ためし読み - 文庫

西加奈子さんによる『ハイファに戻って/太陽の男たち』(河出文庫)への文庫版解説を特別公開! 爆殺された伝説のパレスチナ人作家が遺した不朽の名作。

2023年10月7日に行われたイスラム組織ハマスのイスラエルへの奇襲攻撃。そしてこれに対抗するイスラエルの報復攻撃。現在も激しい戦闘が続いており、日々痛ましいニュースが世界に伝えられています。特に被害が大きく出ているのはパレスチナのガザ地区ですが、1948年のイスラエル建国以来70年以上、パレスチナの人々は祖国を失い、激動かつ悲運の歴史の中に生きています。これを受け、いまカナファーニー著『ハイファに戻って/太陽の男たち(河出文庫/2017年6月刊) が注目を集めており、先般緊急重版もいたしました。

そこでこの度、西加奈子さんによる、カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち(河出文庫)の文庫版解説を特別公開します。

 

ガッサーン・カナファーニー
『ハイファに戻って/太陽の男たち』
968円(本体880円) 河出文庫

 

 

『ハイファに戻って/太陽の男たち』文庫版解説

西加奈子

 

 中東について知りたい、と思った。数年前だ。少しの間だけど自分が暮らしていた地域でもあるし、昨今のニュースを見て胸を痛めるたびに、まず彼らの感情を知らないことには何も理解出来ないと思った。
 そういうとき手に取りたくなるのは小説だ。
 もちろん優れたルポルタージュも海外のニュースも、私に「知る」手立てを教えてくれた、おそらくとても正確に。そしてそれは前述のように私の胸をこれ以上ないほど痛ませた。
 でも、何かを「知りたい」と思うとき、その「知る」が情報や知識だけではなく、芯のようなものに触れる感覚を求めているものであるとしたらなおさら、私は小説を読みたい。
 どうしてなのか、と考えることは、そのまま本書について考えることと繫がると思う。『ハイファに戻って/太陽の男たち』はどうして小説でなくては、物語でなくてはならなかったのか。

 

 著者であるガッサーン・カナファーニーは一九三六年、現在占領されたパレスチナの領域内にあるアッカーに生まれた。一九四八年、彼が十二歳のときデイルヤーシン村虐殺事件が起きる。翻訳者の奴田原睦明さんによると、この事件は「イスラエル建国のほぼ一カ月前に生起した見せしめのために仕組まれた虐殺行為で、パレスチナ人はパニックに襲われ、カナファーニーの家族もこの時に難民となってシリアの山村ザバダーニに逃れた」そうだ。それは本書に収録されている「悲しいオレンジの実る土地」に書かれている。
 この短編はもちろん、彼の身に実際起こったことを記しているのだろう。でもやはり、これはルポルタージュではなく、もちろんニュースでもなく、小説である。
 物語は、叔父の息子、つまりいとこにあてた「きみ」という二人称で進む。
 イスラエル軍によるアッカーへの総攻撃の夜、幼い「ぼく」と「きみ」は、事態の深刻さを分からぬまま、ただ周りにいる大人の不穏な空気を感じている。そして翌朝、家の前に停まった大きなトラックに乗り込んだ時、彼らの本格的な「避難」が始まる。
 トラックが進む道の両側はどこまでも続くオレンジ畑だ。馴染んだその景色の中、遠くで銃声が聞こえる。彼らはすべてを捨ててゆかねばならない。着の身着のままトラックに乗り込み、生まれ、暮らした土地を離れるのはどういうことなのか。
 私は彼らの気持ちに寄り添おうとした。必死で想像を巡らせ、巡らせて、そして次の文章に行きあたった。

 

『女達は荷物の間をぬってトラックから降り、オレンジの入った籠を前にすえて、地べたにしゃがみこんでいる百姓の方へ歩いて行った。女達はオレンジを手にして戻って来たが、その時女達の泣く声がきこえた。その時ぼくにはオレンジが、何かとてつもなく重要なもののように思えた。清らかな大粒のオレンジの実が、ぼく達にとって何かかけがえのないもののように思えた』

 

 どこにでもあったオレンジ、生活の糧でもあり、食べ物でもあり、喉の渇きを癒すものでもあり、ときには子供たちの玩具にもなっていたかもしれないオレンジ、ありきたりなその果物が、オレンジが、オレンジ以上のものになる。
 オレンジに象徴されるすべてのものを、彼らは捨ててゆかねばならないのだ。
 それは生活であり、それは思い出であり、それはにおいであり、それは自分達の影であり、声であり、体温である。かけがえのないもの。何にも代えがたいもの。例えばあたたかな私のこの部屋。私のこのにおい、それにまつわる無数の思い出。それらすべてを捨て去る、そんなことが出来るだろうか。それに直面したとき、私は正気でいられるだろうか。
 「避難する」とはどういうことか、「難民になる」とはどういうことか。
 そこには、私たちが想像している以上の悲しみがある。そしてその悲劇は、「きみ」 への呼びかけでより生々しさを増し、私たちに迫って来る。カナファーニーの幼少期の回顧としてだけではなく、小説的試みを加えることで、難民の悲しさがこれ以上ないほど浮き彫りになる。それはきっと、ニュースでは報道されない景色だ。
 イラクのバスラからクウェイトへ密入国をはかった三人のパレスチナ難民の、それぞれの物語が綴られる『太陽の男たち』も、「避難する」という行為においてこれ以上ないほどに悲しい物語になっている。
 興味深いのは、この作品について書かれたファドル・ナキーブの言葉だ。

