ためし読み - 文庫
ガザ虐殺を問うための緊急出版 イスラエル/パレスチナでは何が起きているのか?(2) 『見ることの塩(上・下)』(河出文庫)一部ためし読み
四方田犬彦
2024.04.03
2023年10月7日、ハマスの越境作戦を契機に、イスラエル軍による大規模な復讐戦が展開しました。戦闘開始から半年が経過した今でも、日々痛ましいニュースが届けられ、第二次世界大戦以降の統治体制、宗教や民族の対立など、さまざまな要因が語られています。
この世界史的な悲劇にたいして、小社では四方田犬彦『見ることの塩』を河出文庫から緊急出版しました。本書の前半部は、2004年にイスラエルのテルアヴィヴへ、そして「壁」を越えヨルダン川西岸パレスチナへ、街を歩き、この土地に暮らす人々と対話を重ねた半年間の旅の記録です。
いま、パレスチナ/イスラエルではなにが起きているのでしょうか ―― 本書の冒頭を4回に渡って特別公開します。
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「見ることの塩(上・下)」
四方田犬彦
テルアヴィヴへの到着(2)
地中海の上を滑走していた飛行機は、4時間ほどしてテルアヴィヴの長い海岸線のところまで来ると、急速に高度を下げた。青く美しい海に白いヨットが何艘も浮んでいるのが見える。やがて下方の風景は一面の緑の土地に整然と並ぶ赤い屋根の群れと、黄色いお花畑、それに赤土のうえに白い貝殻を踏み潰したような空地へと変化していった。しばらくして機はベン・グリオン空港に到着した。
イスラエルでただひとつの国際空港であるこの場所は、かつてはヘブライ語でロッド空港、アラビア語でリッダ空港と呼ばれていた。だが日本ではテルアヴィヴ空港という名前の方が有名かもしれない。1972年に日本赤軍に属する三兵士がこの空港に降り立ち、バゲッジクレイムにいた乗客たちにむかって銃を乱射、イスラエル兵士との銃撃戦の結果、多くの死傷者が出たという事件のおかげである。
ベン・グリオンは国際空港とは名ばかりの、ひどく小さな空港だった。東京の羽田空港ほどもないかもしれない。イスラエルは目下新空港を建設中である。この空港が30年以上前のあの事件以後も、いささかも改装されていないことは、すでに聞いていた。わたしはトランクの到着を待つ徒然の間、ひょっとしてどこかにあの銃撃戦の痕跡を感じさせるものは残っていないだろうかと、周囲を見回していた。もちろんそのようなものは発見できるわけもなかった。ただあの世界を震撼させた惨劇が、かくも狭い空間で生じたということだけは、了解することができた。後になってわたしは、生き残ったただひとりの兵士である岡本公三の名前が、ザズー・オ・タムトゥという駄洒落のもとに記憶されていることを知らされた。それは「どけどけ、でないと死ぬぞ」という意味の、ヘブライ語である。
入国審査を終えたわたしを待っていたのは、テルアヴィヴ大学のヤコブ・ラズ教授だった。彼とは十数年前にある学会ですでに知りあっていた。俵万智をヘブライ語に翻訳し、日本のヤクザについてユニークな人類学的研究の著書をもつこの日本学者は、長身でいつももの静かな雰囲気を漂わせている。彼は30年来の篤実な仏教徒であり、現在でも信者たちを集めて平和祈願のための瞑想を定期的に続けていた。
