コンダクター
『コンダクター』7
矢月 秀作(やづき しゅうさく)
2017.07.07
13
三笠と野村を乗せた急行電車が吉祥寺に着いた。三笠が降りる。野村も三笠と共に下車した。
三笠はそのまま足早に改札へ向かう。
「待ってください」
野村が声をかける。
が、三笠は足を止めない。
右耳に差したイヤホンからは、三千万円を奪った犯人たちを追跡する捜査員たちからの報告が次々と入ってくる。
「野村さん、どうしますか?」
野村と共に三笠の監視と警護をしていた捜査員二人のうちの一人が訊く。
「君たちは永福町の現場の捜査に協力してくれ。三笠氏の監視と警護は私が引き受ける」
「わかりました」
捜査員二人は頷くと、すぐさま折り返しの急行に走った。
三笠の背中を追う。改札を出るところだ。野村は急いで三笠を追った。切符を自動改札に通し、三笠に駆け寄ろうとする。
だが、ふと速度を落とした。
改札を出た三笠は、再び鞄を胸元に抱え、周囲を忙しなく見回し始めた。
やはり、何かあるな……。
野村は人ごみの陰に隠れ、三笠の様子を見つめた。三笠は背後を向いて野村がいないことを確認すると、歩を速めた。
野村は距離を取って尾行を始めた。
三笠は公園口のエスカレーターを降り、西方向へ向かった。
飲食店の立ち並ぶ駅前の路地を抜け、井の頭通り沿いの歩道を西へ歩く。野村は三笠を見逃さないように通行人の間を縫う。
吉祥寺駅前交差点を渡る。が、そこから三笠が妙な行動を取り始めた。
三笠邸に戻るには、井の頭通りを渡り、吉祥寺通りを南下するのが常道だ。しかし、三笠はそのまま井の頭通りをまっすぐ進んだ。これでは、家が遠くなるばかりだ。三笠の歩も速くなる。
野村は時折小走りで三笠を追い、距離を保った。
三笠は二葉製菓学校前の横断歩道を渡り、少し西へ進んだところで左の路地に入った。
高架下の駐車場に入り、さらに西へ進む。
野村は車や柱の陰に身を隠し、三笠を追尾する。東原に連絡を入れるか迷った。
三笠の動きは明らかにおかしい。だが、高架下を進み、途中、どこかで左に曲がれば、三笠邸にはたどり着く。三笠が勝手に帰路を変えただけという可能性もある。
今、三笠邸の本部は、永福町に現われた犯人の追跡指示でごった返しているだろうことは予測できる。
もう少し、待つか……。
思考を巡らせつつ、三笠を追った。
14
三笠邸の本部には、捜査員から次々と報告が飛び込んできた。
──犯人二名、甲州街道を桜上水方面へ逃走中!
──マル被一名、四二七を和田堀公園方面へ逃走!
──ウサギ二匹、井の頭通りを西永福方面へ逃走中!
各捜査員の声がスピーカーからこだまする。
「七班、西永福から永福町方面へ。十一班、十二班、甲州街道を固めろ。五班は和田堀公園へ!」
東原は報告を受けるたびに、近辺にいる各班を確認し、捜査員たちに指示を飛ばす。
──犯人二名が松原交差点付近で車を強奪。環七を南下しています!
「六班、八班、車で追尾しろ!」
大声で指示をし、テーブルを叩いた。
「何人いるんだ、犯人は!」
怒声が響く。東原はマイクを握った。
「全員、検挙しろ!」
声を荒らげる。
澪は、本部の混乱ぶりを部屋の隅で静かに見つめていた。
15
松川は腕時計を見た。そろそろ十一時四十分になる。
もうすぐだな。
砂場にある円形オブジェの陰から少し顔を出し、吉祥寺駅方面を見やる。三笠の姿はまだ見えない。
ベビーカーのサンシェードを上げる。赤ちゃんの人形の上には、黒いビジネスバッグが置かれていた。三笠が金を入れているビジネスバッグと同じ物だ。
松川の指定通り用意していれば、すり替えてもわからない。
松川はポケットの中に手を入れ、リモコンでICレコーダーを再生した。赤ん坊の笑い声が聞こえる。
人形の顔を見て、松川は微笑んだ。
「もうすぐ、未来は開ける」
松川はつぶやき、人形の頬を撫でた。タイミングよく、無邪気な笑い声が響く。
再び、顔を上げて、駅方面を見た。松川の顔から笑みが消えた。
三笠の姿が見えた。ビジネスバッグを抱え、足早に砂場へ近づいてきていた。
松川はすぐさまオブジェの陰に身を隠した。
鼓動が耳の奥で鳴り響く。呼吸が太くなる。緊張で一気に手が汗ばむ。
落ち着け、落ち着け──と繰り返す。
いよいよ、未来が開ける。底辺を彷徨った人生から脱する時が来る。
あと数分、数秒。自分のためにも、上田や谷岡のためにも、絶対にしくじれない一世一代の大勝負だ。
勝つ。必ず、勝つ!
