日没の吉祥寺で少女誘拐事案が発生。被害者は大会社社長の娘で、 捜査は極秘裏に始まった。担当刑事野村と被害者の父には、ある 事件で因縁があり…。

コンダクター

『コンダクター』10

『コンダクター』10

 

10

 

谷岡は叫びながら右拳を振り上げ、矢萩に殴りかかった。

矢萩は両腕を軽く上げて構えた。

谷岡が矢萩の前で足を止め、固く握った拳を突き出す。

矢萩は左前腕で谷岡の右腕の内側を弾いた。谷岡の体が開く。

「オレなら殺れると思ったのか? ナメられたもんだな」

右ストレートを放った。

拳が谷岡の鼻頭を抉った。後方へ倒れ転がる。

谷岡は相貌を歪めた。フロアは瓦礫だらけだった。転がった拍子に、その瓦礫が背中や臀部を切り裂いた。

「倒れるのも一苦労だな、おい」

矢萩が笑う。

鼻腔から血が溢れる。口の中に血の味が広がる。谷岡は立ち上がって、矢萩を睨んだ。

矢萩は構えを解いて、腕を組んだ。

「こらこら。おまえの相手は一人じゃないんだぜ」

笑う。

背後で音がした。

「晋ちゃん、後ろ!」

松川が叫んだ。

振り向きかける。その首筋に強烈な回し蹴りが食い込んだ。

今度は真横に弾き飛ばされる。床に落ちた際、脇腹に瓦礫が刺さった。

谷岡は脇腹を抑え、尻もちをついたまま、瓦礫の中を後退りした。

青井が左爪先を立て、構えていた。食らったのは青井の蹴りだった。

骨が軋んでいた。打たれたところや切ったところが疼く。血の流れ出ている箇所がやけに熱い。

たったの二発で、谷岡は絶望を思い知らされた。

万に一つ、可能性があればと思い、自らを奮い立たせ、挑んだ。松川や上田や千尋の前で少しでも自分の本気を見せられ、彼らが逃げるきっかけを作れれば本望だとも思っていた。

