単行本 - 文藝
文芸季評 山本貴光「文態百版」:2017年12月〜2018年2月(その1)
山本貴光
2018.06.05
初出=「文藝」2018年秋季号
1.なぜいま文芸時評か
これからこの場をお借りして文芸時評を始める。「文藝」といえば一九三三年創刊の古い歴史をもつ文芸誌(編集主任=上林暁、改造社)。そのような場所で、もとより文芸の専門家ではない身としてはおこがましい限りだけれどそこはそれ。土地に不慣れな者の眼にこそ映るようなことも多少はあるのではないかと都合よく考えることにして、取り組む所存。どうか一つよろしくお願い申し上げます。
さて初回ということもあって、少し確認したいことがある。一つは「なぜいま文芸時評か」という疑問。いや、身も蓋もないけれど、目下の状況を踏まえるとあながち無意味な問いでもない。というのもご存じのように、インターネットを閲覧したり投稿したりする装置やソフトウェアが普及して以来、そうしたいと思えばさほど大きな手間をかけずとも読んだ本の感想や解釈をネットに投稿できる。
実際例えば気になっている小説のタイトルでネットを検索してみよう。もちろん作品にもよるけれど、たちどころに山ほど関連するコメントが出てくる。TwitterやAmazonレビュー、あるいはbooklogやYouTubeのような各種投稿サーヴィスを覗けば、激辛から激甘までのグラデーションも豊かにたくさんの感想やコメントが投稿されているのを読んだり見たりできる。個々の人びとが本を読んで自ら感じたり考えたりしたことを即座に投稿、公開、共有し、場合によっては他の人とやりとりもできるような環境ができて久しい。
これに関連してもう一つ。先ほど名前を挙げた各種サーヴィスは、人が作品を読んでからコメントを投稿して公開されるに至る速さでいえば、目下のところ最速といってよい。ものにもよるけれどほぼ即時である。例えば今日書店に並んだ小説の感想が、その日の夜にはTwitterで投稿されるということもざらである。この速さに対して紙の雑誌の場合、例えば書評が載るまでに、書き手が読み、原稿を書いて、編集者や校閲者とのやりとり、組版、ゲラの確認、印刷、輸送、陳列、販売というプロセスを経て公開に至る。日刊や週刊の新聞は比較的速く、月刊誌なら月に一度、本誌のような季刊誌なら三か月に一度のタイミングである。
以上は善し悪しの問題ではない。ただいま現在、文芸誌やそこに掲載される文芸時評が置かれた環境を確認したのだった。つまり、いまや多くの人が文芸作品について感想やコメントを紙媒体に先んじて公開できる状況がある。そうした状況に対して、季節ごとに一度、文芸時評を提示することにはどんな意味や機能を持たせられるだろうか。加えて言えば文芸時評はすでに多くの具眼の士たちによって書かれてもいる。
もちろんそんなことは考えずにこれまで通りに書けばよいという考え方もある。それはそれで見識だ。しかしせっかくなら、お読みになるかもしれない人にとっても意味のあることをしたい。そこでもう一つ検討せねばならないことがある。文芸時評とはなにか。
2.文芸時評とはなにをするものぞ
といっても「文芸時評とは~である」と定義したいわけではない。文芸時評とは、紀田順一郎が『世界大百科事典』に書いた説明を借りて「新しい文学作品の評価や文壇の時事的な問題を論ずる批評ジャンル。明治中期に各新聞雑誌が掲載した〈月旦〉が前身」であると考えておけばさしあたっての用は足りる(興味のある向きは明治この方の文芸時評を集めてまとめた『文藝時評大系』(全七三巻+別巻五、ゆまに書房)を辿るとよいだろう。私はまだできていないけど)。ここで問題は、それではなにをどのように取り上げるかだ。
なにしろこうしているいまも世界中のあちこちで、文芸に関わる出来事が生じている。うんと対象を絞って文芸作品だけに注目するにしたって、いったいどれだけの作品が発表されていることか。
仮に小説と詩と批評・評論に限ってみても、そうした作品は実にさまざまな場所で発表されている。本誌のようないわゆる文芸誌はもちろんのこと、論壇誌や週刊誌や新聞などに小説が載っていることもある。詩や俳句や短歌の専門誌があり、批評を多く載せる雑誌がある。全国で発行されている同人誌、新刊書として書き下ろされる本もある。加えて現在ではインターネット上に文芸作品を発表する場所もあり、なんならTwitterのような短い文を投稿する場所で超ショートショート作品のようなものを投稿する者もいる。ネット上でのみ配信するエレクトリック・リテラチャーのサイトもあれば、GitHubのようなソフトウェア開発用のツールを使う者もある。ここに随想やエッセイなどを加えればこの範囲はさらに広がる。日本語に限らぬ言語を考慮するならさらに広い。
理想的には対象とする期間に公開された文芸作品すべてを読み、すべてを紹介できればよい。だが、もちろん人間の身では不可能である。というくらい多くの作品がある。つまり文芸時評では、発表された厖大な文芸作品のなかから、時評担当者が選んで読んだもののなかから、紙幅の許す範囲で論じようと選んだものについて述べることになる。以上は当たり前といえば当たり前のことである。ただし、多くの文芸時評では、取り上げる作品はどのような母集団から抽出されたのかを明示することは少ないようだ。
3.文芸的事象クロニクル
