単行本 - 日本文学

この夏最高にエモいロードノベル! 佐原ひかり『ペーパー・リリイ』刊行記念、冒頭試し読み公開!

2021年『ブラザーズ・ブラジャー』で鮮烈にデビュー、大注目の新鋭・佐原ひかりさん。このたび待望の新作長篇『ペーパー・リリイ』が発売となりました。本書刊行を記念して冒頭部分を公開します。

著者:佐原ひかりさん (撮影=小原太平)

 

 

野中杏、17歳、結婚詐欺師の叔父に育てられている高校2年生。夏休みの朝、叔父に300万円をだまし取られた女性キヨエが家にやって来た。キヨエに返してやりたい、人生を変える何かをしてあげたい。だってあたしは「詐欺師のこども」だから。家から500万円を持ち出し、杏はキヨエと一週間限定の旅に出る。目指すは幻の百合!

年齢も性格も何もかも違う女性二人の爆走ロードノベル、是非お楽しみください。

 

===↓試し読み↓===

 

ペーパー・リリイ

佐原ひかり

 

ペーパー・リリィの表紙画像

 

 怪鳥の断末魔みたいな叫び声で飛び起きた。

 なになになに、と肌布団を摑んで引き寄せる。心臓がドコドコ鳴って痛い。胸を押さえながら声がした方を見ると、闇の中、何かがじたばた動いている。こわっ。なんだあれ。目をこすりながら、枕元の携帯に手を伸ばす。ライトをつけるより早く、そいつはずんずんと近づいてきて、あたしの両肩を摑んだ。

「杏!」

 間近に、知らない女の顔がある。細かい目鼻立ちまでは見えないが、つるんとした白い顔で、闇夜の卵って感じだ。厚みのある手がじっとり汗で濡れていて、肩が一気に熱くなる。

 誰だこいつ、と記憶をたどっているあいだにも、そいつはやばいやばいやばいとあたしの肩を揺さぶり始めた。脳みそがシェイクされて頭が余計にまわらない。

 そもそもここはどこだ。あたしも女も浴衣っぽいものを着ているし、畳に敷かれた布団的にも旅館のような場所だが、どうしてあたしは知らない女とこんなとこに泊まって――いや、知らないことはないかも。そう。知らないことはないが、名前が思い出せない。今日知り合ったばかりの、いや正確には昨日か? 携帯で時間を確認する。二時十五分。昨日だ。昨日の朝。そう、えー、名前なんだっけな。名前……ていうかクーラー切れてんじゃん。寝汗やばいな、乳の下めっちゃぬめってる……なんだっけ……だめだ、眠気がまぶたを撫でて、思考がなかなか前に進んでくれない。

 もういいや、あした起きてから考えよ、と意識を手放そうとした瞬間、ぶうん、という羽音が耳元をかすめた。女の、キョエエエーというクソデカ悲鳴が耳をつんざき、(たぶん)海馬的なところに突き刺さって、思い出した。