ラズ教授はわたしにむかって、今日がシャバト、すなわちユダヤ教の安息日に当たっていると告げ、スタッフがすべて休んでいるから大学の寮に入ることができないと語った。金曜日の夜から土曜日の夕方まで、イスラエルではほとんどの公共施設はもとより、商店も鉄道もバスも、あらゆるものが停止してしまう。開いているのは、もっぱら外国人を対象とした観光施設と交通機関だけのようだ。わたしは観光ホテルでまず1泊することになった。どこまでも続く砂浜に向かって林立する豪華ホテルのなかに、シェラトン・モリアはあった。「モリア」とは、いずれエルサレムに建てられるべきユダヤ教の神殿のことである。ロビーに立ってみると、閑散とまではいわないが、けっしてにぎわっているとは思えなかった。2000年に開始された第2次インティファーダと、その後に連発している自爆攻撃のおかげで観光客が激減し、ホテルの経営は困難を来たしていることが窺えた。わたしが宿泊した部屋は1泊350ドルのところが、92ドルにまで値引きされていた。
ホテルのバアは壁一面がガラスになっていて、そこからは地中海をまるでパノラマ画面のように眺めることができた。わたしたちはまさに水平線に沈みかけようとする夕陽を眺めながら、ビールを吞んだ。この水平線をどこまでも真直ぐに進むとジブラルタルまでいけますかと、わたしは尋ねた。地中海はいろいろと凸凹があるから、真直ぐだとリビアのどこかの海岸に突き当たってしまうでしょうねと、ラズ教授はもの静かに答えた。彼はテルアヴィヴの下町の生まれだった。かつてスペインを追われた先祖が地中海を流浪し、祖父の代になってギリシャからパレスチナに到来したのだが、その代までは日常生活ではラディーノを語っていたといった。スペイン語とヘブライ語の混合から生じた、現在では用いる者とてほとんどない言語のことである。ブルガリア生まれのユダヤ人文学者であるエリアス・カネッティが幼少時に同じ言語のなかで育てられたことが、ふいに思い出された。後の章で詳しく説明することになるが、ラズ教授はスファラディームの出自をもち、それは東欧系を中心とするアシュケナジームのユダヤ人によってほとんど支配されているアカデミズムの世界にあって、少数派に属していることを意味していた。
こうしてわたしのテルアヴィヴでの生活が開始された。
翌日は日曜日で、平日に戻った街角は賑わいを見せていた。わたしは案内されて大学を訪問した。テルアヴィヴ大学は市の北のはずれ、ラマトアヴィヴ地区にあり、周囲は60年代以降に建設された、どちらかといえば新しいアパート群によって囲まれている。どの通りにもアインシュタイン通りとかパステルナーク通りといった具合に、20世紀のユダヤ系知識人の名前が付けられていた。もっともわたしが住むことになった大学寮の前だけは例外で、インドの文学者タゴールの名前が与えられていた。わたしは一応客員教授という資格で大学に籍を置き、日本映画について講義をすることになっていた。だが学生寮に荷物を置き、ガードマンからきさくに声をかけられたりしていると、自分が若い留学生にでもなったような新鮮な気持ちに襲われた。近くにはラマトアヴィヴ・タワーという巨大なショッピングモールがあり、洒落たシーフード・レストランとスーパーマーケットがそれに付随していた。イスラエルが大衆消費社会にすでに突入していることが、ここからもはっきりと感じられた。ショッピングモールは独自に英文で月刊誌を出していて、イスラエルの流行の先端はここから開始されるのだと説明された。
学生寮からしばらく歩くと国内線の飛行場があり、その向こうには先にわたしがホテルから眺めたのと寸分変わらない地中海が、優雅に波をうねらせながら横たわっていた。まだ3月だったが、ブラジャーの紐を外し、うつ伏せになって砂浜に寝そべっている女性がいた。犬を走らせたり、ジョギングに耽っている人もいた。すでに気候は、泳ぐのに充分な暑さだった。この海岸を60キロ南に下るとガザとなり、そこでは日夜パレスチナ人の武装勢力とイスラエル国防軍の間で熾烈な戦闘が繰り広げられていることを、すでにわたしは知っていた。だが眼前の風景を見ているかぎり、そこには戦争を感じさせるいかなる要素も発見できなかった。イスラエル人たちは思い思いの形で生活を愉しんでいるという、平和な印象しかもてなかった。
