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【特別公開】2021年夏、何が破綻したのか【吉見俊哉編著『検証 コロナと五輪』(河出新書)刊行によせて】東京五輪とはいったい何だったのか?

■戦後日本の「お祭りドクトリン」

1964、1972、1988、1998、2008、2016、2020(2021)、2030。この数列が何を意味しているかお分かりだろうか? これは、戦後日本がオリンピックをやろうとしてきた、ないしはやろうとしている年である。1964年はもちろん東京五輪、72年は札幌冬季五輪だが、その後、88年に名古屋が夏季五輪を開催しようとしてソウルに敗れた。98年は長野冬季五輪の年で、その後、2008年に大阪が夏季五輪をやろうとして北京に敗れる。2016年の東京招致計画はリオデジャネイロに敗れ、東日本大震災の直後、「復興五輪」を掲げて2020年の開催権を獲得、コロナ禍で1年延期して今回の五輪となった。2030年には、再び札幌で冬季五輪を開催する計画がある。

以上を振り返れば、戦後日本は、1964年の東京五輪以来、ほぼ10年ごとに夏季ないし冬季のオリンピックを開催しようとし続けてきたことがわかる。――これは、単なる偶然ではない。戦後日本社会では、中央省庁や大都市自治体、経済界やスポーツ界の仕組みのなかに、オリンピックを開催し続けることがシステム化されてきた。

もう1つ、数列を紹介しよう。1970、1975、1985、1990、2005、2025。もうお分かりだと思うが、これは日本で万博が開かれた、ないしは開かれる年である。1970年はもちろん大阪万博、75年は沖縄海洋博、85年はつくば科学万博、90年は大阪花博、2005年は愛知万博、2025年は大阪万博である。オリンピックほど規則的ではないが、こちらも平均すれば10年間隔ぐらいで万博が開催されてきたことがわかる。しかも、2005年の愛知万博は、1988年の名古屋五輪招致失敗を受けた次善策、2025年の大阪万博は2008年の大阪五輪招致失敗を受けた次善策だから、2つの数列の間には連関性がある。

私はこの戦後日本の五輪と万博のこうした開催メカニズムを「お祭りドクトリン」と呼んできた。いうまでもなくこの言い方は、カナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインが戦争や災害、テロ、政変などの「惨事」につけこんで、人々が茫然自失でいる間に大胆に規制緩和を実現させてしまう暴力的な経済改革を指して「ショック・ドクトリン」と呼んだのに倣っている。日本の場合、「惨事」につけ込む面もなくはないが、それよりも国民的な「お祭り」を錦の御旗にして同様の経済政策や大規模開発を実現させていくことのほうが多い。日本は、「惨事便乗型資本主義」というよりも、「お祭り喝釆型資本主義」なのである。

戦後日本で、この「お祭り」の頂点に位置づけられてきたのがオリンピックと万博である。このどちらかを開催できれば、国や産業界から開催地のインフラ整備等のために莫大な資金が注入され、多くの関連産業が潤い、メディアもビッグ・イベント開催に向けて総動員体制となっていく。だから、五輪や万博の開催は、市場面からも、イデオロギー面からも、既存体制を大いに強化するのである。

しかも、IOC(国際オリンピック委員会)やBIE(博覧会国際事務局)への立候補地を日本政府が決めれば、中央省庁内にも自治体内にも、開催誘致から実現までの流れを支える体制がしっかり出来上がる。もう後には引けなくなってしまうのだ。そして一度、そうした組織体制ができると、また同じことを繰り返そうとする慣性の法則が働き始める。つまり、ある五輪が閉幕すると、その翌日から次の開催候補地の模索が始まり、自治体と中央省庁との間で水面下の調整が始まる。どちらも、開発や規制緩和のために有用な「抜け穴」を残しておきたいと考えるのだ。

このようにして、1964年から、見込みでは70年近くにわたり、戦後日本で「お祭りドクトリン」は連綿と機能し続けてきた。この「連綿」とした反復を通じ、自民党政治家や財界、マスコミ企業、各地の有力者の間で、このドクトリンの信頼度は相当なレベルに達してきた。だからこそ菅政権は、新型コロナの感染状況がどんどん悪化し、コロナ対策で集中砲火を浴びても、オリンピックさえ成功裡に開催できれば、国民世論の流れは変わると信じていたのではないか。「お祭りドクトリン」に呪縛されてきたのは庶民だけではない。政策当局の官僚や政権幹部までも、半世紀以上にわたってこれにすがってきたのである。