松川は何度も何度も大きく呼吸をして、その時を待った。
16
三笠は高架下の駐車場を西へと歩いた。ところどころ、フェンスの仕切りで空間が途切れている。しかし、三笠は迷わず、先へ先へと進んでいた。
三笠邸は進行方向の左手にある。だが、三笠は一向に左折する気配を見せない。
野村は駐車中の車にも目を向けた。車中や車の陰に何者かが潜んでいるかもしれない。
駅に近い場所の駐車スペースには多くの車が停まっていたが、駅から離れるに従って、車の数も減り、人影もまばらになっていく
西へ西へと進むほど、三笠の背を見据える野村の目が鋭くなる。
やはり、おかしい。
犯人に襲われないよう、帰路を変えている可能性はあるものの、三笠の足取りに迷いがないのが気になる。
三笠は駅を出て、躊躇なく高架下まで来た。今ではまっすぐと前だけ見つめ、確かな足取りで進んでいた。
初めから、帰り道はここを通ると決めていたかのようだ。
しかし、自己の安全を考えてのことであれば、わざわざ人気のない高架下を通るのは解せない。
三笠が警察を信用していないことは承知しているが、身の安全を思うのであれば、野村以外の捜査員に帰宅ルートを知らせておく方が懸命だ。
少なくとも、秘書の有島澪には話しているだろう。そして、誰よりも社長や娘・千尋の身を案じている彼女ならば、三笠の言を無視して、東原や野村に話しているはず。
それもなかった。
三笠と澪が共謀し、捜査側が与り知らぬ行動に出ていると考えた方が自然だ。
三笠は本町三丁目公園を過ぎ、さらに西側のスペースへと進んでいく。すでに井の頭自然文化園の西端も過ぎた。三笠の前には武蔵野市立中央高架下公園が見える。
これ以上進めば、三笠邸のある場所とは別の区画に出てしまう。何者かに追尾されないよう帰路を変えているにしても、これは行き過ぎだ。少なくとも、人目のない場所をこれほど長く歩くのは不自然極まりない。
何か起こる。
刑事の勘がざわついた。
野村は東原に一報を入れようと、上着の内ポケットに手を入れた。手元を確認するため、一瞬三笠から目を離す。
東原の番号を出してタップし、顔を上げる。
「どこだ!」
三笠の姿がない。
野村はスマホを握ったまま、小走りで遊具のある公園へ走った。
三笠は、青いドーム状遊具の裏手にある砂場を覗いた。若い男がいた。ベビーカーに乗せた赤ん坊をあやしている。赤ん坊は無邪気に笑い声を発していた。
三笠は、きょろきょろと犯人を捜した。
「三笠。ここだ」
子供をあやしていた男が背を向けたまま言う。
「おまえか!」
「鞄を渡せ」
若い男は言うと、ベビーカーのサンシェードを開けた。赤子は人形だった。人形の下から三笠が持っているものと同じビジネスバッグを出す。
「千尋は!」
「安全な場所にいる。話している時間はない。早く渡せ」
若い男は背を向けたまま後ろに鞄を差し出した。
「ここで失敗すれば、娘さんの安全も保障できない。早く!」
語気を強める。
三笠は鞄を交換した。
若い男は素早く、金の入ったバッグを人形の下に入れ、サンシェードを閉じた。
「予定通り、自宅まで走れ」
「刑事が尾行しているぞ」
「織り込み済みだ。行け!」
若い男は言った。
三笠は奥歯をぎりりと嚙みしめ、砂場から飛び出し、野村とは反対の方向へ走った。
野村は三笠を探し、周囲を見回していた。と、ドーム状の遊具の陰から三笠が姿を現わした。後ろを振り返る。野村と目が合った。
途端、三笠が走り出した。
「待て!」
野村も後を追う。
──もしもし、ノムさん?