しかし、格が違いすぎる。

小説やドラマなら、ここで劇的な逆転勝利を収め、命からがら脱出するという展開になるのだろう。

多少、そうしたラッキーを期待した。

が、現実は無常だった。

いくら腕を振り回しても当たる気がしない。突っ込んでいっても、彼らの体にすら触れられない気がする。

何をすれば……。

谷岡はわずかに残った気力を振り絞り、立ち上がろうとフロアに手を突いた。

手のひらに瓦礫が刺さる。うなだれた谷岡の両眼が開いた。

尖った瓦礫を握り締める。

矢萩がふらふらと近づいてきた。

「もう終わりかよ」

笑いながら、左脚を振る。谷岡の右腕に足の甲が当たり、横倒しになる。瓦礫が肋骨を抉る。

谷岡は顔をしかめた。それでも、左手をついて体を起こした。

「おお、少しは根性あるな」

矢萩はへらへら笑い、爪先で谷岡の腹を軽く蹴った。

谷岡は呻いて、腰を折る。

「早く立てよ。おまえはヒーロー、フリーマンZなんだろ?」

嘲笑しつつ、何度も何度も爪先を蹴り込む。

「矢萩、あまり遊ぶな」

青井が構えたまま言った。

「こんなの、遊びにもならねえ」

矢萩は思いきり、鳩尾に爪先を蹴り込んだ。

谷岡が目を剥いた。腹を押さえ、前のめりに上体を倒す。

「やめろ、こら! ひょろいの! 殺すぞ!」

上田が喚いた。

「あ?」

ポケットに手を突っ込み、振り向いた。片眉を上げ、上田を見据える。

「誰を殺すだと?」

「てめえだ、のっぽ」

上田は矢萩を睨み返した。

「やめて、洋介!」

千尋が泣き叫ぶ。が、上田は矢萩を睨んだまま、視線を外さない。

「ワンパンで殺してやるよ」

上田は煽った。

矢萩が気色ばんだ。

「おい、そいつの結束バンドを外せ」

「矢萩。挑発に乗るな」

高坂が睨みつける。

「黙ってろ。そっちのガキどもを拘束してるんだ。こいつが挑発してくんなら、みんな殺しちまえばいい」

「それでも、てめえだけは殺ってやるよ」

上田は笑みを滲ませた。

矢萩が真顔になった。

「外せ!」

上田の後ろにいた仲間の若い男を睨む。

若い男は戸惑い、高坂や青井に目を向けた。高坂はため息をついて、顔を横に振った。

「相変わらず、火が点いたら止まらねえか。おまえの悪いところだ。外してやれ」

高坂は若い男を見た。

「いいんですか?」

「こいつも状況はわかってる。無茶はしないだろう」

高坂は上田を見下ろした。

「おまえが矢萩を倒しても、全員を解放することはないぞ。それでもやるのか?」

「一人ぐらいぶち殺さねえと、収まらねえんだ」

「おまえも矢萩と似たようなものか」

高坂は呆れて笑った。

「切れ」

若い男に命令する。

若い男がナイフを出し、上田の結束バンドを切り始めた。松川と千尋の後ろにいた男たちもナイフを出し、二人の首に押し当てた。

上田の手が自由になる。上田は矢萩を睨んだまま手首を握って回した。

誰もが上田を見ていた。

その時、谷岡が上体を起こした。右手に尖ったコンクリート片を握り締める。

上田がゆっくりと立ち上がる。遠めで矢萩と対峙する。矢萩がポケットから手を出し、指を鳴らした。

瞬間だった。

谷岡が動いた。後ろから矢萩の腰に体当たりをする。

矢萩が呻き、仰け反った。

「おまえの相手は僕だ」

再び、右手を動かす。コンクリート片の尖端で脇腹の後ろを突き刺した。

谷岡の突然の反撃に、誰もが呆気に取られた。一瞬、フロアの空気が凍りつく。

「貴様!」

青井が怒鳴った。谷岡の下に駆け寄る。高坂や他の男たちの目も谷岡に向いた。

上田がとっさに動いた。

振り返りざま、後ろの若い男に肘打ちを食らわせる。

若い男が短い悲鳴を上げ、真横に飛んだ。上田は松川の前に立った。松川の後ろに立っていた男がギョッとした。

間髪を容れず、強烈な右フックを浴びせた。男が左横に吹き飛んだ。千尋の後ろに立っていた男もなぎ倒し、フロアに倒れる。

上田はこぼれたナイフを拾い、松川の後ろに回った。素早く松川のバンドを切った。松川の皮膚が多少切れ、血が滲む。かまわず、松川にナイフを渡す。

「これで、千尋を!」

言うなり、振り向いた。

松川たちの後ろから迫ってくる男たちと対峙する。松川は千尋の背後に回った。バンドの結び目にナイフを刺し、引き切る。

「尚人! 千尋を連れていけ!」

「晋ちゃんが!」

「俺が連れていく! おまえは、千尋を逃がせ!」

上田は言うと、倒れた男の一人を持ち上げた。玄関口から迫ってくる男たちに投げつける。男たちは思わず避けた。

松川は千尋の右手首をつかんだ。

「行くよ!」

一瞬開いた人壁の真ん中に走る。

「晋ちゃんは!」

「洋介に任せろ!」

松川は千尋を引っ張った。

千尋は上田を見た。

「行け!」

上田が怒鳴った。

谷岡は顔を起こした。高坂の後ろで起きている騒ぎを見やる。

「よかった……」

笑みを浮かべた瞬間、青井の強烈な回し蹴りが谷岡のこめかみを抉った。

谷岡の意識が一瞬で飛んだ。力を失った体は横倒しになって瓦礫に突き刺さり、バウンドしてさらに瓦礫に刺さった。

