単行本 - 日本文学

「文藝」夏季号掲載、山下紘加「あくてえ」試し読み

あたしの本当の人生はこれから始まる――。九十歳の憎たらしいばばあと、面倒見が良く気弱な母と三人で暮らす小説家志望のゆめ。鬱屈を悪態に変えて己を奮い立たせる十九歳のヘヴィな日常。

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あくてえ

山下紘加

 

 あたしは日頃から、あくてえばかりつく。「あくてえ」は、悪口や悪態といった意味を指す甲州弁で、たとえば東京生まれ東京育ちのあたしが、周囲の人間に「あくてえ」と言っても、大抵の場合意味は通じない。けれどあたしからすれば悪口のことを、あくてえと言う方がしっくりくる。耳が先にそっちの言葉を覚えたからだ。母親が幼少期にCDで流した英語はちっとも耳に馴染まなかったのに、幼い頃から生活を共にしてきたばばあの話す、方言と独自の言語が入り交じった下品で野暮ったい言葉遣いは全身で吸収し、気がつけばあたしの一部になっていた。「ばばあ」という自分の祖母に対する呼称もまた、あたしなりのあくてえで、ばばあの前では「ばあちゃん」と呼びながら、陰では「ばばあ」と侮蔑を込めて呼んでいる。

 九十歳の誕生日を迎えたばかりのばばあは、来月、白内障の手術を控えている。ここ最近は、仕事を終えて家に帰ればその話題で持ちきりだった。

「だからあたしゃ、そんなこんしなんでもいいって言ってるだ。医者がしくじったらどうしてくれるだ」

 生まれつき声のでかいばばあと、耳の遠いばばあの為に声を張らなくてはいけないきいちゃんの声は、いつもマンションの二部屋先まで響いている。老朽化の進んだ鉄骨のマンションの薄い壁は余裕で隣室の声を通すが、あたしたちの暮らす部屋の向かって左は耳の遠い老夫婦、右は若い男性の一人暮らしで、ほとんど家を空けているのがせめてもの救いだった。

「ねえ、外まで声が漏れてるよ。近所迷惑」

 チャイムを鳴らさずに持っていた鍵でドアを開けて中に入り、居間に向かって不機嫌に声を張る。

 リビングのカーペットに膝をつき、ソファに座りこむばばあの顔を下から覗き込むようにして説得に励んでいたきいちゃんは、おかえりぃ、と掠れた声であたしに向き直る。

「お義母さんがね、手術受けたくないって言い出すのよ。ゆめからも何とか言ってあげてくれない?」

 上着を羽織り、職員との連絡帳が入った手提げ袋を腹に押し付けるように抱えたばばあと、乱れたエプロンを首からぶら下げ疲弊した様子のきいちゃんの姿を見て、溜息をつきながら水道の蛇口をひねる。また、帰宅早々駄々をこね始めたのだろう。揉め事は、夕食後にしてほしい。今日のように、わがままを言って家族を巻き込むのはもちろん、物忘れの激しいばばあは、よく、デイサービスから帰宅直後、持参する鞄の中に、歯ブラシがないだの落書き用ノートがないだのと騒ぎ始める。大した用件ではないので後回しにすればいいものを、きいちゃんはそのたびに夕飯の支度を中断し、ばばあの元に駆け付けて一緒になって探してやる。あたしはそのたびに苛々する。すぐに物をなくすばばあにも、いちいち相手にするきいちゃんにも。

 ばばあのなくし物は大抵は服のポケットに入っていたり、廊下に落ちていたり、単なる彼女の不注意に過ぎないのだが、あたしが指摘してもばばあはそれを断固として認めない。

「あたしゃ、こんなとこに入れとかんよ。いじんわりい奴がここにしまっただ」

 自分の非は認めず、すぐに他人に責任転嫁するので、腹立たしいやら、呆れるやらで、何も言葉が出てこない。その上、さんざん騒いだあげくに、事態が収まると我先に食卓について、悪びれる様子もなくご飯を食べ始める姿を見ると、怒っている自分が馬鹿らしく感じられる。いつだってばばあの言動に翻弄されるのはあたしやきいちゃんで、まともに取り合うだけ疲れるのだ。

