【試し読み】通貨や銀行が信じられていない国に47歳で赴任し、たった一人で動いて中小企業向けの信用保証制度をつくり、さらには現地銀行のCOOにもなった日本人銀行員の3105日(泉賢一『ミャンマー金融道』はじめに 公開)

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【試し読み】通貨や銀行が信じられていない国に47歳で赴任し、たった一人で動いて中小企業向けの信用保証制度をつくり、さらには現地銀行のCOOにもなった日本人銀行員の3105日(泉賢一『ミャンマー金融道』はじめに 公開)

 本書は、二〇一三年に突然ミャンマーでのプロジェクトを任されることになった、元銀行員の八年間の活動を綴った物語だ。その男は、やがてミャンマーの地場銀行でCOO(Chief Operating Officer)を務めることになる。

 ご承知のように、ミャンマーは二〇二一年現在、国軍のクーデターによって混乱の真っ只中にある。だが、二〇一三年当時のミャンマーは、民主化と経済開放に舵を切り始めた時期であり、「最後のフロンティア」として世界中から注目が集まっていた。一九四八年に英国から独立したミャンマー(当時はビルマ連邦)は、六二年の軍事クーデター以来、約半世紀にわたって軍政が続いた。とくに、一九六二年から八八年までの二六年間は、軍の強い権限のもとで社会主義路線が採用されている。

 クーデター後のミャンマーは、まずすべての民間銀行を国営化し、続いて単一の銀行であるビルマ連邦人民銀行に統合した。いわゆるモノバンク制と呼ばれる時代に突入したのである。

 その約一〇年後の一九七六年には、このビルマ連邦人民銀行が分割再編され、中央銀行と三つの国営銀行(経済銀行・外国貿易銀行・農業銀行)と国営保険公社が誕生した。しかし、経済政策の失敗でインフレが急伸し、一九八七年に三度目となる廃貨令(流通している貨幣を突然使用不可とする法律)を発するなど社会は大混乱となり、ついには一九八八年の民主化デモにより社会主義政権は崩壊した。

 いったんは民主化の兆しが見えたが、すぐに国軍が軍事独裁政権を樹立する。不安定な軍政のもとで、二〇〇三年には、最大手アジア・ウェルス銀行(AWB)の取り付け騒ぎが起こるなど社会経済は大変なダメージを受けた。その結果、国民は金融システムどころか、自国の通貨すら信用できなくなったのである。

 ミャンマー国民は、長らく続く欧米からの経済制裁で疲弊していた。止めを刺したのが二〇〇八年にベンガル湾で発生したサイクロン・ナルギスによる甚大な被害である。とくにミャンマー南部の一番の都市であるヤンゴンは低湿地帯であり、近隣地域を含めて一〇万人以上が亡くなったと言われている。

 二〇一一年に大統領となった国軍序列四番目のテイン・セイン氏は、もはやこの状況を打開するには民主化へ舵を切り、国際協力を得ることが必須と考え、軍による力で抑える政治は大きな潮目を迎えることになる。それと同時に金融セクターも大きく変わろうとしていた。

 私が初めてミャンマーの地に降り立ったのは、半世紀にもおよぶ以上のような停滞期からこの国が離陸しようとしていた時期だった。

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 くわしくは本文で語っていくが、私は、半ば偶然の采配で、ミャンマーで中小企業融資や住宅ローンの仕組みを構築するミッションを担うことになった。こうまとめてしまうと、それほど大変なミッションではないように思われそうだが、実際は暗闇のなかでトンネルを掘り進めるような仕事だった。

 なにせミャンマーの人たちは、銀行を信じていない。二〇一三年の国連調査では、銀行口座を持っている成人は全体の五%未満である。銀行に口座がないのだから、「お金を借りる」という発想がほとんどない。融資を円滑に実行していくための法や制度もない。

 ないない尽くしのなかで、ゼロから中小企業や個人への融資の仕組みをつくらなければならない。それは、国家レベルの法や制度を構想することにほかならない。

 誤解のないように言っておくと、私のミッションは、当時所属先の三井住友銀行には何の利益も生み出さないものだった。私の肩書は時期によって異なるが、そのミッションは広くいえば、「日本からのミャンマーへの援助」に位置づけられるものだ。

 この任務を通じて、ODA(政府開発援助)をはじめとした海外援助には、さまざまな思惑が働いていることを実感した。日本でODAといえば国際協力機構(JICA)による貧困支援や発展途上国のインフラ整備などへの協力をまずは思い浮かべるが、他国にも同様のミッションを担う団体は数多くあり、そこでは国対国の競合も生じる。また、一国が実施する支援スキームであっても、政治や民間同士の思惑が複雑にからむことが多い。ミャンマーでも、現地のニーズに寄り添おうとせず、頭ごなしにグローバル・スタンダードを押し付けようとする国際機関の関係者たちに加え、それらのアドバイスを何の議論もせずに鵜吞みにするミャンマー政府関係者たちの姿をしばしば見かけることになった。

 私自身は一貫して「ミャンマーの発展のため」と思って働き続けた。金融は、経済活動の「血液」にたとえられる。新しいビジネスを興したい、ビジネスを拡げたいと思っても、お金を借りる仕組みがなければ頓挫してしまう。金融機関から融資を受けた事業者が利益を生み、その利益が預金となって金融機関に預け入れられる。それを元手にまた銀行は、別の事業者に資金を融資する。そういう好循環が成立すると、国の経済は発展していくのである。

