単行本 - 日本文学

衝撃の問題作!柞刈湯葉『まず牛を球とします。』 刊行記念、無料全文公開!

 

〈「衝撃の問題作!」みたいなキャッチコピーはみなさん食傷気味だと思いますが、「まず牛を球とします。」は別の出版社で「倫理的にダメ」とボツになったのをそのまま発表したので、わりと文字通りに問題作です。〉
『横浜駅SF』で鮮烈なデビューを飾った柞刈湯葉さんの最新作品集『まず牛を球とします。』が発売となりました。
冒頭の言葉は、柞刈さんご自身が表題作の発表時にツイッターで語ったものです(一部、変更)。
この「文字通りに問題作」な表題作の他、「犯罪者には田中が多い」「家に帰ると妻が必ず人間のふりをしています。」「大正電気女学生~ハイカラ・メカニック娘~」、長編『未来職安』の原型「東京都交通安全責任課」など奇想天外な作品群、全14編を収録。
しかも、うち2編は書き下ろし!……1945年8月、広島に投下された原子力爆弾が不発に終わった衝撃のパラレルワールドを描く「沈黙のリトルボーイ」、コロナ禍に現れた「令和二年の箱男」と、問題作だらけ。

星雲賞の参考候補作になった際に無料公開した「まず牛を球とします。」は、大きな反響を巻き起こしました。
単行本化を記念して再度、ここに無料公開をいたします。
ぜひ、衝撃の未来ビジョンを皆様もご堪能下さい。
全人類が心安らかに牛を食べられる日は来るか!?

 

 

===↓試し読み↓===

 

柞刈湯葉『まず牛を球とします。』

 

 

