単行本 - 日本文学

加害者の「私」が罪とどう向き合うか。「正しさの存在しない物語」、李龍徳『石を黙らせて』(大江崇允・評)

『石を黙らせて』は読み手の共感をどこか拒絶する……巧みに。言葉を選ばず書くと、そんな小説である。そして何より、そこが傑作であった。

 小説は主人公「私」が婚約者にある過去を告白する場面から始まる。彼は十七歳の時、親友の松原幹央を含む仲間四人で女性をレイプした過去を持っている。忘れていた、忘れたい罪を彼は婚約者に打ち明ける。その事実を知り、婚約者は彼の前から去って行く。この小説は「私」が罪とどう向き合うかの物語である。

 作品に触れる時、共感をものさしとして紡がれた表現の糸口を探す。それを楽しむことが多いのではないだろうか。李龍徳氏はそんな読者をどこか俯瞰しているように見えた。作品が共感だけに埋没しないよう、読者との絶妙な距離感を保ち続ける。そのためか、主人公は自らの罪を真摯に受け止めているはずなのに、〝どこか信頼できない〟人物にも映ってしまう。

 主人公の罪の意識は膨らんでいく。婚約者が同僚だったため、彼女に迷惑を掛けたくない気持ちもあり、仕事を辞める。そして全てを捨てて犯した過去の償い方を探り続ける。まずは共にレイプをした親友の幹央に会いにいく。そしてネットで自らの罪を公表し、いつか被害者女性と会ってどんな罰でも受け入れると一方的に伝える。

 その後、自分の家族に罪を告白する場面を挟み、主人公は失業保険を得るために通うハローワークで偶然、元同僚の芳賀(女性)と遭遇する。彼女は過去に性被害に遭ったことがあるらしい。彼女は主人公を責める。芳賀は主人公がレイプした女性ではないが、同じ性犯罪者として彼女は彼を責める。共感とは面白いもので、正確には主人公の罪とは別の事件であるはずなのに、読者も主人公も同じ罪であると思ってしまう。

 家族や芳賀に責められても「私」の罪が薄まることはない。やがて彼はレイプの主犯である人物、現県議会議員の溝口翔太郎と対峙する。この場面が物語的にはハイライトとなっている。

 しかしここまで読み進める間に、読者は幾度となく違和感を抱くだろう。「私」は他人と対話しながらも彼らと心を交えず、自らの意志を自分勝手に独白しているにすぎないと。相手の意見も聞く顔をしているだけに見えてくる。読者はそんな彼に狂気すら感じるはずである。「私」は怖い人間だと。

 作中、主人公が被害者と最後まで出会わないのも、おそらく作家が自覚的に「私」という人間の目的がそこにはないことを表現するためだと思われる。

 タイトルが聖書からの引用であることはラストに描かれる。主人公は罪とどう向き合うべきか、自問自答し続けている。ここに他者は存在しない。この小説に正しさは存在しない。むしろ初めからそれを説く気がないと読み取れる。

 読み終えて、想像が膨らんだ。もしかしたら人はそもそも「自分だけの現実」を生きているのではないか。この世界に現実なんて存在せず、それぞれが生きる主観の集合体を束ねて輪切りにした断面を、一般的に〝現実〟だと言っているに過ぎないのかもしれない。

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