矢萩がやおら振り返る。

「このガキが……」

血走った眼で谷岡を見下ろし、頭を踏みつけた。谷岡の頭部が力なく弾む。矢萩は二度、三度と踏みつけた。

「晋!」

上田が振り返った。谷岡の下に駆け寄ろうとする。

その前に、人影が現われた。

上田は右ストレートを放った。

人影がふらっと揺れる。次の瞬間、拳が眼前に現われた。

凄まじい衝撃が上田の顎を打ち抜いた。開いた上田の口から、折れた歯と鮮血が同時にしぶいた。

脳が揺れ、体がふらつく。それでも足を踏ん張った。

「こんな余興で恥をかかされるとはな。てめえら、ここで全員終わりだ」

高坂が腰をひねった。大振りの左フックが上田に迫る。

気配は感じた。が、体が動かない。

逃げろよ、尚人……。

拳が右頬に食い込んだ。顔が直角に折れる。弾き飛ばされた上田の体は横倒しになり、尖った瓦礫の上に沈んだ。

若い男が駆け寄ってくる。

「高坂さん、すみません! 俺が気を抜いたばかりに──」

「御託はいいから、さっさと松川と三笠を捕まえてこい!」

「はい!」

若い男が玄関口に走る。他の男たちも続く。青井が高坂の脇に来た。

「死んだか?」

上田を見やる。

「まだだ。後でゆっくりと嬲り殺してやる。あっちは?」

高坂は谷岡に目を向けた。まだ、矢萩が頭を踏みつけている。

青井は顔を横に振った。

「まあ、仕方ない。それより、三笠の娘に逃げられるのはまずい。おまえも行ってくれるか?」

「わかった」

青井は男たちの後を追った。

高坂は青井を見送ると、腹立ちまぎれに気絶した上田の背を蹴った。

 

11

 

松川は千尋を連れて、走った。陽はどんどん落ちていく。木々の重なった山肌にはすでに暗がりができていた。

後ろから男たちの怒号が聞こえる。

曲がりくねった砂利道が続いていた。車が走っている気配はない。高坂が言っていたように、周りには民家もなく、人気もいなかった。

「どこに行くの!」

千尋が訊く。

「わからない。とにかく、走るんだ!」

松川は前を向いたまま、千尋の手を引いて走った。

できれば、舗装された道路を見つけたい。舗装道なら、暗くなった後に上っても下っても迷うことはない。

しかし、今、山の中に入れば、一歩間違えば遭難する。

多くの人は、ある程度高度のある山じゃないと遭難など起こり得ないと思っている。が、信州の山間で暮らしていた松川は、そうでないことを知っている。

遭難に高度は関係ない。標高の低い里山でも暗がりで方向感覚を失って迷い、集落を見つけられず、食料もなくなり衰弱したり、誤って川に落ちたり、動物に襲われたりして死ぬこともある。

松川はある程度山に慣れているが、だからこそ、よく知らない山中には入りたくない。

とはいえ、このままでは男たちに追いつかれる。捕まれば、二度と脱出はできないだろう。おそらく、命もない。

走りながら周りを見回す。薄暗がりの中に、人が歩いたような跡が見えた。下っている。

ここしかないか……。

松川は後ろを見た。先ほどより、男たちとの距離は詰まっていた。

「千尋ちゃん、こっちだ!」

松川は森の中へ入った。

千尋は急に引っ張られ、足がもつれながらも松川についてきた。

「川の方へ下りたぞ!」

男の一人が叫んだ。

この先には川があるのか。

松川はともかく獣道を進んだ。

枝や草が揺れたり折れたりする音が聞こえる。男たちも森の中へ入ってきたようだ。

山の中は急速に暗くなっていった。先が見えなくなる。

このまま下れば川に出るが、男たちが川沿いを追ってくるのも必然だ。

「こっちに行くよ」

松川は小声で言い、右手の森の中に入った。

道はない。が、斜面は安定している。手探りで木々をすり抜ける。時折、背の高い草を踏み倒し、右へ右へと進んでいく。

「大丈夫なの?」

千尋の不安が握った手首の肌から伝わってくる。

「大丈夫。大変だけど、がんばって」

松川は言い、暗闇を進んだ。

アタリが真っ暗になった。松川は途中で立ち止まり、草むらに身を潜めた。振り返る。時折、草の陰に明かりが揺れた。男たちは懐中電灯を持っているようだ。

遠ざかる明かりもあれば、近づいてくるものもある。山狩りをしている。

森の奥は暗い。松川の視界を確保するものは、枝葉からこぼれる月明かりだけだった。

松川は上を見た。斜面はきついが、登れなくはなさそうだ。

「千尋ちゃん、登るよ」

「本気なの?」

「下へ行けば、川沿いを探している連中に捕まる。このままここにいては、山狩りの餌食だ。危険だが、上に行く方がまだ可能性はある」

「戻って、車を奪うというのは? 私たちを連れてきた車があるでしょ? 洋介や晋ちゃんのことも心配だし」

「それはリスクが高すぎるな。仮に車を奪ったところで道がわからない。このあたりに精通しているヤツらに簡単に追いつかれる。暗い森の中というのは迷路なんだ。状況がわかるまで、迷路の中にいた方が安心なんだ。彼らもそうそう見つけられない。晋ちゃんと洋介は大丈夫。今は僕たちが逃げ切ることが先決だ」