「なに、キヨエ。ねむいんだけど」

「虫虫虫! 虫よ杏! 虫がいる!」

「はあ」

「わ、あ、わ、わたしの枕元で、あいつ、あの虫、わたしの顔をじっと見てて」

「あー、それはキヨエの寝顔がかわいいから見惚れてたんだよ、まちがいない、おやすみ」

 体に巻き付いた腕を引き剝がして布団にもぐりこむ。

 眠気に任せて意識を手放そうとしたが、ちょいちょいちょい、と頰をぱちぱち叩かれ起こされた。

「なに寝てんのよ!」

「声デカ……いや寝るでしょ、何時だと思ってんの」

「虫に時間は関係ないのよ!」

 人間には関係ある。二時十五分。網戸の外は真っ暗だ。夜蟬がジージー鳴いてうるさいが、あと四、五時間は余裕で寝られる。

「協力して。あいつを叩き出すの」

「もー、ほっときゃいいじゃん。害ないし」

「あるでしょ! 寝てる間に顔の上とかにのぼってきたらどうすんのよ。口の中に入って、そのまま飲み込む可能性だって……」

 自分の想像にぞっとしたのか、キヨエはごくりと唾を飲み黙り込んだ。その隙にもう一度目を閉じて眠ろうとしたが、気づいたキヨエにまた揺すぶられる。

「あんたもね、女子高生ならもっとキャーキャー言いなさいよ」

「だる……もうさあ、それ言うなら、キヨエだっておばさんなんだから虫の一匹ぐらいでギャーギャー言わないでよ」

「おばさんだってこわいものはこわい!」

「女子高生だって平気なもんは平気。じゃあおやすみ」

 背中を丸め、本格的に寝入ろうとしたが、キヨエは揺すぶり攻撃をやめない。

 馬鹿力で、畳に敷かれた布団が滑り、民宿らしい漆喰しつくいの壁にどんどん体が近づいていく。退治するまでやめるつもりはないらしい。

 オーケー。

 落ち着こう、と自分に言い聞かせる。

 選択肢はふたつ。

 その一、自分を石だと思い込み、たとえ額がこのまま漆喰にめり込もうと我慢して寝る。

 その二、すみやかに虫を外に追い出し寝る。

 その三、ただちに跳ね起きキヨエの首に脚を回し三角固めで締め落とすというのもなくはないが――、やっぱり現実的には二択だ。

 こんなことなら選択体育で柔道を取っておけばよかったかもしれない。ダンスか柔道かで柔道を選ぶやつの気が知れない、ゆるくテキトーにその場しのぎでリズムにのって気持ちよく、そういうのがあたし向きで、汗水たらして取っ組み合うなんて冗談じゃない、と思っていたが、こんなところで役立つ可能性は考えていなかった。

 電気つけて、と命じると、キヨエは即座にあたしから離れて、照明から垂れ下がっている紐を引っ張った。

 極力目をほそめ、手でひさしをつくりながら、部屋を見渡す。端に寄せた大荷物、ぐっちゃぐちゃになった敷き布団、茶菓子の袋と飲みかけの麦茶が置かれた座卓、と、一通り目視したが見当たらない。

 あそこよ、と部屋の隅に身を寄せたキヨエから指示が飛んでくる。やたらと緊張感を出してきて、悪魔祓いでもしている気分になってきた。山と海に挟まれたこんな古い民宿、そら一匹や二匹くらい虫もいるだろ。ていうかキヨエが菓子袋放りっぱにしてたせいなんじゃないのか。

 コンセントの差し口の横でおとなしくしているそいつは、確かに思っていたよりは大きい。なんの虫かはわからないが、黒くてころっとしている。クマバチっぽい丸みがあって見ようによってはけっこうかわいい。

 なんだかなあ、とやるせない気分になってくる。

 この虫の棲処にこっちがお邪魔しているようなもんで、他所からやってきて一泊するだけのやつらに追い出されたり、ましてや殺されたりするなんてかわいそうすぎないか。

 町に下りてきて迷惑がられている猿とか鹿だって、あれだってもとをたどれば人間が環境破壊を繰り返した結果、自然と町との境目が壊れたわけであって、それを害獣、悪者扱いするなんて、そんな勝手な話はない。もともとこちらが悪いのなら、あたしたちはしっぺ返しを甘んじて受け入れるべきではないでしょうかと社会の授業の課題で書いて提出したら、野中さんはやさしいですね、とコメントが返ってきて、そのとき、あたしは、なんとも言えずしょっぱい気持ちになった覚えが――。

「杏!」

 キヨエの悲鳴に、あ、やべ、と急いで館内案内の紙を丸めたが遅かった。虫はおそるべき速さでブウウンと空を切ってキヨエの額にぶち当たり、バチンと派手な音を立てた。

 

 

 片側一車線の道路はところどころゆるやかに湾曲しながら、海に張り出した岬まで続いている。真っ青な空と紺の海に挟まれた白いガードレールは、細く長い光の線となり、遥か先の消失点まで輝いている。もうしばらくは、この、朝の光に乱反射する海を見ていられそうだ。キヨエ越しではあるけれど。

 助手席ではなく、後部座席に座ればよかった。この調子なら当分はナビも要らなさそうだし。

 ハンドルを握るキヨエはぶすむくれていて、せっかくの海をちらっと見ようともしない。『マルサの女』みたいな、顔の半分ほどある大きなサングラスをかけて、ただじっと前だけ見ている。