きゅうよりも立方体のほうが、隙間がなくて効率的なのでは?」
 後列席の中年男が手をあげて、発言を許可する前にそう言った。ああ、面倒な見学会になるな、とおれは直感した。
 たしかに「説明中は随時質問してかまいません」とは言ったが、少しはタイミングとか話の流れといったものを考えていただきたい。開始五秒で質問するというのは、こちらが話の組み立てもできない無能だと思っているわけだ。広報員としてはいい気がしない。
 ぎゅう工場の設備を見下ろす形で作られたガラス張りの見学スペースで、おれは見学者を前に牛肉の生産方式を説明している。髪の色も肌の色も実にカラフルな人間たちが狭い空間に数十人。うち子供が数人。週に一回こういう一般人を集めた見学イベントが開かれて、おれのような広報員が遺伝工学にまったく縁のないやつらに「牛を球体にする意義」を説明しなければならない。
 ろくでもない仕事だ。こんな時代に東京から逃げてきたやつに職があるだけでも感謝しろ、という上役の髭面ひげづらを頭の中で何度も罵倒する。
「えーと、誤解なさっている方もおりますが、食肉産業において、空間的な効率性といったものは要求されておりません」
 とおれは予備のスライド画像を引っ張り出す。昔ながらの狭い牛舎。一頭分のスペースに区切られた長方形のブースの中で、昔ながらの四本脚の牛がもさもさと草をんでいる。
「かつて牛はこのような状態で育成されていたわけです。当時の牛が勝手に動き回るものであると考えるとかなりギチギチの状態だったと言えますね。ですが現代の牛肉培養において、体積の大半を占めるのは培養液です」
 と言っておれはスライドを切り替える。
 半透明でドーナツ形の容器がピンク色の培養液で満たされていて、黄土色の牛の細胞塊がごろんごろんと転がっている。スクリューによって作られる水流で塊はぐるぐると攪拌かくはんされ、表面の凹凸おうとつならされて、巨大化しながらどんどん球体に近づいていく。
 もちろんこれは説明のために時間を早回ししたC​Gで、実際に牛胚が出荷できる牛球ぎゅうぎゅうに成長するまでには二ヶ月から三ヶ月を要する。
「培養液は成長にあわせて補充されていきますが、おおむね牛の体積一に対し、培養液四くらいが効率的とされています」
「どうしてかき回すのですか」
「振動によって肉質を均一にするのと、あと酸素を取り込むためです。静置した培養槽に牛を浸しておくと、内部の細胞が壊死えししてしまいます。これらの牛には心臓が存在しないので、血管に培養液を浸潤させることで酸素や養分を送り込むんです」
「あの、牛は、目を回さないのでしょうか」
 子供の声が聞こえる。
「回す目がありません」
 と答えると見学者たちがどっと笑う。
 正確に言えば目ではなく三半規管だが、どちらにせよ牛球には感覚器官といったものが存在しない。感覚するべき脳もない。食用なので筋肉はあるが、これも正確には筋肉の構成要素であるアクチンフィラメントとミオシンフィラメントを適当な割合で混ぜただけのもので、運動器官と言っていいのかは少々疑問である。
 たいていの見学会では聴衆はずっと黙っていて、最後にひとつふたつ質問をする程度なのだが、今日は開始直後に発言があったせいで「そういう会なのだ」と認識されて、皆やたらぐいぐいと発言してくる。学会の座長であれば喜ぶべき盛り上がりだが、おれは工場の決められたプロセスをしゃべるだけの広報員である。たとえ良い意見や興味深い提案があっても上に回せる権限もなく、さっさと終わらせて帰りたいので、こういう積極性は余計でしかない。
「さて、あちらに見えますのが実際の培養槽です」
 適当に質問を打ち切って、おれは聴衆の注意を背後に回す。彼らが一斉に振り向くと、全面ガラスの窓の上にぽっと赤い矢印が表示される。その先には白く塗装されたドーナツ形の培養槽が、見える範囲で数十基は並んでいる。直径はそれぞれ数メートルほど。
 聴衆はそれを見て、ほー、あの中で牛が育っているのか、といった感じでうなずいている。
 どうせ内部構造はC​Gを見ないと分からないのだから、わざわざ実際の牛工場を見にくる必要性がよく分からない。自分たちの食べる肉の製造工程を見ることで、人生にどういった利益があるのだろう。
 せいぜい「実物を見たことがある」という体験によって、自分の知識にストーリー性を与え、他人に対して優位に立てるくらいだろう、とおれは思っている。
「私はジャカルタの食肉工場を見学し、自分たちが普段食べている肉がどんなふうに製造され、どのように食卓まで運ばれてくるかを学んできましたよ。あなたたちはきちんと理解していますか? ネットの仮想世界だけで分かったつもりになっていませんか?」
 といった具合に。工場まで来てC​Gを見るのが「実」体験なのかどうかは知らんが、そういう連中が一定数いるおかげで現在のおれの飯のタネになっている。迷惑のタネでもある。
「培養液の浸潤によって牛球は直径二十センチ程度まで成長します。それ以上大きくすると内部まで酸素が行き渡らなくなるので、このサイズになったら取り出して出荷します。運搬中も培養液に浸しておきますので、生きたままで消費地まで運ばれます」
「すみません。心臓をつければ、牛はもっと大きくなるということでしょうか」
 最前列に座っている女(おそらく女だ、外見からの推測)が言う。白に紫のメッシュが入った長い髪を後ろに束ねて、ドテラのような藍色の服を着ている。
「少々難しいですね。心臓で循環させるとなると、閉鎖的な血管系を構築する必要があります。そうすると培養液に対する応答性が鈍くなるので、牛の状態に対するきめ細やかな対応がしづらくなります」
 とおれは答える。本当の理由は別にあるが、見学会では牛に対する配慮を強調するのが原則だ。球形の牛にも共感を持ってしまう少数の人間への配慮、と言ったほうが正確か。
 質問者はこう続ける。
「牛が巨大化すれば、一頭の牛を殺すだけで大勢が食べることができます。工場は牛を大きくする努力をするべきです」
 ああ、こいつは仏教系の文化に属するやつだな、とおれは推測する。輪廻転生りんねてんしょうを信じているやつらは、命を個数でカウントする傾向がある。他の文化では、動物は殺す・殺さないの二者択一であって、量の概念はあまり持ち込まれない。
 量的な考え方をしている分だけ仏教徒のほうが現実的だとは思うが、おれは質問を受け付けると言っただけで、意見までは求めていない。
 もちろんそんなことを口に出すわけにはいかないので、
「そのとおりです。いずれ技術が進歩すれば、そういうことも可能になるかもしれませんね」
 と感心したような声で答える。広報員をやっているとそういう芸も身につく。
 実際のところ遺伝工学的な問題はとっくに解決している。心臓のある牛球を量産することは、数年の準備期間があれば十分可能だ。実際の問題は育成技術ではなく、輸送と保管のコストだ。
 大型の牛球なんてものを作ってしまうと、輸送に際して切り分けをする必要がある。牛を半分に割ったら当然ながら死ぬ。消費地まで生きたまま輸送するには、直径二十センチというサイズが最適なのだ。
「他に何かありますか」
 とおれが部屋全体を見渡すと、真ん中の青い肌の男が手をあげて尋ねた。
「こちらの工場の牛は大豆をベースに作られているそうですが、牛由来の遺伝子を完全に取り除くことはできないのですか?」
 こっちはヒンドゥー教徒だな、とおれは思った。