 

『現実には、多くの難民がクウェイト入国を企て合法にせよ非合法にせよそのほとんどが首尾よく入国し、失敗する者の数は極く少なかったにもかかわらず、何故カナファーニーは敢えて少数の失敗者をとり上げたか』

 

 その疑問にこそ、小説でなくては、物語でなくてはならなかった必然を感じる。
 カナファーニーはニュースや歴史に埋もれる少数者の声を、その叫びを代弁しているのだ。それがたとえ事実でなくとも、たったひとつの事件だったとしても、難民の悲しみ、その真実を伝えるものであるのならば、いや、真実を伝えるためになおさらフィクションであること、物語であることを選んだのだろう。
 そういう点において、『ハイファに戻って』は、より物語の力が強い。
 サイード・Sと彼の妻ソフィアは、避難するために離れたハイファに戻ってくる。一九四八年四月二十一日水曜日の朝以来、実に二十年ぶりだ。
 イスラエルが建国された年、ハイファはイスラエル軍によって攻撃され、結婚したばかりのサイードとソフィアは、命からがら街から逃れた。家には生まれたばかりの子がいたが、戻ってこの手に取り戻すことは出来なかった(捨ててゆかねばならぬものとして、これ以上の苦しみを伴うものがあるだろうか)。
 彼らは新しい土地ラーマッラーに住み、子供をふたり設ける。だがもちろんその子はふたりの子ハルドゥンではないし、そもそもラーマッラーは絶対にハイファではない。
 イスラエル入植後、彼らの家や土地は入植者たちに明け渡された。ふたりの家に住んでいるのはミリアムという女性で、ポーランドからやってきたという。彼女の父はアウシュビッツで亡くなっている。ここにも大きな悲劇がある。
 ミリアムはサイードとソフィアの息子ハルドゥンを養子として引き受け、彼はドウフという名で、ユダヤ人として成長し、ユダヤ人からなる守備軍に参加している。サイードとソフィアは実に二十年ぶりに息子に再会するわけだが、そこではもちろん新たな悲劇が生まれるしかない。
 こうやってあらすじだけを書くと、いささかドラマティックすぎるようにも思うだろうか。でも、この作品を読む頃には私は、「現実に起こっていることがドラマ以上のものである」ことを分かっている。この作品は事実ではないのかもしれないが、この悲しみは紛れもない真実なのだ。実際そういった人生を送った子供が本当にいたかどうかではなく(実際いたのだろうと私は思っている)、住む土地を奪われた者同士、それぞれに背負った悲劇が邂逅するとき、どのような時間が流れるのか。
 サイードは問う。

 

『祖国とは何か? それはこの部屋に二十年間存在し続けたこの二つの椅子のことか? それともテーブルのことか? 孔雀の羽根のことか? 壁に掛けられたエルサレムの写真のことか。扉の留め金のことか。バルコニーか。祖国とは何だ』

 

そして、こう答えを出す。

 

『祖国というのはね、このようなすべてのことが起ってはいけないところのことなのだよ』

 

 これは今もイスラエルで起こっていることだ。イスラエルだけではない、シリアで、イエメンで、ミャンマーで、世界中で起こっていることなのだ。そしてそこで悲嘆に暮れている人、悲劇の最中にいる人たちは、私たちだったかもしれない。オレンジを、椅子を、テーブルを、部屋を美しくしようと飾った装飾品を、写真を、扉の留め金を、バルコニーを奪われたのは私たちだったかもしれない。
 その「私たちだったかもしれない」という想いをこそ、カナファーニーは私たちに求めたのではあるまいか。
 彼は一九七二年、車上で爆死している。彼の車にダイナマイトが仕掛けられていたのだ。三十六年の短い命を終えた彼の意思、「これが、この悲劇が、自分の身に起こったらと想像してくれ」という彼の叫びは、彼の物語の中でずっと体温を保っている。次々飛び込んでくるニュースではなく、移り変わる事件ではなく、物語の中に彼の命が、そして祈りがある。
 つまりこの作品を開くことは、彼の命を譲り受けることに、そして彼と共に祈ることに他ならないと、私は思う。この作品が小説であったこと、物語であったこと、こうしてこの世界に存在すること。ずっと考えていたい。考えることをやめないでいたい。

(作家)

関連本

関連記事

著者

ガッサーン・カナファーニー

1936年パレスチナ生まれ。12歳のときデイルヤーシン村虐殺事件が起こり難民となる。パレスチナ解放運動で重要な役割を果たすかたわら、小説、戯曲を執筆。72年、自動車に仕掛けられた爆弾により暗殺される。

人気記事ランキング

  1. ホムパに行ったら、自分の不倫裁判だった!? 綿矢りさ「嫌いなら呼ぶなよ」試し読み
  2. 『ロバのスーコと旅をする』刊行によせて
  3. 鈴木祐『YOUR TIME 4063の科学データで導き出した、あなたの人生を変える最後の時間術』時間タイプ診断
  4. 日航123便墜落事故原因に迫る新事実!この事故は「事件」だったのか!?
  5. 小説家・津原泰水さんの代表作「五色の舟」(河出文庫『11 -eleven-』収録)全文無料公開!

イベント

イベント一覧

お知らせ

お知らせ一覧

河出書房新社の最新刊

[ 単行本 ]

[ 文庫 ]