東原が電話に出た。
「セイさん! 三笠が逃げた」
──逃げた? どういうことだ?
「本部の端末で追ってくれ! 今、中央高架下公園を抜けたところだ! 待機中の捜査員にも追跡させろ!」
大声で言い、歩を緩めた。
三笠は駐車場の端まで行き、そのまま高架下を出て行った。
野村は三笠の残像を見つめて立ち止まり、腕時計に目を落とした。画面を切り替える。
三笠のバッグには発信機を付けていて、野村の腕時計で簡単な位置や方向は確認できる。
野村はさっそく、発信機の電波を拾った。鞄からの電波を受け、位置を表わす丸い点が点滅する。
三笠は西へ走り去った。点滅は盤面の左側を高速で移動している……はずだった。
が、野村は怪訝そうに眉根を寄せた。
点滅は画面左へ移動していた。しかし、画面内では点滅はまだ右手にある。つまり、鞄は野村の立ち止まった位置から東、駅に近い方向にあるということだ。
点滅はとてもゆっくりと動いていた。鞄までの距離も二百メートルほどだ。
「どういうことだ……?」
三笠は走り去る時、鞄を持っていた。しかし、鞄から発せられる電波はすぐ近くにある。
野村は振り返った。公園内に目を向ける。
ベンチにホームレスがいて、眠っていた。若い父親がベビーカーを押して、駐車場の方へ歩いてくる。不審な点はない。
再び、画面に目を落とす。点滅はゆっくりと野村に近づいてきていた。
顔を上げ、周囲の様子を確かめ、再度画面を見て、を繰り返す。
「どうなっている?」
野村は戸惑った。
受信機を信じるなら、電波はベビーカーを押す父親のあたりから飛ばされていることになる。
手の中のスマートフォンが震えた。タップして通話をつなぎ、耳に当てる。
──ノムさん、三笠が逃げたって?
東原だった。
「そうだ。今、どこにいる?」
──発信機の電波はまだ、中央高架下公園から出ているよ。ノムさんの近くだ。腕時計の受信機で確認できるだろう?
東原が言う。
野村は公園を歩いているベビーカーの若い父親に目を向けた。
若い男か──。
「セイさん。公園にも捜査員を回してくれ」
野村は言って、若い男にゆっくりと近づいた。
松川は走り去る三笠の背中を見つめていた。と、ドーム状遊具の陰から中年の男性が、三笠の名を叫びながら走ってきた。
青いジャケットを着て、野球帽をかぶった男だ。
松川はベビーカーを押して砂場から出た。周囲を見回す。ホームレス以外、他に人影はない。
こいつが刑事か──。
刑事は三笠を途中まで追いかけたが、足を止めた。スマートフォンを出し、何やら話しながら腕時計を見ている。
刑事の立っているところの近くには、上田が待機しているワゴンがある。運転席に上田の姿は見えない。身を沈め、隠れているようだ。
刑事が三笠を尾行することはわかっていた。しかし、逃げた三笠を追いかけ、現場から消えるだろうと踏んでいた。
が、予想外、刑事は足を止め、周囲を見回し始めた。
バレているのか……?
刑事の行動に神経が尖る。
とはいえ、のんきに動向を見守っている余裕はない。
行くしかないな。
松川はちらりと男を確認し、赤ちゃんを見るように顔を伏せた。笑い声を再生させる。
「今日も元気ですねー」
笑顔で人形に話しかけ、足早にならないよう、ゆっくりゆっくり駐車場に向かう。
再び、上目で刑事の動向を見やる。
刑事が戻ってきていた。
鼓動が大きく鳴る。耳管にまで脈動が響く。喉の奥がひりつき、指先が震えそうになる。松川はベビーカーのハンドルを握り締める。
焦るなと言い聞かせるものの、どうしても足取りが速くなる。
刑事の横を過ぎてしまえば、問題ない。
松川は祈るような気持ちで、刑事の脇を過ぎようとした。
が、伏せた目に影が被さった。顔を上げる。
刑事が笑顔を向け、ベビーカーの前に立っていた。
「元気なお子さんですね」
話しかけてくる。
「ええ、まあ」
松川はぎこちない笑みを作った。
「このあたりにお住まいですか?」
「はい。先日、引っ越してきたばかりなんですが」
「そうですか。どちらに引っ越されたんですか?」
「あ、ええと……平沼園前の交差点あたりです」
「ほお、よく交差点名などご存じですな」
刑事の目が若干鋭くなった。
やはり、疑ってるのか……。
松川の喉の奥が渇く。
「さっきから、無邪気に笑うお子さんですな。私も子供が好きなもので。顔を見せていただけませんか?」
刑事がサンシェードの奥を覗きこもうと身を屈める。
松川はとっさにポケットに手を入れ、再生スイッチのボタンを押した。いきなり、泣き声が再生される。
刑事が体を起こした。
「おお、ごめんごめん」
「すみません」
松川はハンドルを握り、刑事の脇をすり抜けようとした。
が、刑事が立ちふさがった。
「泣いたままはいけない。あやしてあげましょう」
刑事がサンシェードに手をかける。
松川の鼓動が高鳴った。全身が熱くなり、冷静な思考が一気に煮えたぎる。
開けられれば、人形だということはわかる。どうする。どうする!