 人間の牧場主を追い出して農場を乗っ取ったイギリスの動物たちは「すべての動物は、他の動物を殺してはならない」という掟を掲げるが、権力者となった豚たちは反逆者を処刑し、この掟は「すべての動物は、理由もなく、、、、、他の動物を殺してはならない」と書き換えられたという。ジョージ・オーウェルのおとぎ話『動物農場』より。

 おれたち人間としても、理由もなく動物に苦痛を与えて殺したい者はごく一部のサディストを除いて存在しない。この点はどんな法律・宗教・文化も同意するところだ。ただ「理由」はいくらでもでっち上げられるというのも人類の歴史の示すところである。
 人間は牛を食べたいが、動物を殺したくはない。そこで牛を動物でなくすというのが人類のたどりついた解答であり、牛球の技術には五十年ほどの歴史が存在する。
 最初期のものは、牛の受精卵にゲノム編集でいくつかの遺伝子を導入し、球体に成長するようにしたものだ。脳も感覚器官もない牛なので「苦痛を感じる動物」といったものは存在しない。ただ、これは放っておけば四本脚の牛に成長するはずだった細胞を人工的な処理で球体にしているわけだから、「動物を殺している」と指摘されると反論が難しい。というわけで実用化はされなかった。
 次のバージョンは、前回作られた牛球のD​N​A配列をクレイグ・ヴェンター法により全合成して人工汎用無核細胞に注入して増殖させたものだ。つまり生物由来の物質を使わず化学的な手段だけで合成された牛球である。これなら「牛に育つはずだった細胞」が存在しないので、当然殺してもいない。
 ところが、たとえ物質的な連続性がなくても、牛から取られたD​N​Aデータを用いて作った細胞は牛である、というのが世間の風潮だったらしく、このバージョンも十年ほど売ったあとで廃止された。
 どうやら食肉の消費者、つまり世間の大多数の人間は「生命とは何か、動物とは何か」といったものを、遺伝子の物質としての連続性ではなくストーリー性で把握するらしい、ということをこのとき科学者たちは学んだ。いや、仕方なく受け入れたというべきか。
 というわけで現行のバージョンは、大豆のD​N​Aをテンプレートに使い、そこに牛肉の成分を発現する遺伝子を加えたものを同細胞に導入している。実際に発現している遺伝子は真核生物共通のものを除けば牛由来ばかりなのだが、配列そのものは大豆がほとんどなので、法律的にも世間の空気的にも加工植物という扱いになる。
 前バージョンでは「これは無生物です」と言っても「いや、それは牛じゃないか」と抗弁されたので、今回は「これは大豆です」と主張することで「そうか、大豆なら大丈夫だ」と納得させたのである。
 この技術はよく図書館の比喩ひゆで説明される。もし学校図書館の蔵書が漫画ばかりであったら教育委員会からクレームが来る。そこで九割を教育的に正しい本で固めて、一割だけ申し訳程度に子供ウケのいい漫画本を入れていく。すると実際に貸し出されるのは漫画ばかりだが、教育委員会は蔵書のリストだけ見て満足するというわけだ。
 聞いた話では最近の小学生は「牛」というと大豆の加工品を指すものだと思っているらしい。「饅頭まんじゅう」がもともと人身御供ひとみごくうとなった人間の頭部の代替品であったことを誰も覚えていないように、牛がもともと動物であったことを覚えている人間は徐々に減っている。
 動物としての牛はわずかな野生種とわずかな元家畜が保護区域で生きているだけで、絶滅危惧種に近い。牛のゲップによる地球温暖化を危惧していた時代がかつて存在していたということが少々想像しづらい。