ハマスの精神的指導者であるヤシン師が、イスラエル空軍の放ったミサイルによって暗殺されたと知らされたのは、その翌日の朝である。幼少時より身体に障害をもち、車椅子の上からパレスチナの若者たちに向かってユダヤ人への武力攻撃を呼びかけてきたこの老人は、朝の礼拝をすませモスクから出たところで、数人の護衛とともに爆撃死を遂げた。わたしは大学の門をくぐる検問所のところで、アメリカから来た女性研究者からいきなり「こんな気狂いの国に住むのはもうこりごりだわ!」と呼びかけられた。研究室に入るとただちに日本大使館から電話がかかってきて、何が起きるかわからないので、外出は慎むようにといわれた。バスはけっして用いず、タクシーを利用すること。荷物検査のないレストランや、道に椅子を並べているカフェにはけっして立ち寄らないこと。身の安全のためには、まずこの2つを徹底して守ってほしいという要請だった。
研究室には緊張が走っていた。指導者を殺害されたハマスからは、「イスラエルはついに地獄の門を開いてしまった」という声明がしばらくして出された。彼らは「イスラエルのすべての町、すべての道、すべての家に死を送り届ける」と宣言した。無差別のテロ攻撃がなされるのではないかと、人々は強い恐怖に襲われた。もっとも1人の学生はわたしにむかって、ヤシンが殺されて気が清々したという感想を悪びれずに口にした。彼はもとからイスラエル側の危険人物リストのトップに名前を連ねていたのだから、本来なら昨年の暮れあたりに殺されていてもよかったはずだというのが、この学生の意見だった。
数日が経過し、予想されていたハマス側からの攻撃が即座には実現できないとわかったとき、人々の表情にようやく安堵が戻ってきた。テルアヴィヴに隣接する住宅地ラマトガンで、パレスチナ人が発作的に斧を振り回すという事件が報道された程度だった。西岸のナブルス付近の検問所で、14歳の少年がわけもわからずに爆弾運びに加担し、発見されて逮捕されたとか、その少年が実は16歳だったとか、さまざまに曖昧な報道が新聞を通してなされているうちに、ハマスは新しい指導者ランティシを選出した。しばらく時間が経過するうちに、テルアヴィヴの街角からはしだいに緊張が消えていった。人々はまたいつも通りにバスを利用するようになり、カフェでお喋りに耽るようになった。4月に入って今度はランティシが同じくミサイル攻撃で落命した頃には、誰もがもうハマスには反撃の力もないだろうと、高を括るようになっていた。今ではイスラエル空軍は、いつどこにでも思いのままにパレスチナにミサイル攻撃を仕掛けることができるのだから、余計な心配は無用だと、誰もが懸命に信じたがっているように思えた。戦闘はガザ最南端のエジプト側国境地帯ラファで行なわれているものの、直接にイスラエル領土内に波及することはないと、判断したのである。こうしてわたしのイスラエル滞在は、本格的に開始された。
わたしがテルアヴィヴに滞在していた2004年3月から6月にかけては、さまざまな事件が生じた。
首相であり、右翼リクード党の党首でもあるアリエル・シャロンが、突然にガザからのユダヤ人入植地の撤退を宣言し、議会の承認を得る前に、一方的にブッシュ大統領の了承を取り付けてしまった。面子を潰されたリクード党は当然のことながら反発し、それを拒否した。以前より占領地からの撤退を要求してきた左翼政党と市民団体は当惑の表情を見せた。自分たちの主張が骨抜きにされ、老獪な政治家の掌の上で転がされているという印象をもったからである。水も電気もイスラエルに依存しているガザ地区を、入植地からの撤退を理由に孤立させ、収容所同然の状態に圧し留めてしまっていいのかという抗議が、良識派からはなされた。パレスチナ代表部はといえば、自分たちの頭越しに事態が進行しているのに怒り、シャロン案の真意を測りかねて沈黙した。