思考が飛んだ。
松川はベビーカーのハンドルを握った。素早く少し下がる。刑事が上体を起こした。
瞬間、松川はベビーカーを持ち上げ、真横に振った。刑事の左上腕から肩にかけて、ベビーカーが当たった。
刑事はよろけた。
赤ちゃんの人形やタオルケットが散乱する。ビジネスバッグも飛び出した。
刑事は踏ん張り、体を起こした。ビジネスバッグに目を留める。
「おまえ、犯人だな!」
詰め寄ろうとする。
松川は刑事に向かって、ベビーカーを投げつけた。刑事は足を止め、両腕をクロスさせ、顔をガードした。
その隙に、松川は駅の方へ走り出した。不測の事態が起こった場合、松川は駅方向へ逃走すると決めていた。
が、突如、松川の前にスーツ姿の男が三名現われた。
「ノムさん!」
一人が声を張る。
「そいつを捕まえろ!」
中年刑事が叫んだ。
三人が一斉に松川に迫ってきた。
松川は一気に公園を駆け抜けようとした。が、間合いを詰められ、フェンスに行く手を阻まれる。
公園の遊具や高架の柱を縫い、なんとか公園の敷地内から脱出しようと走り回る。しかし、男たちは声を掛け合いながら松川を包囲し、少しずつ逃げ道を塞いでいく。
中年刑事も男たちに加わり、松川は四人に囲まれた。住宅街へと通ずる植え込み前のフェンスにまで追いやられる。
松川はビジネスバッグを振り回した。バッグが男たちの肩や頭に当たる。ファスナーを留めていた錠が壊れた。
声を上げ、バッグを振り回す。松川のがなり声と刑事たちの威嚇する声が高架下に反響する。
駐車場の方から上田が走ってきた。
松川は上田の方へバッグを投げようとした。右から男が迫ってきた。その男のスーツにぶら下がったままの鍵が引っかかり、ファスナーが開いた。
そのまま勢いに任せ、放り投げる。宙を舞うバッグの口が開き、一万円札が舞った。
刑事たちは目を瞠った。松川の顔に絶望が浮かぶ。
背後から男が飛びかかってきた。体重を浴びせられ、松川の両膝が折れる。松川はそのまま男に組み伏せられた。
「観念しろ!」
襟首をつかまれ、後ろ首を押さえつけられる。
松川の顔は地面に押しつけられた。口に砂が入る。
「逃げろ!」
松川は声を張り上げた。
しかし、上田は松川の方へ走ってきた。上田を認めた刑事たち三人が前に立ちはだかる。
「一人で行けるか!」
上田は拳を固め、先頭の刑事に殴りかかった。刑事は上田の懐に踏み込み、左腕を上げ、大振りの右フックを受け止めた。
もう一人の刑事は上田の左後ろに回った。素早く伸縮警棒を振り出し、背中を思い切り打った。
上田が息を詰めた。刑事はすぐさま両膝の裏に伸縮警棒を叩き込む。膝がかくんと折れ、上田の上体が仰け反った。
そこへ正面にいた刑事が覆い被さる。上田は仰向けに倒れた。上田は暴れた。上に乗った刑事を振り落とそうとする。もう一人の刑事が首元に座り込み、上田の首に右腕を巻いて体重をかけ、締め上げた。
上田も動けなくなる。
中年刑事は息を切らせ、松川と上田を見下ろした。
「二人を連行しろ」
命じ、散らばった一万円札を見やる。
ホームレスが一万円札を拾っていた。
中年刑事はホームレスに近づいた。
「お兄さん、この金は持って行ってもらっては困るのでね。返してもらえんか」
落ち着いた声で話しかける。
ホームレスは体を起こした。
「では、あの二人も返してもらうぞ」
言うなり、ホームレスは中年男に短い右フックを放った。
拳は中年刑事の顎先を捉えた。意識が途切れ、中年刑事が膝からくずおれる。
「ノムさん!」
上田を抑えていた刑事一人が駆け寄ってきた。ホームレスは振り返った。