 見学コースの客をひととおり追い出すとおれも家路につく。郊外のでかい牛工場から都心の自宅に向かうので、道路はいつも空いていて快適だ。反対車線の混雑をよそに自動車はしゅるしゅるとモーター音を立てながら明るい都心に向かっていく。安いC​Gモデルのようなつるつるの満月が、やる気なさげに東の空から浮かんできている。
 ジャカルタは世界最大の都市圏だ。五年前に東京が消滅したことで繰り上げ一位となった。気温は一年中三十度前後。日本の季節が「暑い」と「寒い」のふたつであるように、こちらは「降る」と「降らない」のふたつしかない。今は「降らない」だ。赤道直下の都市にどうして季節があるのかおれはよく知らないが、どうやら周辺の地域から流れ込んでくる風のせいらしい。
 牛球工場は地球上に二十ヶ所ほどあるが、ほぼすべて赤道付近に立地している。培養液を成長の最適温度である三十七度に維持するためには、工場設備の排熱を含めるとこのくらいの気候がちょうどいい。食料生産は熱帯、計算機は寒帯、と地球規模の分業が成立している。人が住むのは温帯、となってくれれば理想的だが、仕事があるのでそうもいかない。
 細長いタワーマンションの真ん中らへんにエレベーターが止まり、長い廊下を歩いて玄関のドアを開けると、よく冷えた空気がどっと外に流れ出す。
「おかえり、ヌルイチ。遅かったね」
 リビングに入ると、ソファベッドで寝転がったままのゼブラが白と黒のツートンカラーな顔をこちらに向けてくる。手にはなにかの小説本が握られている。
「厄介な見学者が来た」
「見学者はみんな厄介だって言ってたじゃん」
「厄介にもランクがあるんだよ。仏教徒の地獄は八階層あるしな」
 と言ってキッチンに向かう。テーブルはきれいに片付いていて、真ん中に大量のスティックシュガーが挿さったコップがある。
「夕飯はあるか?」
「僕もまだ食べてないんだ。この小説があまりに面白いもんでね。なにか作ってくれない?」
「ああ。あとで読ませろ」
 と冷蔵庫を開く。昨日スーパーで買った牛肉と、野菜室には期限の近いタマネギが一袋。
 工場で余った肉をもらってこれないの? とゼブラによく聞かれるが、事故でもないかぎり廃棄は発生しない。食品を廃棄すると企業のイメージが悪くなるので、牛球はD​N​Aに個体識別番号がついていて流通は徹底的に管理されている。
 出荷された牛球はスーパーで切り身にされて並べられる。工場生産の牛に寄生虫がいるわけがないので生で食べても問題ないが、そんなことをするのは日本人の遺伝子が極端に多いやつだけだと思っている。三分の一が日系なおれも生で食べる習慣はない。魚工場で作っている魚肉なら寿司で食べたりもするが。
「牛丼でいいか」
 リビングにいるゼブラに声をかける。すでにタレを作り始めているが一応確認。
「あの甘いやつ? いいね。僕、あれ好きだよ」
 返事が聞こえたので、テーブルにあるスティックシュガーをまとめて破いてタレに投入する。四本で十二グラム。量るのが面倒なので大体こうしている。
 ラップに包まれている肉は半円盤状の外側部位だ。販売店で牛球をスライスするときはまず半分に割って、外側を半月形もしくは銀杏形いちょうがたにして、内側を短冊形に切る。
 工場勤務のおれの個人的な見解だが、内側と外側に肉質の差はほぼない。直径二十センチというのはそのへんも計算して決められているサイズだ。均質であること、規格化されていることは工業製品としての必須条件だ。
 しかし肉屋とスーパーはそう考えないらしく、半円盤の「外肉」に比べて長方形の「内肉」は希少部位として三割ほど高い値段で売られている。「回らない寿司」と同じ感じで「丸くない肉」をありがたがるやつがいるらしい。
 きちんと計算してみると、球体に内接する立方体の体積はおよそ三十七%だ。なるほど「希少部位」だが、もし本当に外肉と内肉の成分に違いがあるのなら、全体が内肉になるような生産設備を作って回せばいい。その程度の技術は世の中にあるし、骨つきリブ内臓モツタンのようなマニアックな肉はそうやって地方の小工場で生産されている。
 要するに牛肉の消費者は肉の質ではなく牛球の内側にあったというストーリー性に価値を見出すらしい。包丁で一口サイズに切り落としてしまえば、そういった余計なブランド情報はきれいに消滅する。料理でいちばん楽しい時間だ。
 血液がないので血液由来のアクも出ず、鍋に入れればあとは放置。耐熱ガラス鍋の内側で茶色いタレと一緒に煮込まれていく肉を見ていると、培養槽のC​Gと似ている気がする。
 培養と調理の境界線は曖昧あいまいだ。というか、牛球を培養する段階がすでに「調理」と呼ぶべきなのかもしれない。数ヶ月がかりの長い調理時間の大部分でおれは広報員であり、最後の一過程だけが調理師だ。
 極限まで分業化された現代社会において、肉を食うための一連のストーリーを理解していることは何かしらの意味がありそうな気がする。まあ、これも他人に対する優位性の問題だ。
 例えば牛肉工場に来るような「賢い消費者」気取りのやつらが、
「私は工場を見学したことがありますよ」
 と言ってきたときに、
「おれはその工場で働いていますし、育てた肉を自分で調理してますよ」
 と言い返すことができる。それでなんの得があるのかと言えば、黙ってほしいやつが黙ってくれる。