一方、イスラエル国防軍はラファで、大規模な家屋破壊と市民の殺害を続けていた。エジプトから国境線の下を潜って深い抜け穴が掘られ、それを用いて大量の武器弾薬がガザに持ち込まれている。「レインボー作戦」と呼ばれたこの一連の軍事行動は、この密輸行為を阻止し、首謀者を逮捕するという理由のもとに実行されていた。ガザでは動物園が破壊され、猛獣たちが市内に飛び出して市民を恐怖させた。ラファでは、それとは別の闘いも展開していた。シャロンの撤退宣言に反対する狂信的な入植者たちが、強い抗議に出たのである。おりしも彼らを狙ってハマスが攻撃をしかけ、事態はますます混迷の度合いを強めていった。
5月にはテルアヴィヴ中央にあるラビン広場で、15万人の市民(新聞報道による)が議会の撤退拒否に抗議し、ガザでの停戦を要求する集会を開いた。だがメディアの反応は冷ややかで、すべてがシャロンの思惑どおりではないかという批判が続いた。1982年にもイスラエルのレバノン侵攻をめぐって大規模な反対デモが生じたが、事態にいささかの影響も及ぼさなかったことが、想起された。集会から数日後、パレスチナのクレア首相がようやく撤退案を受け入れたことが報道された。この時点まででイスラエル国防軍は5ヶ月の間に、336人のパレスチナ人を殺害し、そのうち47人が子供だった。5月の前半だけでも2,100人が家屋を破壊されて、路頭に迷った。
6月になってシャロンはいくつもの妥協を重ねた末、ようやく撤退案を議会で通過させることに成功した。だが、この骨抜きの撤退案こそ、実は当初から彼が目論んでいたことではなかったかという風評が立った。撤退は夏から開始され、翌年の夏にすべてが終了すると告知された。だがこの計画が予定通りに実現されると無邪気に信じる者はわずかだった。イスラエル人の多くは、1993年になされたオスロ合議が、7年後にシャロンに挑発されて引き起こされた第2次インティファーダによって、かくも完璧なまでに粉砕されたことへの幻滅から立ち直ることができないでいた。彼らは国家の記念式典があるたびに、希望を意味するヘブライ語の国歌「ハティクヴァ」を歌わされた。だが、どこを見回してみても、希望など見つかりようがなかった。
わたしはこの国に滞在している4ヶ月の間に、スニーカーを2つ履き潰した。文字通り、いたるところを歩き回った。イスラエルではほぼ全域に足を伸ばした。移動にはいささかの問題もなかった。テルアヴィヴ、エルサレム、ハイファというイスラエルの3大都市は、どれもが人口にして35万から50万人あたりの規模で、バスを用いれば1時間ほどでお互いを訪れることができる。わたしの実感では、イスラエルは南部の砂漠を除けば、東京、千葉、神奈川の3つの都県が合わさったくらいの大きさに感じられた。パレスチナでは東エルサレムを基点にしながら、西岸の主だった町を訪れた。ただガザ地区とナブルスだけは外国人の入場がイスラエル軍によって許可されず、これは諦めざるをえなかった。日本大使館はともかくパレスチナにだけは足を向けないように、その場合には相談してほしいと勧告していたが、渡航自粛勧告同様に、わたしは最初から無視することに決めていた。彼らは、邦人保護という自分たちの業務が増えることだけを憂慮していた。
5月のはじめに、エジプトから熱風が押し寄せてきて、気温は一気に39℃にまで上昇した。その後も日中に30℃を切ることはなかった。日本では信じられないほどに陽光がきつく、多くの人々がサングラスを常用していた。わたしは町歩きに飽きると、近くの海岸に泳ぎにいった。皮膚はどんどん黒くなっていた。人生には不思議な夏休みもあるものだという感慨を、わたしは抱いた。自分が最初の外国である韓国に住んだときの年齢から、ちょうど倍の年齢になっていたことを、あるときわたしは思い出した。
(つづく)