「キヨエ、ほら海海。窓開けて」

「いやよ。せっかく冷房効き始めたところなのに」

「じゃ、せめてサングラス外しなよ。せっかくの絶景なんだから。対向も来てないし」

「いや」

「なんで?」

「この顔見たらわかるでしょ。これ以上そばかす増やしたくないの」

 ハンドルから片手を離し、キヨエが顔の前でぐるぐると指を回した。そのまま、鼻筋と両頰に散ったそばかすをいまいましそうにこする。

「いいじゃんそばかす。エモい」

 メイクや装い次第でアンニュイにもヘルシーにもなれる。雑誌のモデルや外国の映画の登場人物でも、そばかすのある人のほうがすてきだし、目を惹かれる。

 最高に褒めたつもりだったが、キヨエは、

「出たよエモ……」

と、苦々しくつぶやいただけだった。

「エモはいいけどね、杏、これからずっとそんな恰好でいく気? 絶対後悔するよ」

 そんな恰好って、タンクトップとショートパンツのセットアップに、黒サンダルだ。いたって普通の夏の装い。リネンで風の通りがいいし、動きやすい。少しくすんだオリーブグリーンも涼しげで、お気に入りの一着だ。

「大丈夫だって。日焼け止め塗ってるし。キヨエこそもっと涼しい恰好すればいいのに。カーディガンはまだしも、夏にそのデニムって暑くない?」

 七分袖のホワイトカーディガンに、足首まであるワイドのインディゴデニム。あたしは普段、こんなダボッとしたシルエットのボトムスは穿かないからわからないが、中に熱気がこもるんじゃないかと思う。

「あんたと違って、出せる体じゃないの」

「出せる体って?」

「あんたみたいに背が高くて、腕も脚もそんだけ細けりゃ出すってこと。なんなの? 最近の若い子。学校の子とか、みんなそれが普通なの?」

「そんなわけないじゃん。あたしのスタイルが良いだけだよ」

 笑い飛ばすと、キヨエは絶句して、新人類、とうめくようにつぶやいたきり、運転に戻った。

 キヨエの横顔を見るのも飽きて、助手席側の車窓に目をやるが、緑が流れていくばかりだ。これもこれで飽きる。結局、少しだけ体を捻って、はす向かいに広がる海を見続ける。

 海が青い。山は緑。岬は遠い。小顔で手脚が長いのが「スタイルが良い」ということなら、あたしはスタイルが良い。事実、あたしは百六十七センチあり、手脚ももてあますほど長い。

 富士山は高い。たとえ富士山が「いや高くないですよ」と謙遜したって高いという事実に変わりはない。エベレストさんと較べたら、という逃げ方もあるが、誰かを引き合いに出してまで否定するのもばからしい。

 小顔、色白、大きな猫目、くっきりとした二重まぶた、高く細い鼻、L字型の顎、細くて長い手脚。今の日本の美的基準で考えるなら、あたしはおそらく美人という生き物だ。良い、とされるパーツが体のいたるところにモリモリくっついている。妬まれることはあれど、けなされることはまずない。美人だね、も、綺麗だね、も腐るほど聞いて育った。でもそれだけだ。なんのおもしろみもない。

 美しい、は狭い。かわいい、はもう少し広い。エモいって、もっと広い。広いのがいい。ゆるいのがいい。狭いのはつまらない。つまらないものは、つまらないくせに、強く、排他的な力をもっていて、それもまた気にくわない。

 キヨエは、えもいわれずエモい顔立ちをしている。

 垂れ気味の目と目のあいだはちょっと離れていて、両の目尻には、くるくるぴょこぴょこ跳ねた天パの髪がかかっている。墨みたいな真っ黒な髪の分け目からぽこんと飛び出た白くて丸いおでこ、少し上向きの鼻、ぽてっとした唇。既存の褒め言葉が追いつかないような、ありきたりな形容詞につかまらないような見た目。あたしみたいな誰でも描けるような顔とは違う。個性とおもしろみがあって、すごく魅力的だ。あたしはいつも絶妙さに感動しながらその顔を見下ろしている。なのに、本人はどうも気に入っていないようで、隙あらば卑下を繰り出してくる。