 ふたりとも食事中はあまりしゃべらない。
 テレビを見ながら黙ってスプーンを動かす。ニュースは今日も「外人」に占拠された東京の様子を報道している。もう五年も経つのでこれといった新しい情報が出るわけでもないのだが、他に面白い番組もないので見ている。
 地球人類が植民先でとりあえず家を建てて畑を作るように、この「外人」たちは占拠した土地をとりあえず真っ平らにしてしまうらしい。表面の素材はどうやら岩石で、墓石のようにつるつるに磨かれていて、つなぎ目のひとつも見当たらない。いったん土壌を融解させて再び固めているようだが、それほどの熱量が観測されていないので、なにか特殊な溶媒で溶かしているんだろうと言われる。
 占領地に対する領空侵犯という概念は彼らにはないらしく、上空を無人偵察機が飛んでも特に意に介する様子はない。あまり近づきすぎると電波妨害を食らうようだ。
「外人」は球体から蛇のような足が何本も生えた形態をしている。古式ゆかしいクラゲ形宇宙人の描像に近いが顔はない。大腸菌に感染するファージに似ていなくもない。球体の中に何が入っているのかは不明。コミュニケーションも成立しないので目的も不明。
 彼らが最初に発見されたのは二十年前で、地球近傍の小惑星をいくつも球体に作り変えているところを通りすがりの探査機に撮影された。どうやらその探査機が彼らを持ち帰ってしまったらしく、五年前には月がつるつるにされて伝統的なウサギ模様が消えた。そして現在は東京がつるつるにされている最中だ。地球は大気があるせいか他の星に比べて作業が遅いが、今は東京湾まで綺麗きれいに埋められて、木更津のあたりまで巨大な円形ステージになっている。イベントをやったら楽しそうだ。
 武力攻撃は今のところ効いた例がない。平面になった東京にミサイルを落とすときちんと穴が開くが、吹き飛ばした瓦礫がれきに外人がうようよ集まってきて、しばらくするともとの平面に戻っている。外人の死体もしくは生体を回収する試みも成功しておらず、捕獲しようとすると液体のように溶けてしまうか、捕獲機のほうが溶かされてしまう。
 あまり干渉しすぎると他の都市にまでやってくる懸念があるので、なるべく刺激を避けつつコミュニケーションの成立を目指している。
 太陽系外から来たらしい、ということでテレビはずっと「外人」と呼んでいるが、「人」なのかどうかは少々意見が分かれる。本物の宇宙人が来るための先遣隊として派遣されたロボットで、星をつるつるにしているのは地球でいう赤絨毯あかじゅうたんに相当するという話がある。どのくらい冗談なのかは知らない。
 星に感染するウイルスという説もある。細胞がウイルスに感染すると内部の張力が失われて球体になる現象があるが、こいつらが増殖のために星の表面からなんらかの物質を吸引して、それによって星が溶けて平らになるという説明はまあまあ納得がいく。
「ヌルイチは東京に住んでたんだよね」
 とゼブラが口を開く。
「別に故郷じゃないがな」
「なんの仕事してたんだっけ」
「外人そっくりの人間を作ってた」
「そう」
 と言っておれたちはまた黙った。風呂とトイレを分離するように、しゃべる時間と食べる時間は分離するというのがおれの流儀であり、ゼブラの流儀でもあった。