 民主化以前のミャンマー経済には、ほとんど血液が流れていなかった。そこに血液を流すためには、法や制度の整備は不可欠だが、それは必要条件であって十分条件ではない。制度は、それを利用する人がいなければ宝の持ち腐れである。私はミャンマー中をめぐり歩いて、さまざまな事業者と膝を突き合わせ、新しい融資商品の仕組みや手続きの方法を説明していった。

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 ここで、簡単に自己紹介をしておこう。私は、一九九一年に旧太陽神戸三井銀行(現三井住友銀行)に入行し、個人取引、中小企業取引、大企業取引など、銀行マンとしてオーソドックスな業務を経験してきた。

 なかでも、二〇〇一年に異動したビジネスオーナー営業部での業務はいまも強く印象に残っている。ビジネスオーナー営業部とは、中小企業への融資を担当する部署である。この時期、日本の金融業界はバブル崩壊後の長引く景気後退により、中小企業経営者にとって金融サービスへのアクセスが非常に困難となっていた。銀行としてもそれを放置するわけにはいかない。当時の三井住友銀行の中で、中小企業融資活性化は最重要項目であり、ビジネスオーナー営業部はこの状況を改善するために、二〇〇一年の三井住友銀行発足と同時に新設された部署だった。

 本文で取り扱う中小企業融資の基本となる話なので、少々くわしく説明することをお許し願いたい。

 従来、中小企業融資の審査手法は、事業者が提出する財務諸表や不動産などの資産・担保状況、借り入れの有無などを、大企業に融資するのと同様の目線で分析し、融資の可否を検討するものだった。しかし二〇〇〇年前後の当時の状況にあって、従来型の審査手法では、ほぼすべての中小企業に対して「貸出し不可」もしくは「減額融資」といった結果しか回答できず、中小企業の都市銀行離れが進んでいった。

 中小企業の「生き延びる力」を大企業と同様の方法で測ってしまうと、見逃すものも多い。そこで三井住友銀行は、中小企業の信用力やストレス耐性などをスコアリング化する方法を邦銀として初めて開発し、中小企業への融資を劇的に復活させたのである。

 私の所属していた部署は、このスコアリングモデルを利用した融資の推進役だったこともあり、企業内ベンチャーのように新しい挑戦に取り組むことができた。私自身も、この新しいアプローチを導入するための説明資料を作成したほか、西日本各地の三〇拠点を担当して、勉強会や説明会に駆けずり回る忙しい日々を送ったことを覚えている。しかし、単純なスコアリングモデルのみでは解決できない事例が次々と現れ、「生身の」企業実態を理解することこそが銀行の役目であると最終的には認識させられたのである。そして、ここでの四年間の経験が、ミャンマーでのミッションへとつながっていくのである。

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 大阪のビジネスオーナー営業部で四年間勤務した後に配属されたのは、公務法人営業部という東京の営業拠点であった。二〇〇六年のことである。同部の顧客は、独立行政法人や各種財団などの日本政府関係機関や自治体であり、これまで慣れ親しんできた民間の世界とはずいぶん勝手が違った。

 この部署でJICAやJOGMEC(旧石油公団)など、海外への支援活動やビジネスに初めて触れることになったが、私自身が業務で英語を使うことはなかった。上海での視察研修に参加した際、先方の説明がすべて英語だったため、ほとんど理解できなかったほど、当時の英語力は拙いものだった。TOEICでいえば、四〇〇点前後の英語力である。

 英語を学びなおしたきっかけは、映画「ハゲタカ」だった。大森南朋演じる鷲津政彦がアラブの石油王と投資の交渉をしたときのことである。最初は通訳を介した会話だったが、突如、鷲津政彦が「俺は通訳と話をしにきたのではない!」と言って、アラビア語で話を始めるシーンがあった。

 それを見て、外国語を習得すればこんなふうに仕事ができるのかと思い、一念発起して英語学習を始めた。なんとも単純な男である。

 書店で手にとったTOEIC教材を購入し、一冊やり通した後も、繰り返し復習をした。勉強すればするほど、TOEICの点数は上がっていき、二年ほどでコンスタントに八五〇点を獲得できるようになっていた。 二〇一二年九月、オバマ大統領とミャンマーの野党、国民民主連盟(NLD)党首、アウンサンスーチー氏が、ホワイトハウスの大統領執務室で面会している様子が、テレビのニュースに映し出されていた。

 画面を眺めながら、いつか自分もこういう世界的なイベントに関われるような仕事に携わることがあるかもしれないと、ぼんやり思ったことを覚えている。「事件」はそれから半年後に起こった。偶然にしては、できすぎている話だと私も思う。二〇一三年四月から、私はたったひとりでミャンマー版中小企業融資の仕組みをつくることになったのである。

 

 

 

 

 

 

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著者

泉賢一

1966年生まれ。神戸大学卒業後、太陽神戸三井銀行(現三井住友銀行)に入行。2013年からミャンマーにて、中小企業への融資制度づくりに尽力する。19年に三井住友銀行を退職し、一般財団法人日本建築センター嘱託職員をへて、ミャンマー住宅開発インフラ銀行COOを務める(20年まで)。ミャンマーにおいて、政府系銀行の外国人COOは初めてだった。現在は、住友林業に勤務。

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