、障子を舌先で破るみたいなことが、静は、ずっと好きだった。ダイナマイトでコンクリートを爆破するよりも、舌先で障子をつつく方が。予定調和以外のものは、まるごと私のものだ。目の前の信号が赤になって、静はゆっくりと歩き出した。
ビルE
俺はあの頃水(みず)糊(のり)のために生きてた。正確に言うと、ダイがいじめてる西田くんの教科書に水糊をかけるのが俺の存在意義やった。もっと正確に言うと、俺はずっとダイのために生活してた。
ダイがロッカーに閉じ込めて、Aが煽(あお)って、Bがロッカー蹴って、Cが教科書開いて、で、俺が水糊。ロッカーから出てきた西田くんが立ってられんほど大爆笑するまでが一連の流れ。別段、水糊の罪が重いってわけでもなし、西田くんはロッカーに入れられるとアホほど爆笑する、ねじ巻いたら歌い出す人形みたいなクラスメイトやった。
俺らのクラスの黒板の、五分の一くらいはいつもすでに埋まっていた。それがなぜかと言うと、黒板の右下に欠席、遅刻、早退、保健室、の欄があったからだ。もっとも、馬鹿高校ではダルいやら妊娠やらでクラスの人数がどんどん減っていくのはデフォルトやったけど。まず不登校がざっと十人くらいいて、保健室登校もそれなりにいたし、定期的に欠席する者も多かった。そのうえ、不登校のクラスメイトはみな苗字が複雑で、龍造寺、とか池野側とか、黒板の面積をとるものが多かったからだ。田中とか市田とか小林に限って、皆勤賞を誇っていた。俺らの学校には派手な奴は多かったけど、ばちばちの不良は少なくて、そういう奴らは入学当初はそれなりに学校にも来てたけど、今はもうおらんくなった。だからこの学校は俺らの、ダイの王国やった。ダイに「それはダサい」って言われたら、即座にそのなにかはダサいんやってことになった。必死になんのはキショくて、血に塗(まみ)れたへその緒で首を吊るみたいなんがかっこいい。そういうのは、俺らにとってしっくりきた。
ダイは、ガタイがいいって形容できるギリッギリのラインのデブやった。力も強かったし、背も高かったけど、ダイが俺らのなかで一番やった理由は、やっぱりおもしろさ。おもろいけど、俺みたいなお調子者じゃなくて、かっこいい、センスのいいおもしろさ。ダイを筆頭とした俺たちは、おへそでねるねるねるねが作れるか、とか、鹿のウンコゾーン手前でチャリのチキンレースとか、そういうアホなことしかやってなかった。けど、ダイの兄貴が結構マジな暴力団と関係があるかなんからしい。兄貴たちは、目に見えるものが欲しくて、本物の銃を撃ちまくる。ほんまかどうかは知らんけど。でも、ああいう先輩がかっこよくキメる薬とかにはやっぱり憧れてまう。シャーロック・ホームズだってコカインをやるんだ。俺は馬鹿のひとつ覚えみたいに、ていうか、ほんまに馬鹿のひとつ覚えでそう言ってた。
俺もそうやったけど、ダイはヤンキー漫画をよく読んで、お笑いもHIPHOPも格闘技も好きやった。ふたりでヒップホップユニットとかお笑いコンビ組もうって話もしたことある。実際、俺らのグループは家から離れたそれなりに人通りのある駅前で、路上ライブをしてた。サイファーのときもあったし、不恰好なダンスバトルのときも、コピーバンドのときも、漫才のときもあった。どれも真剣にはやってなかったし、誰かに見せる目的のものではなかったから、仲間うちのじゃれ合い─よくて発表会、みたいな感じやった。実際、通行人なんてだれも俺らのことなんか見てなかった。ガンつけたら絡まれそうな不良グループに見えるからな。でも一応、なにをするにも「はじめまして! お洒落なゴキブリでーす」で始めた。いちど、酔ったジジイにそう罵倒されたからだ。俺たちは、はみ出し者だった。でも世界を包みこむようなはみ出し方ができると信じていた。俺たちがどう生きても、蚊(か)帳(や)の外から夢のど真ん中ストライクまでは遠くない。とか言ったのは、やっぱりダイだった。
で、その夜はたまたまサイファーをしていた。サイファーっていうのは、公園とか広場で、スマホとかからビートを流して、アドリブでラップをし合うこと。夏休みに入ったころ、夜十一時くらいやったと思う。五感は時間帯で変化するけど、このときは夜やったから、八小節ごとに流れるスクラッチ音が、真っ赤でハリがある心臓と心臓を擦り合わせてるみたいな音に聞こえた。