 飯の時間にしゃべるやつがあまり好きじゃなかった。
「命は平等ではない。地球の反対側で起きている大量虐殺よりも、家族の風邪のほうが重大な問題だ」
 東京にいた頃の同僚の研究員が、昼飯の時間にそんなことを話していた。白髪で癖毛でシワの多い老人みたいな顔だったが、そういう遺伝子の持ち主というだけで、おれよりも年下だったらしい。
 おれは粘度の高いコメをみながら適当に頷いた。
「そこで、命の価値が距離の関数として表記できるモデルを考えよう。仮に価値が距離に反比例するとして、一メートルおきに人間がずらっと一列に並んだ状態を想定する。つまり、隣の人間の価値を一〇〇とすると、もうひとつ向こうの人間は五〇、さらに向こうは三三という具合だ。この行列が無限に続くとして、他人の価値の合計はいくらになるか」
 とそいつは言い出した。昼間から酔っ払っているのではなく、研究機関における日常会話というのは大体こういう感じなのだ。
「無限だな」
 おれがコメを飲み込んでひとことだけつぶやくと、
「そのとおり。しかし他人の命の価値が無限大になるというモデルはいかにも不自然だ。そこで距離の反比例ではなく距離の二乗に反比例するようにしてみよう。自然数の逆数の二乗和が円周率の二乗割る六になることはオイラーにより示されている。つまり他人の命の価値が有限に収まることが保証される。しかしこのモデルでは、人間が一列ではなく平面にずらりと並んだときに破綻する。したがって関数を適切に設計するためには生命が何次元空間に配列しているのかを考える必要がある。勿論もちろんここでいう距離は物理的な距離とは限らず自分との共感性を加味した数字だ。遠くの親戚と近くの他人のどちらが共感に値するかを適切に関数化する必要がある。古典的な分子系統学では共通祖先から分かれた時期を用いたが、ゲノムデザインが一般的となった現代においてはより精神面に基づいた関数が必要となる。これが何次元空間になるのかというのが現在の問題である」
 研究員というのは基本的に会話のキャッチボールができないので、おれが「飯のときはしゃべらない」という流儀を貫いていると相手の脳内文書の音読コーナーになる。
 ちなみにこの研究員は五年前の東京消滅の際にきちんと死亡している。
 ジャカルタまで逃げてきたおれが、この同僚の訃報にいまひとつ憐憫れいびんを感じられなかったのは、物理的にも社会的にもごく近かったはずのこいつに共感をほとんど抱いていなかったからだろう。そこにどういう関数が設定されていたのかは知らない。単に飯のときにしゃべるのが気に入らなかっただけかもしれない。

 ジャカルタに限らず南国にありがちなことだが、冷房をぎんぎんに強くして部屋では長袖ながそでを着るという文化がある。最初はずいぶん倒錯的なことをしている気がしたが、慣れるとかえって自然なことのように思えてくる。
 おれの皮膚を選んだのはおれではないが、おれの着る服を選んだのはおれだ。したがって服のほうがおれの本質に密着しており、プライベートな時間を過ごすにふさわしい形態なのではないだろうか。ゼブラもこの点には同意しているので、冷房の温度でめないのは助かる。
「光合成はできるの?」
 はじめて会ったとき、ゼブラはおれの緑色の皮膚についてそう言った。初対面の相手に遺伝的情報を尋ねるのはあまりマナーがいいとは言えない。そういうことをするのは、自分が明らかに異様な身なりをしていて、その点について尋ねても構わないよ、という意思表示であることが多い。
「あんたのその顔は、パンダの遺伝子か」
 おれがゼブラの白黒に分かれた顔について聞くと、
「パンダは苦手なんだ。ゼブラって呼んでよ」
 と言われて、しま模様ではないのでちょっと違和感はあったが、以来そう呼んでいるので本名も知らない。男なのか女なのか、それとも非天然生殖系統なのかも知らない。とくに興味もない。
 共感性関数がおれと十分に近い、という条件で同居人探しの希望を出して、地域内でまあまあ高い数字が出たのがこいつだった。要するに気の合いそうなやつということだが、実際に暮らしてみるとたしかに驚くほど細かい癖が一致する。前に住んでいたやつとは、料理にスティックシュガーを使うのが我慢ならない、と言われて別れた。