「そっちはどうだ!」

「いません!」

「徹底して捜せ!」

男たちの声がこだまする。

「ともかく、上へ」

松川は木々を摑んで斜面を踏みしめた。足場は悪い。時折、滑りながらも、千尋を助け、斜面を登った。

松川と千尋の姿が木々に囲まれた森の奥へ消えた。

 

12

 

朝を迎えた。午前七時を回った頃、青井が戻ってきた。疲れた様子で、目にくまができていた。

高坂はすぐさま言った。

「見つからないのか?」

「ああ……」

青井の表情が曇る。

「まずいな……」

高坂の声色も曇った。

「矢萩は?」

青井が訊く。

「思ったより深手を負っていたんでな。ふもとの病院へ運んだ。病院には建物解体中の事故だと言っておいた」

「谷岡はダメだったか?」

青井の問いに、高坂が頷く。

「上田は?」

「顎は砕けているが、息はしてる。縛って、部屋に放り込んでるよ」

「どうする?」

「このままというわけにはいかないな。松川と三笠の娘、見つかりそうにないか?」

「このまま山狩りすれば、見つかるんだろうがな。すぐにとはいかない。松川は長野出身だろう? 山を知っているようだ。逃げられる可能性もある」

「……仕方ないか」

高坂はスマートフォンを出した。

「撤収するか?」

「いや、捜索は続けてくれ」

高坂が言うと、青井は頷き、再びアジトを出た。

青井を見送り、高坂は番号を呼び出し、コールボタンをタップした。

ため息をつき、耳に当てる。

電話口に西崎が出た。

「……高坂です。すみません、朝早くから。少々不測の事態が起こりまして──」

高坂は、現在起こっていることを正直に話した。

 

 

二時間後、高坂はAZソリューションの本社にいた。社長室で、西崎の前に正座させられている。

脇には郷原が立っていた。

高坂の顔は見るも無残な状態だった。両目の瞼は塞がるほど腫れ上がり、唇はタコのように膨れている。顔中痣だらけで、鼻腔や口の端からは血が垂れている。

しかし、高坂は血も拭わず、ひたすら正座をしていた。

郷原は、高坂の髪の毛を摑んで、うつむけた顔を上げさせた。右の拳を振り上げる。高坂は両肩を上げ、身を竦めた。

「もういい、郷原」

西崎が言った。

郷原は髪の毛から手を放し、少し後ろに下がって仁王立ちし、腕組みをして高坂を睨み下ろした。

「おまえには失望したよ、高坂」

静かだが怒気のこもる声色だった。

高坂は正座したまま震えた。

「腕っぷしのあるヤツの中でも冷静かつ大胆な判断を下せる者と見込んで、おまえを今回のチーフに選んだ。しかし、青井の方が良かったかな? ヤツは口下手だが余計な真似もしない。俺の目が曇ったということか?」