この点について、この場で試そうと思うことがある。なにはともあれ、ここで取り上げる作品は、どういう範囲から選ばれたのかを明示してみたい。これにはもっぱら二つの意味がある。第一には、読者のみなさんに「この三か月のあいだ、こういう作品がありましたよ」という一覧を提示できる。昔、認識しなければ存在せずと言った哲学者がいた。存在論としてはともかく、文芸のような作品については、そういう作品があると知らないことには始まらない。それと比べれば第二は詮無いことだが、本欄の筆者がどういう幅で文芸を観察したうえで取り上げるものを選んだのかをお伝えするという意味もある。この点では文芸方面についての私の見識が試されてしまう、というよりも見識のなさが筒抜けになるので率直に申し上げれば、私個人にとって不利益である。しかし、読者として考えた場合、第一の利点は小さくないとも思うのだ。というよりも、読者として私自身、そういう一覧が欲しいと常々思っていたので、この際できるところまでやってみようというわけである。
さてそこで、まずは仮でもよいので観察範囲を設定してみよう。ここではとりあえず以下のものを文芸的事象としてみる。
①文芸作品(本・雑誌・デジタルテキスト)
②人物
③文学賞
④展覧会・その他催事
なにはともあれ①が主な材料である。日々文学・文芸に関連してどのような本や雑誌やデジタルテキストが発行されているか。ただしこれらについてはなにをどこまで観測するかが大きな問題である。
②は文芸に関連する人物の言動もまた文芸的事象であるという見立てだ。これについてはメディアを通じて報じられるケースとして、なんらかの賞を受賞した場合や訃報などがある。あるいは生誕や没後の周年で行事が行われることもある。昨今あまり見かけなくなったようにも思われるが、作家や批評家のあいだで生じる論争なども対象となる。
③は文芸に関連する各種の賞。ノーベル文学賞や芥川賞・直木賞を筆頭にたくさんの文学賞がある。それぞれの賞について、誰がどの作品をどのように評価したのか。これについても可能な限り観測しよう。目利きによる選定は、読者にとっても参考になると思われるから。
④は文学館や博物館などで開催される文芸関連の展覧会、あるいは講演やシンポジウムなどを指す。
おおむねこのような要素に注目して、文芸的事象のクロニクルを編むことにする。「文芸的事象」とちょっと歯に物が挟まった言い方をしているのは、「文芸」の範囲を明確にできていないためである。
以上に述べたクロニクルは、紙幅の許す範囲でここにも掲載してお目にかけたい。ご覧のように文芸的事象を時系列に並べてある。一つ一つの出来事は、相互に関係なく生じていることもあれば、なんらかの関連性がある場合もあるだろう。ともあれ、ばらばらの出来事を並べてみることで、事実としてどんな文芸的事象が生じたのかをご一緒に眺め、確認してみたいわけである。
読者諸賢におかれましては、めいめいがこのクロニクルに必要な補訂を施していただければ幸いである。
4.さしあたりの観察対象
なかなか時評が始まらないことにしびれを切らしておいでの向きもあるかもしれない。もう少しだけご辛抱いただきたい。観察対象のなかでも最も重要な「文芸作品」について確認せずには先に進みようがないからだ。
本来であればここには、先にも述べたように地球上で(まだ地球外宇宙は気にしなくてよいと考えている)進行中のあらゆる文芸的事象を記録したいところ。とはいえ、能力と時間には限りがこれあり、実際に生じているはずの無数と言いたくなるような出来事の大半は拾えないのが誠に残念である。
それでも世界を対象としたいのにはわけがある。日本の状況や潮流について知りたければ、よその言語や文化と比べてみるにしくはないからだ。昔、イギリスのことを知りたかったらイギリスの外へ出てみる必要があると言ったイギリスの哲学者がいたが、けだし名言であろう。とはいえ目下のところ、観察に使える手は従来に比べて格段に増えたとはいえ、手軽に網羅できる状況ではない。
と、嘆いていても始まらない。まずはこの場所のまわりから始めよう。「文藝」の他にも「群像」(講談社)、「新潮」(新潮社)、「すばる」(集英社)、「文學界」(文藝春秋)といった文芸誌があり、これらは五大文芸誌などと呼ばれたりもする様子。
実際には「三田文學」、「早稲田文学」、「アンデル」、「小説BOC」、「現代詩手帖」、「ユリイカ」、「MONKEY」、「たべるのがおそい」、「民主文学」、「小説すばる」、「小説新潮」、「小説現代」、「小説幻冬」、「小説トリッパー」、「小説NON」、「小説Wings」、「小説推理」、「小説宝石」、「オール讀物」、「小説野性時代」、「webメフィスト」、「SFマガジン」、「ミステリマガジン」、「幽」、「TH」、「俳句」、「俳句四季」、「俳壇」、「俳句界」「短歌」「短歌研究」「メタポゾン」「本の雑誌」(順不同)……と、日本語に限っても文芸誌と言えそうな雑誌が多数出ている。果たしてこれらの文芸誌相互のあいだにどのような共通性や違いがあるのかという問題も大変興味あるところだ。例えばかつての純文学と大衆文学や中間文学といった分類や各種ジャンルによる区分は、現在も有効なのかそうでないのか。
とはいえ、はじめからあれもこれもというわけにはいかないので、まずは先に挙げた五誌を足がかりにしてみよう。ここからなにが見えてくるだろうか。