刑事が伸縮警棒を振り上げた。瞬間、ホームレスは一歩踏み出し、強烈な右前蹴りを放った。
踵が刑事の鳩尾にカウンター気味にめり込んだ。刑事は後方に弾かれ、仰向けに倒れた。息を詰め、胸元を抑え、横向きになり呻く。
ホームレスは倒れた刑事の顔面を蹴った。脚の甲が鼻梁を砕き、歯を折る。刑事の意識が飛んだ。だらしなく開いた口と鼻腔から血が溢れる。
上田を抑えていた刑事の力が緩んだ。上田はその機を逃さず、刑事を振り落とした。すぐさま、立ち上がろうとする。
上田は刑事の顎を蹴り上げた。刑事は顎を跳ね上げ、真後ろに倒れた。
「至急至急! 中央高架下公園に犯人グループ! 応援を!」
松川を拘束している刑事が無線でがなり立てた。
ホームレスは松川の下に駆け寄った。
右回し蹴りを放つ。脛が刑事のこめかみを捉えた。刑事は真横に弾き飛ばされ、転がった。
強烈な蹴りを食らって白目を剥き、痙攣している。
「立て!」
ホームレスは松川に右手を伸ばした。松川は右手を握った。強い力で引き起こされる。
「あなたは?」
「誰でもいい。逃げるぞ!」
ホームレスが言う。
上田が駆け寄ってきた。
「おまえ、誰だ?」
「話している暇はない。ついてこい」
「でも、金が──」
上田が散らばった一万円札に目を向ける。遠くでサイレンの音が響いた。
「捕まっちまったら元も子もねえだろ! 急げ!」
ホームレスは駅の方向へ駆け出した。
「車がある」
上田が言う。
「車は足がつく。捨てていけ。早くしろ!」
ホームレスが走り出した。
パトカーのサイレンが複数近づいてきた。
松川と上田は顔を見合わせて頷き、ホームレスの後について、高架下から走り去った。
17
「遅いね……」
千尋は時計を見ていた。
午後一時を回っていた。現場で金を受け取るのは正午前だと聞いていたので、少し心配になっていた。
谷岡も何度も時計を見やり、落ち着かない様子だった。
「ココア、もう一杯淹れようか」
谷岡が言う。
「うん、もらう」
千尋は空になったカップを差し出した、
谷岡はカップを受け取り、キッチンへ向かった。
と、玄関の呼び鈴が鳴った。
谷岡が足を止めた。千尋と顔を見合わせる。
「尚ちゃんたち、帰ってきたの?」
千尋が小声で言う。
「いや、ここへは戻ってこない予定だったんだけど……」
谷岡はカップを流しに置いた。
千尋は窓際に駆け寄った。カーテンの隙間を少し開き、窓から玄関口を見やる。
「男の人が三人いる」
谷岡は窓際に駆け寄った。千尋と代わり、窓下を覗く。ラフな格好をした三十代とおぼしきメガネの男、背の高い長髪の男、ずんぐりとした年配の男の三人がインターホンの前に立っていた。
「警察かなあ……」
千尋が複雑な表情を覗かせる。
千尋にとって、警察は保護してくれる味方でもある。が、警察がここへ来たということは、松川や上田が逮捕されたことに等しい。
「警察には見えないね。もし捕まったなら、もっと大勢の刑事や警察官、パトカーも来るだろうし」
谷岡は言い、千尋に笑顔を向けた。
「ここで待ってて。見てくる」
「気をつけて」
千尋が言う。
谷岡は頷き、一階へ降りた。
インターホンのスイッチを押す。
「どちらさまですか?」
声をかけた。
──西崎さんからの使いだ。
メガネをかけた男が言う。
谷岡は真顔になった。
「僕の名前は?」
──フリーマンZ。
男は即答した。
フリーマンZというのは、谷岡が使っているハンドルネームだ。このハンドルネームは松川や上田も知らない。一部の者にしか伝えていない合言葉にも使えるハンドルネームだった。
谷岡は頷いた。
間違いない。味方だ。