「いえ……」

「まあ、自分らでの処理をあきらめ、早めに連絡してきたことだけは褒めてやるが」

「あきらめたわけでは……」

「まだ、山狩りを続ける気か?」

西崎が高坂を見据える。

「もちろんです」

高坂が顔を上げた。

途端、西崎がため息をつく。

「すぐにやめさせろ」

「なぜですか?」

「なぜ……。おまえに任せたのは間違いだったな。もういい」

西崎は右手の人差し指を上げた。

郷原が頷き、後ろにいた部下を呼び寄せる。部下の男二人が来て、高坂の両脇に立った。

「何を……」

高坂は左右の男を交互に見上げ、怯えた。

郷原が真後ろに立つ。手にはビニールテープを持っていた。

「心配するな。俺は殺しは嫌いだ。ただ、ビビって寝返られても困るんでな。事が終わるまで、おとなしくしておいてもらいたい」

顎を振る。

両脇の男が同時に腕を摑んだ。郷原がビニールテープを引き出し、口元に巻き付ける。

高坂はもがいた。息苦しい。しかし、男たちの力は強い。

「松川たちを監禁したところへ連れていって、放り込んでおけ」

男の一人にビニールテープを渡す。

男は後ろ手と両足首にビニールテープを巻き付けた。高坂が芋虫のように転がる。もう一人の男が高坂の鳩尾を踏みつけた。

高坂が双眸を剥いた。呻きを漏らす。噴き出した胃液が、ビニールテープの端からしぶいた。高坂はそのまま気絶した。

部下の男二人が、高坂を運び出した。ドアが閉まる。

「あーあ、吐いちまったな。窒息するかもしれん」

郷原がドアの方を見て、片笑みを滲ませる。

「まあ、それはそれで仕方ない。事故だ」

西崎はこともなげに言った。

「さて、どうする? 谷岡は死んじまったし、松川と三笠の娘には逃げられた」

「心配するな。まだ、上田は生きているんだろう?」

「瀕死の状態だという話だが」

「青井に電話してくれ」

西崎が言う。

郷原は後ろポケットからスマートフォンを出し、青井の番号を呼び出しタップした。

青井がすぐ、電話に出る。

郷原は西崎にスマホを渡した。

「青井か、俺だ。高坂は処分した。今すぐ、捜索をやめさせろ。近隣の農家が作業を始める時間だ。俺たちがわらわらと動き回っているのが見つかるのはうまくない。それと、谷岡の遺体を聖蹟桜ヶ丘の一軒家に運べ。終わったら、郷原に連絡を入れろ。わかったな」

西崎は一方的に指示をし、電話を切った。郷原にスマホを返す。

「おいおい……。遺体を聖蹟に運んだりしたら、見つかっちまうぞ」

郷原はスマホを受け取りながら言った。

「見つけさせるんだよ」

「正気か?」

「三笠や松川へのメッセージだ。こうなった以上、猶予はないからな。一気にカタを付けるぞ。郷原、エストニア経由の回線を用意しておいてくれ。谷岡の遺体を置いてきたと同時に動く」

「娘が保護されれば、三笠は動かんぞ」

「その時は、上田の屍を屋敷に放り込んでやるだけだ」

「怖えヤツだな」

郷原が苦笑する。

「この世に未練のないヤツなんか、こんなもんだ。頼んだぞ」

「わかったよ」

郷原は言い、部屋を出た。

 

13

 

松川は隈笹が茂る山中に大木のうろを見つけ、そこに身を潜めていた。松川は倒れた木の幹にもたれかかり、いつの間にか寝ていた。千尋も松川の足を枕に横たわり、寝息を立てていた。

木の葉の先から落ちてきた朝露が松川の顔に当たった。目が覚める。うっすらと空が白んでいた。

「……もう、朝か」

松川は周囲の気配を探った。人の気配はなかった。

「千尋ちゃん、起きて」

肩を握って体を揺する。

千尋が目を開け、気だるそうに上体を起こした。

「ここ、どこなの?」

ぶるっと震え、両腕を抱く。

「わからないけど、結構な山の中だね。隈笹が生えているから」

松川は近くにあった隈笹の葉を見る。

「これで何がわかるの?」

千尋が隈笹の葉を触った。

「隈笹は比較的標高の高い山の中に自生してるんだよ。つまり、今、僕たちがいるところはそれなりの高さの場所だということ」

「それで、昨日の夜、ここで止まったの?」

「そう。山頂までどれだけあるかわからないし、もし標高が千メートルを超えるほどの山なら、山頂に近づけば寒さにやられるからね。隈笹を見た時に、このあたりが限度かなと思って」

「詳しいんだね」

「長野の山ん中で育ったからね」

松川が苦笑する。

「どうする?」

千尋が訊いた。

「もう少し明るくなったら、山を下りよう。それまでは休んでいていいよ」

松川が言う。

千尋は小さく微笑んで、倒木の幹にもたれた。

「尚ちゃん」

「何?」

松川は微笑んで、千尋を見た。

「晋ちゃんたち、大丈夫かな」

千尋はうつむいたまま、言った。

逃げる時、ちらりと見たフロアの様子を思い出す。洋介は助かっているかもしれない。しかし、谷岡は……。

「なんで、尚ちゃんたちはこんなことをしたの?」

千尋が訊いた。

松川は空を仰いだ。風に揺れる枝葉を見つめる。

「変えたかった」

「何を?」

「人生」

短く答える。

「でも、こんな方法じゃ、何も変わらなかったね。むしろ、悪くなった。当たり前の話なんだけど」

松川は天を仰いだまま、大きなため息を吐いた。

「わかっていたんだ。こんなことをしてもダメだってことは。けど……言い訳じゃないけど、晋ちゃんからこの計画を聞いた時、止められなかった自分もいた。何もかもが色褪せて見える深海の底で、虹を見たような気分だった。その先には何かある。どうせ破滅にしか向かわない人生なら、一度だけ夢を見てやろうかなと思ったんだよね」