コロナ・パンデミックは、そのようなドクトリンの幻想を、凄まじい力で打ち砕いた。この6月の国会で、1964年の東京五輪の素晴らしさについて長々と「思い出」を語った菅首相(当時)は、五輪閉幕後もちっとも政権支持率が回復しない現実を前に退陣に追い込まれた。他方、五輪の「経済効果」に期待していた事業者も、そのようなものはまったく得られず、逆に五輪に向けてした投資の負債を負うこととなった。日本社会全体としても、この五輪は「経済効果」よりもはるかに大きな「負債」を残す。それがどれほどの規模のものかの正確な試算と、誰がどうその責任を負うのかの議論がこれから必要だが、まずは「お祭り」が失敗に終わったという冷静な認識が出発点となる。

■コロナ禍が東京五輪を打ちのめしたのか

しかし、ここで再確認しておくべきなのは、この東京五輪は、果たしてコロナ・パンデミックのみによって失敗したのかという点である。否、そうではない。「復興五輪」をスローガンに掲げたこの東京五輪は、間違いなくコロナが来襲するよりもずっと前に失敗していたのである。

そもそも21世紀の東京で再び五輪を開催する構想をぶち上げたのは、2000年代の石原慎太郎東京都知事(当時)だった。2005年夏、石原は「日本に五輪を招致するならばキャパシティーとしても東京しかない」と、2016年五輪の東京招致に乗り出した。これには当時から、「東京はオリンピックを招致しなくても十分にエネルギッシュ」との疑問や、五輪開催で東京がさらに整備されると、東京一極集中をますます加速させるとの批判があった。

だが、石原は聞く耳など持たない。東京をどんな都市にすべきかについての真剣な議論などまるでないまま、五輪開催計画が先行していった。前のめりの知事に都庁職員からの疑問など出ようはずもなく、その石原に国も引きずられ、マスコミも事態を追認した。石原は記者会見で、「周りの国に勝手なことを言われてだな、国会はバカなことをやってる。むしゃくしゃしてるときに、何かちょっとおもしろいことねえか、お祭り一丁やろうじゃないか、オリンピックだぞということでドンと花火を打ち上げ」たのだと、招致の動機を率直に語っていた。「お祭りドクトリン」の高らかな宣言である。つまり、北京五輪への反感を内在させつつ浮上した東京五輪構想には、東京や日本の未来についての冷静な検討などそもそもなかったのである。

その後、この2016年五輪の東京招致は、2009年のIOC総会でリオデジャネイロにもマドリッドにも大差で敗れる。東京の自惚れは世界にまったく通用しなかったわけだが、石原は諦めなかった。彼は早々に2020年五輪に再挑戦する方針を固め、2011年春に都知事再選を果たす。ところが、その同じ頃に東日本大震災が起きる。大震災で日本全体が深刻な状況なのに「お祭り」に再挑戦するとは何事かという批判をかわすために、東京都幹部が捏造したのが「復興五輪」のスローガンである。石原が後に語ったように、「復興五輪なんてネーミングの問題だ。最初に五輪があって、災害がその後、起きた。ちょっと気の利いた人間なら、だれでも考える」というのが真実に近いところだろう。だから「復興五輪」には明白な嘘が含まれていたのだが、マスコミも国民もこのスローガンを歓迎した。

■スタジアム・エンブレム・スキャンダル

ところがこの再挑戦では、別のやっかいな火種も入り込んでいた。もともと2016年の五輪構想では、主会場は東京湾臨海部で、開会式や陸上競技を行うスタジアムを晴海の都有地に新設し、そこまで大江戸線を延伸させるはずだった。東京都にとっては東京湾岸の開発推進が五輪開催の最大の目的だったから、これは当然である。