 ダッシュボードに置いていた携帯がブブと震えた。腕組みをほどいて指を伸ばす。

「佐々木さん?」

 キヨエが真っ直ぐ前を見たまま訊いてきた。確認して、違う、と答える。

「ていうか、“佐々木さん”じゃないから。本名は野中京介。今年で三十六歳」

「さんじゅうろくさい……」

「何歳って聞いてた?」

「三十九歳」

「そのぐらいならぜんぜん誤差誤差。京ちゃん、見た目が年齢不詳なのをいいことに、下は三十から上は四十三までやってるから」

 京ちゃんもおもしろくてふしぎな顔立ちをしている。

 一重まぶたのわりに目は大きく、笑えば柔和そうな垂れ目に見えるが、真顔だと吊り目に見える。どちらかと言えば丸顔で少年ぽさが残る童顔だが、頰や口周りの肉は少しけていて、角度によっては辛酸なめ尽くした老人のように見えることもある。表情や髪型、ひげの有無でがらりと印象が変わる顔だ。

 キヨエはしばらく黙っていたが、やがて大仰に息を吐き出した。

「そこぐらい、本当のこと言ってくれてもよかったのに。三十六なら、そこまで年齢も変わらないのに」

「でもキヨエ、年上のほうが好きでしょ」

 指摘すると、これ以上はない、というぐらいキヨエの口角が下がった。

 ビンゴだ。京ちゃんはその辺を見抜くのがばつぐんに上手い。相手が自分に求めるものを嗅ぎ取って与える力。というか、下手だったらあんな稼業務まらない。

 昨日家を出てから、ほぼ一日経つ。京ちゃんもさすがに帰っているだろう。あたしがいないことに気づいている。

 普段なら、二、三日家を空けても連絡は来ない。でも、今回はあの書き置きがある。事態を把握したとして、京ちゃんは警察にはいけない。行き先は、自力で考えるか、あたしに訊くか、キヨエに連絡を取るかしかない。いくら京ちゃんが放任主義とはいえ、放置できる事態じゃないはず。でも、連絡はまだない。あたしにも、キヨエにも。

 八月の日差しが絶え間なく車内に降り注いでくる。クーラーは効いているが、肌がじりじりと焼けて熱い。サンバイザーを下ろしてみたが、そこまで効果はなかった。

 岬に近づくにつれ、だんだんと細かいカーブが増えてきた。それでも、負荷も酔いもとくに感じていない。

 まだ一日ほどしかキヨエの運転を見ていないが、キヨエはおそらく運転が上手い。

 上手いというか丁寧。無茶をしない、お手本のような安全運転だ。うっかりすると眠ってしまいそうななめらかさで、いかんいかん、と頭を振る。あたしより、キヨエのほうが疲れているし眠りたいだろう。サングラスに隠れてわかりにくいが、顔には疲労が色濃く浮かんでいる。

 昨晩、虫にぶち当たられた後、キヨエは必死に顔を洗っていた。あたしはその隙に眠ることに成功したが、キヨエはきっと中途半端な睡眠しか取れていない。あたしは免許を持っていないから、運転を代わることもできない。あんなに渋らずに、虫でも何でもさっさと退治すればよかったな、と今さらながら反省する。運転してもらっているのだから、あたしもそれに見合った何かをしてあげたい。

 地図アプリを立ち上げて、走行位置を確認する。引きで全体図を見て、お、と再度拡大する。南下した先に温泉街がある。アプリを切り替えて、ハッシュタグでホテルを手早く探していく。いくつか目星をつけて、予約サイトで空き状況を確認し、キヨエに画面を見せた。