 自分の物をなくす分にはまだしも、ある時はデイサービスの利用者の上着を間違えて羽織って帰ってきたり、またある時は施設の色鉛筆を勝手に持ち帰ってきたりと、家族以外にまで迷惑がかかると、きいちゃんの負担はさらに増える。デイサービスに電話をかけて職員に事態を報告し、連絡帳に出来事を記載する。夕飯の時間はさらに遅れる。これまでで一番遅れたのは、ばばあが二か所のデイサービスを曜日ごとに利用していた時だ。

 帰宅するなり「職員に、あたしを叩いてくる奴がいるだ」というばばあの訴えをきいちゃんが真に受けて取り乱し、施設に問い合わせるべきか否か、一人でおろおろした。

「ゆめ、どうしたらいいと思う? デイに電話をかけて聞いてみてもいいけど、それが原因でお義母さんが通いにくくなったら嫌だし、かといって、このまま放っておいて、もっとひどいことをされたら困るし」

 スマホの検索画面に「デイサービス 暴力」「デイサービス いじめ」と似たようなワードを打ち込んでは検索をかけ、そのたびに不安に駆られるきいちゃんを横目で見ていたあたしは、きわめて冷静だった。

「もうちょっと、様子を見たら? ばあちゃんがほんとのこと言ってるのかどうかも怪しいし」

「そんなこと言ったって─」

 仕方なく、ふたりがかりで、ばばあに叩かれた際の詳しい状況説明を促すと、すぐに綻びが出てくる。

「あれだな、あたしゃ、叩かれちゃいんな。引っ張られただ。うんと強く引っ張るからいてえだあ。そんねん強く引っ張らなんでもいいに、あの人は強く引っ張ってくるだよ。だからあたしゃでっかい声で言ってやっただ、ええからかんにしてくりょ! って。あの人、びっくらこいてたよ」

 施設職員は、ばばあを誘導する為に、少し強くばばあの腕を引っ張っただけだった。引っ張られたことに腹を立てたばばあが、虚実を織り交ぜながら話をしただけで、暴力の可能性はなさそうだった。ばばあは少しでも気に食わないことがあると、話を盛る癖がある。きいちゃんも、老人ホームやデイサービスでの職員から利用者に対する虐待のニュースを耳にしてから、敏感になっていた節があり、ばばあの言葉を鵜吞みにしてしまっていた。

 結局、きいちゃんは、ばばあの苦手な職員がいるデイサービスの利用を解除し、もう一方のデイサービスに週四日通わせることに決めた。きいちゃん自身、契約を解除したデイサービスは、職員からの報告が遅れたり、送迎ドライバーの態度に不信感を覚えていたらしく、これで良かったのだと自分を納得させていた。ばばあは自分がきっかけを作ったくせに、施設に通えなくなることに不服を言い、きいちゃんを責めた。

「せっかく仲のいいばあさんができただにな。それにみんな、あたしの歌がうまいって言って褒めてくれるから、こんどみんなの前で歌う約束をしてるだ。勝手なことしなんでくりょ」

 

 手を洗い、職場に持参している水筒からお茶の残りを飲んで一息つく間にも、きいちゃんはばばあへ手術の説得を続ける。

「手術なんてまだ先なんだから、後にすればいいじゃん。おかず、冷めるよ? 味噌汁、また火ぃいれるの?」

 しびれを切らし、横から口を挟む。今日は普段とは訳が違うのだ。明日、あたしときいちゃんは旅行を控えている。箱根に一泊二日の温泉旅行。当日着ていく服も荷物も既に準備は整っていたが、疲れているので早めに就寝したかった。 

 あたしの尖った声は、耳の遠いばばあと、要領が悪く、何事もいい加減にはなれないきいちゃんの耳には届かない。きいちゃんは、ばばあの為に彼女のすぐそばに膝をついて、大きな声でゆっくりと言葉を区切りながら話し、なだめていた。

「お義母さん、大丈夫。そんなに難しい手術じゃないから。手術したら、よぉぉぉく見えるようになるって。視力、戻るって。私もゆめもついてますから。だから大丈夫」

 数日前、眼科医に、受けるなら今がいいと言われたのだ。本当はもっと早く受けるべきだった、とも。これ以上年を重ねると、認知症になったり、手術中じっとしていられなかったりと、リスクが増えるらしい。今、ばばあの目は、レースのカーテン越しに世界を見ているようにぼやけているのだと、きいちゃんは医師から聞いた話を一言一句そのままあたしに伝えてきた。