ところがこの構想は、国内のスポーツ関連諸団体には不評だった。彼らは、「過去の五輪遺産を生かす」ためにも神宮外苑のほうが東京五輪には相応しいと主張していた。神宮外苑には日本スポーツ振興センターが所有する秩父宮ラグビー場などがあり、一帯で再開発が進むことを期待していたのかもしれない。彼らは2016年五輪招致では東京都の意向に従ったが、仕切り直しとなった2020年五輪への挑戦では、むしろレガシーがいっぱいに詰まった神宮外苑を前に押し出していく。そしてIOCも、湾岸の立地条件に難色を示していた。結局、五輪招致への申請ファイルには、神宮外苑の国立競技場の大規模改修計画が書き込まれていく。だがこれは、石原都知事自身が数年前、「無理です。敷地からいっても、IOCが絶対必要事項として検討している規模のものは、いまの国立競技場には建ちません」と明快に否定していたプランそのものだった。

東京都からすれば、神宮外苑は国立の施設だから大改修で都側の財布を痛めなくてもよくなるので、「どうぞご自由に」とのスタンスだったかもしれない。実際、石原は、数年前の自分の発言を軽々と覆し、国立競技場について「あんなぼろぼろなの建て直しが必要なんだよ。東京の負担が減るからありがたい。本来は国がやること」と、吐き捨てるように語った。しかし本当のところは、数年前の石原の発言のほうが正鵠を射ており、神宮外苑の旧国立競技場を「建て直す」のは予算的にも無駄が大きく、貴重な建築的資産を失うことにもなる。何よりも、そもそもの東京都の湾岸開発構想からしても筋違いの選択だった。

しかし、異なる思惑の諸団体が下工作を重ねるなかで、「レガシーを継承する」とのタテマエのもとに神宮外苑が主会場となり、そこにザハ・ハディド設計の巨大な新国立競技場が建設されることとなった。これに対し、神宮外苑の狭い敷地に巨大な構築物を建てることが、周囲の環境を大きく破壊すると市民団体や槇文彦をはじめとする建築家から痛烈に批判され、莫大な建設費用や毎年のしかかってくる重い維持費も猛反発を浴びていった。世論調査では、8割以上の国民が計画を見直すべきと答え、最終的に2015年7月、安保関連法案の強行採決に対する国民の強い反発で窮地に追い込まれた安倍政権は反対世論と妥協する腹を固め、新国立競技場プランの白紙撤回を決定した。

しかし、そもそも東京都が東京湾岸にメーンスタジアムを建てる最初の方針を固持していれば、ザハ・ハディドのデザインは新しい東京湾岸のランドマークになったかもしれず、これほどの反発は受けなかったかもしれない。

その直後、今度はエンブレムのデザイン剽窃問題が発生した。公式エンブレムに選ばれた佐野研二郎によるデザインが、ベルギーにある劇場のロゴと酷似していると訴えられ、並行して佐野の他のデザインで盗用の疑いが明るみに出て、同年9月、大会組織委員会は佐野のデザインのエンブレムとしての使用中止を決定した。半世紀前、シンプルさの中に「力強さ」を表現した亀倉雄策のデザインは、これから経済成長を成し遂げる発展途上の国家の意志を表現していた。これに対し、佐野のデザインは洗練された表現でありながら、亀倉へのオマージュに彩られ、「力強さ」に代わって人々に訴える明確なメッセージを欠いていた。この主張の弱さが、盗作疑惑で集中砲火を浴びた際、それを突き返すことができなかった隠れた要因でもあった。

そして、これらの躓き以降、東京五輪は茨の道を突き進んでいくこととなった。オリンピックの開催地となる東京都の知事は、献金疑惑で辞任した猪瀬直樹知事に続いて舛添要一知事も公私混同という批判を受けて辞任する。JOC(日本オリンピック委員会)の会長も、贈収賄疑惑で竹田恆和会長が辞任し、コロナ禍中に森喜朗会長も女性差別発言で辞任していった。辞任の理由は様々だが、五輪に関わった多くの中心人物が道半ばで辞任した。そして本来の開催年であった2020年、新型コロナの感染拡大で五輪開催は延期を余儀なくされる。政権中枢の麻生太郎副総理までもが、国会でこの五輪は「呪われた五輪」だと言い放ったが、思わずこの発言に頷いた者も少なくなかった。