「悪いことをして、夢も先もないよね」

「その通り。今はそのことを実感してるけど、その時は、何かが変わるんじゃないかと、半ば本気で思ってた。自分でもわからないんだ。少し冷静になって考えたら、そんなはずはないのに、なぜあの時、あの一瞬、そう思ってしまったのか。正直、今でもわからない。ただ、魔が差したというのとは違う気はしてる。もっと、何か、奥の方から突き動かされた感じかな。洋介も晋ちゃんも、同じ感覚だったと思う」

「よくわからないな」

「僕自身もそうだから、千尋ちゃんにはわからないよね。ごめん」

自嘲する。

千尋はかすかに微笑み、顔を横に振った。

「まだ動かないから、休んでて」

「うん」

頷き、幹に頭をもたせかけた。顔に髪が被さる。千尋は疲れた様子で目を閉じた。

松川は千尋を見つめ、訊かれたことを反芻した。

なぜ、こんなことをしてしまったのか。

自分の不遇に憤っていたのかもしれない。世の中に漠然とした怒りを感じていたのかもしれない。本当に人生を変えたかったのかもしれない。

どれも正解のようで、どれも違う気がする。

今となっては、身代金誘拐を断行しようと決めた時の心理もわからない。

ただ、一つだけ、はっきりしているのは、あまりに短絡的で軽率な行動を取った自分たちの人生は終わった、ということだけだった。

松川は千尋に聞こえないよう、深く深く嘆息した。

 

14

 

午前九時前、ソファーで横になっていた三笠が起き上がった。

寝る時は寝室を使っていいと言われているが、このところは書斎から一歩も出ず、そのまま寝起きしている。

ワイシャツも皺が目立ち、汗染みができている。不精髭も伸び、風呂に入っていないので臭う。

ドアがノックされた。返事もせず、ドアの方を見やる。

「おはようございます、社長」

澪が顔を覗かせた。

澪は、以前千尋の世話をしていた時に住み込んでいた部屋を使っていた。着替えは、女性警官が用意した物を使っている。

澪はトレーを持ち、中へ入った。トレーにはパンとスクランブルエッグやベーコンを載せた皿、コーヒーが載っている。

澪は、応接テーブルにトレーを置いた。テーブルには昨晩用意した夕食が、手つかずで置かれていた。

「社長、少しは食べられた方が」

澪が心配そうに三笠を見る。

三笠は虚ろな目で、宙を見つめていた。

夕食のトレーを下げようとする。

「有村君」

三笠がぼそりと口を開いた。

「なんでしょう?」

澪は笑みを作り、差し向かいのソファーに浅く腰を下ろした。

「私は間違っていたんだろうかな?」

「何をです?」

「私の家は、材木問屋をしていたんだよ」

「そうなんですか? 知りませんでした」

「話したことはないからね、誰にも」

三笠はコーヒーのカップを取った。口を湿らせる。

「老舗の問屋でね。小学生の頃は坊ちゃんと呼ばれていた。けど、内情は木材需要の低下と輸入木材によるダンピングで火の車だったそうだ。私が小学校五年の時だったかな。二度目の不当たりを出して、家に債権者が押しかけてきた。両親や住み込みで働いていた従業員を殴り倒して、我先にと金目の物を根こそぎ持っていった。それで終わりかと思えば、今度は正規の破産管財人が残ったわずかな動産まで押さえ、私たちを住み慣れた家から追い出した。たった一晩の出来事だ。昨日まで坊ちゃんと呼ばれていた子供が、次の日には家なし児。私は自分の身に起きたことが理解できなかった」