 もちろん肌が緑色だからといって光合成ができるわけではない。黒人が太陽光発電できないのと一緒だ。なぜ緑色なのかといえば多様性のためだ。色々な人間が共存することが社会の発展につながるらしい。
 何を多様性と考えるかは世代によって変わるが、おれが生まれた時代は皮膚の色こそが多様性だと思われていたらしく、赤青緑といった実にカラフルな子供たちが学校を埋め尽くしていた。ゼブラもおそらく同世代だろう。最近はこのトレンドが衰退して見えない部分の多様性が重視されるようになったので、学校は視覚的に優しい場所になりつつあるそうだ。
 牛球にバージョンがあるように、人間の遺伝子編集にもいくらかの歴史がある。その方向性の違いをひとことで言うならば、牛球は工業製品なので均一さこそが善であり、識別番号のD​N​A刻印を除けばほとんどクローンだが、人間は多様性こそが善だとされているので、わざとランダム性を加えているという点だ。
 新たに生まれてくる人間の遺伝子を人間が選ぶことは重大な倫理規程違反になるので、乱数に基づいてコンピュータが選ぶことになっている。もちろん全くのでたらめにD​N​A配列を決めるとだいたい死ぬので、生存への影響が少ないパラメータをシャッフルして決める。肌の色というのはその点で手っ取り早い。
 というわけでおれは、日本人の遺伝子が三分の一、ドイツ系のが五分の一、エチオピア系のが八分の一をベースとし、その他の人種民族からサンプルされた配列や人工デザインされた遺伝子によって、緑色の人間として生まれた。「ウィルムラ・ヌルイチ」という名前はテンプレートとなった人間の名前を寄せ集めて作ったらしい。
 生まれた以上はどんな形態であっても人間として尊重されると国際人間憲章に書かれている。少なくともまるっきりのうそではないと思う。
 日本人の遺伝子が一番多いと聞いたのでとりあえず日本で仕事をすることにした。東京の環境メーカーで研究職に就いたが、ここでやっていた仕事はまあ、ゴミのような研究だった。
「外人」が月の表側にまで現れたので、さすがに対処をしないとまずいと皆が気づいて、各国の各機関がいろいろな対応を迫られたあげく、遺伝工学をやっていたおれの部署に割り振られた仕事が、
「中身が地球人類そっくりで、外見が外人そっくりの人工生命体をつくる」
 ということだった。要するに、外人に似た外観の生物をつくれば、彼らはなんらかのコミュニケーションを試みるだろう。そして内部を彼らの技術で調べてみれば、地球生命がどういうものか分かるだろう。そうすれば、あなたたちが侵略しようとしている地球には、文化を有し生存するに足る人間たちが住んでいるんですよ、ということが伝わるだろう。てなことを会社の上のほうの連中が政治家向けのプレゼンで説明していた。
 たしかに星を真っ平らにしてしまう外人と地球人との間には、人間と牛くらいの力の差がありそうだ。そういう状況で牛がやるべきことは、自分たちと人間との類似点を強調して、動物愛護の精神に訴えることだろう。というアイデアはそこまで的外れでもないような気がする。
「クジラは賢いから食べてはいけない」という連中は二十世紀からいたらしいので、もし動物たちが人間の言葉を解したら、彼らは必死で自分の賢さをアピールしたに違いない。食べられないために。
 東京の同僚が言っていたように命の価値を距離で評価する必要があるとしたら、その距離は物理的距離よりも共感性関数の距離がふさわしいような気がする。もし誰かが死んで誰かが生き残るとしたら、気の合うやつが優先的に生き残ってほしい。
「外人」の外見はシンプルなので、それっぽく設計するのは難しくなかった。難しいのは中身のほうで、あいつらが共感性を引き起こすような筋肉をどうやって配置するのか、そもそもあいつらは筋肉で動いているのか、それともモーターやエンジン駆動なのかといったところもよく分からなかった。
 結局、この人工生命体が月に投下されるよりも先に外人が地球に来て、会社が東京ごと消滅してしまった。そのほうがよかったとおれは思っている。正直、あまりヨソの星の生物に見せたいアイデアじゃない。