十一時の田舎の駅前なんてほとんど人通りはない。明るいもんは俺らの髪色と月、一方、死んでるのは街と、俺らの目だ。三十分に一回くらいの頻度で行き交う電車が駅について、ちらほら人々が降りてきた。それに交じって、遠目からでもわかるくらいかわいい、小顔の女子が、重そうなリュックを背負ってこっちに歩いてきた。左手の中指を英単語帳のしおり代わりにして、右手でスマホを器用に操作していた。こんな夜に、白のスニーカー以外オールブラックで身を包んでいる。
ダイのパートに俺が割り込んだとき、ちょうど女の子は横を通った。「ナポレオンと同じく俺に不可能はない」という趣旨のバースに、俺は、小学生みたいにちょっと声を張り上げて「ナポレオンの辞書に『不可能』の文字はなかったが遺書にはあったらしいで」とアンサーした。
女の子はイヤホンをしていたが、でも間違いなく、スマホを持ったまま、右手を、チョキプラス親指を開いたかたちにして、頭のうえくらいまで上げた。ラップバトルではおなじみの、「いいね!」の合図だ。俺はそれを横目で見、すぐさまその子を追いかけて行った。みんなには、タイプの子を見つけたからナンパしに行ったなあいつ、くらいにしか思われてなかったやろう。実際その解釈も間違いではなかったし、俺らの間でそういうことは度々あったから。
「俺らいまサイファーしてて、審査員してくれへん?」と、前から立ち止まらせるように話しかける。輪のなかにおったら気にならんかったけど、あいつらがじゃかじゃか流し続けるビート音がやたらうるさい。
「そんな資格ないし」と、彼女はこちらを見なかった。
「誰でもできるよ、感覚でかっこよかったほうに手上げてくれたらいいだけやから。さっき君がやってくれたみたいに」
手提げバッグのひもを、細い腕にヘビみたいに巻きつけた女の子は、車通りがまったくないのに、信号を待った。彼女は信号が青になると歩き出して、ナンパ男がまだなにかくだらないことを話しながらついてきているのを横目で見た。それで、横断歩道の白線七つ目くらいにきたところで口を開いた。
「私、親に隠れて、五歳年が離れた弟に、定期的に女装させて撮影会してたから」
「どういうこと? 資格がないって、生きる資格がないってことなん?」と俺が訊くと、女の子は笑った。
「弟は私から話しかけてもらったことがないから、女装は嫌でも、私が自分の方を向いて笑ってるのがうれしかったんだと思う」
そう言って、女の子は手に持っていた単語帳を俺のほうに渡してきた。それで片手が空いたから、イヤホンをケースにしまっている。持たされた単語帳を開くと、すべてのページに、細かい書き込みがある。「これおぼえんのだるい」、とか「ぜったい忘れる」、とか「きーたことある」みたいな文がぎっしり。そういうの書いてたら覚えられるんだよね、と女の子は言った。単語帳の開きの部分に丸文字で、椎(しい)名(な)ナナ、と記名してあるのがふと見えた。
「ナナちゃん、受験生?」と俺は訊く。
「うん、朝八時から夜十時半まで塾行ってる」
「俺も学年で言えば受験生やけど、でもやばない? まだ夏やで」
「でも私、勉強してないから」
「はぁ?」
「今からだって勉強できないし」
「家帰るんちゃうん?」
そうだ、と言われたら送っていくよ、と言うつもりだった。ナナは俺をふしぎそうに見たあと、「毎週金曜日ね、十一時から半時間だけ、日本語を習ってるの。来る?」と言った。
「日本語?」
「うん、日本語教室」と前髪を無造作にピンどめした女の子は笑った。その女の子のアクセサリーは三日月やったけど、きょうの空にピンどめされてるのは、でっかい満月やった。褒められるようなことなんか、俺はたぶんひとつもしたことないけど、自分をまるごと褒められてるみたいな大丸やった。ナナはハーフ顔じゃなかったし、日本語教室ってどういうこと? とか、思いながらも俺は、おくすり飲めたねのぶどう味に混ぜて現実をむりやり飲みこんだ。
【続きは単行本でお楽しみください!】