コーヒーを飲んで、手の甲で口元を拭う。

「しかし、まもなく、現実を思い知らされることになった。債権者集会に出た父がその帰り道に自殺した。追い込まれて、自らの命を絶って、保険金で清算するつもりだったそうだ。それでも足りず、母は子供に言えない仕事で稼ぎ、疲弊しきって私が中学三年の時に死んだ。母が死んだ後、保険金が入ったが、それも債権者に持っていかれた。私は一文無しで進学も叶わず、働くことになった。世はバブルに湧いていたが、私には関係なかった。身を粉にして働いて、当時の大検を受けて貯めた金で大学を出た。ちょうど、バブル末期の頃で、私は証券会社に滑り込み、金融のノウハウを得た。小さな証券会社だったが、おかげで金融取引全般のノウハウを知ることになった。やがて、勤務先が倒産したので、独立して個人投資を始めた。すぐにITバブルが訪れて、私は一廉の財を得た。それでも私は満足しなかった。なぜかわかるか?」

澪を見やる。

「いえ」

澪は顔を横に振った。

「金は有り余るぐらい持っていても、一夜で消えることがある。金を失えば、人間としての価値もなくなる。私はせめて、千尋にはそういう思いをさせたくないと思って、仕事に没頭した。しかし、それは間違っていたのか? 金に執着せず、あの子と春子と慎ましやかに生きる選択をすればよかったのか? 私が金を持たなければ、千尋をこんな目に遭わせずに済んだのか?」

三笠は澪を見ながら言う。寝ていないせいもあってか、感情が噴き出し、充血した双眸から涙がこぼれた。

こんなにも弱々しい三笠を初めて見た。

澪は微笑んだ。

「社長は間違っていません。もし、慎ましやかな暮らしを選択していたとしても、それも間違いではありません。お金があったから、千尋ちゃんが誘拐されたのは確かでしょう。けど、お金がなかったからといって、千尋ちゃんがなんらかの犯罪に巻き込まれなかったとも限りません。社長、すべては今起こっていることです。過去を振り返っても現在は変わりません。私たちにできることは、千尋ちゃんが無事に戻ってくるよう、できる限りのことをすることです。といっても、今は祈ることしかできませんが。コーヒー、もう一杯淹れましょうか?」

澪が言う。

「少し、食事も摂ってください。社長が倒れてしまわれたら、それこそ千尋ちゃんが天涯孤独となります。若い頃の社長のような思いをさせたくないなら、生きてください」

「そうだな……。そうだな」

三笠は声を震わせた。皿に載せたパンを手に取る。

澪は目を細め、立ち上がった。カップを取り、部屋を出ようとする。

と、眼に光の点滅が飛び込んだ。立ち止まり、三笠のデスクを見る。デスクトップパソコンの上部ランプが点滅していた。

「社長、パソコン使いました?」

「いや、触っていないが」

三笠はパンを持ったまま顔を上げた。

「電源ランプあたりが点滅しているんですが」

澪が首を傾げる。

三笠はパンを皿に置き、立ち上がった。気だるそうにデスクへ近づく。手をついて、パソコンを見る。確かに、電源とハードディスクのランプが点滅していた。

「なんだ……?」

三笠は椅子に座り、マウスをクリックした。

すると突然、画面が立ち上がった。驚いて、息を吞む。澪もデスクに駆け寄った。

──おはよう、三笠社長。

ボイスチェンジャーをかけた男の声がした。黒い画面にうっすらとガイフォークスの仮面が浮かび上がる。アノニマスが使う仮面だ。

三笠はパソコンの上部中央にある内蔵カメラを塞ごうとした。

──無駄だ、無駄だ。あなたの家にあるカメラはすべてハッキングした。一階は警察関係者でいっぱいだな。

「おまえ、公園から逃げた若造か!」

三笠はカメラを睨みつけた。

──そうではないが、そうであるとも言える。

「社長、野村さんたちに言ってきます!」

澪がその場を離れようとする。

──ああ、そこの女性。待ちたまえ。動くことはない。今から、下のパソコンやテレビにも回線を繋ぐ。イッツ・ショー・タイム。

不思議なことに、ガイフォークスの仮面がニヤリと笑ったように見えた。

書斎にあるテレビの電源が勝手に入った。すぐさま、モニターと同じ画面が表示される。澪はリモコンを取り、チャンネルを変えてみた。しかし、どのチャンネルもガイフォークスの仮面しか表示しない。