「今日さあ、ここ泊まんない? ツインが一室空いてる。夕食と露天付き。旅館だけど和モダンでシモンズベッド入れてる。アメニティもブランドもの」

 キヨエが目だけこちらにやって、うーん、と渋い声を出した。

「気に入らない? こういうところがいいとか、リクエストあれば他探すけど」

「気に入らないわけじゃないけど……」

「なに?」

「高いでしょ、そこ」

 それが理由か。なーんだ、と笑う。

「キヨエ、あれ忘れてるでしょ」

 後部座席に置いた紙袋をあごでしゃくって示す。

 縦長の紙袋は、スポットライトを当てられたように白く神々しく光り輝いている。家にあるお金をぜんぶ突っ込んできた。少なくとも五百万はある。

「宿泊代見てみ? ひとり二、三万てとこだよ。今のあたしたちがビビる額じゃないって。むしろじゃんじゃん遣っていかないと。あと一週間もないんだから」

「でも」

「半分以上はキヨエのお金。残りも、なるべく遣っていこうって決めたじゃん。キヨエがやられたこと考えたら、このぐらい慰謝料の範疇だって」

 キヨエはどう言ってもお金を遣い込むことに抵抗があるみたいで、昨日も宿泊場所で散々揉めた。

 そうしてキヨエの意思を尊重した結果、日暮れまで宿が見つからなくて、あの海沿いの古い民宿に泊まることになった。

 あたしはそれでもいいけど、キヨエはもう御免こうむるだろう。そう力説したら、虫事件がよっぽどトラウマになったのか、それもそうね、とようやく首を縦に振ってくれた。

「実はさあ、一回ぐらいこういうところ泊まってみたかったのよね」

「いいじゃんいいじゃん、夢叶えよ。ここなら絶対虫とか出ないし」

「間違いない。それが一番大事。あとなんだっけ? 夕食付き?」

「露天も付いてる」

「ベッドは?」

「「シモンズ!」」

 ふたり同時に叫んで笑う。

「よっしゃ、テンション上げてこ」

 携帯をスピーカーに同期させ、あたしが小学生の頃に流行ったKPOPを流す。

 なつかしー、と言って、キヨエが窓を開けた。潮風と潮騒が流れこんできて、一気に夏のドライブ感が出始める。

 Hooo! と声を張り上げると、キヨエは、うるさ、と顔をしかめながらも、そのうち曲に合わせてチュクシッチュクシッと口ずさみ始めた。

 

 

 景色のピークは岬を過ぎるまでだった。

 そこからは一転して殺風景な工業地帯と住宅街が続き、あたしたちのテンションを下げるには充分すぎるほどくすんだものになった。

 あたしもキヨエも上げすぎたテンションの反動でぐったりしてしまい、歌うことも話すこともなく、凪いだ空気が流れ続ける。高速に乗って、目当てのサービスエリアに着く頃には正午を回っていた。

 シートベルトを外して、キヨエよりひと足早く車から降りる。

 青、というよりは藍色に近い車はキヨエが自分の家から乗ってきたもので、あたしは、こうやって周りの車とくらべる機会があるたび、いいじゃん、とひそかに悦に入っている。

 悪目立ちするわけじゃないけど、あんまりかぶらないような色。この七日間の、あたしたちの相棒。

 最近話題だというサービスエリアは、木のやぐらに全面ガラス張りの建物がくっついていて、遠目には何かの博物館のようにも見える。中は三階建ての左右対称のつくりになっていて、高い天井からこれでもかとふりそそぐ照明の光で、木目調の壁も床もオレンジに輝いていた。

 コンサートホールでもイメージしているのか、館内にはクラシックミュージックが流れている。家族連れで混んでいたが、盆シーズンギリ手前ということもあって、座る場所はすぐに確保できた。

 一度来てみたかった、というキヨエは、使用中の卓札を置くやいなやタッチアンドゴーで席を離れた。最初は、はしゃぐキヨエにくっついて一緒に見て回っていたが、途中でそれぞれ食べたい物を探しに分かれる。

 冷製トマトラーメンをトレイに載せて席に戻ると、キヨエはもうカレーを食べ始めていた。ヘアゴムで髪を束ね箸を割る。ガラスの器でよく冷えた麵を勢いよくすすると、トマトの酸味とガーリックの旨味が口の中で麵と絡み合うのがわかって、むはあ、と声が出た。すぐにもうひと啜りして、もっちりとした細麵をもちゃもちゃ嚙む。レンゲで、浮いている角切りのトマトとパルメザンチーズごとすくって、スープを喉に流し入れる。酸っぱくて濃厚で、喉が幸せに渇く。