─水晶体が濁っていて、このままだと緑内障にもなりやすいみたい。

─お義母さんの耳はどうにもならなくても、せめて目は、よく見えるようになってほしい。濁りのないクリアな視界でいられたらって。

 きいちゃんはその昔目がとても悪かったが、レーシック手術に踏みきり、長年のコンタクトレンズ生活から脱出した。手術が成功し、目の前に明瞭な世界が広がっていた時は、感動したという。その経験があるからこそ、ばばあにも同じ体験をさせてやりたいと純粋に感じているのだ。 

 耳元できいちゃんから手術の説得を受けるばばあは、眉間に皺を寄せ、鬱陶しそうに顔を背けた。ばばあは、彼女の為に大きくわかりやすく話す周囲の人々を疎ましがる。耳が遠いのは事実であるのに「耳が遠い」扱いを受けるのを、「年寄り」扱いされるのを、嫌がるのだ。それでいて、地獄耳であり、どうせ聞こえるはずはないだろうと、あたしがきいちゃんに向けて通常よりやや小さい声でばばあの悪口を話していると、「うそばっかこいちょ! あたしゃ、そんな人間じゃねえよ!」と激しく抗議する。そうかと思えば隣近所に聞こえるような馬鹿でかい声量でばばあへ注意を促すと、「なんでぇ? あたしゃ耳が遠くて聞こえんだ」ととぼけた表情で返す。実に都合のいい耳だ。

「手術したら、あれも治るだけ? あたしの目に、黒いちっくい虫みてえなもんが、見えるやつだよ」

「それは─」

 きいちゃんが思わず言い淀むと、ばばあは勝ち誇ったように声をあげた。

「なおらんだったらそんなこんしなんでもいいだ。あたしにゃ、黒い虫が見えてるだ。ほら、今も! そこにも、ここにも! ほれ!!!」

 甲高い声をあげながら、ばばあは皺の寄った手を大きく広げて、カーペットの上を這う虫を潰すように叩く。その手はカーペットから、シャツの袖をまくり上げたきいちゃんの白い腕へと移動し、虫を捉える要領で二、三度引っぱたいた。敏感なきいちゃんの肌は小さな刺激でもすぐに赤くなり、それを見たばばあの怒りはさらに増幅する。

 目の前を、虫が飛んでいるように見える飛蚊症(ひぶ んし よう)の症状があるのをいいことに、気に食わないことがあると、すぐにきいちゃんの身体を手のひらで叩くのだ。叩くといっても骨は脆く非力なばばあの暴力など、かわいいもので、痛くも痒くもない。きいちゃんも相手にしない。それでも、叩かれて嫌ではない人間などいない。現に、穏やかなきいちゃんが、眉間に皺を寄せている。あたしやきいちゃんが逆のことを行えば、たちまち抵抗できない老人を虐めてる構図になるから理不尽だ。ばばあは常に自分の「弱さ」を利用しているからたちが悪い。

「まったく、しつっこい虫じゃんねぇ。あんたにゃ見えんと思うけんど。やーだねえ、あたしばっかし変な虫が見えて」

 きいちゃんは咄嗟に首からかけた黄色いエプロンで二の腕を隠す。黄色が好きだから、きいちゃん。本名は沙織だけど、きいちゃん。母親だけど、きいちゃん。ママとかお母さんとか沙織ちゃんとか、色んな呼称を経て「きいちゃん」に辿り着いた。この呼び方が、他のどんな呼び方よりも、いちばんしっくりくる。友達親子なんて言葉があるけれど、あたしときいちゃんもおそらくそれに近い。親に対する敬意や畏怖の前に、対等であるという感覚が強い。

 きいちゃんが振り返って、部屋の前で様子を窺っていたあたしに救いを求める。また始まった。ばばあに反撃できない状態の時、あるいは一緒になって物分かりの悪いばばあを説得してもらいたい時、きいちゃんは決まってあたしの顔を見る。目玉焼きの柄が入ったエプロンは少しダサくて、調理中についた染みがたくさん付着し、肩紐は縒れている。元夫から誕生日にもらったエプロンを別れた今でも平然と生活の中で身につけているあたり、きいちゃんはどこかズレていて、でもだからこそ目の前のばばあとも生活を共にしていけているのだとあたしは呆れつつ感心する。