──三笠邸のネットワークは乗っ取った。IoTのパスワードは変えておかなければ危ないですよ、三笠社長。

何者かは高笑いを放った。

階下から複数の足音が上がってきた。ドアが開く。野村と東原、若い捜査員数名が部屋へなだれ込んできた。

「三笠さん!」

野村がデスクへ駆け寄る。

──捜査当局の方々、朝からご苦労様です。

ガイフォークスの仮面が言う。

「貴様、誰だ!」

野村が怒鳴った。

──我々は、実行犯ではないが、関係者ではある。今、三笠千尋は我々の手中ある。

千尋の名を聞き、一同の顔が強ばった。

「千尋は! 千尋は生きているのか!」

三笠が身を乗り出した。

──まあまあ、あわてないでください。声を聞かせろ、姿を見せろといったリクエストにはお応えしかねますが、元気ですよ、今のところは。

画面内の仮面がまたうっすらと笑う。

誰かが被っているわけではなく、画像を動かしているようだ。

東原が若い捜査員を見やった。捜査員は頷き、部屋から駆け出る。

──そちらの刑事さん。若い方にIPを解析させるか、回線を逆探知しようとしているようですが、無駄ですよ。アドレス情報自体を改竄していますから。

ガイフォークスの仮面が言う。

東原は舌打ちをした。

──まあ、みなさん。落ち着いてください。私は逃げません。時が来れば、あなた方の前に姿を現わします。その条件は、身代金三十億円。現金で用意し、五日後の午後六時に受け渡しをすること。

「三十億だと! そんな金はない!」

三笠が声を荒らげる。

──これはこれは、三笠社長。私はあなたの資産状況も把握している。外貨建ての有価証券、海外の不動産を売却すれば、間に合うでしょう。私が代理で売り捌いてあげてもいいですよ。

ガイフォークスの仮面が言う。

三笠は唇を嚙んだ。

──受け渡し場所は、ある一時期、夢を持った若者たちと過ごした空間。私はそこで待っています。

「そんな場所は知らん!」

──いいえ、あなたは知っています。まあ、思い出せず、あなたが指定日時にその場所へ現われなければ、千尋さんの遺体がそこに横たわるだけです。

「殺せば、罪は重くなるぞ!」

野村が言う。

ガイフォークスの仮面がふっと笑った。

──承知していますよ、刑事さん。ついでに申し上げておきますが、私は本気ですから、捜査関係者は邪魔をしないでください。あなた方の動きも把握しています。公園での受け渡し時のような邪魔をすれば、その時点で千尋さんの命はいただきます。

「そんなこと、許されるわけがないだろう!」

──許す許さないの話ではないのです。

ガイフォークスの仮面が言うと、画面から仮面が消えた。代わりにふわりと地図が浮かび上がってきた。

多摩市の地図だ。赤丸されているところが拡大する。

──捜査員をそちらへ行かせてください。私の本気がわかるでしょうから。早く行った方が良いですよ。まもなく、同じ情報をマスコミにも流します。ではまた、詳細はのちほど。

ガイフォークスのが言うと、通信が途切れ、テレビの電源が落ちた。

パソコンの画面には地図だけが浮き上がっていた。

「セイさん、すぐに調べさせてくれ」

「わかった」

東原が部屋を飛び出す。

「三笠さん、犯人が言っていた場所に心当たりは?」

野村が訊く。

「……出て行ってくれ」

「三笠さん!」

「出て行ってくれ!」

三笠は野村を睨み上げた。

「三笠さん! 連中の言うことを聞いても、千尋さんが戻ってくるとは限らない! 今度の相手は、逃げた若者たちではなさそうだ。我々も全力を──」

「私から、千尋まで取り上げるな!」

三笠が立ち上がった。

「私はもう、家族は失いたくないんだ!」

野村の胸ぐらをつかむ。

「春子だけでなく、千尋まで失ったら、私はなんのために生きてきたのかわからない! もう、私の好きにさせてくれ! 邪魔をしないでくれ!」

三笠は野村を突き飛ばした。

「三笠さん!」

野村が近づこうとする。

澪が野村の前に立った。

「野村さん、今は待ってください。お願いします」

澪が頭を下げる。

「お願いします」

ますます深く腰を折る。

「わかりました。が、我々も動かないわけにはいかない。捜査は続けます」

野村はそう言い残し、捜査員と共に書斎を出た。

ドアが閉まる。澪がようやく顔を上げた。

「有島君」

「はい」

振り向く。

「三十億の現金、用意できるか?」

「手配はしてみます」

「頼む」

三笠が言う。

澪は返事をし、一礼して部屋を出た。

三笠はデスクに両肘をつき、うなだれた。

 

(つづく)

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