玄関へ行き、ドアを開ける。谷岡は周りを見ると、男たちを手招いた。
三人の男が格子の門柱を開け、足早に玄関へと入ってくる。谷岡は三人が入ると、すぐさまドアを閉じた。
「君がフリーマンZ、谷岡君だね?」
メガネの男が言う。
「はい。あなたは?」
「AZソリューションの高坂三晃。右の背の高いのが矢萩克己。左のおじさん……失礼、年配者が青井幸二郎さんだ」
「はじめまして。よろしくです」
谷岡は頭を下げた。
顔を上げ、高坂を見やる。
「どうしたんですか? AZの方がここへ来るなんて」
「緊急だ。君の仲間である松川君と上田君が捕まりそうになった」
「えっ! 失敗したんですか!」
谷岡の顔が蒼ざめる。
「金は受け取れなかった。しかし、二人の身柄は僕たちが奪還し、保護してある。僕たちは君を迎えに来た」
「しかし、二人からの連絡を待たないことには……」
「二人は連絡できる状況にない。これが証拠だ」
高坂はスマートフォンを出し、写真を表示した。谷岡に見せる。
上田と松川が映っていた。今朝、出かけて行った時の格好だ。写真に表示された時刻は十二時半となっていた。
「彼らを助け出した僕たちの仲間から送られてきたものだ。とある場所に匿っている。君もそこで彼らと合流を」
「不測の事態があった時は、僕一人でも逃げろと尚ちゃんは言ってたんですけど」
「予定は変わるものだ。松川君も上田君も君との合流を望んでいる。急いで。ここが特定されるのも時間の問題だから」
高坂がじっと谷岡を見つめる。
「……わかりました。では、用意してきます。千尋ちゃんも逃がしてあげないと」
「人質も連れてきてほしいとのことだ」
「尚ちゃんが?」
「そうだ。金を受け取れなかったのでな」
高坂が言う。
谷岡は逡巡した。
出ていく前も、ここ何日かの四人での話し合いの中でも、もし失敗しても千尋は家へ帰すことで合意していた。
上田ならともかく、松川がリスクを取って、勝ち目のない勝負に出ることは考えにくい。
「千尋ちゃんはここで逃がしてください」
「今は無理だ。ともかく、一緒に連れて行こう」
「ちょっと待っててください。用意してきますので」
谷岡は玄関に高坂たちを待たせ、二階へ上がった。
なんとなく、もやもやが拭えない。西崎の仲間だというから、信頼はできるのだろうが、それでも一抹の不安がよぎる。
「誰だったの?」
千尋が声をかけた。
谷岡は気づいたように顔を上げた。
「別の仲間だよ」
「別の? 晋ちゃんたち三人じゃなかったの?」
「僕らだけじゃ不安なんで、僕が独断で、別の仲間を用意していたんだ。よかったよ。尚ちゃんたち、逮捕されそうになったそうだ」
「捕まったの!」
「いや、別の仲間が助けてくれて、今、安全な場所にいる。僕もそこに行かなきゃならない」
「私はどうすれば……」
千尋が不安を覗かせる。
「尚ちゃんたちは、千尋ちゃんも連れてこいと言っているそうなんだけど、ちょっと信じられない。なんか、妙な感じになってるから、ここで別れた方がいいと思う」
「でも、玄関にはその別の仲間の人たちがいるんでしょう?」
「千尋ちゃん、身軽?」
「普通かな」
「千尋ちゃんを閉じ込めていた部屋の窓からベランダに出られるんだ。そこから支柱を伝って下りれば、裏庭に出る。そこから隣の家の庭に入って出ていけば、みんながいる場所とは反対の道路に出られるよ」
「よく知ってるね」
「一応、ここへ踏み込まれた時の逃走経路は考えてたから。こんな感じで使うとは思ってなかったけど」
谷岡が微笑む。千尋も笑みを返した。
「晋ちゃんは大丈夫?」
「心配ないよ。仲間だから。目を離した隙に逃げられたと言っとく。さあ、行って」