 きいちゃんの、手入れを怠るとすぐにぼさぼさになる野暮ったい眉に、目尻の垂れた黒い大きな目、何かをこらえるように嚙みしめた唇─。困り顔が、板についてきた。立場上、嫁よりは孫の方が余計な気など遣わずに発言できるとはいえ、損な役回りだ。

「ばあちゃん、ビビってんじゃないの? 手術、怖くなったんでしょ? ついこの前まで、もっと早くに手術受けときゃ良かったとか言って、強気な発言してたじゃん」

 嫌みったらしく煽ると、ばばあの目の色がさっと変わる。ばばあの言葉を借りれば、ちっくいちっくい彼女の目が、新たな標的を見据えて鈍く光る。ちんまりした小粒な瞳。加齢とともに落ち窪んだ目周りの皮膚のせいか、瞳まで翳って見える。そのちっくい左目が真っ赤に染まったのは先日のことだった。

「ゆめ、ちょっと来て。お義母(か あ)さんの左目が赤いの」

 デイサービスから帰ってきたばばあを出迎えたきいちゃんは、顔を見るなり不安げな声を漏らした。手を洗い、うがいをし、着替えを終え、食卓についたばかりのばばあはご機嫌で、施設で披露する覚えたての歌を、小さな身体を揺らしながら口ずさんでいる。

 きいちゃんに呼ばれたあたしは、いやいやばばあの近くに行って彼女の顔を覗き込む。「お義母さん、ちょっとだけ顔上げてくれる?」と、きいちゃんが手をばばあの両肩にのせ固定する。顎が鎖骨につきそうなほど首が曲がっている為、顔を見るのも一苦労だ。一目見て、すぐに「赤っ!」と声が出た。白目の広範にわたってべったりと塗りつぶされたような赤で色濃く染まっている。

「こわ……」とテーブルに手をついて後退しながら呟くと、ばばあは真剣な眼差しで「あたしの目、そんなに赤いだけ?」と、あたしときいちゃんの顔を交互に窺った。

「うん、お義母さんの目、真っ赤。すごく赤い……。朝、デイに行く時は赤くなかったと思うけど。いま、鏡持ってきますね」

 きいちゃんが手鏡を取りに行っている間、あたしとばばあはリビングに取り残される。きいちゃんがいない、ばばあとふたりきの時間を煩わしく感じるようになったのはいつからだろう。幼い頃から一緒に暮らしてきて、かわいがってもらった時期や、甘えていた時期もあったはずなのに、今ではわずかでも肌に触れることに抵抗を感じ、ごく普通の日常的な会話のキャッチボールをするのにも妙な緊張を覚える。しかし例外はあって、皮肉や悪態や嫌みの応酬といった言い争いのみ、あたしたちのコミュニケーションは成立する。逆に言えば、争わない限りコミュニケーションはとれないのだ。激しい舌戦の最中に、時々ばばあをとことんまで貶めたい衝動に駆られ、神経を逆撫でしようと罵倒すると、いつも横からきいちゃんに窘(たしな)められる。

「ゆめ! お義母さんの血圧、上がっちゃうから」

 あたしは意地悪な孫だろうか。

 何かを発端にあたしとばばあがいがみ合ったり憎しみあったりして険悪なムードになろうと、家庭の中で揉め事が起ころうと、深刻な問題にまで発展してこなかったのは、三人の間に通底する奇妙な明るさや楽観性に加え、鳩の帰巣本能のように、戻るべき場所に戻ろうとする習性が働いているような気がしてならない。

 手鏡を持ってリビングに戻ってきたきいちゃんによって、あたしの思考は中断された。

「えらい赤いじゃん」

 ばばあもその赤さに驚いたように、鏡をしげしげと覗き込む。

 眼科医の診断の結果、目の血管が切れる結膜下出血だということがわかると、きいちゃんはホッとしたように胸を撫でおろした。加齢によって血管が弱くなっているのが原因で、自然治癒で数日中には症状は落ち着くという。医師から白内障の手術を検討するよう言われたのはその後のことだった。