 氷水をごくごくと飲み干してから気づいた。

 キヨエがこちらをじいっ、と見ていた。

「なに」

「それにすればよかった」

「ええ?」

「そんなの、どこで売ってたの」

「どこって、フツーにその辺にあったけど」

「ふうん……」

 キヨエは依然、あたしの食べかけのラーメンを物欲しそうな目で見ている。

「追加で注文すればいいじゃん」

「だめ。こういうのは、ひとりにつきひとつなの」

 なんじゃそのトンチキ思想、と笑い飛ばそうとしたが、キヨエは思いのほか真剣な顔をしていた。

「いつもそうなのよ」

「はあ」

「そういうスペシャルなものが見つけられないっていうか。見逃すっていうかババ引くっていうか」

「いやそのカレーはカレーでおいしそうだけど」

 どこにでもありそうっちゃありそうだが、異物混入していたわけでもなし、ババ呼ばわりはいかがなものかと思うが。

「違うのよ。これにかぎった話じゃなくて。さっきもそうだったの。入ったトイレに羽虫がいた。二匹もね。うん十もの個室があって、よりにもよって二匹も虫がいるところに入る? でも入るのよ。選んじゃう。それがわたしなの。きっと、あんたみたいな子は虫がいるようなトイレを引き当てることはないんでしょうね。そういう星の下に生まれてない、って感じがする」

 愚痴っぽく一気に言い切って、キヨエがカレーに目を落とした。そのままふたたび黙々と食べ始める。

 知らねー、と思いながらあたしも残りの麵を啜ろうとしたが、今の話の後じゃ食べづらいことこの上ない。

 器には、麵もスープも具もまだあと三分の一ほど残っている。ひとくち食べる? と言いかけたが、さすがに昨日知り合ったばかりの他人が口をつけたラーメンは食べたくないだろう。

 ひとりにつきひとつ、なんて。

 そんな窮屈なルール、自分に課していいことなんかいっこもないと思うが、キヨエはそれにのっとって生きてきて、そう生きていると言う。そして、それがことごとくババだと言う。

 もし京ちゃんがキヨエにとってそのひとつということなら、それはもう、まごうことなきババだ。

 そういうのを引き当てるかどうかの話でいくなら、あたしは確かにキヨエの言うように「そういう星の下」には生まれていない。虫がいるトイレに入ったこともなければ、ババ男を引いたこともない。というかそんな不運な人生想像もつかない。

 お腹をさわりながら、自分の腹具合を確認してみる。まあ、いけるだろう。

「あのさあ、食べたいなら、あたしおかわりするけど、半分要る?」

 氷をかみ砕きながら言うと、真っ赤な福神漬をスプーンでつついていたキヨエが、手を止めてあたしをまじまじと見た。

「あ、替え玉とかじゃなくて。新しくおかわり。要るなら取り皿だけ貰うから」

 理解したのか、キヨエは眉をハの字にして、口の前で手を振った。

「わたし、そんなつもりじゃ」

「違う違う。そういうのじゃなくて、ほんとーにまだ食べたいんだって。あたし十七だよ? 育ち盛りなの。ラーメン一杯じゃちょっともたないっていうか。京ちゃん小食だし、家じゃそこまで食べられないから、こういうときに食べ溜めしときたいっていうか」

「ほんと?」

「うん」

「ほんとのほんとに?」

「ほんとのほんとのほんとに!」

 ちょこっとうそだけど。まああと半杯ぐらいなら食べられないことはない。多少は無理してでも、ここはあたしが誘惑・・しないと。キヨエには、そういう経験が要るんだから。ひとりにつきひとつ、をやぶる経験が。

 キヨエはあたしとラーメンを見比べながら、

「痩せの大食いって本当にあるんだ」

としみじみ言った。

 

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続きは単行本でお楽しみ下さい

 

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著者

佐原ひかり

1992年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部卒。2017年、第190回コバルト短編小説新人賞を受賞。2019年、第2回氷室冴子青春文学賞大賞を受賞、『ブラザーズ・ブラジャー』で一躍注目を集める。

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