「晋ちゃん……ありがとう」
「元気でね」
谷岡は笑みを見せた。千尋が笑おうとする。その笑みが強張った。視線は谷岡の後ろに向いている。
「谷岡君。勝手な真似は困るね」
高坂たちが靴のまま二階へ上がってきていた。
「その娘も連れてこいという命令なんだよ」
「命令って?」
「西崎さんからの命令だ」
高坂は言うと、顎を振った。
矢萩と青井が動いた。二人は両脇から千尋に駆け寄る。
「千尋ちゃん、行って!」
谷岡は声を張り、二人の前に立ちはだかった。
青井が谷岡の前に躍り出た。同時に、谷岡の胸ぐらをつかんで引き寄せ、股間に右膝を叩き込んだ。
谷岡は息を詰めて、股間を抑え、膝を落とした。
「晋ちゃん!」
千尋は叫んだ。
矢萩が腕を伸ばす。千尋は矢萩の指先を交わし、三畳間に飛び込んだ。サッシ窓を開けようとする。少し、もたついた。
矢萩があっという間に距離を詰めた。襟首をつかみ、強引に後ろへ引く。
千尋はよろめき、敷居に引っかかって、尻もちをついた。
「何すんのよ!」
矢萩を睨む。
矢萩は左手のひらを振った。強烈な平手が千尋の頬を打った。千尋が横倒しになる。
谷岡は千尋の下に這いずり寄り、千尋に被さるように体を浴びせ、高坂を見上げた。
「乱暴するな!」
「おまえが勝手な真似をするからだろう。こっちは穏便に済ませてやろうとしたのによ」
先ほどまでの丁寧な口調からは一転、粗野な言葉遣いだった。
「さっさと立て!」
谷岡の襟首をつかむ。
谷岡は高坂の足に組み付いた。腕を引く。高坂の両足が浮き上がり、尻から落ちた。
「いてえな、こら!」
谷岡の顔面を足裏で蹴る。
谷岡の鼻がひしゃげ、血が噴き出した。
「晋ちゃん! 大丈夫!」
千尋は谷岡の肩を握った。
「何すんのよ、あんたたち!」
千尋が立ち上がる。
また、矢萩の平手が飛んでくる。谷岡は立ち上がり、千尋の脇で平手を受け止めた。大きな手で頭を殴られ、一瞬、意識が白む。
谷岡はよろけた。椅子に手をつく。その椅子を握り締めた。
椅子を持ち上げ、振り回す。
矢萩に当たる。椅子が砕け、飛び散る。
谷岡はもう一つの椅子を取り、青井に向かって投げつけた。青井が避ける。玄関側のサッシ窓に当たり、ガラスが砕けた。ガラス片が玄関先に降り注ぐ。
「逃げろ!」
谷岡は叫んだ。千尋は青井の脇をすり抜けようと走った。
谷岡はもう一つの椅子をつかんだ。振り上げ、立ち上がった高坂を狙う。
「いい加減にしろや!」
高坂は右拳を固め、谷岡の懐に踏み込んだ。腰を落とし、大振りのフックを浴びせる。
拳は谷岡の左頬にめり込んだ。谷岡の顔面が歪んだ。高坂は腕を振り抜いた。
谷岡は椅子を持ったまま後方へ吹っ飛んだ。テーブルをなぎ倒す。手から離れた椅子が食器棚に当たった。けたたましい音がし、ガラスや陶器の破片が飛散する。
千尋は割れたサッシ窓から下へ飛び降りようとしていた。しかし、青井に襟首をつかまれた。
強い力で後ろに引かれる。千尋の体が宙を舞い、フロアで腰をしたたかに打ちつけた。
高坂は千尋をまたぎ、胸ぐらをつかんで顔を寄せた。
「観念して、一緒に来い」
「ふざけんな!」
千尋は唾を吐きかけ、睨んだ。
高坂の右頬に唾が垂れる。高坂は右手のひらで唾を拭った。
「三笠の娘にしちゃあ、根性があるな。ただ、行儀の悪い若造は嫌いだ」
高坂は頭突きを浴びせた。
強烈だった。頭骨から鈍痛が響き脳を揺らす。意識が朦朧とした。
高坂は手を離し、立ち上がった。
「こいつらを拘束して、車に運べ」
命ずる。
青井と矢萩が動く。
谷岡と千尋はそれ以上抵抗できず、高坂たちの手に落ちた。
(つづく)