やがて、延期された五輪が開催される10週間前の2021年5月中旬には、世論調査では国民の約8割が同年の開催に反対するという異様な状況となった。明らかに、2021年の東京五輪は、国内的にも国際的にも、オリンピック史上かつてない不人気な五輪となったのだ。そして、これにダメ押しをするかのように、五輪開会式をめぐっては、MIKIKOらの演出チームが排除され、取って代わった電通出身の佐々木宏は自身の差別発言で辞任、開会式直前で作曲担当だった小山田圭吾は障碍者いじめの過去が発覚して辞任、演出担当だった小林賢太郎もホロコースト揶揄の過去が発覚して解任とスキャンダルが次々に露呈していった。この総崩れで、開閉会式はまとまりのない、パッチワークだらけのお粗末な出来栄えとなった。

石原慎太郎の「お祭り一丁やろうじゃないか」との掛け声に踊った2度目の東京五輪は、こうして失敗したのである。その原因はコロナ禍だけだったのではない。それ以前から、この五輪には理念も必要性も存在しなかった。ただ諸団体の思惑だけがあり、それによって方針は揺らいだ。つまり、今回の東京五輪は、誰のため、何のために開催するのかが実ははっきりしていなかった点に問題の根本がある。日本政府は招致に際し、「復興五輪」を強調して世界を説得した。だがこれは、石原が率直に明かしたように「ネーミングの問題」でしかなかった。他方、紆余曲折のなかで東京都が当初考えていた湾岸開発と五輪開催の関係も見失われていった。壊さなくてもよかった旧国立競技場は失われ、エンブレムのデザインから開会式の演出まで、オリンピックの文化面でも日本は世界にアピールするチャンスを生かせなかった。失敗が失敗を呼び込み、最後はコロナ・パンデミックによりノックアウトされたのだ。

■五輪失敗は偶発的な原因からなのか

したがって、2021年夏、東京オリンピックやパラリンピックが閉幕した後で我々が認識し直すべきなのは、この五輪は突然のコロナ禍だけの理由で失敗したのではないことである。東京五輪の失敗は、半ば必然的だった。コロナ禍はその迷走に最終的な止(とど)めを刺したにすぎない。

前述のように、今回の東京五輪で根本的に問題だったのは、初発の時点で、21世紀の東京をどのような都市にするのか、そのためになぜ五輪が必要なのかについての、市民を巻き込んだ熟議がまるでなかったことである。

実は、東京都の立場からすれば、この問いへの答えは明白だった。彼らは1980年代に鈴木俊一都政が推進し、その総仕上げとして96年に開催するはずだった世界都市博が、これに反対した青島幸男知事により中止させられたことに納得していなかった。バブル崩壊後、東京都心の再開発はことごとく停止に追い込まれるが、2000年代に内陸部は息を吹き返し、丸の内や六本木、汐留などで大規模再開発が進んでいた。その横で、湾岸部が取り残されることに都は苛立っていた。なぜならば、内陸部の再開発で潤うのは民間企業で、都の経営という点では、湾岸部こそ彼らの本命だったからだ。東京湾岸での五輪開催は、彼らにとっては湾岸部開発を再び軌道に乗せる起爆剤だった。

無論、これは相変わらずの「お祭りドクトリン」である。そもそも東京湾岸が東京の未来にとって決定的に重要ならば、湾岸を東京の中にどう位置づけ、そこにどのような公共空間を形成し、旧市街と湾岸をどんな交通でつなぎ、都心の歴史的環境の保存と湾岸部の開発をどう連動させるのかについて、市民を巻き込んだ創造的な熟議が不可欠だったはずだ。そこから出発して、五輪招致がプラスかどうかを判断すればよかった。都民が臨海部の未来を自分たちの未来として実感する基盤づくりがまず必要だった。

しかし、2度目の東京五輪構想は、そうした基盤づくりを欠いたまま、石原都知事の鶴の一声、「お祭り一丁やろうじゃないか」との掛け声で突っ走った。そもそもビジョンについての理性的合意がなかったので、1964年五輪の再現願望ばかりに人々の関心は向かい、その流れで湾岸部でのメーンスタジアム構想が雲散霧消しても、そこに生じるリスクに鈍感だった。そもそものビジョンが存在しなかったから、迷走したのだ。このあたりは、同じ開発主義でも、イーストエンド地区の再開発に最初から狙いを定め、文化的な演出も洗練された仕方で取り込みながら目的を達した2012年のロンドン五輪とは雲泥の差だった。