 処方された点眼薬を朝夕とさしてもなかなか赤みの引かない目をむいて、ばばあがあたしを睨みつけてくる。あたしがばばあに憎まれ口を叩くのは、何も自分の為だけではない。きいちゃんの為でもある。争いごとを好まない元来の穏やかな性格もあってか、きいちゃんはばばあに対しては遠慮がちで、言い返さず、彼女の言葉を鵜吞みにし、勝手に傷ついたりストレスを溜めこんだりする。それを抑止する為にも、あたしはその場に立ち会ってばばあに反撃し、制裁を与えてやらなければいけない。しかしそうは言いながらも結局はあたしが感情的になり、ばばあは興奮し、それを間に入って止めるきいちゃんに余計負担がかかっているのも事実だった。

 痛いところを突かれた悔しさからか、ばばあはあたしを睨んだまま、「あくてえばっか言って。かわいげのない子だねぇ」と恨みがましくこぼす。梅干しみたいに縦皺だらけの唇をすぼめて。それから、手術がおっかねえわけじゃねえだ、と声を荒げた。

「あたしゃ、下手にいじくられたかねえだけだよ。今だって、めえてるだから。わざわざたけえ金払って、わけわからん医者に自分の目ぇいじくられるのが嫌なだけだよ。金だって、ええかんかかるずら? 誰が出すだ? 裕一か? いまの職場でいくらもらってるだか知らんけんど、たいしたことねえだ。家族にも飯食わさなきゃいけんだから」

 痩せ細り、ほとんど骨と皮みたいな風貌にくわえ、聴力は著しく低下しているのに、ばばあの声にはあたしやきいちゃんよりもずっと張りがある。若い頃は大きく張りのあった胸はいつしか重力によって垂れ下がり、今では乳首の先が腹部につくほどで、パンツのウエストによく胸が巻き込まれては、いてえいてえと声をあげる。おならやげっぷも食事中でもお構いなしにこぼし恥じらいの欠片もない癖に、若い男性を見ると色めき立つ。首や背中は大きく曲がり、一度座ったら立ち上がるまでに長い時間を要するほど筋力は衰えているのに、食欲はいつまで経っても衰えない。それどころか、日に日に増していくようで、きいちゃんが止めない限りは菓子でも米でも際限なく口に運ぶ。満腹中枢がいかれている、と周囲は言うけれど、それだけではないだろうとあたしは思う。食べることが生きることに直結しているのだ、おそらく、本能的に。

「お金のことは、お母さんが心配しなくても大丈夫ですよ。私がなんとかするので」

 きいちゃんが珍しく毅然とした態度で返答すると、ばばあはふんと鼻を鳴らして顔を背ける。パンツのウエストから飛び出た白いゴムを指先でいじりながら、「いいから、早く針と糸貸してくれちゃあ」と急に話題を変える。目についたものへ一瞬で意識が逸れるのだ。きいちゃんは首を横に振る。

「貸せません。必要であれば私が直すので言ってください」

「なんで貸してくれんだ。ったく、何でもかんでもさしちゃあくれん。あたしだって気いつけてるだからだいじょぶだ」

「だめです。針はなくしたら危ないので」

 もう何度も繰り返しているやり取りを、ばばあが懲りずに持ち出すので、さすがのきいちゃんも辟易した様子でその場から立ち去ろうと腰を上げる。なくすから、針は渡したらいけない。火事になるので、キッチンに立たせてはいけない。すぐにつまずいてこけるので、ばばあの動線には物を置いてはいけない。日常生活で身についた注意事項を、あたしは心の中で唱える。大したことではない。大したことではないのに、とても億劫に感じる。ばばあが反発するからだ。もともと裁縫好きだったばばあは、数年ほど前から針の扱いが雑になり、なくすようになった。見かねたきいちゃんが取り上げてからは、貸してほしいと頼むばばあと断固拒否するきいちゃんの会話の応酬が絶えない。キッチンへの立ち入りは、ばばあが鍋底にひっついたタッパーの蓋に気づかずにコンロにかけ、燃やしてしまった一件があったからだ。きいちゃんとあたしの目をかいくぐって冷蔵庫の食品に際限なく手をつけていた時期もあった。きいちゃんが留守の時、ばばあがキッチンに行く素振りを見せると、あたしが必死に妨害する。ばばあはあたしに悪態をつく。あたしは言い返す。親父がいなくなってからずっと、あたしやきいちゃんは、ばばあと攻防を続けてきた。

続きは2022年4月7日発売 「文藝」夏季号でお楽しみください。

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著者

山下紘加

1994年、東京都生まれ。2015年、『ドール』で第52回文藝賞を受賞しデビュー。

Twitter→@hirokayamashita

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