 夕飯の片付けを終えて夜。
 ゼブラの読み終えた『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を借りてぺらぺらとめくりながら甘い紅茶を飲んでいる。ジャカルタに来てから飲酒の習慣がなくなったが、そのせいでよく眠れるようになった気がする。
「実際のところ、電気羊のほうが本物より高い気がするけど」
 と横でゼブラが言う。
「今だとそうかもな。天然羊ならゲノムバンクから取ってきて細胞に入れればできる。ただ倫理規程がどうなるかだが」
「戸籍とっちゃえば問題ないでしょ」
「羊に?」
 とおれが笑いそうになると、ゼブラはきょとんとした顔で言う。
「あれ、言ってなかったっけ? 僕のD​N​Aのベースは牛だよ。牛のゲノムの上に人間の遺伝子を乗っけてるの」
「ああ、そうだったか」
 とおれは頷いて、それから小説のページをいくつかめくった後、
「……今のってもしかして、結構重大な告白か?」
 と尋ねた。
「さあ。そうでもないと思うけど。ヌルイチが光合成をしないのと同じくらいじゃないの」
「そうか」
 と頷いて本をベッドの脇に置く。
 いまどきの人間はだいたい人種民族その他をランダムに混ぜられて生まれてくるが、いくつかの機関は動物の遺伝子も使っているという話はたしかに聞いた気がする。
「てことは、お前のその白黒は、ホルスタイン種か」
「正解」
「なんでゼブラなんだよ。牛なら素直にそう名乗れよ」
「いやいや、ヌルイチだって『ニンゲン』とは名乗らないでしょ」
「つーかお前、さっき牛丼食ったろ。共食いじゃないのか」
「あれは大豆じゃん」
「たしかに」
 そう言ってからおれたちはしばらく黙った。これはもしかして喧嘩けんかをしてるのか、とお互いにちょっと思ったらしかった。
「まあ、この星で生き残ろうと思ったら、人間になるか、工業製品になるかの二パターンしかないもんね」
 ゼブラはぽつりと言った。そんな夜だった。

「外人」たちによって東京を拠点に順調に星が平らにされていったら、人類は住むところを失って滅びるのかもしれない。
 なぜ外人が最初に東京に来たのか、という点にはいまでも諸説あるが、単に人間が一番たくさん集まっていたので、そこに資源が多くあると思った、という意見がある。
「だとしたら、次に来るのはこのジャカルタだね」
 とゼブラは言う。
「だろうな」
「またどこか別のところに逃げる?」
「かもな」
「ヌルイチは、こいつらが人類を滅ぼすことを期待してるんでしょ」
 そうかもしれない、とおれは思う。
 もうだいぶ前に人類は自然生殖をやめて、物質的な連続性は途切れてしまっているわけだし、種が滅びたところで大した差はないような気がする。おれ個人が死ぬのは個人的に気に入らないが、おれが人間である以上はいつかは死ぬ。
 ここまで星の生態系を改造しつくしたのだから、そろそろ地球外存在にきれいに平らにしてもらったほうが、ストーリー的に都合がいいんじゃないか、とぼんやり思っている。
 ウサギの模様が消えた月だけが、窓からぼんやりとこちらを見ていた。

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著者

柞刈湯葉

2016年、小説投稿サイト「カクヨム」に投稿した『横浜駅SF』が第1回カクヨムWeb小説コンテストSF部門大賞を受賞し、デビュー。著書に『重力アルケミック』『未来職安』『人間たちの話』他。

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