それだけではない。東京五輪は、21世紀に入って生じた我々のメディア環境の大転換についての認識を欠いていた。要するに、ネット社会とは何であるかがわかっていなかった。ネット社会では我々の情報論的地平が少なくとも次の3点で大転換を遂げている。いうまでもなく第一に、あらゆる人が、意識的・無意識的に情報発信者となる。マスコミのゲートキーパー的役割はもう不完全にしか機能しない。第二に、情報は不特定の多から多へ幾何級数的に増殖するから、その拡散スピードは劇的なものとなる。第三に、ネット社会では過去の情報がクラウド的に蓄積され、様々な検索とプロファイリングの技術によって探索されていくから、過去の消去が半ば不可能になる。

これらのメディア論的条件は、東京五輪の前提をすでに大きく変えていた。明らかに、2015年にエンブレムのデザイン剽窃疑惑で起きたことと、開会式直前に演出担当者たちの過去をめぐって起きたことは、同じ現象の反復である。森喜朗や佐々木宏の差別発言で生じたことも、同類のメディア現象だったとも言える。このことが理解されていれば、オリンピックの広報は、既存のマスメディアや広告代理店を基盤としたものとはまるで違っていなければならなかったはずだ。高度成長期の五輪や万博を引きずるメディア戦略は、もうとっくに無効になっていたのだ。

しかし最後に、もっと重要なことがある。冒頭で述べたように、戦後日本の「お祭りドクトリン」は、1964年から約60年にわたり続いてきた。ところが五輪も万博も、90年代半ば以降は一度も期待されたほどには成功していない。98年の長野五輪では自然破壊が問題となり、閉幕後は大きな負債が地元自治体を苦しめた。2005年の愛知万博では、環境万博の理念と実態のずれが問題化し、すったもんだの展開となった。また、BIEに登録される万博ではないが、96年に開催されるはずだった世界都市博は中止になってしまった。そして2020年、政界やメディアが1964年の再来を期待していた2度目の東京五輪の顛末を、私たちは目の当たりにしてきたところだ。

90年代半ば以降、五輪も万博もマイナス面のほうが目立ってきているのは偶然ではない。時代状況と五輪や万博というモデルが乖離してしまったのである。1964年五輪のモデルが、88年にはソウル五輪、2008年には北京五輪に反復されたように、64年の東京五輪は、「より速く、より高く、より強く」成長することを目指した高度成長の時代に寄り添っていた。だからこそ、それは人々に鮮烈な「成功体験」として記憶されたのである。しかしこれは、成長の時代だからこその特殊な時代経験だった。

そうした成長の時代は70年代で終わり、90年代以降は緩やかな収縮の時代である。そんな時代に、「お祭りドクトリン」は幸せをもたらさない。むしろ、もう成長しない経済のなかで、人々が生活を豊かにしていく方法が求められているのだ。そこでは何よりも、「より愉しく、よりしなやかに、より末永く」リサイクルすることが重要になる。そのために必要なのは、もはや五輪や万博ではない。

2021年の東京五輪は、この転換を理解せず、収縮期の社会でなお「輝かしい」五輪を追い求めると何が起きるかを証明した。この全過程を詳細に検証し直すことは、ここ四半世紀、日本が考えるべきことをどう疎かにし、何をどこでどう間違えてきたのかを検証する挑戦的な試みとなる。私は今、東京大学で若手たちと共に、今回の東京五輪をめぐる過程全体を、とりわけメディアとの関係から検証するチームを立ち上げ、そのまとめを『検証 コロナと五輪』(河出新書)として出版する準備をしている[現在発売中。2021年12月刊行]。本稿は、その導入と受けとめてもらえれば幸いである。

[初出:『文藝』2021年冬季号]

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著者

吉見俊哉(よしみ・しゅんや)

1957年、東京都生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在、東京大学大学院情報学環教授。専攻は社会学・文化研究・メディア研究。著書に『五輪と戦後』(河出書房新社)、『都市のドラマトゥルギー』『「声」の資本主義』(以上、河出文庫)、『博覧会の政治学』『万博と戦後日本』(以上、講談社学術文庫)、『親米と反米』『ポスト戦後社会』『大学とは何か』『平成時代』(以上、岩波新書)、『夢の原子力』(ちくま新書)、『アメリカの越え方』(弘文堂)、『「文系学部廃止」の衝撃』『戦後と災後の間』(以上、集英社新書)、『現代文化論』(有斐閣)、『アフター・カルチュラル・スタディーズ』(青土社)など多数。

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